詩と世界へのノート 2
夜になりたい

福間健二



 個人的にはいま、私は次に何をどう書こうかと考えて選択する余地などないところに立っている。客観的な意味で書かねばならないことなど何もないと承知しているが、かならず、昨日書いたことの続きを今日ひきだすことができる。要するに、はじめてしまったということなのだ。はじめてしまった以上、行くところまで行くしかない。言いかえれば、「すべて」を書くしかない。書くという行為はそういうことなのだと私は信じる。
 言葉で世界と向きあい、それをものすごい速さで通りこしてしまうということを、存在のつづくかぎりくりかえしてゆく。そうすると最終的にはどこに行くのか。それは言葉に聞いてみなければわからないかもしれない。わからないことをやっているから詩だとも思うが、小説や批評の形式でもそれはできるはずであり、私の受けとめ方では、小説や批評の形式で膨大な詩を書いてきたすぐれた文学者が何人も存在している。逆に、詩を断念している文学者の手がたいだけの仕事のしかたも見えてくる。かれらの多くは、ジャンルの選択を宿命と取りちがえているのだ。そうでなければ商売で文学をやっているだけだ。
 ヘンリー・ミラーは、「すべて」を書こうとした文学者のひとりだ。彼のどんな断片にも詩の要素が生きている。『南回帰線』(一九三九)の次のような一節は、いまこそ私の耳にはとても刺激的に、世界をものすごい速さで通りこしているようにひびいてくる。

《ぼくは狂暴であり、同時に無気力だった。さながら灯台そのもののように――怒涛逆まく海のまっただ中に、がっしりと定着していた。ぼくの下には、そそりたつ摩天楼をささえている岩棚とおなじ強固な岩があった。ぼくの土台は地中深く入りこみ、ぼくの身体の補強材は、赤熱したボルトを打ち込んだ鋼鉄でできていた。なかんずく、ぼくは一つの目だった。遠く広く探り、休みなく仮借なく回転をつづける巨大な探照灯だった。この油断なくさえた目のために、ぼくのその他の機能はすべて眠らされたように見えた。ぼくの持てる力はすべて、世界のドラマを見、それを取り込むことに使いはたされていた。》(河野一郎訳、以下同)

 ヘンリー・ミラーの体験は、煎じつめてしまえば「女」だ。けれども、その女性体験は「世界のドラマを見、それを取り込む」という奥行の深さがあり、その言葉は下半身に直結した欲望から哲学的な絶望までの振幅の中に自在な喩をはらむことができている。この一節にある「目」とそれに対する否定的な意識は、先駆的だ。この「目」に、映像と活字のメディアを通して世界のニュースを受けとめている現在の私たちの「目」をかさねて読んだとしても、無謀だとは思わない。
 湾岸戦争も、旧ソ連の解体も、それに前後する各地域の紛争も、ニュースとしてのどぎつさだけをとれば、世界史の上でまだ始末のついていなかった野蛮な下半身があらたに露出している。私たちの「目」は、その刺激に対して「狂暴であり、同時に無気力だった」と素直に認めるべきだろう。そして、見ること・知ることがそれだけで終わって、私たちは一歩たりと動かずにいたことも。
 この「目」はすべてを知ることができる。けれども、そのために他の機能をすべて眠らせるのだ。ミラーはそれを意識したところから破壊と変身の願望を語り、「ぼく自身の身体を知り、ぼく自身の欲望を知る機会が得られるよう、ぼくはあの目が消されることを願っていた」と言い、さらにこう書いている。

《仮借ない目に照らし出されたあの夜に、星屑と尾を曳く彗星に飾られた夜に、なりたかった。おそろしいほど静まり返り、まったく不可解であると同時に雄弁な夜に、なってしまいたかったのだ。もはや話すことも、聞くことも、考えることもなかった。今はただ取りまかれ囲いこまれ、同時に囲いこみ取りまくばかりだった。もはや同情にも思いやりにも用はなかった。草や虫や川のように、ただこの地上に棲息するというだけの人間になるのだ。分解され、光と石をのぞかれ、分子のように変わりやすく、原子のように持続性を持ち、大地そのもののように無情に徹するのだ。》

 夜の思考はもう十分に提出された。それでも、なお夜はやってくる。昼間の現実から遮断された領域としてではなく、了解された世界と知られざる世界にまたがる無限の大きさをもつ領域としての夜。その夜になるというのは、「目」を消し、「目」があたえる意味をはぎとり、世界の一部としての自分を存在するままに投げ出してみることだ。世界と向きあい、世界を通りこして、とりあえずはこういう場所まで走りぬいてみたい。
(一九九二年七月二〇日)

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