空をとんだ弟子

福間健二



 ほんの七、八ヶ月前のことだ。ぼくはまだ山の中にいて、修行をつづけていた。もう先生も仲間の弟子たちもいなくなっていたから、修行といってもかなりいいかげんなものだった。さぼろうと思えばいくらでもさぼれるんだから。まあ、できるだけ食べないようにして、木の下か小屋の中にすわって、ときどきおかしな声でうなっていた。食べる量を極端にへらしてしまうと、あまり眠らなくてもいいようになる。とにかく時間がたっぷりあって、ひとりになって最初のうちは、その時間をだれにも邪魔されずに使えると思うとそれだけでうれしくて、もうそれだけで愉快になって笑い転げていたりしたが、だんだん悲しくなってきた。すわっていられなくて、山の中を歩きまわり、くたくたになってまだ体がひとりでにばたばた動きだし、目からは涙があふれだし、マントラを唱える声は泣き声になってしまった。ふいに先生のことがなつかしくなった。先生というのは、もちろん、きみがいつか「かっこうはキリストみたいだけど、なによ、いつもヘラヘラしているだけじゃない?」といったあの人のことだ。結局、あの人に十年以上もつきあって、いまこんなに自分がつらいときにそばにいてもらえないわけだと思った。先生も変わった。だんだんむずかしい顔をするようになっていって、そしてまったくあっけなく山をおりてしまった。ぼくはどうにもやりきれなくなって、小屋のちかくの頂のひとつに駆けあがった。自分が許せるつもりでいたことが許せなくなっている。それをあさましいと思った。黒い空が目の前にあった。その下に黒い森、さらにその下に黒い谷間があった。ここでなにか起きねばならぬ。このままでは、いままでやってきたことが全部むだになる。そう思った。山は黙っていた。風のない、しずかな夜だったのだ。しずかにじっと動かずにいる森を見下ろしているうちに、自分もこの何日かじたばたし、泣きわめいていたのが信じられないほどしずかになっているのに気づいた。いつのまにか足がすべって、頂のふちのところにいた。そして、いまだと思うと、ふっと足がうきあがって、ぼくは空にとびだしていた。一瞬、死ぬ気だったのかと思ったが、そんなことはなかった。ゆっくりと森へ、さらに谷へと舞いおりていった。ああ、人間ってこうなんだなと思った。それができないと困るというところのぎりぎりまで行けば、なんだってできるんだ。できることしかできないというのは、そのとおりだが、できるというのは、そうしないとどうしようもないところまで追いつめられているときに自然にやってくる力にしたがってできるようになるのであって、無理に努力してできるようになるんじゃない。むりしてやっても、できたことにはならない。できるという、ちゃんとした必然のあるところまで行けば簡単なのだ。できなきゃならない、そうならなきゃならない状態にはいって、あとはすーっとラクに手ばなしで、ということは自分の力なんかはまったく使わずにやってしまうのが、できるということなんだ。これは、そっくり先生が昔いっていたことだ。このとき、空をとんで、ぼくはそれがよくわかった。宙に浮きながら、すぐよこで先生がへらへら笑っていると感じられ、うれしかった。空をとんだというよりも、山から森の木々の上をかすめるようにして谷へ舞いおりたというのがほんとうだけれども、おりるのが案外むずかしかった。谷底の岩のなるべくたいらそうなのにおりようとしたんだ。ところが何度やっても、足がついた瞬間にはずみがついてはねかえり、またフワッと浮きあがってしまう。しかたがないから空中で姿勢をひっくりかえして、顔と肩のへんで着地した。そして気絶してしまった。
 気がつくと明るくなっていた。小屋へあがっていく途中、一枚の紙きれを拾った。すっかり忘れていたけれど、それはぼくがひとりになってすぐにふざけ半分で森の中にばらまいたビラのひとつだった。「この世のややこしさに疲れた人、いっしょに修行しませんか?」とぼくは書いていた。拾ったビラには「あいかわらず馬鹿をやってるんだな ナカマル」と書きこみがしてあった。ぼくはびっくりした。ナカマルというのは、ぼくの古い友だちの名前だ。そのナカマルはたしかアメリカに行っているはずだった。もう十年以上会っていないから、その後どうなっているかわからないが、最後に会ったとき、かれはこれからアメリカに行ってビジネス・スクールとかいうところにはいり、そこを卒業したら事業の経営者になるといって、片道の航空券をぼくにみせた。「もう日本には帰ってこない。日本はおれにはあわないんだ」とも「ちゃんと綿密に計画をたてているから、大丈夫。野垂れ死にしたりはしないさ」ともいった。そのナカマルがこの山まできてぼくのビラを読んだのだろうか。あいかわらず馬鹿をやっている。それはどっちこのとなんだ。ぼくはまた涙ぐんでしまった。山からおりて、ナカマルのことを知っているかもしれない連中に何人か電話してみた。だれもかれの行方を知らなかった。ぼくがビラの書きこみのことをいうと、「おまえが自分で書いたんじゃないか」とせせら笑ったやつもいる。しかし、それはぼくの字ではなく、なつかしいナカマルの字だった。山に戻り、あの頂に立ってみた。ぼくはそこを「ネバナラヌの岬」と名づけた。山で岬というのはおかしいかもしれないが、それがぴったりくる気がした。しかし、もう一度とんでみようとは思わなかった。二度目はむずかしいのだ。たぶんとべることはとべるだろうが、心も体もそれを必要としていないのにやってしまうところから堕落がはじまる。いいかげんにやっているうちにきっと失敗する。そこでまたひとつ勉強できるということになるのだろうが、とにかく一回やったというよろこびをネバナラヌの岬という名前といっしょにとりあえず大事にしまっておきたかった。まあ、もったいない気がしていたんだ。もうなんの目標もなくなっていたし、寒くもなってきていた。なにしろ、北だからね。ナカマルのことも気になったし、先生たちの残していったわずかな金をもって山をおり、ナカマルのような男(といっても、いまどんな漢字になっているか見当もつかなかったが)を見かけなかったかと人にたずねながら、まっすぐ南へ下った。台風が去ったある夜、ぼくは満月と海と恋人たちを見た。恋人たちはくそまじめに仕事でもするようにカチカチになって抱きあっていた。力の抜き方、それを教えてやれるのに、とぼくは思った。しかし、なんの関係もない二人であり、いくらかわいそうだと思っても、そもそもぼくが二人のやることを覗き見していることがいけないことだった。あと、その九月にやったことといえば、すばらしい顔をした年寄りの漁師の昔話をきき、おいしい魚をたっぷりと食べたことぐらいだ。魚は(ジャコやホシコ以外のということだが)まる半年ぶりだった。恋をする気分になれず、その恋人たちや漁師のいた海辺のさびしい町に二週間ほどいたのだ。そして十月には、その町から電車で一時間ほどの都会で、あろうことか、ぼくはフランス語を教えていた。
 ぼくはフランス語なんてぜんぜんできない。でも大学の仏文科を出たと嘘をいったら、あっさりと採用されてしまった。昼間、その日に教えるところを必死で勉強して、それをもうずっと前から知っていたような顔をして、テキストに書きこみなんかもしないで、なんというか、まったくのはったり演技でおしえていた。夜の授業だけだったから、余裕があったのと、まだ記憶術の力が衰えていなかったから、なんとかもったといえるが、それにしても、冷や汗のかきっぱなしであった。ぼくがフランス語を教えるなんてとんでもない話なのだ。だって、授業の最初の日の朝にはまだエートルの現在形の活用も知らなかったんだから。まぁ、一時期、スペイン語をかじったのが、すこしは役に立ったかもしれない。先生の先生という人がメキシコ・インディアンだったから、メキシコに行ってその人から直接、術を授けてもらおうと考えたことあって、それでスペイン語をやりだしたんだけれど、そのうちに先生が方向転換して、メキシコはあまり関係ないというようなことになってしまった。だからスペイン語だってすっかり忘れていた。もしかしたら、ぼくはいまごろメキシコで本格的に野生人の暮らしをしていたんだなんて、フランス語を教えている文化的な雰囲気のなかでふと思った。そこは、もうわかったかもしれないけれど、カルチャー・ナントカというところで、となりの教室では活け花とかエアロビクスとかをやっていた。フランス語を習いにきている連中も、おばさんが多く、意外におとなしいというか、こっちがぼろを出さないようにかなりきびしい感じでおさえこむ態度をとっていたせいもあるかもしれないが、しずかな授業で、質問もあまり出ない。なにをいっても、素直にうなずいている。ぼくはそこにつけこんで、どんどんテキストを進んだ。ただ、中にひとり、亭主が警官だとかいう女がいて、ちょっとうるさかった。いわゆる好きそうな顔というのか、
いやらしい感じなのだ。退屈そうによそ見をしていたかと思うと、じっとこっちをみつめていて、ふと思いだしたように質問をする。授業の終わったあとも話しかけてくるのを、どうも上手にかわすことができなかった。
「肩がこるなんて、フランス語でどういうの?」
 と甘えたようにいって、いかにも肩がこってしかたがないというしぐさをしている。こっちはふとどきっとして英語でたしかスティッフ・ネックだから(これは昔、弟子仲間のひとりにアメリカ人の牧師の子がいて、先生からはり治療を習っているときにそんな言い方をしていたのをおぼえていた)、と考えて、自信はなかったけれど、エーイ、まあいいやという気持ちで、
「クー・ドゥール。私は肩がこっているは、ジェー・ル・クー・ドゥール」
 と応えた。そういった瞬間に、女が胸にかかえていた黄色い表紙の辞書の中のページが透視できて、ページの一枚一枚がものすごい速度でめくられ、あるページでとまった。そこに
  torticolis   という見出し語があって、それだけが鮮明にみえた。とっさのことで、すらっとは読めない。もちろん、どういう意味の単語なのか、日本語の説明はぼんやりして読めないので、わからない。
「トーティコリ、そうもいうんだったかな」
 といってみるが、「コリ」 なんてはいっているところも冗談っぽく、かえってどぎまぎしてしまい、それをごまかすために、
「肩こり、ひどいんですか?」
「まいっているの。ほら、こんなにパンパンだもの」
 と片方の肩をぼくにちかづけ、さわってみさせようとする。
「ぼく、こういうのをなおす方面、ちょっと知識があるんだけど」
「指圧?」
「いや、もっとすごいやつ」
 で、彼女を借りていた部屋に連れてきて、その「すごいやつ」をやってあげたわけだ。もちろん、そのあと、どんどんまずいことになっていった。冬が本格的になるころには、ぼくはこの女とその警官の夫から逃げるためにその市からだいぶ奥にはいった温泉町の旅館に仕事をみつけたが、女はそこにもきて、おどろくべきことをいった。ちょっと色気があるとかいっても、どうしてそんな女のために新聞の三面記事に載るようなことをしなくてはならないだろう。話だけだとしても怖くなって、今度は遠くまで逃げることにした。妹やきみのいる東京を素通りして大阪まで行った。
 大阪に着いたときは、すっからかんになっていた。大阪には、前に一年半ほどいたことがあるから、知りあいが何人かいるつもりだったが、会えたのは小説家のMさんだけだった。Mさんは昔、「六白金星」という織田作之助の小説の題からとった名前の飲み屋をやっていて、そこに通ううちにぼくはかわいがってもらうようになった。Mさんも六白金星、ぼくも六白金星で、ひとまわり年がちがった。ほかにたよれるところもないので、図々しくMさんのところにいそうろうしていたのだが、奥さんが冬なのに半袖を着て、二五〇CCのバイクを乗りまわすような、たくましい人で、その鈍感さにぼくはあっ気にとられ、敏感に風邪をひいてしまった。この奥さんはいつもジーパンとTシャツで、かっこいいとかわるいとかいう次元を超越していたが、彼女のところにいまどきこんな田舎くさい服装があるのかといったかっこうの娘たちが集まって、わけのわからない勉強会をやっていた。奥さんが強気の大阪弁で人生哲学をまくしたてる。それをきいている娘たちのひとりが急にワッと泣きだす。そうなるとみんながワーワーやりあって、最後は奥さんもふくめた全員がないている。なんなのだろう。ぼくは機会をうかがってMさんにきいてみた。Mさんは奥さんには逆らわない主義らしく、
「なんや知らんけど、新手の金儲け考えてはるとちがいまっか。なんせ、ぼくの原稿料だけじゃやってけまへんからな」
 と笑いながらいった。あるとき、ぼくはMさんのマンションの屋上で陽なたぼっこをしながら、坂道をこちらにむかってくるその娘たちを見ていた。わかりやすくいってしまえば、一昔前の民青といったダサイかっこうであるが、なにが悲しくてそんな、いまではよほど辺ぴな村の洋品店にでもいかなければ売ってないような服装をしているのだろうと思った。
 Mさんの友人で印刷をやっている人がいて、その人の仕事を手伝うことになった。会った瞬間に、その人は病気だと思った。体中がむくんでいて黄色い顔をしていた。
「背中や腰やあちこちが痛うて痛うてかなわんのや。毎朝、ほんまに生きる気力があらへん」
 と力なく年寄りじみた笑い方をしたが、きいてみるとぼくよりも年下だった。ぼくはこの人の体をなおそうと思った。手でさわったりする程度ではどうにもならない。お灸をすえ、漢方薬を飲んでもらった。似た病気の人間を知っていたから迷わなかった。ひとり暮らしで酒の飲みすぎ、おいしいものの食べすぎでそんな妙な体になったのだ。ぼくもかれの印刷所に住みこむことにして、動物抜き、砂糖抜きの野菜と穀物、豆類だけの食事をつくってあげることにした。ぼく自身、山をおりてからどんどん食事が乱れてきて、Mさんのところでは(ゼイタクをいっては叱れるが)だいぶインスタント・ラーメンを食べさせられたから、そういうまともな食事にきりかえたいと思っていたところだったのだ。考えてみるとこの印刷屋さんをむりやり病気にしたてて、自分に都合のよいように事を運んでいったようで恥ずかしいが、かれはべつに文句をいわなかった。それどころか、ブヨブヨと太って八十五、六キロもあった体がみるみるスマートになって、ぼくがきて一ヶ月半たったところで測ったら六十七キロという、その一七〇センチほどの身長の人としては標準体重にちかいところまで落ちたから、とてもよろこんで、「神さんがあんたをぼくにつかわしてくれたんやな」とまでいってくれた。だいたい研究熱心な人で、手や足は自分で灸をすえられるようになったし、ツボなども本でおぼえてぼくよりも詳しくなり、ぼくがそうまでしなくていいというのに、自分で知識を仕入れてきて圧力鍋で玄米を炊くことまではじめた。
 給料は十万円の約束だったが、渡された封筒をあけてみると二十万円はいっていて、「感謝をこめて」と書いた便せんがそえられていた。ここでぼくはまた泣いてしまった。印刷の仕事のほうではドジばかり踏んで困らせ、治療のほうはただいい気になってなかばあてずっぽうでやっただけなのに、ありがたいことだ。感謝せんならんのはこっちや、と大阪弁が出た。給料をもらってすぐの日曜日に阪神競馬場に行った。関西の馬には知識がないというよりも、競馬をやるのがそもそもまる一年ぶりだったから、はじめはまったく調子が出ず、四レースやって二万ほどすったそのあと、もうやめて帰ろうかどうしようかと思いながら、パドックを人垣のうしろから覗きこんだら、小さくて黒い馬が薄いブルーの光につつまれていて、その馬が歩くところだけが奇妙にひやっとした空気が動いている。そんな気がした。競馬はやってきたほうだが、こんなことははじめての経験である。6番、ホワイトキング、もっていた競馬ブックの予想ではまったくの無印。黒い馬なのにホワイトとはと思って、ああ、馬主がきっと六白金星なんだと閃いた。そうだとしたら、6番にはいることになったとき、馬主は微笑みを浮かべたことだろう。このホワイトキングの単勝を一万円買った。人の少ない四コーナーの柵のところで見ていたが、6番は四コーナーはほとんどビリッケツできた。しかし、コーナーをまわったところで勢いがついたと思った。ゴールの様子ははっきりわからなかったが、かたまってはいった感じなので希望はたかまった。となりで見ていた男が「ホワイトキングや、大穴やんけ」といった。ぼくは体がふるえだした。単勝の配当は一二三〇〇円で、ぼくは一二三枚の一万円札を手にした。こんな金はどうせあっというまに消えてしまうと思って、なかから百万円を東京の妹におくった。それから記念にと思って、古本屋でみつけておいた織田作之助全集を買った。織田作之助が「競馬」という傑作を書いていたことも思い出していたのだ。
 妹がぼくのお金を受け取ってどんな反応をしているか知りたくなったのは、やっぱりまだ修行が足りなかったということになるだろう。東京に電話を入れた。妹はおこっているみたいだった。「つかいたくないんだったら、預かっといてくれよ」とぼくはいった。妹は親戚の連中のことを話した。それから、きみのことを話した。
「いまは、ひとりみたいよ。まだあの図書館に勤めているらしいわ」
「詳しいんだな」
「きこえてくるのよ。共通の知人がいるから」
 妹は、すこし前まではきみがひとりではなかったような口ぶりだった。妹と話しているうちにぼくは東京に戻ろうかという気になってしまった。三月だった。Mさんに電話すると、「えらい寄り道しよったな」とかれはいった。Mさんはどういう意味でいったのかわからないが、「寄り道」という言葉からぼくはすぐにきみのことを考えてしまった。織田作之助全集は読みきれなかった。印刷屋のかれにあげるというと、とてもよろこんでくれた。かれももともと文学青年で、詩集や同人誌を安い値段で刷ってあげたりしている人間だった。三月七日、新幹線で東京駅に着いた瞬間、もうすぐきみに会う、ほんとうにすぐだと感じた。初対面の妹の亭主が、
「義兄さんも、そろそろ身をおちつけていいころですよ」
 と訳知り顔にいったときも、ぼくの気持ちは平静だった。
「食えない人間だからね、おれは」
「食えますよ」
「いや、あんたにはまだわからないと思うけど、食えてなくとも、どうだっていいと思ってるんだ」
「ほんとうですか。不安にならないんですか」
「そういうことでは不安にならないんだ」
「おもしろいですね」
「おもしろくはない。ただ気楽なだけだ」
 こういう二人のやりとりを妹は心配そうに見ていた。ひさしぶりに会った妹の緊張のしかたは、ぼくに両親のことを思いださせるもので、ちょっとつらかったが、どんな場面でもそんな心配そうな顔をしなくても生きていられるようになるためにおれは山にはいったりしたんだよ、といいたかった。いってもまったく通じないだろうとも思った。妹たちはお金を返すといってきかなかったが、いままでなにもしてやれなかった、結婚祝いだと思ってくれ、といってなんとか受けとらせた。偶然競馬であてたお金だったが、これがなかったら妹のうちにきても肩身が狭かったのかと思うと、なんだかおかしかった。
 東京へ来て妹のところに泊った次の日が土曜日で、さっそく中山競馬場に行った。その日はまったく儲からなかったが、そこでマルタに会って、かれのところにしばらく転がりこんでいいということになった。大阪へ行ったあたりからツキがまわってきたな、と思った。いや、あの警官の奥さんだってなかなかの女だったかもしれない。こっちにまだ余裕がなかっただけのことで、ツキはもうずっと前からはじまっている。マルタは「昔、ずいぶん借りがありますからね。自分のうちだと思って気楽にしてください」といってくれた。マルタは、ハンバーガー・ショップの店長とかいうものになっていて、
会社が借りてくれている3LDKのマンションにひとりでいるという、こっちからすれば願ってもない暮し方をしており、昔からの気のよさはあいかわらずであり、しかもかれが店長をしている店はきみの勤めている図書館とおなじ町にあったのだ。
 ぼくの三七歳の誕生日の朝、マルタは「今日はお祝いをしますからね」といって、待ちあわせる飲み屋の場所と名前をぼくに教えた。
「おれの誕生日がよくわかったな」
「ずっとおぼえてたんです。いつかいっていたじゃないですか、昔の陸軍記念日だとか」
 とマルタはいって、そのあとちょっとへんな笑い方をした。きみからきいていたわけだ、その誕生日のことは。約束の店に行ってきみの姿をみつけたとき、ぼくはそれほどおどろかなかった。白いブラウスにレンガ色のカーディガン、それを首のところまできちんとボタンをとめて。あのときのきみの姿をぼくは一生忘れないよ。おどろかなかった。酔ったときに「頼むよ、会いたいんだ」とマルタにいっていたのだから。こうならなきゃならないことになっていたのだから。
 きみのアパートへ来てから、ぼくは怖いくらいにいろんなことがわかり、いろんなことがはっきりした。それも、日常のなにげない動作をしているときに瞬間的にぱっと感じとってしまうのだ。ナカマルはとっくに死んでいる。あのビラの書きこみはやっぱりぼくがかれの字をまねして書いたのだ。空をとぶ前の、悲しくてやりきれなかった時期に。ナカマルは死んでいるけれど、ときどきぼくのうしろに立って、「もうおれはなにもいわんからな」とかつぶやくのだ。ヘラヘラ先生もくる。まだ生きていて、なかなかうまく商売をしているらしい。先生がではなくて、
しっかりした弟子たちがやっているんだろうけど。それから、妹はきみのことがきらいだ。きみのことをずっと監視していたんだ。まあ、あの百万円をあげられてよかったよ。それから、こんなことも思いだした。ぼくはある夜、マルタの悪口をいいまくった。すくいようのないお人よしだと。でも、そのお人よしにすくわれたわけだ。ぼくもまったく調子のいい人間なのさ。十年前から姿を消して、七、八ヶ月前には空をとんで、この春はきみのつくったおいしいものを食べている。でも、ぼくもこれからだよ。いちおう苦労をして空をとべる人間にはなったけれど、もう空はとばないだろう。何をするか、この地面に足をおいてじっくり考えなきゃいけない。よろしく。

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