詩 都市 批評 電脳第9号 1993.8.15 206円 (本体200円)〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18(TEL:03-3428-4134:FAX 03-5450-1846) 編集・発行 清水鱗造 5号分予約1000円 (切手の場合72円×14枚) |
雨がはじまる |
布村浩一 |
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小さな街で |
倉田良成 |
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[組詩] ガラスのつぶやき |
清水鱗造 |
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バタイユ・ノート2 バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第2回 |
吉田裕 |
2 ファシストたちをめぐって 前回のノートで、バタイユのニーチェ理解を取り出すのに、ファシスム批判の視点から眺めるという方法を選択することにしたが、この方法から論文としてまず興味をひくのは、「ニーチェとファシストたち」(36年、以下「ファシストたち」と略)、「ニーチェ・クロニック」(37年、同「クロニック」)、「ニーチェと民族社会主義」(44年同「民族社会主義」)、「ニーチェはファシストか」(44年)といった諸論文である。付加しておけば、「ニーチェとファシストたち」が発表されたのは、「アセファル」の2号においてだったが、この号は、「ニーチェの回復」と題されたニーチェ特集号であった。回復とは明らかにファシスム的理解からの回復を指している。また次の3、4合併号には、「クロニック」が掲載されたが、この号のテーマはディオニュソスであり、カイヨワが執筆している。これらのことから、「アセファル」の編集に携わったアンブロジーノ、バタイユ、クロソウスキーらと、また彼らに加えるに執筆者であったジャン・ヴァール、ジャン・ロラン、そしてカイヨワらの間では、ファシスムの理解に抗して、ニーチェの読み方を変えようという合意があったことがうかがわれる。バタイユのファシスムのニーチェ理解批判のなかにもまた、この集団的な試みの中に位置づける必要のある部分があるだろう。だがまず、彼のいうところを聞くことからはじめたい。 ファシスムといっても、多くの研究者が言うように、これがファシスムの理論であるとして取り出しうるものはなく、時には相矛盾するさまざまな傾向の寄せ集めであり、その分逆に批判も困難になる。だがバタイユは「ファシストたち」をはじめとする諸論文の中で、ファシストと目された人物たちのニーチェとのかかわりおよび理解を、具体的に取り上げており、その意味では、ニーチェ理解を通してのファシスム批判の、またファシスム批判を通してのニーチェ理解を見る出発点にはなりうると考えられる。 まず目につくのは、ニーチェの妹エリザベトにかかわる問題である。1844年に生まれたニーチェは、88年頃に錯乱に陥り、1900年に死ぬ。死後膨大な遺稿が残され、エリザベトがそれを管理する。ところでこの妹は、断片のかたちで残されたこの遺稿を整理し、編集して、兄の死の翌年の1901年に『力への意志』の標題で刊行する。ニーチェがこのような題の書物を構想していたことは確からしい。しかし問題は、その編集であった。そこにある種の偏向――つまり反ユダヤ主義的な――があったからである。そのような批判は、当初からあったらしい。しかしながらそれが一挙に表に出てきたのは、1933年12月に、その年の1月に政権をとって首相となったばかりのヒトラーを、エリザベトが、ニーチェが晩年をすごしてその遺稿を保管していたワイマールの山荘に招待し、ニーチェの愛用していた杖を贈呈し、そのうえ夫であるフェルスターにニーチェを反ユダヤ主義者であったとする論文を朗読させることによって、ニーチェを反ユダヤ主義に公然と結びつけたときである。またニーチェの母方のいとこは、ニーチェが揶揄するために引用した反ユダヤ主義者の言明を、ニーチェ自身の意見であるかのように見せかけるという、拙劣なほどの偽造を行っている。 バタイユは家族によるこの事件を、ニーチェの捏造と詐取であると激しく攻撃している。ニーチェの著作、ことに『偶像の黄昏』や『アンチ・クリスト』などには、確かに反ユダヤ主義的とみなされかねないような叙述があるが、それは単にユダヤ的な要素に対する批判ではなく、ユダヤ・キリスト教的な要素に対する批判だったし、また仮借ない批判は同じくゲルマン的な要素にも向けられていたのである。ニーチェを反ユダヤ主義に結びつけることについては、バタイユは、まずそれがいかにニーチェ自身の考えを裏切るものであったかを、ほとんど実証的な手続きによって、つまり彼の手紙を引くことで証明しようとする。妹エリザベトについて彼は、そもそも〈私の妹のような人間は、私のような思考のしかた、私の哲学の不倶戴天の敵なのだ〉と言っていたが、彼女が1885年に結婚しようとして、その相手が当時の反ユダヤ主義団体の幹部であると知ったとき、ニーチェは猛然と反対している。後年エリザベトが『力への意志』を、反ユダヤ主義的と読まれるようなやり方で編集した背後には、この夫の存在があったのだろう。〈ツァラツストラの名が反ユダヤ主義者の口から出るとき、私が何を感じるとあなたは思いますか〉とニーチェは言う。それ以外にも彼は、ゲルマン主義も視野にいれて人種という考え方に批判的どころか、嘲弄的であった。〈人種などという恥知らずの悪ふざけにはまりこんでいる者どもを訪問することなど決してするな〉ともニーチェが言ったことをバタイユは繰り返して引用している。 しかしながら、これらの批判を大々的に取り上げることは、過大な評価になるのかもしれない。なぜなら、『力への意志』の出版は1901年のことであり、その編集上の問題は、研究者の間ではすでに知られていたようだし、ワイマールでの儀式も数年前のことであるからだ。けれども、ここには確認しておくべきいくつかの点が浮かび上がっている。そのひとつは、彼のファシスム批判の軸のひとつが、反ユダヤ主義に対する強い批判だったことである。〈ユダヤ人に対する憎悪以上に、ヒトラー主義に本質的なものはない〉とバタイユは言っている(「民族社会主義」)。この反対には、ひとつには、彼が28年に結婚した最初の妻シルヴィアがルーマニア系のユダヤ人であったことも作用しているだろうが(34年頃離婚している)、もちろん理由はそれだけではあるまい。この問題についての彼の基本的な立場はもっと幅の広いもので、彼には確かに人種主義に対する激しい反発があったと言わなくてはならない。当時彼は、人間の本質が共同性の中にあると考え、この共同性をどのように実現するかを模索していたが、それは少なくとも、人種という生理的な条件によるものでないこと、またその上に構築される祖国といったものではないことは、彼には明らかだったからである。 基礎的な事実の問題として、もうひとつ押さえておきたいのは、ファシスムの中でニーチェがどのような地位を与えられていたかという点に関するバタイユの考えである。ニーチェは、一般にそう思われているほどファシスムの偶像ではなく、ドイツ・ファシスムの人種主義のパンテオンに祭られたのは、ニーチェと同時代ではチェンバレン(ドイツ民族の支配的役割を主張する人種理論を説いた、1855-1927)、ワグナー(もちろん音楽家のワグナーである、1813-1883)、ラガルド(ゲッチンゲン大学の東洋語の教授であった、1827-1891)、そして二〇世紀に入ってはローゼンベルク(ドイツ文化擁護団の指導者で、『20世紀の神秘』の著者である、1893-1946)らであって、ニーチェに対する評価は保留つきだったとバタイユは言っている。ニーチェが一九世紀末のドイツ社会にたいする仮借ない敵対者であったことは、ファシスムの側も知っており、だからファシスムがニーチェを取り入れたのは、もっぱら彼が国外で持った名声のためであったとバタイユは見る。〈この操作のもたらす危険がどのようなものであれ、新生ドイツはニーチェを認知し、利用しなければならなかった。彼は、どのように激しい行動にも利用できるような、動態化された本能というものを代表していたからである。そして偽造は容易であった〉とバタイユは書いている。 したがって、バタイユは、これらの思想家たちとの意図的な混同を明らかにするために、ニーチェが彼らとの間に持った激しい対立を明らかにしようとする。ワグナーに対する批判は周知のものである。ニーチェはその反フランス主義と反ユダヤ主義に〈うんざりし〉ていた。またラガルドの汎ゲルマン主義については、〈ポール・ド・ラガルドというセンチメンタルでうぬぼれの強い頑固者の著作を読んで、この春私がどれくらい笑ったかを知っていただけるでしょうか〉という手紙を残している。また先ほどの〈人種という恥知らずの悪ふざけにはまりこんでいる者ども〉と言うのは、チェンバレンに向けられたものであろう。 またローゼンベルクについては、バタイユは彼が必ずしも第三帝国公認の思想家ではなかったことを知りつつも、ニーチェを、イタリア・ファシスムの本能主義的な解釈によってではなく、〈数百万の抑圧された人々の絶望の叫びを表現する〉と読むことによって、ドイツファシスムに近い解釈を与えたと認めている。しかし彼がニーチェの名をラガルドやワグナーと並べて、反ユダヤ主義者とみなそうとするときバタイユは激しく批判する。またローゼンベルクは〈天上の神々はあがめたが、地下の神々に対してはそうではなく〉(「ファシストたち」)、その結果、〈ディオニュソスの祭儀をアーリア的でないとして否定した〉。この否定は〈青年たちに必要なのは運動場であり、聖なる森などではない〉というヒトラーの言明に通じている(「民族社会主義」)。そして汎ゲルマン主義者ラガルドを嘲笑したニーチェの笑いは、ローゼンベルクにも充当されるだろうとバタイユは考える。 また新しい資料が明らかにされた戦後になってのことだが、バタイユは、ローゼンベルクがニーチェの完全な賛同者ではなかったことを指摘している。49年のクリチック34号の短いニーチェ覚え書のそのまた脚注の中で(11-424)、ローゼンベルクの回顧録に触れ、このドイツ・ファシスムのイデオローグが、はじめてニーチェ(「ツァラツストラ」だったらしい)を読んだときのことを、〈彼の本質の中の何かが自分に異質で〉、あとでわかったのだが〈ニーチェの荘重で劇的な側面が、自分にはわざとらしく不完全に見えたのだ〉と述べていることを書き留めている。 個人名と結びついた批判でもうひとつ目につくのは、ボイムラーに対するものである。ボイムラーとは、33年以来ベルリン大学の政治教育学講座の教授でローゼンベルクの元で活動していた人物だが、彼は31年に『ニーチェ、哲学者にして政治家』という著書を著している。バタイユはこの書物の中に知識と原則があって、その意味ではまともなものであることを認め、批判の爼上に乗せている(参考のためにつけ加えておくと、ハイデガーの最初のニーチェ講義である「芸術としての権力への意志」は36年の学期に始まったばかりで、それが出版されるのは戦後のことであり、当然バタイユはここでは言及していない)。ボイムラーはニーチェの迷路じみた著作から、「共通する力への意志によって統一された民衆」という原理を引き出してくる。しかしこれを彼は性急に、現実の民族的共同体に結び付けようとする。そこでバタイユは、ヘーゲルが絶対精神の実現をプロシアに期待したように、ニーチェはツァラツストラの実現を民族社会主義に期待したろうかと反問し、否と答える。なぜなら、ニーチェには、思想とは何かの実現に奉仕するものではなく、それ自体を目的にするものだという考えがより根本にあると考えるからである。同様にしてボイムラーは、「神は死んだ」を歴史的な背景の中に位置づけ、その結果この断言をいわば機能的に理解して現実の中に解消してしまう。したがって彼はニーチェが神の死のあとに見いだした「永劫回帰」についても、その発見がニーチェに持った強いインパクトを理解できず、それをニーチェの個人的な体験にすぎないとしてしまうのである。バタイユはニーチェの思想のもっとも重要な考えは、「永劫回帰」だとし、それをしばしば言明しているが、「力への意志」や「超人」は、それに比べれば重要さは薄いのである。 次回は個人の名に限定されない思想的な問題を扱いたい。 [注]ファシスムに関する知識は、主に『ファシズム』山口定著(有斐閣・1991年)、『ハイデガーとナチズム』ヴィクトル・ファリアス著(名古屋大学出版会・1990年)、『ナチス第三帝国辞典』ジェームス・テーラー著(三交社・1993年)によった。 |
「棲家」について 3 |
築山登美夫 |
さて、吉本隆明は鮎川の死後、前記の「情況への発言――ひとの死、思想の死」(87年11月)のほかに、「別れの挨拶」(86年11月)、詩集『難路行』解説(87年9月)という二つの鮎川についての文を発表している。これらにふれるまえに少し迂回をしてみよう。 鮎川信夫と吉本隆明が最後の対談「全否定の原理と倫理」(「現代詩手帖」85年8月号)で、当時話題となっていた三浦和義事件をめぐって、はげしく対立したことはよく知られているだろう。それについて言及した論文もいくつかあったようだが、対立のほんとうの理由を納得させてくれたものはなかった。最近になってわたしはこの対立が、鮎川と吉本が体験した三角関係の位相差からきたものではなかったかと思うようになった。 吉本が体験した三角関係が、夫のある女性との恋愛問題であり、その矛盾の解決がその関係のあいだに立つ女性の意思により多く依存していたであろうのにたいし、鮎川の体験したそれはおそらくその逆であって、二人の女性との三角関係のあいだにあって、心的にまた経済的に依存されながらの身動きならないいたばさみのなかで、その矛盾の解決を二人の女性の意思により多く依存しなければならないといった状況であった。どちらがよりきつい関係であるかを比較することはできないが、後者のほうが解決がより困難であり長期にわたることが避けにくいことはたしかであろう。 とするならば、鮎川にとって、三浦和義事件とよばれるものは、この困難な三角関係の一方の項を抹消する(文字通り肉体的に抹殺する)ことによって矛盾の解決をはかるという、最悪の行為をなしながら(三浦の嫌疑は愛人を殺害し、保険金や預貯金をじぶんのものとし、べつの愛人と婚姻するという行為を、二度にわたってくりかえしたということであった)、じぶんを被害者といつわって逃走しつづけた男を、メディアのネットワークがたまたま捕捉したという事件であり、そうであるからには鮎川はじぶんが体験した三角関係の実質にかけて、この男を思想的に否定したいとかんがえたのではないだろうか。 しかし鮎川はいくども論をたてくわしく言及し、論争にも応じながら、この事件がたんに保険金や預貯金めあての殺人ではなく、三角関係のやってはならない最悪の解決としての殺人であることを述べていない。まるでわざと、そのかんじんな急所に空白をおいたとでもいうように。《法的に有罪であるかどうかは別にして、私は、彼がこの事件に関して犯罪をおかしていることに、ある確信をもっていました。テレビで二回、彼の言動を注視した段階で、その確信はほとんど揺ぎないものとなりました。法律なんか、眼中にありませんでした。》(「すこぶる愉快な絶望」――「現代詩手帖」86年3月号)――この「確信」がどこからやってきたかを、鮎川は語らなかったのである。 吉本隆明には、三浦事件のこの本質がみえていなかった。みえていたとしても重要なものとみなされていなかった。だから鮎川の三浦有罪の「確信」が不可解なものとうつった。そうであるとするならば、このすれちがいには彼らの生活史の重量がこめられているといってよい。そしてこのすれちがいは彼らの交渉史の端緒から終始存在したものであった。 幾年か交渉があったが、わたしは鮎川信夫が、好きな女性がいるのかいないのか、なぜ結婚をしないのか、いつどこで詩や詩論をかいたり、ホン訳をやったりするのか、皆目わからなかった。(「交渉史について」65年11月) 鮎川信夫の夫人が最所フミさんだということは、まったく知らなかったから、びっくり仰天したぜ。おれがこの人がそうかなと見当をつけていた人とは、まるで違っていた。なぜそんなにまで伏せたのか、よくモチーフがわからないな。(「情況への発言――ひとの死、思想の死」87年11月) わたしは晩年の一、二年をのぞいて、鮎川信夫とよく接触した方だったが、ついにかれが妻子をもっていたのかどうか、愛人とか恋人とかが存在していたかどうか、まったく不精確にしか推測できていなかった。鮎川信夫の最初の恋人はこの人で、最後の恋人はこの人でと、推測していた人は、ことごとくちがっていた。これはかれの死後に愕然としたことのひとつだった。(「最後の詩集」〈詩集『難路行』解説〉87年9月) ここで「皆目わからなかった」とか「びっくり仰天した」とか「ことごとくちがっていた」とか云われているのは、鮎川その人の私生活をさしているようにみえるが、その可能性は少ない。なぜなら「ことごとくちがっていた」と云うためには、鮎川の「夫人が最所フミさんだということ」だけではだめで、最低限のこととして「愛人とか恋人とか」にたしかめなければならないはずである。それをしないで「ことごとくちがっていた」と確言できるのは、ほんとうはそれが彼らの60年余にわたる生活史の累積からくる体験的思想の差異にたいする気づきをさしているからである。そうとしか思われない。 吉本にとって鮎川はくりかえし論じ、対話をおこない、もっとも理解のふかさを示してきた詩人であった。「交渉史について」では《わたしが鮎川信夫に感じたのは、人間は他者を自分として感ずることができるかという設問に、あたうるかぎり近づいた人物であった。》とさえ述べられている。さらに吉本は漱石や芥川における三角関係のテーマを時代と文明史にかかわる切実な問題として論じ、また島尾敏雄の「病妻物」にあらわれた主人公の三角関係を発端とする対幻想の関係障害の世界を執拗に追尋してもいる。そのような吉本の関心の領野の外に、鮎川の生活史における三角関係のドラマは存在しつづけ、その光源からこそ鮎川の複層した詩と他者と世界への認識の眼は拡がっていた。このくるしい光源の存在に、吉本の眼は及んでいなかった。だから吉本はそれを鮎川の詩と生活史を貫流する「出自の不明な暗喩」(『難路行』解説)とするほかなかった、とかんがえられる。 |
モノクローム |
阿部恭久 |
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塵中風雅 (六) |
倉田良成 |
『書簡』の註によれば、土芳著の『蕉翁全伝』の元禄元年の項に次の記事があるという。「此春武蔵野の僧宗波・ミノ(ミカハの誤り)国杜国来る。宗波逗留なし。杜国は名ヲ万菊と改、逗留ス」。そしてこれは貞享五(一六八八)年二月十九日の芭蕉書簡に対応している(貞享五年は九月に元禄に改元)。 から口一升乞食申度(こつじきまうしたく)候。可被懸芳慮(はうりよにかけらるべく)候。江戸・參川(三河)よりばんに二人来候而(て)、明日奈良へ通(とほり)候間、今夕宗無(そうむ)同道に而、御出(いで)御語可被下(かたりくださるべく)候。壱人は宗無もちかづきにて御坐候。以上 二月十九日 宗七様 桃青 じつはこのとき芭蕉は郷里の伊賀上野にいるのだが、それについては後述する。 書簡は、伊賀上野の酒造家としか現在では知られていない宗七なる人物に辛口の酒一升を無心し、そのとき同地に滞在していた宗無を誘ってともどもお越しくださるようにとの文面であるが、このなかの「二人」とは、『蕉翁全伝』によって宗波と杜国であることが知られる。以下、それぞれの略伝を記しておきたい。 宗波。生没年未詳。蒼波とも署す。禅宗黄檗派の僧。江戸本所原庭の定林寺住職。芭蕉の隣庵に住す。貞享四年、芭蕉の『鹿島紀行』の旅に同行したことで知られる。晩年の芭蕉書簡には、相手に対しての尊称である「老」の字がみえる(元禄七年五月十六日付曽良宛)。 宗無。菅野氏。江戸住。伊賀上野の米問屋菅野十兵衛の三男。若年のころ武家屋敷に奉公、延宝ごろに江戸に出て次兄のあとを継ぐが、やや転身してのち禅門に帰し、生涯無妻であったという。この間、宗波と知遇を得たか。享保四(一七二〇)年十月三日没。享年未詳。宗波と同様、芭蕉はこの人に対しても書簡などでは「老」と、つねに敬称を用いている(元禄二年閏正月乃至二月初旬筆猿雖宛ほか)。ちなみに宗無は僧籍ではない。 杜国についてはいささか多くのことを語らなければならない。杜国。坪井氏。通称庄兵衛。生年不明。元禄二年三月二十日没、享年三十余か。尾張名古屋の人。御園町の町代を務めた裕福な米商で、貞享元年成立の『冬の日』五歌仙の有力な連衆のひとり。貞享二年八月、空米売買の罪で御領分追放となり、三河国畠村に閉居、のち保美村に転じその地で没す。変名して南喜左衛門(墓碑には彦左衛門)、号野仁(野人・の人とも。読みはヤジンではなくノヒト)。才能のある人であったようだが、ついにそれを開花させることなく終わった。芭蕉鍾愛の弟子である。 貞享四年冬、江戸を発った芭蕉は同年十二月初旬まで尾張に遊んだが、その間、十一月なかごろに越人の案内で三河国保美村に隠棲していた杜国を訪ねている。この地で芭蕉は次の一句をものしている。 麦はえてよき隱家や畠村 人の不幸に寄り添い、それを穏やかに転じている俳諧師の一句は杜国の胸に沁みたことであろう。「麦」を兼三の春の季ととれば(詠まれたのは冬であるがその没した日を思えば)、一見目立たない句ではあるが私などにはうらうらとした春日のなかに杜国の生涯の地を視るようで、痛切である。 その後芭蕉は杜国、越人を伴って伊良胡崎に遊びなどしたあと、いったん杜国とは別れて、尾張経由で伊賀上野に帰郷、そこで越年する。翌年二月四日、かねてからの約束により伊勢で杜国と再会。杜国は追放になった名古屋を避けて、海路伊勢までやってきたのである。十八日、参宮をすませた芭蕉は亡父の三十三回忌追善法要のため帰郷、そして十九日晩のこの書簡となるのである。杜国は一日遅れで伊賀にやってきたものらしい。 このあと杜国は万菊丸と名を改めて芭蕉の西国一見の旅につきしたがうことになるのであるが、これから先、生涯会うことのないかもしれぬ者が「逗留」し、宗波と宗無という江戸の知己が旅先で一晩語ってそのまま別れてゆく。会者定離の、これもひとつの(芭蕉を亭主とする)「座」にほかならないのではないか。下戸の芭蕉がわざわざ「から口」を工面したということは、そのおかしさは別として、杜国をはじめ一座の面々がかなりいける口であったことの証拠のようなものである。一夜の歓を尽くす、その酒の味はどういうものだったか。 ところで、杜国訪問を含めた西国一見の旅は『笈の小文』にまとめられているが、これはたとえば後年の『奥の細道』のようにコンパクトなものではない。いいかえれば、それは紀行文『笈の小文』のための旅という性格のものではない。貞享四年十月末に江戸を発ってから翌五年の八月下旬にいたる無慮一年近くにわたる芭蕉の足取りは、そういうためにはあまりに蹌踉としているのである。伊勢参詣ののち郷里をあとにした芭蕉ら二人は、まず吉野の花見へとおもむく。次いで歌枕を探って大和をさまよい、紀伊・高野まで足を延ばしている。それから駕篭で二上を越えて河内から大坂に入り、尼崎から船で兵庫夜泊、須磨・一ノ谷・明石の平氏の悲劇に及んで『笈の小文』の記述は途絶えている。このあと芭蕉は杜国と別れて京・湖南でひと月、尾張・美濃にふた月あまりも遊び、かねてからの計画かどうか、秋風の立つころ、さっさと姨捨山の名月を見にいってしまうのである。これはのちに『更科紀行』として成立した。 こうみてくると、伊勢といい、吉野・大和といい、更科にしても、芭蕉はなにものかに憑かれたように歩き回っているといってよい。すなわち、彼は「旅」の計画は持っていたにしても、そこで「作品」を将来しようなどとはその時点では考えていなかったはずである。「作品」はたんなる結果にすぎない。歌枕の影の深い西国のそこここを「万菊丸」と旅するなかで、芭蕉は幾多の視えざる連衆と出会っていたような気がする。『笈の小文』所収のものではないが、その幻想を思わせるものに次の一句がある。 やまとのくにを行脚しけるに、ある濃(農)夫の家にやどりて一夜をあかすほどに、あるじ情ふかくやさしくもてなし侍れば はなのかげうたひに似たるたび寝哉 ここで芭蕉は謡曲のワキがもたらす或る高い調子の酔いのうちにあるようである。あるいは謡曲『忠度』の以下の一節あたりをその俤としていたか。 ワキ「早日の暮れて候一夜の宿を御かし候へ。シテ「勝(げに)おやどがな参らせ候はん。や。此花の陰ほどのお宿の候べきか。ワキ「げにげに花のやどなれども、誰をあるじと定むべき。シテ下「行暮れて木(こ)の下陰をやどとせば、「花やこよひのあるじならましと、「詠めし人も此苔のしたいたはしや たしかなことはいえないが、芭蕉の西国一見の旅は一面『平家物語』にみちびかれた旅でもあったはずだ。このとき彼のこころは、そこに絶え間なく修羅や夢幻というかたちであらわれている「中世」のただなかにいるといってもよいのではないか。「万菊丸」という時代離れした戯称ひとつとってみてもそれは考えられるのである。ここで杜国は芭蕉に対して一人前の大人ではないかのようにふるまっている。部外者の意識もあったのであろう。この江戸の「世間」という現実のなかで、しかし杜国は芭蕉にとってひとり冥府を案内する者として恰好の「連れ」であったような気がする。 (この項終わり)
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