バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第5回

吉田裕



4 雑誌「アセファル」のなかのニーチェ(その2)

 前回に続いて、雑誌「アセファル」の第2号でニーチェの姿が、どのようにあらわれているかを検討する。全体的にいって、この号は、さまざまのニーチェ理解のしかたを同人たちが合同で検討するというような体をとっている。さまざまのと言っても、実際は次に上げる二つだが、その背後には前回言及した、当時唯一の総合的資料であったアンドラーの著作、またファシスム的な理解の仕方も含めて、多様なニーチェの読み方に関する議論があったに違いない。ただ表にあらわれるのは、前述の35年のレーヴィットの『ニーチェの哲学』と36年のヤスパースの『ニーチェ』の二つで(前者は岩波書店、後者は理想社の邦訳題名による)、前者についてはクロソウスキーが、後者についてはヴァールとバタイユが論文あるいは書評を担当している。これらを私たちは、ヤスパースのニーチェ理解に対するバタイユの反応にたどり着くようにと読んでいくことになるだろう。なぜなら、バタイユのニーチェ理解にとって、ヤスパースの著作が少なからざる意味あいを持ったことは、明らかであるからだ。
 レーヴィットの『ニーチェの哲学』を取り上げたクロソウスキーの書評は、二段組みで4ページ近く、バタイユのものの倍近くの量があり、かなり本格的なものである。クロソウスキーは、レーヴィットがニーチェをキリスト教的な「おまえはそれをしなければならない」からニヒリスムの「わたしはそれを欲する」へ、さらに超人の「わたしは存在する」へという三つの段階に見ていることをたどりながら、その結果としてある「永劫回帰」をもっともよく表すところの「力への意志」が、一般にほとんど誤解されていることを指摘している。この箇所には別にファシスムの名は現れていないが、それが、バタイユにおいてはファシスム的なニーチェ理解に対する批判が主に「力への意志」の解釈にかかわるかたちで行われていたことと通底するのを見ることは決して無理ではないだろう。クロソウスキーは、レーヴィットの理解がいくらか病理学的、また概念的な解釈に傾く傾向があることを指摘し、キルケゴール、マルクスとニーチェを並べ、彼らの仕事は共通して失われた世界を回復することだったと言っている。バタイユの「ニーチェとファシストたち」の第13節にも同じ趣旨があらわれるが、そのうえでクロソウスキーは、これは彼自身の考えだろうが、ニーチェに関して次のように述べる。〈ニーチェが告知するところのヨーロッパの闘争、彼が予言する戦いは、意識の戦い、宗教の戦い、精神的な戦いとして理解すべきである。これらの戦いが、大いなる政治の時代を満たしている〉。ここには失われた古代世界への回帰と合わせて、ニーチェを宗教的、とりわけ神秘主義的に読もうとする傾向が色濃くあらわれているのを見ることができる。これもまたバタイユと照応するところであろう。
 他方ヴァールの「ヤスパースの『ニーチェ』に関するノート」という副題のついた「ニーチェあるいは神の死」は、論文として扱われているが、クロソウスキーのものと比べると量は半分以下のもので、しかも「1」と番号が付されているものの、少なくとも「アセファル」の以下の号には続編はあらわれてこない未完のものである。ヴァールがヤスパースから取り出すのは、内在性と超越性(immanence:transcendance)の対立のシェーマである。ヤスパースによれば、ニーチェの哲学のエッセンスは、世界を純粋な内在性として肯定したところにある、とヴァールは言う。内在性とは、それぞれのものに固有の価値を認めることであり、外側にそれを越えるものを想定して、そこに価値の基準をおくのを拒否することだ。〈この世界そのものが存在なのだ〉とヴァールは述べる。反対に外側の最たるものが神である。したがって内在性を貫くことで神は否定されることになる。この内在性と超越性の対立のシェーマは、バタイユの理解に対しても大きな影響を及ぼすことになる。たとえば彼のニーチェ理解の主著である『ニーチェ論』のその序文中で、このシェーマは手中をなしている。しかしながらこの二項対立は、単純にどちらかに加担することで終わるというわけにはいかないことをヴァールは見て取っている。いま見たように〈神の否定は存在との真正の関係であ〉り、したがって、キルケゴールの信仰が懐疑する信仰であったように、ニーチェの神の否定はまた、神的なものの探求となる。〈ニーチェは神の死を求めると同時に神を求める。そして彼においては、神の不在を考えることは、神を創造する本能を消去することではない。これがヤスパースの言う「実存的無神状態(existenzielle Gottlosigkeit)」なのだ〉。ここでもまたニーチェを単なる無神論者ではなく、神が不在となったところでの神的な経験の新たなかたちの探求者と見ようとする傾向が顔をのぞかせている。
 ではバタイユの場合はどうなのか。「アセファル」のこの号での書評はさして長いものではなく、しかもその半分はヤスパースからの引用で埋められているが、そこでヤスパースから引き出されていることは、ほとんどバタイユの言と見まがうばかりである。これはたまたまバタイユにヤスパースと共通するところが多くあったということだろうか? それとも前者が後者から大きな影響を受けたということだろうか? バタイユはまず、ヤスパースがニーチェを概念に固定してとらえようとはしていないことに共感を持つ。ニーチェは矛盾に満ちているが、それは概念間の矛盾ではなく、すべてが生成の途上にあって、どんなものも完成したものとしては与えられていないところから来ているためである。その上でバタイユは、ヤスパースが、この変転きわまりないニーチェが政治に接触するところに視線を移す場面をとらえる。この関心の重なり方は、少なくともわたしにはきわめて興味深いところである。バタイユはヤスパースの次のような部分を引用している。
 〈ニーチェは政治的な出来事がどのようにして始まるかを明らかにする。ただし、政治的行動の場たる個別の具体的な現実に方法を持って介入するということはしない。……彼は人間の存在の最終的な基礎(最後の動機)を揺り動かすような運動を作りだし、そして彼のいうところを聴き理解する人々が、彼の思考によってこの運動のなかへ入り込むようにする。ただし、この運動の内実が、国家的であれ、人民的であれ(ボルシェヴィッキ的な意味で)、またそのほかどんなに社会的なものであれ、あらかじめ限定を受けることなしに、である〉
 この一節は、バタイユにとって示唆するところの多いものだったに違いない。このようなヤスパースの解釈について、彼は〈ニーチェをファシスト的な解釈から分かつ距離を、ほかのどんな考察よりもよりよく示すもの〉と評しているからである。
 ところでニーチェの読み方に関してヤスパースがバタイユに及ぼした影響は、この書評のなかにあらわれたものだけに限られるのではない。バタイユがヤスパースから得たものは、狭義のニーチェ解釈に限られず、非知non-savoirというバタイユの中枢をなす表現がおそらくヤスパースのNichtwissenから来ているように(酒井健氏の「フランス文学研究54号」の「バタイユとニーチェ」による)、また内在性・超越性のシェーマがほかのところでも見られるように、彼の思考の根本にかかわる。補足しておくと、バタイユにおいてヤスパースの名が再度あらわれるのは、50年11月の「クリチック」に発表され、『至高性』に収録されることになる(周知のようにこの本は彼の生前には刊行されない)「ニーチェとイエス」においてである。そこでバタイユはニーチェのキリスト教に対する態度を、ジッドとヤスパースの二人の思想家の読み方を通して考察するのだが、ヤスパースに充当された量は少なく、また今度は批判がかなり強くなっている。ただ「アセファル」におけるニーチェの像を対象とするという現在の設定からははずれるので、ここではこのような論文があるのを指摘するにとどめる。

 第2号から半年後に3・4合併号が、「ディオニュソス」の特集名で刊行される。特集に合致する企画は三つある。ひとつは「ディオニュソス」の表題のもとに、このギリシア心に関する短い断章を、十二ほど集めたものである。ほかに論文としては、モヌロの「哲学者ディオニュソス」とカイヨワの「ディオニュソス的徳性」がある。前者は比較的長いが、後者は見開き2ページのものである。また前回の「ニーチェとファシストたち」の続編であるバタイユの「ニーチェ・クロニック」がある。この中には「ニーチェ・ディオニュソス」と題された一節があるが、それによって、この続編は特集に連なっているに違いない。ほかに前回触れたクロソウスキーの「キルケゴールのドン・ジュアン」にも、ニーチェにとってのディオニュソスがキルケゴールにとってのドン・ジュアンであったというふうに、ディオニュソスと結びついており、さらに社会学研究会の発足宣言がある。ここではまずディオニュソスの名が意味するところを取り出すことを試みる。
断章を集めた「ディオニュソス」は二つの部分に分かれていて、最初のグループはオットーの著書『ディオニュソス』からの引用で、ディオニュソスそのものに関するものであり、もう一つのグループはニーチェとディオニュソスの重なりに関するところのニーチェ自身の著作、またレーヴィット、ヤスパースらからの引用である。補足するとオットーとはドイツの宗教学者であって、一九一七年のその著書『聖なるもの』は、聖なるものという考えが初めて打ち出された記念すべき著作である。岩波文庫に邦訳があるが、読んでみると、バタイユがそこから多くを学んでいることがわかる。このオットーはディオニュソスのことを〈恍惚と恐怖の神〉と言っている。またニーチェの『力への意志』からの引用によれば、ディオニュソス的宇宙とは〈それ自身で永遠に産み出されては破壊される〉宇宙である。だからディオニュソスへの注目とは、永劫回帰そのほかの概念を、それらがどれほど重要であれ、概念として検討するのではなく、運動そのものとして経験することの方へ接近していったことの徴であろう。
 モヌロの「哲学者ディオニュソス」は、モヌロにとっては「アセファル」に掲載した唯一の論文であるが、ここでもドン・ジュアンの名が大きな場所を占めていて、〈ドン・ジュアンが暴力によって、術策によって、またすべてに抗して獲得しようとしたのはディオニュソス的状態である〉と彼は述べる。この間神は前回触れたクロソウスキーの場合と共通であって、キルケゴールにとってのドン・ジュアンとはニーチェにとってのディオニュソスだったという類推によっている。
 カイヨワの短い論文も、ディオニュソスを陶酔の力だと見るところでは共通している。しかしながらこの論文において注目すべきなのは、この陶酔が、単に哲学的あるいは個人的な問題としてではなく、社会的実践的な問題へと拡大された視野のなかでとらえられていることである。〈ディオニュソス主義の本質的な価値は……人間存在を社会化しつつ結びつけるところにある〉と彼は言う。しかしこの社会化は、地域的、民族的、また言語的な共通性によるものではなく、情念的な昂揚によって結ばれる共同性に根拠をおくものであって、カイヨワはそれを超社会化(sursocialesation)という表現で表している。そして興味深いのは、通常の社会を変えていくこの異質な力のよってくるところを、都市に対する地方、貴族有産階級に対する無産民衆のありように求めたあと、次のように言うにいたることである。〈かくも恩寵を失って周縁にあったものが、秩序を作りだし、いわば結節点となる。反社会的なもの(そう見える)が集団的なエネルギーをかき集め、結晶させ、蜂起させ、――そして超社会化する力となって姿を現す〉。ここであげられている周縁の人々あるいは反社会的なものの上に、当時ついに権力を握るにいたったファシスムの姿が二重写しになっているのを見ることは、それほど不自然ではあるまい。ニーチェをディオニュソスのイメージへと読み込んでいくことは、ニーチェ的なものを社会的な動きに重ねることに連なっていく。カイヨワの論文のあとの余白に、来るべき社会学研究会の設立宣言がおかれていることも示唆的ではある。この拡大はたしかにバタイユに影響を及ぼしたに違いない。だがバタイユが「ニーチェとファシストたち」の第15節で同じ問題に接近し、ニーチェ的ディオニュソス主義とファシスムの混同を「不吉な混同」と言っていることを忘れてはならない。

(この項続く)


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