幼年論

築山登美夫



1 幼年は水にくずれ落ちる砂の崖のようだ くずれてもくずれても あとからあとからせり出してくる もろい地紋のある崖の記憶のようだ 帰ってこない母を待って 泣きさけびながら眠りにおちた日や 機嫌をわるくして帰ってきた父に なにかのはずみで折檻された日を過ぎて はじめて見る小学校の校舎が幼年の夢をやぶる アオミドロのいっぱい浮いた沼のほとりで 紫のエプロンをつけた隣のうちのケイコちゃんと遊んで 沼の上に広がった大きな松の木の枝にぶらさがったまま動けなくなった いたむ両手をはなして沼に沈んでいった のは だれだったのか?  2 〈ありふれた家族の出郷の物語 知覚のあるなしもわからない幼な児をつれての だが後年 父親は成人した息子の書きもののなかに 出郷のいたましい記憶の きれぎれの だが執拗な 傷にみちた再現を発見して驚くことになる〉 そんな話を読んだ しかも息子はじぶんの書きものを詩と称し いやおうのない出郷の 幼なすぎて物語にもならなかった わが身にふりかかった災厄としか云いようのない経験を じぶんの経験として読まれることを はげしく拒んでいたのだ 父はさきゆきのない生活にみきりをつけ そうするしか生きるみちはないと思いつめ 生地をべつの箱に入れた 最善の撰択をしたのだ つまり息子にとっては最悪の撰択を どこにでも だれにでもある話だ と云える はっきりとした記憶のない至福の時から とつぜん切りはなされた彼の不幸はいつおわるのだろうか? 〈その後のぼくの人生はデタラメきわまるものでした 生地で過した五年に比して およそ強度に欠けた どうでもよいものでした〉そう彼は云っている ――息子よ きみは物語にならない物語を反復することで かえってわるい物語の鋳型に嵌められているようだ 幼なくしてむりやりに出郷させられたのはきみの不幸だが ひとはだれも母胎とか生地とか家族とかいう始源のクニから立去るのだ そうすることでかろうじてひとはひとと話をかよわせる理由をもつのだ きみにとって詩というのは まるで そういう理解を潔癖に拒むことが前提になっているかのようだ いな きみの否定はもっと徹底されるべきだ きみの翳る幼年の きれぎれな想像の地誌の踏査をふみやぶってあらわれる 先(サキ)つ祖(オヤ)の惨酷な生き死にが きみの固着を解体するところまで そのことがいつかきみにわかるだろうか?

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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