バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第2回

吉田裕



2 ファシストたちをめぐって

 前回のノートで、バタイユのニーチェ理解を取り出すのに、ファシスム批判の視点から眺めるという方法を選択することにしたが、この方法から論文としてまず興味をひくのは、「ニーチェとファシストたち」(36年、以下「ファシストたち」と略)、「ニーチェ・クロニック」(37年、同「クロニック」)、「ニーチェと民族社会主義」(44年同「民族社会主義」)、「ニーチェはファシストか」(44年)といった諸論文である。付加しておけば、「ニーチェとファシストたち」が発表されたのは、「アセファル」の2号においてだったが、この号は、「ニーチェの回復」と題されたニーチェ特集号であった。回復とは明らかにファシスム的理解からの回復を指している。また次の3、4合併号には、「クロニック」が掲載されたが、この号のテーマはディオニュソスであり、カイヨワが執筆している。これらのことから、「アセファル」の編集に携わったアンブロジーノ、バタイユ、クロソウスキーらと、また彼らに加えるに執筆者であったジャン・ヴァール、ジャン・ロラン、そしてカイヨワらの間では、ファシスムの理解に抗して、ニーチェの読み方を変えようという合意があったことがうかがわれる。バタイユのファシスムのニーチェ理解批判のなかにもまた、この集団的な試みの中に位置づける必要のある部分があるだろう。だがまず、彼のいうところを聞くことからはじめたい。
 ファシスムといっても、多くの研究者が言うように、これがファシスムの理論であるとして取り出しうるものはなく、時には相矛盾するさまざまな傾向の寄せ集めであり、その分逆に批判も困難になる。だがバタイユは「ファシストたち」をはじめとする諸論文の中で、ファシストと目された人物たちのニーチェとのかかわりおよび理解を、具体的に取り上げており、その意味では、ニーチェ理解を通してのファシスム批判の、またファシスム批判を通してのニーチェ理解を見る出発点にはなりうると考えられる。
 まず目につくのは、ニーチェの妹エリザベトにかかわる問題である。1844年に生まれたニーチェは、88年頃に錯乱に陥り、1900年に死ぬ。死後膨大な遺稿が残され、エリザベトがそれを管理する。ところでこの妹は、断片のかたちで残されたこの遺稿を整理し、編集して、兄の死の翌年の1901年に『力への意志』の標題で刊行する。ニーチェがこのような題の書物を構想していたことは確からしい。しかし問題は、その編集であった。そこにある種の偏向――つまり反ユダヤ主義的な――があったからである。そのような批判は、当初からあったらしい。しかしながらそれが一挙に表に出てきたのは、1933年12月に、その年の1月に政権をとって首相となったばかりのヒトラーを、エリザベトが、ニーチェが晩年をすごしてその遺稿を保管していたワイマールの山荘に招待し、ニーチェの愛用していた杖を贈呈し、そのうえ夫であるフェルスターにニーチェを反ユダヤ主義者であったとする論文を朗読させることによって、ニーチェを反ユダヤ主義に公然と結びつけたときである。またニーチェの母方のいとこは、ニーチェが揶揄するために引用した反ユダヤ主義者の言明を、ニーチェ自身の意見であるかのように見せかけるという、拙劣なほどの偽造を行っている。
 バタイユは家族によるこの事件を、ニーチェの捏造と詐取であると激しく攻撃している。ニーチェの著作、ことに『偶像の黄昏』や『アンチ・クリスト』などには、確かに反ユダヤ主義的とみなされかねないような叙述があるが、それは単にユダヤ的な要素に対する批判ではなく、ユダヤ・キリスト教的な要素に対する批判だったし、また仮借ない批判は同じくゲルマン的な要素にも向けられていたのである。ニーチェを反ユダヤ主義に結びつけることについては、バタイユは、まずそれがいかにニーチェ自身の考えを裏切るものであったかを、ほとんど実証的な手続きによって、つまり彼の手紙を引くことで証明しようとする。妹エリザベトについて彼は、そもそも〈私の妹のような人間は、私のような思考のしかた、私の哲学の不倶戴天の敵なのだ〉と言っていたが、彼女が1885年に結婚しようとして、その相手が当時の反ユダヤ主義団体の幹部であると知ったとき、ニーチェは猛然と反対している。後年エリザベトが『力への意志』を、反ユダヤ主義的と読まれるようなやり方で編集した背後には、この夫の存在があったのだろう。〈ツァラツストラの名が反ユダヤ主義者の口から出るとき、私が何を感じるとあなたは思いますか〉とニーチェは言う。それ以外にも彼は、ゲルマン主義も視野にいれて人種という考え方に批判的どころか、嘲弄的であった。〈人種などという恥知らずの悪ふざけにはまりこんでいる者どもを訪問することなど決してするな〉ともニーチェが言ったことをバタイユは繰り返して引用している。
 しかしながら、これらの批判を大々的に取り上げることは、過大な評価になるのかもしれない。なぜなら、『力への意志』の出版は1901年のことであり、その編集上の問題は、研究者の間ではすでに知られていたようだし、ワイマールでの儀式も数年前のことであるからだ。けれども、ここには確認しておくべきいくつかの点が浮かび上がっている。そのひとつは、彼のファシスム批判の軸のひとつが、反ユダヤ主義に対する強い批判だったことである。〈ユダヤ人に対する憎悪以上に、ヒトラー主義に本質的なものはない〉とバタイユは言っている(「民族社会主義」)。この反対には、ひとつには、彼が28年に結婚した最初の妻シルヴィアがルーマニア系のユダヤ人であったことも作用しているだろうが(34年頃離婚している)、もちろん理由はそれだけではあるまい。この問題についての彼の基本的な立場はもっと幅の広いもので、彼には確かに人種主義に対する激しい反発があったと言わなくてはならない。当時彼は、人間の本質が共同性の中にあると考え、この共同性をどのように実現するかを模索していたが、それは少なくとも、人種という生理的な条件によるものでないこと、またその上に構築される祖国といったものではないことは、彼には明らかだったからである。
 基礎的な事実の問題として、もうひとつ押さえておきたいのは、ファシスムの中でニーチェがどのような地位を与えられていたかという点に関するバタイユの考えである。ニーチェは、一般にそう思われているほどファシスムの偶像ではなく、ドイツ・ファシスムの人種主義のパンテオンに祭られたのは、ニーチェと同時代ではチェンバレン(ドイツ民族の支配的役割を主張する人種理論を説いた、1855-1927)、ワグナー(もちろん音楽家のワグナーである、1813-1883)、ラガルド(ゲッチンゲン大学の東洋語の教授であった、1827-1891)、そして二〇世紀に入ってはローゼンベルク(ドイツ文化擁護団の指導者で、『20世紀の神秘』の著者である、1893-1946)らであって、ニーチェに対する評価は保留つきだったとバタイユは言っている。ニーチェが一九世紀末のドイツ社会にたいする仮借ない敵対者であったことは、ファシスムの側も知っており、だからファシスムがニーチェを取り入れたのは、もっぱら彼が国外で持った名声のためであったとバタイユは見る。〈この操作のもたらす危険がどのようなものであれ、新生ドイツはニーチェを認知し、利用しなければならなかった。彼は、どのように激しい行動にも利用できるような、動態化された本能というものを代表していたからである。そして偽造は容易であった〉とバタイユは書いている。
 したがって、バタイユは、これらの思想家たちとの意図的な混同を明らかにするために、ニーチェが彼らとの間に持った激しい対立を明らかにしようとする。ワグナーに対する批判は周知のものである。ニーチェはその反フランス主義と反ユダヤ主義に〈うんざりし〉ていた。またラガルドの汎ゲルマン主義については、〈ポール・ド・ラガルドというセンチメンタルでうぬぼれの強い頑固者の著作を読んで、この春私がどれくらい笑ったかを知っていただけるでしょうか〉という手紙を残している。また先ほどの〈人種という恥知らずの悪ふざけにはまりこんでいる者ども〉と言うのは、チェンバレンに向けられたものであろう。
 またローゼンベルクについては、バタイユは彼が必ずしも第三帝国公認の思想家ではなかったことを知りつつも、ニーチェを、イタリア・ファシスムの本能主義的な解釈によってではなく、〈数百万の抑圧された人々の絶望の叫びを表現する〉と読むことによって、ドイツファシスムに近い解釈を与えたと認めている。しかし彼がニーチェの名をラガルドやワグナーと並べて、反ユダヤ主義者とみなそうとするときバタイユは激しく批判する。またローゼンベルクは〈天上の神々はあがめたが、地下の神々に対してはそうではなく〉(「ファシストたち」)、その結果、〈ディオニュソスの祭儀をアーリア的でないとして否定した〉。この否定は〈青年たちに必要なのは運動場であり、聖なる森などではない〉というヒトラーの言明に通じている(「民族社会主義」)。そして汎ゲルマン主義者ラガルドを嘲笑したニーチェの笑いは、ローゼンベルクにも充当されるだろうとバタイユは考える。
 また新しい資料が明らかにされた戦後になってのことだが、バタイユは、ローゼンベルクがニーチェの完全な賛同者ではなかったことを指摘している。49年のクリチック34号の短いニーチェ覚え書のそのまた脚注の中で(11-424)、ローゼンベルクの回顧録に触れ、このドイツ・ファシスムのイデオローグが、はじめてニーチェ(「ツァラツストラ」だったらしい)を読んだときのことを、〈彼の本質の中の何かが自分に異質で〉、あとでわかったのだが〈ニーチェの荘重で劇的な側面が、自分にはわざとらしく不完全に見えたのだ〉と述べていることを書き留めている。
 個人名と結びついた批判でもうひとつ目につくのは、ボイムラーに対するものである。ボイムラーとは、33年以来ベルリン大学の政治教育学講座の教授でローゼンベルクの元で活動していた人物だが、彼は31年に『ニーチェ、哲学者にして政治家』という著書を著している。バタイユはこの書物の中に知識と原則があって、その意味ではまともなものであることを認め、批判の爼上に乗せている(参考のためにつけ加えておくと、ハイデガーの最初のニーチェ講義である「芸術としての権力への意志」は36年の学期に始まったばかりで、それが出版されるのは戦後のことであり、当然バタイユはここでは言及していない)。ボイムラーはニーチェの迷路じみた著作から、「共通する力への意志によって統一された民衆」という原理を引き出してくる。しかしこれを彼は性急に、現実の民族的共同体に結び付けようとする。そこでバタイユは、ヘーゲルが絶対精神の実現をプロシアに期待したように、ニーチェはツァラツストラの実現を民族社会主義に期待したろうかと反問し、否と答える。なぜなら、ニーチェには、思想とは何かの実現に奉仕するものではなく、それ自体を目的にするものだという考えがより根本にあると考えるからである。同様にしてボイムラーは、「神は死んだ」を歴史的な背景の中に位置づけ、その結果この断言をいわば機能的に理解して現実の中に解消してしまう。したがって彼はニーチェが神の死のあとに見いだした「永劫回帰」についても、その発見がニーチェに持った強いインパクトを理解できず、それをニーチェの個人的な体験にすぎないとしてしまうのである。バタイユはニーチェの思想のもっとも重要な考えは、「永劫回帰」だとし、それをしばしば言明しているが、「力への意志」や「超人」は、それに比べれば重要さは薄いのである。
次回は個人の名に限定されない思想的な問題を扱いたい。

[注]ファシスムに関する知識は、主に『ファシズム』山口定著(有斐閣・1991年)、『ハイデガーとナチズム』ヴィクトル・ファリアス著(名古屋大学出版会・1990年)、『ナチス第三帝国辞典』ジェームス・テーラー著(三交社・1993年)によった。


[ホームページ(清水)] [ホームページ(長尾)] [編集室/雑記帳]
エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
[No.9目次] [前頁([組詩]ガラスのつぶやき)] [次頁(「棲家」について 3)]
mail: shimirin@kt.rim.or.jp error report: nyagao@longtail.co.jp