「棲家」について 3

築山登美夫



 さて、吉本隆明は鮎川の死後、前記の「情況への発言――ひとの死、思想の死」(87年11月)のほかに、「別れの挨拶」(86年11月)、詩集『難路行』解説(87年9月)という二つの鮎川についての文を発表している。これらにふれるまえに少し迂回をしてみよう。
 鮎川信夫と吉本隆明が最後の対談「全否定の原理と倫理」(「現代詩手帖」85年8月号)で、当時話題となっていた三浦和義事件をめぐって、はげしく対立したことはよく知られているだろう。それについて言及した論文もいくつかあったようだが、対立のほんとうの理由を納得させてくれたものはなかった。最近になってわたしはこの対立が、鮎川と吉本が体験した三角関係の位相差からきたものではなかったかと思うようになった。
 吉本が体験した三角関係が、夫のある女性との恋愛問題であり、その矛盾の解決がその関係のあいだに立つ女性の意思により多く依存していたであろうのにたいし、鮎川の体験したそれはおそらくその逆であって、二人の女性との三角関係のあいだにあって、心的にまた経済的に依存されながらの身動きならないいたばさみのなかで、その矛盾の解決を二人の女性の意思により多く依存しなければならないといった状況であった。どちらがよりきつい関係であるかを比較することはできないが、後者のほうが解決がより困難であり長期にわたることが避けにくいことはたしかであろう。
 とするならば、鮎川にとって、三浦和義事件とよばれるものは、この困難な三角関係の一方の項を抹消する(文字通り肉体的に抹殺する)ことによって矛盾の解決をはかるという、最悪の行為をなしながら(三浦の嫌疑は愛人を殺害し、保険金や預貯金をじぶんのものとし、べつの愛人と婚姻するという行為を、二度にわたってくりかえしたということであった)、じぶんを被害者といつわって逃走しつづけた男を、メディアのネットワークがたまたま捕捉したという事件であり、そうであるからには鮎川はじぶんが体験した三角関係の実質にかけて、この男を思想的に否定したいとかんがえたのではないだろうか。
 しかし鮎川はいくども論をたてくわしく言及し、論争にも応じながら、この事件がたんに保険金や預貯金めあての殺人ではなく、三角関係のやってはならない最悪の解決としての殺人であることを述べていない。まるでわざと、そのかんじんな急所に空白をおいたとでもいうように。《法的に有罪であるかどうかは別にして、私は、彼がこの事件に関して犯罪をおかしていることに、ある確信をもっていました。テレビで二回、彼の言動を注視した段階で、その確信はほとんど揺ぎないものとなりました。法律なんか、眼中にありませんでした。》(「すこぶる愉快な絶望」――「現代詩手帖」86年3月号)――この「確信」がどこからやってきたかを、鮎川は語らなかったのである。
 吉本隆明には、三浦事件のこの本質がみえていなかった。みえていたとしても重要なものとみなされていなかった。だから鮎川の三浦有罪の「確信」が不可解なものとうつった。そうであるとするならば、このすれちがいには彼らの生活史の重量がこめられているといってよい。そしてこのすれちがいは彼らの交渉史の端緒から終始存在したものであった。

 幾年か交渉があったが、わたしは鮎川信夫が、好きな女性がいるのかいないのか、なぜ結婚をしないのか、いつどこで詩や詩論をかいたり、ホン訳をやったりするのか、皆目わからなかった。(「交渉史について」65年11月)
 鮎川信夫の夫人が最所フミさんだということは、まったく知らなかったから、びっくり仰天したぜ。おれがこの人がそうかなと見当をつけていた人とは、まるで違っていた。なぜそんなにまで伏せたのか、よくモチーフがわからないな。(「情況への発言――ひとの死、思想の死」87年11月)
 わたしは晩年の一、二年をのぞいて、鮎川信夫とよく接触した方だったが、ついにかれが妻子をもっていたのかどうか、愛人とか恋人とかが存在していたかどうか、まったく不精確にしか推測できていなかった。鮎川信夫の最初の恋人はこの人で、最後の恋人はこの人でと、推測していた人は、ことごとくちがっていた。これはかれの死後に愕然としたことのひとつだった。(「最後の詩集」〈詩集『難路行』解説〉87年9月)

 ここで「皆目わからなかった」とか「びっくり仰天した」とか「ことごとくちがっていた」とか云われているのは、鮎川その人の私生活をさしているようにみえるが、その可能性は少ない。なぜなら「ことごとくちがっていた」と云うためには、鮎川の「夫人が最所フミさんだということ」だけではだめで、最低限のこととして「愛人とか恋人とか」にたしかめなければならないはずである。それをしないで「ことごとくちがっていた」と確言できるのは、ほんとうはそれが彼らの60年余にわたる生活史の累積からくる体験的思想の差異にたいする気づきをさしているからである。そうとしか思われない。
吉本にとって鮎川はくりかえし論じ、対話をおこない、もっとも理解のふかさを示してきた詩人であった。「交渉史について」では《わたしが鮎川信夫に感じたのは、人間は他者を自分として感ずることができるかという設問に、あたうるかぎり近づいた人物であった。》とさえ述べられている。さらに吉本は漱石や芥川における三角関係のテーマを時代と文明史にかかわる切実な問題として論じ、また島尾敏雄の「病妻物」にあらわれた主人公の三角関係を発端とする対幻想の関係障害の世界を執拗に追尋してもいる。そのような吉本の関心の領野の外に、鮎川の生活史における三角関係のドラマは存在しつづけ、その光源からこそ鮎川の複層した詩と他者と世界への認識の眼は拡がっていた。このくるしい光源の存在に、吉本の眼は及んでいなかった。だから吉本はそれを鮎川の詩と生活史を貫流する「出自の不明な暗喩」(『難路行』解説)とするほかなかった、とかんがえられる。

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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