批評的切片
発信セヨ、
発信セヨ
――菅谷規矩雄『死をめぐるトリロジイ』

清水鱗造



 この時代の生活のなかで、詩を書いたり批評を書いたりすることはどういう意味を持っているのか、を痛切に感じさせる本である。かなり偶然には違いないが、自分の表現のエリアを詩や批評に定めたときから、彷徨を始めざるをえない。しかし、うまくそれらを生活のなかに組み込んだ、と思ったとき、新しい疑問が発生する。言葉であるから、常に反応があるはずでありまたそれに促されるように書くのであるが、このエリア自体をめぐる共同的な建築みたいなものに遭遇するのである。そしてまず確実にそれは「壊す」ものとしてイメージされる。
 しかし救いは、どうしようもなく手のつけられない状況のなかにいても、固有の切り口で、あるいは急襲のように感性を表わす可能性の夢をここでは捨てなくてすむことである。実は救いはオールマイティなのだ(あたりまえだが)。それがあるかぎり詩人は突進するにちがいない。こういうふうに書いてみて菅谷規矩雄の生を自分なりにすっきりさせる端緒としたいのだ。また菅谷規矩雄がどうしようもなく逢着した地点(これはかならずしも文学的な地点ではないが)にある「困難なもの」を僕たちも継続的に問題にしていこうと思うのである。
 しかし「困難なもの」もその時々において変わってくるのもあたりまえなのである。菅谷において困難なもの≠セったものが、はたして今僕に困難と感じられるのか? ここを概念化しなければ泥沼にはまっていく。これも必定である。
 巻頭に収められた詩篇「Zodiac Series」は山本陽子の詩に影響を受けているように思われる。しかし決定的に違うのはそこはかと現われる教養的な雰囲気だ。山本陽子はアパシーと見えるまでに落ち込んでいたところがある。同じ過度の飲酒による肝硬変によって死んだどしても、菅谷はついに山本と同じようには死んでいない。山本は言葉を発してその反応をみることができる状態はとても貧しかった。評論集を商業出版社から刊行することができ、さまざまな感想を聞くことができた菅谷とはもちろんぜんぜんちがう。菅谷が晩年、山本陽子の詩に惹かれたのは菅谷の音韻論を考えるうえで山本の詩がひっかかったというよりは、むしろその徹底性を感じる生活と言葉との関連にあったように思う。しかし山本の詩がああいう形になったのは、「どうしようもなく」であった。なにか確然とした思想のもとにあの詩形にこだわったのだとは思われない。つまりあの詩形になんらかの思想的意味を付与しようとしても無駄なところがある。菅谷は幾分無理やりに山本陽子の詩にいれこんだ。こういういれこみは、思い付きとして誰にでもあるものだし、普通しばらくして脱却するものだ。しかしここに自身の肝臓疾患が二重写しになる状況がやってきた。いわば、いれこみではすまなくなる状況がきたのだ。
 そして一遍上人へのこだわり。最後に「おのおののはからい」にいった親鸞の教義の中核をなす念仏をラディカルに実践した一遍へのこだわりは、じつは思想的に深化させる契機を含んでいた。迷走するような音韻論の裏側に、ある「思想的決着」をつける一つの試みとして一遍上人の思想探究がありえたはずだと思う。

 親鸞の称名、たとえばその浄土和讃にくりかえされる「……帰命せよ」「……帰命せよ」の断言は、一遍のようなエクスタシス(合体の成就)にたいして、必ずしも(あるいは、決して)オプティミスティクになれない自覚をつげているのかもしれぬ。
 いや、親鸞の称名念仏には、いっさいのエクスタシスが欠如しているといっていい。
 「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと……」という唯円の問いにたいする親鸞のこたえがそれである。
 また「とても地獄は一定すみかぞかし」というような自覚の相は一遍にはありえなかったろう。つまり一遍は思想としての〈孤独〉をほんとうには知らないですんだのにちがいない。
 親鸞が思想であるとすれば、一遍はまさしく(語のいかなる意味においても)〈現象〉であった。一遍は思惟のメランコリイから、修辞的論理によって脱したのにちがいない。この論理をフェノメノロジカル(現象論的)とよんでもいいだろう。(〈手記〉より)

 ここに二つの僕なりの異和を書いておけば、親鸞の称名念仏の徹底性の根底には天台本覚思想に対する根本的な反措定が横たわっていることであり、オプティミスティクになれないことも深化の意味をもっているということであることが一つ。「現象論的」という場合には、現象学が行なう最初からの「根源的な疑い」を一遍はもつような資質ではないのだから、それは当たらないということが二つである。菅谷は一遍の行方をある「すがすがしさ」をもって、晩年受けとめたのではなかったのか。それがなにかといえば、文学者としての一遍である。
 親鸞はヴィジョンがかぎりなく広がることを許さなかった。あるいは重きを置かなかった。天台本覚思想が、ヴィジョンを果てしなく広げることを手法にしていたのに対して、親鸞の思想は否定的だった。一遍は親鸞の思想の殉教者とみえるが、じつは親鸞の思想に殉教するような単純な順説は含まれているとはみえない。一遍がその限界を露わにするところが「文学的」な一遍である。

或時、野原を過たまひけるに、人の骸骨おほく見えければ
をしめどもつひに野原に捨てけりはかなかりける人のはてかな
皮にこそをとこをんなのいろもあれ骨にはかはるひとかたもなし
(『一遍上人語録』巻上)

 しかしわきに流れだしたようなこれらのヴィジョンは、そこにおいて池の一つの溜まりのようなものをつくりだす。思想の道草としての「文学的」ヴィジョンである。菅谷はこのあたりに共鳴していた。一遍を思想的に追いつめていけばその殉教的な限界に対応する親鸞の思想の捉え方の限界を考えていかざるをえない。そこはかなり明確にできる思想的地点ではないのか。
 菅谷が『宮沢賢治序説』で一つの中心とした「食べる」ことへのこだわりも、ある順説に貫かれているようにみえる。賢治の思想の中心点へ向かおうとするとき、こんどはヴィジョンが果てしなく広がることをとことん徹底する先にある思想を賢治は掴もうとしたという論点が中心になるのであり、傍流である賢治の菜食徹底性は周辺の思想としてもいいように思われる。ここに菅谷の単純さがあるとも思える。この単純さといいえるものは、しかし「反逆的」なものの接線という意味においては十分な力を示しているものでもある。大学からの離反などに絡められるこの「反逆的」なものの接線は、状況的にも六〇年代後半において意味をもっていたのである。一時一緒にやっていた「凶区」の天沢退二郎などよりはるかに影響力をこの時点でもっていたと思うし、問題の明確さは天沢などより現在でもよほど重要さをもっている。菅谷の迷走的な音韻論は、別に『詩とメーロス』などを読み解くことで検討しなければならないが、この『死をめぐるトリロジイ』がその接線の逢着した場所であったと思われる。
 「文学的」にゆきついた場所は「Zodiac Series」であり、巻尾の《生きることをやめてから/死ぬことをはじめるまでの/わずかな余白に》と最初に書かれている〈死をめぐるトリロジイ〉である。この言葉は敗北の言葉にほかならないが、菅谷はなにに敗北したのか? なにもできなくなったらなにもしなくていい、というふうに考えられなかったのが菅谷の生活者的でないところなのではないだろうか。しかし、これはあまりにつらい問いだとも思う。では、盛んに書くべき主題があることが肝臓を治そうとする契機になりえただろうか、という問いもあまりよくないと思われる。
 「書くこと」ことも「食べること」(生活のことでなく文字どおり、食べること)も一つの問いに立てられないほど錯綜しているのだ、という意識と逆説を資質的に取り込めなかったのだ。これは、反対にいうと現代思想の課題を十分に解析する鍵を見つけることができなかったということも意味すると思う。なにかしては駄目ということと、それをしていいということは、二律背反ではなく網の目のように複雑に連続しているのだ。
 一つの行動規範を設定することは、普通過程的な嘘が含まれているとみたほうがいいのだ。あるいは、その設定は過程的なもの考えたうえでを「とりあえず」行動規範とする、とみたほうがいいと思われる。なぜならば、実践上での問題を処理していくフレキシビリティを失ってはならないからである。
 「書くこと」に殉教することは、ほかの殉教と同じように間違えている。それは宮沢賢治が「食べること」になんらかのこだわりをみせたのを、単純にそれだけとりだして論じて浮かび上がるものを固定的に考えてはいけないというような理路に繋がるように思える。賢治の思想に迫るときの中心は何かと考える周辺にさまざまな解析試論を置いてみることが、結局賢治に近づく方途なのではないだろうか。
 そして、この本に示されるいくつかの批評的断片、これらもまた菅谷が逢着した地点を表わす。

 どのみちわたしたちは都市のなかで死ぬ。もはや、イエのなかでもムラのなかでも死ねない。そして、それがどんな死であれ、カルチュアを死ぬものではない――むしろ、サブ・カルチュアを死ぬ。
(〈縄文的遊魂、か。〉)

都市は、その現前は、外延をもたない円環としてのそれじたいであり、ただ、二〇〇〇年の稲作文明の消滅を内包し、そしてその内包を、縄文的原生として復活させる――それが、都市としてのわたしたちの無意識の領分であり、そしてそのすがたである。
(同前)

 圧倒的に多く書かれている死に対する批評的断片は、さまざまに読者を反応させる論点を含んでいる。しかし、それもまた菅谷の音韻論のように迷走している。断片への断片としての反応を読者はしなければならないようだ。都市論にしても、楽観的あるいは悲観的な論の中心を錐のようにこちらに突きつけてくる感じではない。しかしまた、これらの批評的な断片が多くの思想のヒントや発端に繋げていく目印をつけてくれているのも確かだ。

  発信セヨ、発信セヨ
  (つれて帰れるだろうか
   身ぐるみ
 ぱっ……しゃ。
 けけれ、アレ、や

 それからのオキノコジマ
 見エズ、カクレズ
 キノミヤ、木の宮、ミナミの木そびえ

 キケリトン、キケリトン、
 ぱっ……しゃ

 けけれ、アレ、や
 みうみ

 あちらにもケリがいて
 頬の血、なまぬるく
  わめいている
(〈〔ケリ〕〉部分)

 この本がまた菅谷規矩雄の全部の本を読み返すきっかけになればいい、と僕は痛切に思う。発信された信号に反応するために。

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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