木馬

木嶋孝法



そして、いつも何かが欠けている ある曲想があって 弾こうとして手にしたギター 第一弦が切れてしまっていて、使えない 歌ってみるはずだったのに 曲想が消えてしまうかもしれない 消えてしまう曲想、忘れられてしまう歌  ^^ポール・ニザン    孤独な魂 Y氏が同郷であることを知らされ 氏の訳書を探して 二軒の書店と、一軒の古本屋を回った ここに(古本屋の書棚に)「ポール・ニザンの生涯」があるな そのことだけを確認して やけに冷え込む夜道を手ぶらで帰ってきた X子が「シンデレラは眠れない」を弾いてくれと言い Y子が「霧のソフィア」を弾いてくれと言う 十八頁の「無言劇」が易しいとも言う ちょっと譜面をなぞってみたが ちっとも曲のイメージがつかめない 初見で弾けたのは 朝から晩までギターばかりを弾いていた頃のこと お嬢さんたちよ 無理な注文はしなさんな 聞いたこともない曲を 弾いてくれったって このおじさんには酷なんだ しかし、なぜ「シンデレラは眠れない」のか 電話が鳴る 酩酊の態である 受話器の向こうで 母が涙声で訴える 父がしきりにわたしの名前を呼ぶのだと 病魔と闘っている父の姿を 賢治が妹トシ子の病状を気遣っていたことと 重ね合わせに想い浮かべる こんな電話をいままでに何回、聞かされてきただろう 例によって そんな気もないのに 「帰ろうか」と言うと 「帰ってはいけない」と言う 「おまえが帰ってきたら、お父さんは、いよいよだ、と諦めてしまう」と言うのである だんだんわたしは苛立ちを覚えるようになってくる いつもこのパターンに陥しめられてきたと いつもこのような関係性に囚われてきたと 電話が終わった後で 時計を見る 朝の五時半である 別に、シンデレラではなくとも眠れないときがある バイト先の仕事で四谷へ向かう 途中、「幻獣辞典」、「ボルヘス怪奇譚集」、「ポール・ニザンの生涯」を買ってくる Y氏の肩書、S大助教授 ふと、体育の単位のみをもらうためにだけ S大へ捺印をもらいに行った嫌ーな記憶がよみがえる バイトに入る時間が一時間ほど遅れた 「なぜ電話をしない」と言われて、たしなめられた まさか、昨晩、ニザンの生涯を遅くまで読んでいて 朝、起きれなかった とも言えまい メルロ=ポンティはなぜ、サルトルが言う意味ではなくニザンを読め、と言ったろう この問いだけは解けた サルトルもボーボワァールもニザンを理解しえていないことを、メルロ=ポンティは言いたかったのだ ニザンを理解するためには、サルトルらのニザン像を別途に考える必要がある 「トロイの木馬」あたりから入って行こうか トロイの、トロイの、トロイの木馬 たしか、ホメロスの叙事詩の中の そして、いつも何かが欠けている ニザンの著作集が多々並んでいるのに 「トロイの木馬」がないのである 「トロイの木馬」の暗号のように 顧みられない曲想のように

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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