詩・88・1
CHIへのレクイエム

藤林靖晃



 サイコは点滴を受けながら終日寝ている。大丈夫、これくらいの熱は自分でも分かっているから、と言って口を堅く閉じている。何か食べなければと言うと、何も要らないと答える。「ほっといて」と強い口調で私を見ながら言う。枕許には小さなバッグが置いてあり、その中に数十種にも及ぶ薬が入れられてある。陽がカーテンの影をサイコの顔の上に投げかける。「眠りたくないの」「どうして」「眠るとね、悪い夢ばかり見るの。つらい夢。だから眠りたくない……」「悪いって、どんな」「たとえば身近で死なれた子供や男の夢。それが正夢みたいで……。子供が眼の前で車に轢かれるの。肺炎になった男が蒼白い顔でこちらを見るの。縊死した男の後姿が目蓋に焼きついて離れないの」虚ろな眼でサイコはぽつりぽつりと言う。「窓を閉めて下さる、風が嫌なの」私はサイコの額に手を当てる。「やはり医者に言って痛みどめをもらったほうがいい」「ちょっと待って。さっきスルピリンを多めに呑んだから、だいじょうぶ。熱は下がるの。熱はかならずさがるからだいじょうぶなの」「そうかな」「ひとりで生活してるとね。大方のことは自分で分かるの。あと二時間もしてスルピリンが効かなかったら抗生物質を持ってるから……」喋りながらサイコは目を閉じる。心なしか顔が上気しているようだ。私はタオルをしぼってサイコの額に乗せる。その同じ動作を何回も繰り返している。どうやら眠ったようだ。サイコは一種の放浪者である。多くの体験をしている筈なのだがそれが顔に表われていない。いわば白痴美のようなものがその表情にある。童顔なのだ。「海が見たいわ。そう、海よ、海」うわ言だろうか。「たつお、かならずゆくからまっててね」かたことまじりで口を開く。「いいのよ、いいの、もういいの、しんぱいしないで……」私はバッグから体温計をとりだしてそおっとサイコの腋の下にさしこむ。さようなら、サイコ。サイコ、永久にさようなら……。

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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