あなたのすぐ前を泳いでゆく、かれい

関富士子



ぼくは戻ってきた。扉をたたき正面に立ってのぞき穴を、 見つめた。鍵をあけて中に入るとカーテンは、 いっぱいに開いて日光が部屋の隅々を照らしていた。庭の、 ひいらぎの葉のとがった影だけが白い壁に揺れていた。ぼくは、 机の上に自分あての手紙を見つけた。あいつの筆跡で、 封がされ切手も貼られていた。 お帰りなさいあなた、あなたが帰ったときこの部屋に、 ひいらぎの影だけが揺れているのを見るでしょう。 あなたは手紙を読んでから荒れた庭のこでまりの茂みに、 新しい芽がたくさんついているのを眺めます。裏へ回り、 北側のトウヒの下の土がくろぐろとしていつまでも、 乾かないのに気づくでしょう。いぶかしんで地面を撫で、 そこが掘り返されたのではないかと調べます。 あなたは悔しさに震えながら家を飛び出して行くでしょう。 そこはぼくが夜じゅうかかって掘ったところだ。あいつは、 土を引っ掻いて手伝った。底から縁にスコップが、 届かなくなったので掘るのをやめあいつの肩に足をかけて、 外に出て丁寧に穴を埋めたのだ。しっかり踏み固め、 はい上がれないようにした、二度とぼくを待たないように。 それから鍵をかけて出て行った、二度と戻らないつもりで。 それなのにあいつの手紙が机の上にある。こんなことが、 もう百ぺんも繰り返された。なぜ知らないままに、 しておいてはくれないのか。 お帰りなさいあなた、あなたはこの手紙を読み終え目を上げて、 ピラカンサスの実から鳥が飛び立つのを見るでしょう。でも、 あなたはすぐに出て行ってしまう、激しい怒りにかられて。 町をさまよいながら誰彼となく哀願するでしょう、 ぼくと一緒にいてくれと。何人かはその奇妙な、 恐怖の表情にひかれてあなたの手を取るかもしれません。 その一人は手の指全部にリングをつけてあなたを、 守るために武装した女です。たてがみのような髪を揺すって、 身をかがめ筋張った手であなたの涙をぬぐい、 口に食べ物を押し込んでくれるでしょう。あるいは、 丸い頬の少年が憐れみぶかく添い寝をしてくれます。 彼はとても小さくつつましやかであなたを脅かしません。 ぼくはあいつの企みを尋ねた。いかにも同情するそぶりだが、 やつらが回し者であることは確かだ。たとえ新しい家族という、 信仰を説く者たちであっても。あいつと、 関わりがあるかぎりぼくはやつらを愛することはできない。 お帰りなさいあなた、あなたは疲れきって、 ぎしぎしとソファに横になります。輝きと闇を繰り返す、 苦しい夢の最後にくっきりとしたある情景を見るでしょう。 この庭から始まってどこまでも続くゆるやかな海岸。 波打ち際で晒された枝を拾いながら、私たちは歩いて行きます。 この幸福を永遠のものと信じて。 海に流れこむ小さな川にかれいが泳いでいてひらひらと、 上下にからだを揺らします。編み目のような光が伸び縮む中を、 すぐ前を泳いでゆく、あなたはそれを追いかけます。 浅い水の中をいっそう平たくなって泳ぐかれい。 あなたのよろこびの声があたりに満ちて。 ぼくはその夢を幾度も見た。声も光も水の温かさも、 よく知っている。ではあれは本当にあったことなのか。 ぼくとあいつはほんとうにあのよろこびを、 二人で味わったのか。今ぼくたちは、 ただ一つのことしかしない。手紙を書くこととそれを読むこと。 すべては仕組まれてこの手紙の中にあるのだ。 お帰りなさいあなた、あなたはまたもや、 帰ってくるでしょう、この手紙を読むために。 すべてを解き明かすなにごとかが書かれていやしないかと。 でもあなたはこの部屋の静けさに耐えきれずに、 出て行ってしまう。街のあらゆる電話ボックスの、 受話器を取ってでたらめの番号を回す。一度も鳴らないうちに、 切ってしまうでしょう。すると切るより先に、 受話器を取る者がいます。男ならあなたの、 父、兄、弟のいずれかでしょう。だれにしても、 彼はあなたに多少なりとも似ているはずです。疑い深いくせにすぐ人を  信じてしまう。左足からしか踏み出せない。ふらふらと道の真ん中を  歩く。店のテーブルに座ってもだれも注文を取りに来ない。 もしもしお父さん、あなたのことを何も思い出せない。 あいつの言うことが本当なら、あなたはぼくより年下のはずだ。 ぼくの弟だ、その前に兄や父だったことのある人だ。 そして今はぼくがあなたの兄だ。あなたは電話でうまく話せない。匂い  をかいでから食べ物を口に入れる。よくいろんな物を拾う。小さな手  製のぬいぐるみや、自転車の鍵や、縁のめくれ上がった連絡ノートや、  真新しい名刺の束や。 お帰りなさいあなた。あなたは手紙の中に一枚の写真が、 同封されているのに気づくでしょう。一人の男が立っている。 若いようにもひどく年を取っているようにも見えます。彼は、 呆然としてこちらを見ている。その額に、 ひいらぎの葉のぎざぎざの影が映っています。そして、 目の中にカメラを構えた私が映っている、よく見て。 私はファインダーから彼を見ています。そのとき、 その背後にたくさんの彼が続いて立っていたのですが、 写真ではいちばん手前の彼しか見えません。あなたは、 背後の彼を見ようとして思わず写真を裏返す。 そのとき写真の真っ白な裏側に回ったあなたは、 彼の列のいちばん最後につくことになるでしょう。 そこからはすべてが見わたせます。死後に現世を見るように、 生まれる前に未来の夢を見るように。 ぼくは自分の列のいちばん最後につこう。そこからは、 すべてが見わたせるかもしれない。 あいつのでたらめのお陰で、起こったはずのことが疑わしく、 まだ起こらないことが懐かしい。ぼくは写真の男の背後を、 覗くように首をひねり、写真を裏返した。しかしそこからは、 何も見えなかった。ただカメラのレンズがこちらに、 向けられていた。その背後のガラス越しに、 ひいらぎのとがった葉が揺れていただけだ。

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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