塵中風雅 (七)

倉田良成



 貞享五年九月、『笈の小文』の旅を終え更科経由で江戸に帰った芭蕉は、伊賀上野の卓袋宛に書簡をしたためている。
 卓袋。万治二(一六五九)年生まれ、宝永三(一七〇六)年没。享年四十八。伊賀上野の富裕な□糸商で俳人。伊賀蕉門のリーダー格であった服部土芳を通じて蕉門に入る。貝増(かいます)市兵衛。別号、如是庵・如是軒。屋号、□屋。蕉門の撰集に彼の作品が掲載されたのは『猿蓑』が初出。子息の蝶伽も蕉門であった。当書簡を含む貞享五年の三通の芭蕉書簡には卓袋とのこまやかな交情ぶりがうかがえる。 以下、全文を引く。

名護(古)屋迄之(までの)御状、□(ならびに)加兵へ(衞)持参、共に相達し候。先以姉者人御事(まずもつてあねじやひとおんこと)、兼而(かねて)急々に見請(うけ)候故、貴樣ヲ別而頼置申(べつしてたのみおきまうし)候處、愈御見届(いよいよおんみとどけ)、大慶に存(ぞんじ)候。一両年不自由不調之(の)事共、さてさて殘多(のこりおほく)いたはしく存候。加兵へ事も、内々何事ぞは出かし可申(まうすべく)と存候。此度(このたび)之事は小事に而候。先仕合(まづしあはせ)に御ざ候。不調法一ぺん事に御座候へば、くるしからざるあやまちと被存(ぞんぜられ)候。貴樣路金など御とらせ被成(なされ)候よし、半左衞門殿より具(つぶさ)に御申越(まうしこし)感心申候。扨(さて)は加兵へ事、寒空にむかひ、単物(ひとへもの)・かたびらばかりにて丸腰同然之躰、ふとん一牧(枚)用意なく候へば、當分何から建立可致(こんりふいたすべき)やら、草庵隱遁之客にあぐみものに而候へ共、拙者国に居申(をりまうす)時より不便(不憫)に存候ものに而候へば、今以(いまもつて)不便共とかく難申(まうしがたき)事共、誠(まことに)わりなき仕合に□(候カ)。先春まで手前に置(おき)、草庵のかゆなどたかせ、江戸の勝手も見せ可申(まうすべく)候。四十余の江戸かせぎ、おぼつかなく候。奉公とては、大かた相手有(ある)まじく候。寺かた・醫者衆の留主守などゝ云(いふ)やう成事(なること)か、何とぞ江戸の事に而御座候間、天道(てんたう)次第と存候。あまり能事(よきこと)も有まじきと、かねて御覚悟可被成(なさるべく)候。誠不埒(まことにふらち)に候はゞ、かねたゝキと拙者も存居申(ぞんじをりまうし)候。無是非(ぜひなく)候。便りもしかとせず候間、早々申殘し候。以上
     九月十日                  松尾桃青
   □や市兵へ(衞)樣
  御老母・御正(おまさ)殿・子共、御無事之よし、珍重(ちんちように)存候。梅軒老・權□□□(左衞門カ)、与兵え(衞)殿、預御状(ごじやうにあづかり)候。跡より御□(報カ)可申上(まうしあぐべく)候。

 まず文面は困窮のうちに亡くなったとみられる「姉者人」について触れられている。すなわち「先以姉者人御事、兼而急々に見請候故、貴樣ヲ別而頼置申候處、愈御見届、大慶に存候。一両年不自由不調之事共、さてさて殘多いたはしく存候」というところであるがこの「姉者人」が誰であるのか見解の分かれるところであるらしい。芭蕉の縁者とも、卓袋の縁者とする説もある。だが、卓袋の縁者とするには「貴樣ヲ別而頼置申候處」といういいかたがかえって不自然であるし、だいいち裕福な商家であった卓袋に「一両年不自由不調之事共」という事実はなじまない。芭蕉の縁者であるとすればどうか。じつは芭蕉の実姉は早世している。ここに貞享年間と特定されている兄・半左衛門宛の芭蕉書簡の断片がある(今回テキストとして取り上げた書簡中の「半左衞門殿」は土芳服部半左衛門と推定されている)。

かれらが事までは拙者などとんぢやくいたすはづ(ず)に而も無御坐(ござなく)候へ共、一(ひとつ)はあねの御恩難有(ありがたく)、二(ふたつ)、大慈大悲の御心わすれがたく、いろいろ心を碎(くだき)候へ共、身不相應之事難調(ととのへがたく)候。其身四十年餘寝てくらしたる段、各々樣能御存知(おのおのさまよくごぞんじ)に而御坐候へば、兔も角も片付樣之(かたづくやうの)相談ならでは調不申(ととのひまうさず)、さてさて慮外計申上(ばかりまうしあげ)候。御免可忝(ごめんかたじけなかるべく)候。

 ここでは「あね」とおそらくは亡母について、なんらかの合力を兄から申し込まれていたことに関しての断りを入れているのだと推測される。ありていにいえば、これは亡母の追善供養と「あね」すなわち「兄嫁」の医療費にかかる金子を頼まれたのだという説にしたがっておく。かねてから兄嫁の臨終が近いことがわかっていたという事情は、この書簡からも知られるのである。それにしても芭蕉のこの書きぶりから、それが少なからぬ額のものであったことは想像にかたくない。そしてその断り方がいかにも芭蕉らしい。つまり「其身四十年餘寝てくらしたる段」という部分だ。いわば「世間」的には無能者であるという姿勢が、付け付けられ、絶えず前進してやまない俳諧における練達の師の、強固な背景であったということは逆説でもなんでもない。「貧」は芭蕉にとってひとつの思想でありえた。むしろそれゆえにこそ、彼は貴人にも富商にも知己を持つことができたし、またいっぽうでは路通のような風狂乞食とも師弟の関係を結んだが、芭蕉自身が乞食の境遇にあったわけではない。そうであるなら半左衛門も金銭的な助力など頼むはずもない。芭蕉にもある程度の収入は予想していたものと思われる。「僧に似て塵有(ちりあり)。俗にゝて髪なし」と『野ざらし紀行』にあるように、彼は非僧非俗、筋金入りの俳諧師であっただけだ。   
 ほんものの乞食に近い境遇にあるのは書簡の次の部分に登場する人物である。

加兵へ事も内々何事ぞは出かし可申と存候。此度之事は小事に而候。先仕合に御ざ候。不調法一ぺん事に御座候へば、くるしからざるあやまちと被存候。貴樣路金など御とらせ被成候よし、半左衞門殿より具に御申越、感心申候。(中略)先春まで手前に置、草庵のかゆなどたかせ、江戸の勝手も見せ可申候。四十余の江戸かせぎ、おぼつかなく候。奉公とては、大かた相手有まじく候。寺かた・醫者衆の留主守などゝ云やう成事か、何とぞ江戸の事に而御座候間、天道次第と存候。あまり能事も有まじきと、かねて御覚悟可被成候。誠不埒に候はゞ、かねたゝキと拙者も存居候。無是非候。

まことに不憫ではあるがせんかたもない、といった芭蕉の表情が浮かんでくるような文面である。加兵衛なる人物はこの書簡以外にはまったく知られることのない人であるが、なにやら不祥事を犯して国元にはいられなくなったらしいことがわかる。それほどの重大事ではなさそうだが、「内々何事ぞは出かし可申候」といわれているように、初めから何か薄幸の影がまとわりついている男であったようだ。卓袋に関係のあった人間ででもあるのか、江戸までの路銀などをめぐんでもらっている。とにかく身ひとつで江戸の芭蕉を頼って出てきたわけである。しかし「四十余の江戸かせぎ、おぼつかなく候」と芭蕉に断じられているように、当時の常識では「老年」といえるほどの齢にさしかかった独り者の再就職は難しい。ふつうの奉公先は無理でも、寺男とか医者の留守番役ならまったく不可能ということでもあるまい。とにかく広い江戸のことだからなにごとも運しだいというところか。それもままならずいよいよ窮すれば鉦叩き(物乞いの一種)にでもなるしかない、と芭蕉は腹をくくっていたようである。ここらあたりの芭蕉のまなざしは充分に温かいが、湿ってはいない。それは『野ざらし紀行』の次の一節に共通するものがある気がする。

 冨士川のほとりを行(ゆく)に、三つ計(ばかり)なる捨子の、哀氣(あはれげ)に泣有(なくあり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえ(へ)ず。露計の命待(まつ)まと、捨置(すておき)けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほ(を)れんと、袂より食物(くひもの)なげてとを(ほ)るに、
  猿を聞人(きくひと)捨子に秋の風いかに
 いかにぞや、汝ちゝに惡(にく)まれたる歟(か)、母にうとまれたるか。ちゝはなんじを惡むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性(さが)のつたなき(を)なけ。

 古来問題とされてきた箇所であり、また芭蕉特有の文飾がないともいえないが、まずは言葉どおりに受け取っておいてよさそうである。冨士川のほとりで泣いていた幼子の像はそのまま加兵衛にかさねられる気がする。「貧」は絶対的なところまで来ると、あまりに人間的でありながら、一種メタフィジカルなイメージとなる。じつはここに、いままで人間が主体的には解決しえていない普遍的なテーマがあるのだが、たとえば親鸞ならばここで称名を唱えるところであろうか。芭蕉は同じところで一句を投げ出す。書簡では加兵衛に対し、「先春まで手前に置、草庵のかゆなどたかせ」とあるように、その保護を「春まで」と明確に限っている。おそらく『おくのほそ道』の計画などすでに立てていたのであろう。この態度も、捨て子に対するそれとよく似ているといえる。ここに私は芭蕉の冷酷さを見るよりも、表向きには妻子を持たず、生涯ある種の食客でありつづけた彼の、よく矯められた湿りけのない孤心を感じるのである。
 ところで芭蕉自身は自らの「貧」をどう見ていたのか。そこにはいくつかの例証がないではない。まずこの時期の作として、

  米買に雪の袋や投頭巾

 というものがあるが、これは芭蕉ではなく路通による真蹟が残されている。路通はこのとき、深川芭蕉庵の隣庵に仮寓していた。このことは元禄元年十二月五日付の尚白宛芭蕉書簡であきらかである。書簡のなかで芭蕉は路通のことを「狂隱者」と評しているが、芭蕉庵には杉風のような幕府・諸侯の御用商を務める大パトロンも来れば、かくのごとき存在もしげしげと訪れている点に留意したい。ちなみに『けふの昔』に収められたこの句のバリアントの前書には「深川八貧」とある。いわゆる「近江八景」などの「八景」にことよせたものであろう。句意は、その日の晩餉の分だけのための米を買いに雪の夜の町へ出てゆき、投頭巾が雪にまみれてしまった、雪の白と米の白とのダブルイメージもそこにはある、と一応解いておく。句眼は投頭巾の「投」の一字だと思う。投頭巾はふつう踊り手や傀儡師、飴売り、小児などが用いるものとされる。上方では侠客などがかぶるという。そこにも風狂者の系譜を見て取ることができるであろう。
 さて、元禄二年閏正月乃至二月初旬筆の猿雖(推定)宛書簡のなかでは、『ほそ道』の旅に出立するにあたっての覚悟が述べられている。

……一鉢境界(いつぱつのきやうがい)、乞食(こつじき)の身こそたう(ふ)とけれとうたひに侘し貴僧の跡もなつかしく、猶ことしのたびはやつしやつしてこも(菰)かぶるべき心がけにて御坐候。其上能(そのうえよき)道づれ、堅固の修業、道の風雅の乞食尋出(たづねいだし)、隣庵に朝夕(てうせき)かたり候而、此僧にさそはれ、ことしもわらぢにてとしをくらし可申(まうすべく)と、うれしくたのもしく、あたゝかになるを待侘(まちわび)て居申(をりまうし)候。

「道の風雅の乞食」とは路通のこと。実際には『ほそ道』の旅に同行を許されず、随行したのは曽良であったが、旅の終わりに路通は敦賀で芭蕉らを出迎えている。「米買」が草庵の「貧」であるとすれば、旅における「貧」とは「やつしやつしてこもかぶる心がけ」、つまり乞食の境涯への希求だといえるだろう。ここには『発心集』や『撰集抄』などに登場する、中世をさまよったさまざまな聖たちの幻影が行き交っている。いいかえれば、泰平の「世間」のなかにあって、それとは逆の志向、あくまでも負をめざす欲求を芭蕉は欝勃として抱いていたようである。それが延宝・天和期のような中国というモダニズムではなく、日本の中世であったというところが、この貞享・元禄期における芭蕉の新しさであった。ただ気づいておいていいのは、その自覚にしても行動にしても彼は一個の「狂隱」にほかならないが、そこにはしたたかな俳諧師としての戦略があるということだ。菰をかぶることは同時に「やつされたもの」であるという点が、性狷介、本格的な逸脱者の路通とは決定的な違いを見せている。
 それを示すのが『ほそ道』の旅の直後に書かれた、次の卓袋(推定)宛書簡(元禄二年九月十日付)のなかの記事である。

去年京屋方より被申越(まうしこされ)候、旦那御下屋布(敷)に御置可被成(おきなさるべき)よし、内證有之(これあり)候へ共、他客見舞も存知之外(そんじのほかの)衆も有之、又各々出入(おのおのでいり)も遠慮有之候間、わきわきにて小借屋(こしやくや)有之候はゞ、御かり樣之御心當(こころあて)可被成候。なる程侘たる分はくるしからず候。(中略)借屋有之候はゞ、筵にうすべり・へつゐ(ひ)壹(ひと)つ・茶碗十計(とをばかり)に而よく候間、随分御情(精)御出(いだ)し可被成候。

「旦那」とは藤堂新七郎家の当主・良長のこと。芭蕉には主筋に当たる。要するに芭蕉に藤堂家の下屋敷に住んだらどうか、という話が内々にあったということである。伊賀上野における芭蕉の評価をうかがわせるものであろう。たとえそこに「風雅」という形容がつくにしろ、ただの「乞食」のよくするところではない。結局下屋敷の一件は断っているのだが、表向きの理由としては、どんな連中がやってくるかわからないからというところがおもしろい。たぶん路通あたりのことが念頭にはあったか。下屋敷の窮屈な環境も予想していたことだろう。ただし芭蕉が郷里で一時を過ごす借家探しをしていたことは事実のようで、「侘たる分はくるしからず候」と、その斡旋を依頼している。そしてその「調度」といえば「筵にうすべり・へつゐ壹つ、茶碗十」ばかりでよいとする。ここには芭蕉自身の謙遜もあるにはあるだろうが、私はむしろ彼の風狂人としての自覚と自負を見ることができるような気がする。この「貧」のゆきつくところは、まるで高等数学のような手順により、「ことば」だけで達成された、次のような侘の極致の世界であった。

  秋のいろぬかみそつぼもなかりけり

(この項了)

    * 参考文献/岩波文庫『芭蕉俳句集』『芭蕉紀行文集』(ともに中村俊定校注)、『おくのほそ道』(安東次男著・岩波書店)。なお最後の引用句は元禄四年秋の句空宛書簡中のものが初出か

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