雨の鎌倉

吉良秀彦



赤いアンブレラをさした麗人と 雨の北鎌倉 名月院のあたりですれ違う 紫陽花はひと気がたえると ひっそりと息をつめ 消えいりそうになりながら 胸に棲む青いとんがり帽子の小人と話をする (よく降りつづきますね) (ごらんなさい またひとり  迷い人がやってきました) (まだ魂をもっている  だから苦しんでいるのかもしれませんね) (きっと長くは生きられないでしょう  生きのびるためには――) (魂をブタに食わせるのですね) (その通り それはもう途方もない贅沢品だから) あざやかなカットラインをもつクリスタルの午後と そのむこうにひろがる 臨月まぢかのみどりの魔物 六月のみどりはその腹の中に狂気をはらみ 傘をもたぬきみは しょぼくれて雨にうたれ カビくさい旅館へ 酒と女をもとめ宿をとる 「可愛い女」の上等なヒレ肉を 一晩かかってたっぷり味わいたかったが あらわれた女はあいにく身ごもっていて 「お酒のお相手だけなら」 と笑ってとりあわない 「もう一週間もこうして降っていますね」 「そうですね でもわたしの心なんか 一年中雨降りですわ」 ざらざらの岩塩を口いっぱいに頬ばったみたいで 酒に酔うこともできず 「好きなひとのことを考えているのね」と女にいわれ ショパンの調べで我にかえると 雨音は一段と激しさをまし けっして聴こえてこない音楽の蜜が流れる そこからさきの夜は ふちのかけたそまつな瀬戸物みたいだった ゆめじゃなくてうつつなのに きみはその夜 自分の夢の中によくあらわれる 正体不明の酔いどれだった 「お腹の子の父親は もう死んでこの世の人じゃないの」 そういって女は衣類を脱いだ 六月のみどりの雨が 夜の紫陽花や カタツムリのぬれた ねばねばの肌をたたく 女の腹に手をのばし きみは行方不明となった 自分自身を手さぐりした 富士には月見草が 鎌倉には紫陽花が きみにはこんな夜がよくにあう 道づれのいない鎌倉は 漂茫としてとりとめがなく 過去と現在が交錯する光景は 時間軸からはずれた男を 途方もない世界へとつれ去る 故郷の老母やすでに故人となった詩人 陽気な学生時代の仲間たち とても通俗的な若い人妻 きみはいろいろな人と鎌倉へきて 中世のくらい腕に抱かれた 心の融点 (道づれがいないのもたまにはいい……) 鎌倉・扇ヶ谷の切通しで心をすますと 人馬のひびき 乱世の気配が きみの細胞を一つ またひとつとめざめさせる 「今度はいつ鎌倉にいらっしゃるの  そのときはわたしを呼んで下さいね  こんな体ではないときに」 女は昨夜そういって眼をとじ 紫陽花色にうっとりとその夜をいろどった

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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