衛生と発語

陣内淳介



それはそれで彼の自伝は試みられ 彼女は、この脂肪は、とかこの湖は、 あるいは機嫌の悪いときには、 このペルセウスは、とかこのジョージアン様式は、 また、このぴんぼけは、とかこの薄情者は、 このブッキッシュなシューシャインボーイは、 と言って彼のために牛乳を一本 買ってくれるのだった。 その都度ウエストに巻きつけた 輪ゴムの圧力で息もたえだえな中年男である彼は 休耕田、とかボルシェビキ、 あるいは逆転したぞ、とかハイ、 また、懐中電灯をくわえて屋根裏に上がり込んだり、 そこで賛美歌を歌ったりして答えていたのだが いかにも常習喫煙者にとって ボーイソプラノは荷がかち過ぎた ある日彼の見ている前で 彼女の顔が緑色になった 第三章まで書き進むと 爪の間からFM放送が聞こえるようになった しきりにおれがおれがといい しきりにおれがおれがとい しきりにおれがおれがと しきりを連発するようになった 自伝は帰れ と彼が叫ぶと しからばそうろう と彼女が吼え 見送りに立つエレベーターの中で 彼はありったけの小銭を マントを着た小男に握らせてやったのだが えへ、自伝屋でござい と言ったところを見ると 自伝もまんざら捨てたものじゃない 鼻膨らまして 町にでると あたしの一生買っておくれな 呼ぶ声の声 実存のさなかで 輪ゴムがはじけ飛ぶと赤い跡が 喉元から天へ下った

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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