湖面

谷元益男



国道脇に小さな案内所がある ここで今夜の宿泊地を決めねばならない 車はひなびた民宿を目指し 右手に白く凍った湖面を見て走った 路面もところどころ氷っていて 車が横に尻を振るたび家族が耳のさけるような声をあげた 薄暗く暮れて行く山の深さに車は何度も 立往生する 旧家の煤けた柱が何本も立ち 冷えた空にわずかな湯けむりが吸われる 何時間掛かって辿り着いたか 夢は僕らを容赦なく眠りへと引き込んだ 夢の持ち主が 黒い入れ物を僕に差し出すが それが母の肉片であろうことぐらいは すぐに想像がついた 切れ目の入った黒い柱が 一斉に寝入った僕の幕内に落ち込んで来る 帰りたくないと家族は言う 深い湖面が左側になり車が滑れば 転落するからだ 僕は雪を一口くわえそれが消える間に この山を抜け出したい 車は降り続く雪の中をゆっくりと走り出し 声もなく白い湖の中に消えた 昨夜の夢だけが蝋のように 湖面に描き出されている

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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