詩 都市 批評 電脳第13号 1994.5.17 227円 (本体220円)〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18 (TEL:03-3428-4134:FAX 03-5450-1846)(郵便振替:00160-8-668151 ブービー・トラップ編集室) 5号分予約1100円 (切手の場合90円×12枚+20円×1枚) 編集・発行 清水鱗造 |
カタコラン教の発生とその発展 |
田中宏輔 |
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パタ パタ パタ |
田中宏輔 |
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聖家族 |
田中宏輔 |
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鳥籠 |
田中宏輔 |
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鳥籠 |
田中宏輔 |
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あなたのすぐ前を泳いでゆく、かれい |
関富士子 |
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皮 |
長尾高弘 |
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冬の月 |
長尾高弘 |
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祭りの終わり |
倉田良成 |
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躊躇(ためらい) |
園下勘治 |
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虚構 |
園下勘治 |
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廃家のカマにある内紛の火種のイメージへ |
沢孝子 |
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飛び石 |
清水鱗造 |
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スターティング・オーヴァー |
駿河昌樹 |
師は老いてその老いのさまあきらかに紅葉しゆく秋の大学 そのこともまたあのことも終わりゆく秋来る海に溶けていく足 歌うこころ長く曇りし後の空よ去りゆくときを雲はうつくし かなしさも光から来るたぶん、たぶん夕暮れていくテールライトよ 水無瀬川われらの言葉とまるとき秋のふかさは流れ続ける 誘わずにひとりで行けばあかるくてセンチメンタル・ジャーニーの海 ひとたびも愛は語らず沖をゆくひかり見るばかり立っているばかり 夕暮れの暗さに押され背に触れるいまきみを抱くこの手のひかり 風がふく唇の端をあたたかき春の一日の夢のなかより あたたかさ肩に流れるたたえるべき太陽のもとに訃報も眩(まぶ)し 腕ひかることの喜びぬぐわねばいのちの証見るごとき汗 わが友はたぶん時のみ 過ぎてゆくものみな彼の友情のさま 習慣という語みつめてそのページに左手おおきく開きて向かう 「文学を学んでいます」と懐かしさのすがたして森のなかの十八 胸に顔埋めることの自然さのやまい癒すべく吸う半熟の黄身 コーヒーの底の微量の黄金砂含まずに発つきみもわたしも すがすがしき朝木造りの手洗いの鏡の顔のうしろの青さ 鳴く鳥の鳴き続け止みまた始む受け身の生も豊かならんか 白き紙のべてなに待つ有限の歳月貸与されしからだで ほの青き闇の夕暮れ暮れていくこと耐えがたきまでの喜びと知れ 通り過ぎる車の速さ滅びへと急ぐ内なるものを覚ましむ 時刻表に明るきひかりただ逢いて別れる時期が変質はじむ カシニョールの一枚の絵の凡庸さしあわせのためにただ色を見る 汗つよく饐えしにおいの時計バンド洗いておりき夏の逝く宿 耳の底によみがえらんとする《ライン》よみがえるものはいつも紺碧 鏡見し時のあの目は美しく…… われへの旅のなかばの桜 水流れ澱みてまたも流れ出る場所きみは母の指輪継ぐなり 愛の色は赤ではないというように振るハンカチのナイルの緑 密林と大河ばかりの映画見て帰ること哀し仮りの帰りを 《スターティング・オーヴァー》をかける冷めた茶もかならずたぎる 再生はある 目を閉じて桃の香は嗅ぐ海と山そのうえきみが見える時さえ 山がありその山を見る見ることに癒されていくひとりの小径 ひとり歩むことの確かさあやうさも装いすべし肉桂色(シナモン)の靴 海のあの入江のあおさ失われ死に絶えるべきこころなおあり 若きこと罪にあらずと思う現在(いま)風に吹かれていることの価値 コート脱ぐ玄関の暗さアフリカの飢餓のフィルムに救われている あれほどに愛せし女語ることなくかたわらにいて『愛人』終わる 手帖ひらきペン押しあてる アルベール・カミュがわれの何処にいないか わが真昼過ぎつと思う花の色あふれる庭に汗ぬぐう時 フランス式庭園に故意に迷わんとするなにもかも知りつくしつつ 白き雲の白見つつひとに言葉ひとつかけずおり白の音聴いており 便りなき友の背浮かぶプルーストの革装背表紙裂け始めけり 『ブライズヘッドふたたび』だけを携えて晩秋の街を抱きに出かける ブリジット・バルドーが泳ぐ黒いほど青ふかい海のように語るね ひとりある夜のよろこび静けさを暴力と呼ばぬことのあやまち とりどりの色のビー玉眺めいるほかにすべなきものの涼しさ 安時計のビニールのバンドふといとおし秋暮れる浜の紫のとき |
「棲家」について 6 |
築山登美夫 |
戦後詩のいわば白紙還元が、70年代のはじめ、ほかならぬ戦後詩を担ってきた鮎川信夫によっておこなわれていたことは前回にみた。それがひつようとされたのは、もはや云うまでもあるまいが、私的な経験の奥処とそれを生みだした時代社会の経験との喩的照応の不可能性という事態が、この当時から、詩の営為にはげしい亀裂をもたらしていたからだ。ちなみに付けくわえれば、わたしたちの世代の者が詩の体験のとば口に立ったのもこの時期にあたっている。 《戦争、敗戦、そして戦後現実の意味を、詩的な表出意識、方法、感受性に繰りこまざるをえなかった詩》(北川透『荒地論』・「あとがき」)としての戦後詩が、変容する現実の新たな枠組みをもとめる動きにふり落され、みずからの存在を難問とせざるをえない場処にやってきていたのだ。 この70年代という時期に鮎川は『宿恋行』(78年刊)という、『鮎川信夫詩集1945−1955』(55年刊)いらいの新詩集を提出している。 北川透の『荒地論』(83年刊)は、そんな「脱・戦後詩」の状況のなかから「荒地」派の詩人たちの営為を救抜しようとするモチフで書かれているが、と同時に深層では彼らの営為の持続にトドメを刺したとも云える本である。ここで独立した詩人論として論じられているのは、中桐雅夫、黒田三郎、北村太郎、田村隆一、三好豊一郎、そして鮎川信夫の六人なのだが、そのなかでも鮎川を論じた「放棄の構造」は、『宿恋行』を全面的に論じ、鮎川の詩にもっとも高い評価をあたえながら、同時に本質的な批判を提出している。 北川は『宿恋行』を三つのモチフに分類し、その分離と融合のなかにこの詩集の世界をみる。 (1)文明批評の意識と戦争体験の反芻、そのかさなりあい (2)性的な意識を軸にした私性の闇 (3)死と老年の心境 この三つの軸を駆使して北川は『宿恋行』をみごとに解析していく。すでに第1回でもべつの文章から引いたように、北川はここでも鮎川の戦後初期の作品「繋船ホテルの朝の歌」を、この(1)と(2)のモチフの融合を示すもの、融合のなかにモチフへの対象化の意志が貫徹しているものとして高く評価し、そして《自己の経験にかかわる対象化と、他者や情況的な世界にかかわる対象化が結合している》ところに「繋船ホテルの朝の歌」が成立していたとすれば、この対象化のなかに「放棄」の意志を現前化させてしまっているのが『宿恋行』だとする。ここでキー・ワードとなっている「放棄」を、北川は微妙な意味あいをもつ概念としてもちいているが、そのいくつかを抜きだせば、《他者に対する放棄の姿勢》《あらゆるものに対する加担の放棄》《世界に対する拒否や自由の位相で成立している放棄》ということになろう。 鮎川において、なぜ、この「放棄」の意志が現前化したかを問えば、そこに大きな時代の変容を前提としなければならず、この変容のなかに対他的契機と対自的契機がふくまれていることもいうをまたないが、北川はこのうちの対他的契機について三つの指標をあげる。 『荒地詩集』の廃刊(「荒地」の詩的共同性の壊滅)、「詩人の戦争責任追及」の挫折、60年安保闘争に否定的な意味でもかかわりきれなかったこと――《これらが同時に顕在化した一九五九年から一九六五年の七年間に、鮎川はたった六篇の作品しか発表していない。この実質的な沈黙のなかで、放棄は醸成されていった。》(だが、とわたしは思う。すでに牟礼慶子『評伝』その他であきらかになったように、58年における鮎川の秘密の婚姻という事実がここに大きくかぶさってきていることをみれば、北川の云う放棄の醸成に、おのずからべつの照明があてられることになるだろう――それはしばらくおく。) ぼくたちは女気なしの部屋で炬燵を囲み、 どのようにして戦後の社会をたたかいぬいてきたかを語りあったが、 結局、めいめいの職歴と子供を何人作ったかということにつきていた。 (「消息」) 貧乏人の息子で 大学を中退し職歴はほとんどなく 軍歴は傷痍期間を入れて約二年半ほど 現在各種年鑑によれば詩人ということになっている (「Who I Am」) たとえばこれらのモチフ(1)(文明批評の意識と戦争体験の反芻)に分類される作品において、モチフ(2)(私性の闇)は外がわから輪郭づけられるだけで(1)との融合ははじめからあきらめられている。逆にモチフ(2)の作品ではモチフ(1)を疎外しているために《自己意識が思うがままに個性的な表現をのぼりつめるにまかせられている》(北川、前掲書)。つまり鮎川の意識は外部世界と内部世界そのそれぞれにふりわけられ、外部世界(内部世界)に照明があてられるときは、内部世界(外部世界)が括弧に入れられてしまうのである。 この両者の方法を自在につかいこなすことで『宿恋行』は成立したが、北川はそれを、かつては全円をえがいていたモチフの融合の放棄としてとらえ、批判した。しかもそこで鮎川の現在は微細に解析され、批判は「荒地」の他の詩人の現在にたいするよりもさらに詩にとって本質的な重要性をもつものとして提出されたのである。鮎川からすれば、それは時代の変容と私的経験の変容に挟撃された、そのはげしい亀裂のなかから、みずからの詩を可能にするためのゆいいつの方法であった。 この北川の詩人論の発表とあい前後する時期に、鮎川は詩作を途絶し、そのことを公けにしている。外部世界――政治・社会・文明にたいするかかわりと考察ならば、それを散文で丹念に構成し、世界からの反応をくみいれるだけでじゅうぶん(に困難)である。内部世界は――それが外部世界と本格的に葛藤することがないならば、それじしんの消長にまかせるだけでじゅうぶん(に困難)である。詩の必要はどこにあるか。ここに鮎川の詩の危機は成熟したとみることができる。 |
バタイユ・ノート2 バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第6回 |
吉田裕 |
4 雑誌「アセファル」のなかのニーチェ(その3) 今回は「アセファル」最後の第5号を取り上げる。第5号は前号からほぼ2年の間をおいており、その間の37年1月にはロールことコレット・ペニョーの死があり、また戦争の切迫を予感して、死が深く影を落としていることは、一読して読みとることができる。また判型も活字も小さくなっている。この号は「狂気・戦争・死」の特集名を持ち、「ニーチェの狂気」「切迫する戦争」「死を前にしての歓喜の実践」という短い三つの文章から構成されているが、それぞれは特集名の三つの観念に対応している。ただし前述のように、この三つの文章の著者は、発行時には無署名だが、実際はすべてバタイユである。二年を経て「アセファル」という場所に残ったのは、バタイユ一人であった。したがってこれら三つの文章は、いままでよりももっと緊密に、つまりトライアングルのように常に他の二つと結びつけて読まれなければならないだろう。そして当然と言うべきか、この号を貫いている原理もまたニーチェである。冒頭の「ニーチェの狂気」には、20行ばかりのエピグラフがつけられているが、そこでは、倒れた馬の首に抱きついて正気を失い、気を取り直したときには、自分をディオニュソス、あるは十字架にかけられたイエスだと確信するにいたったというニーチェの最初の発狂のことが述べられている。この事件は実は1889年1月3日のトリノでの出来事であって、「アセファル」第5号は、この出来事の五〇周年を記憶するためのものだった。 バタイユはこの短い文章のなかに、『ツァラツストラ』から〈生きようとするものが自らの支配者となるとき、彼は自らの権威をあがない、自らの法による裁き手、復讐者、そして犠牲者とならなければならない〉という一節を引用している。生きるということにおいて、その人間が同時に裁き手、復讐者、犠牲とならねばならないということは、彼の生きるという行為がほかのなにものにも依拠しない絶対的なものになろうとしていることを意味するが、このような一節を書き記しているということは、バタイユ自身の生が、このような場所に追いつめられつつあったということを示している。ところでこのニーチェの一節は、バタイユが『内的体験』のなかで語っているブランショの言葉と直結しているように思える。バタイユが、内的体験を追求するとき、目的や権威等のものに対する配慮をひとつひとつ排除しながらも、ひとつの空虚だけは相変わらず残ってしまうという不満を訴えたとき、ブランショは目的や権威は推論的思考の要求するものにすぎず、内的体験はそれ自身で権威でありうる、しかしこの権威は罪あるものであって、その罪を自らあがなわなければならない、と答えて、内的体験には特異な根拠のあることを示し、大きな示唆を与えたという。バタイユがブランショと出会うのは41年頃、右の一節が含まれる「刑苦」が書かれるのはこの年の9月から10月のことであるらしいが、実際にはバタイユは、同じような意味の言葉を39年に見つけだしていると言えるし、また逆に彼やブランショが占領下で見ていたのは同じニーチェ的な経験であったとも言える。 このエピグラフのあとには、二部構成の短い本文がくる。いずれも断章形式で書かれているが、第1部のほうには39年1月3日という日付が記入されている。いうまでもなくこれはニーチェ発狂五〇周年の日付である。この短い文章は印象の強いものだが、それはここに神秘的ニーチェの姿が否応なしに現れてくるように見えるからである。このノートの最初にバタイユのニーチェ像には、戦略的実践的ニーチェと神秘的ニーチェの二つがあるといったが、「アセファル」5号では、ニーチェの姿は前者から後者へと旋回し移行していくように思われる。この変容は狂気への関心によって媒介されている。狂気とは、後にバタイユが内的なと呼ぶことになる体験、先ほどのニーチェやブランショの言葉によって表されるような経験のことだが、それ自身だけですべてを根拠づけることを求めるような試みであって、そのような試みは、他者から見たとき理解のきっかけを与えないから、狂気と呼ばれる。しかしながら、バタイユの取り上げる狂気のなかには、彼のみが明らかにしえた、特異な姿があらわれる。つまり彼の「狂気」は、ほかのどの場合よりも徹底して他者と現実に依存するのを拒否するものでありながら、同時に他者と現実をいっそう深く遠く関係づけるものとして実行されるのである。この結果、移行は単に別のものに移り変わるというのではなく、両者をともに保持するようなかたちで、つまりバタイユにおいてはファシスム批判的な実践的な姿と内的体験という神秘的な姿を直結して保持するようなかたちで行われる。レイモン・クノーは、39年頃のバタイユについて、〈きわめて懐疑的。民主主義勢力をまったく「擁護」しない。彼はもはや政治とはいかなる関係を持とうとも思っていない〉という観察を残しているが、それでもバタイユが、必ずしも「政治的」であるばかりではない現実的なものとの関係を持ち続ける回路を探っていたことは明らかだとわたしには思われる。 バタイユはこの回路の探求をまず、ニーチェの狂気がほかの狂気の場合と異なっていることを明らかにすることからはじめる。〈狂人たちの逸脱ぶりは、分類され、単調に反復されるので非常に退屈なものとなる。痴呆者たちに魅惑がほとんどないことは、論理のまじめさと過酷さをあかし立てることになる。だが哲学者というものはたぶん、その言説において、異常者たちよりももっと不実な「うつろな空を映し出す鏡」なのであって、この場合にはすべては破裂しなければならないのではないだろうか?〉。 ついで、論理の果てに見いだされた狂気としての哲学者は、次のような様態を持つことになる。〈哲学者は人間の総体から独立して存在することはない。この総体は互いに引き裂きあう何人かの哲学者と群衆からできている。この群衆は、無気力状態であれ、興奮状態であれ、哲学者たちのことは知らずにいるのだが〉。しかし哲学者の側からは、この「総体」はいつも拒否し得ない課題としてあるのだ。そして哲学を通じて狂気のまぎわでおびただしい発汗を経験する者は、総体とのこの絆のおかげで、「歴史」にうちあたることになる。〈この地点において、冷たい汗を流す者たちは、歴史を眺める者たちに「闇のなかで」うちあたる。後者は変転する歴史が人間の生の意味を明らかにするのを見ているのである。なぜなら、群衆は互いに殺戮しあいつつ、歴史をとおして、両立しがたい諸哲学に結末――虐殺という対話の形態のもとに――をつけるというのは本当のことであるからだ〉。 バタイユはここで、変転する歴史に追われ、歴史からくる意味付けを拒否することにまで追いつめられながら、それを哲学を検証する機会としてとらえ返そうとしている。ここで哲学と呼ばれているものは、次第に観念、思考、そして経験へと読み替えられていくのだが(それは第2部で、表現することや芸術また文学の持つ欺瞞に対する激しい批判として行われる)、この「哲学」が、不思議なやり方でいっそう深く回復される「総体」あるいは「歴史」との緊張した関わりのなかで検証されるという構図は、戦争を含む以後の期間を通じて不変となるだろう。 では歴史のなかで検証される思考あるいは体験のなかからは何があらわれるのか。これも原理的にはすでに明らかであって、「死」というのがその答えである。〈歴史の完了と戦闘の彼方には、死以外の何があろう?〉とバタイユは反問しているが、「アセファル」第5号では、この問は「切迫する戦争」と「死を前にしての歓喜の実践」という二つの文章に受け渡される。いうまでもなく変転する歴史に相当するのが「戦争」であり、死の経験に相当するのが「歓喜の実践」である。 「切迫する戦争」は、三つの文章のうちもっとも短いもので、六つの断章からなっている。これらのなかでバタイユは闘争(この場合は反ファシスム闘争であり、ファシスムといわゆるデモクラシーに対する反感がはっきりと名を挙げて言明される)と生の同一視、文学的な遁辞への嫌悪を語っているのは前と共通するが、とりわけ目につくのは、総体あるいは共同性を強調する部分のあることだ。第3節で彼は次のようにいっている。〈人間の運命の果てまで行こうとするならば、単独のままでいることは不可能であって、本物の「教会」をつくらなければならない〉。この共同性は霊的な力を基盤とするために教会と表現されているが、共同的なものの不可欠が述べられていることには変わりがない。そして最後の第5節で彼は、この共同性が現今の状況においては政治的なものとしてあることをはっきりと述べる。〈あまたの人々が意味を奪われつつ地獄へと下っていくのを見たいならば、政治的な諸結果から切りはなされては不可能である〉。ここでもバタイユが、狂気を媒介にした絶対的な経験と現実の実践の間のさらに引き裂かれつつあった距離を、懸命に保持しようとしていたことが見えてくる。 「死を前にしての歓喜の実践」は、実は68年つまり五月革命の年に、詩人のベルナール・ノエルによって、今度はバタイユの名を出して刊行されたことがある。この文章は二つの部分に分かれているが、主要部たる後半は、理論的な叙述ではなく、どうやら実際に「歓喜」を経験するための手引きのようなものであるらしく、反復の多い祈祷文のような文体で書かれている。前半部はそれに対する序文である。エピグラフにはニーチェの一節が引用され、本文中の多くの引用も、すべてを確認しえたわけではないが、ほぼニーチェからのものらしい。冒頭でバタイユは、完了という言葉を数回使っているが、それは歴史の完了のことであって、無用性として追求される経験の条件を確認するためである。これを前提として、この文章の視点は、とりあえず「切迫する戦争」の反対側、それ自体としての権威を持とうとする経験の側に振り向けられる。そしてそれが宗教上の神秘体験と共通することが述べられる。〈「死を前にしての歓喜」という主題について、「神秘的」という言葉を使用する余地がある〉。彼が自分の経験について、神秘的という表現を使いはじめるのはこのあたりからである。同時に彼は「内的」という言葉も使いはじめる。彼は「歓喜」に触れるために、眼前の一点を凝視することから開始する。彼はこの一点を彼の全存在を集約する点とみなし、そこに苦悩、欲望、死等あらゆるものを集中する。するとこの集中によってそこに、〈純粋は暴力性、内部性、無限の深みへの純粋で内的な墜落〉が生じる。このエクスターズ(自己からの脱却)によって、恐怖と同時に「歓喜」を経験しうる、と言うのである。 しかしながら、私にいちばん興味深いのは、神秘的あるいは内的といわれるようになったこの「歓喜」の経験が、現実との緊張した関係のうちに保持されていることである。そのことはまずキリスト教批判のうちにうかがわれる。〈その「死を前にしての歓喜」が内的な暴力になるような人間の持つ神秘的な存在性は、どうみても、それ自身で満足してしまうような至福、――永遠を前もって味見するキリスト教徒の至福と比べられるような――というものと合致することはできない〉。これは現実に目をつぶり、脱出して、彼岸のみを得ようとすることへの批判である。この批判はもっと一般的にされる。彼は「彼方」へと超越することをはっきりと拒否する。〈どうしてそのうえ「彼方」なるものが、またどうして「神」や、何であれ「神」に似たものがまだ受け入れられるということなどがあるだろう? 「彼自身を殺害する時間と舞踏する」人間が、永遠の至福を待ち望むことのうち逃げ込んでしまうような者たちに対して持つ幸福な侮蔑を表すには、どんな言葉も十分に明瞭ではないのだ〉。 この考えは、本文たる後半にはっきりと反映している。後半部は6つの節から成っているが、その中心をなしているのは次の二つの文である。ひとつは第2、3節と二度繰り返される〈私は死を前にしての歓喜である〉という一文、もう一つはこれだけは「ヘラクレイトス的省察」という小題を付された最終第6節冒頭の〈私は私自身戦争である〉という一文である。後者が「アセファル」の創刊宣言的な文章中の、〈われわれが企てるのは戦争である〉にこだまを返していることは前に言ったが、このこだまを背後に起きながら「実践」のなかの二つの文は、明らかに対をなしている。二つを合わせれば、「私」は同時に、死の前の歓喜、また戦争であり、逆に見れば、死の前の歓喜と戦争は、「私」を媒介とし、「私」の内部において同一なのだ。これが戦争を目前にして獲得されたバタイユの存在の様態だったといえよう。 (「アセファル」に関する項終り) |
塵中風雅 (一〇) |
倉田良成 |
元禄三(一六九〇)年正月十九日、湖南で越年した芭蕉は病気治療のため伊賀に帰郷し、そこから大津の伝馬役河合(川合)佐右衛門夫人の智月に宛てて書状を送っている。女房様といわれる書体である。 六兵(ろくべ)へ(衞)とめ申(まうし)候。さまざま御しかりなさるまじく候。われらぢびやう(持病)もこの五三日心もちよく候まゝ、はるのうちやうぜう(じやう)いたし、おにのやうになり候て、しきものゝふとんもいらざるやうになり候て、御めにかけ可申(まうすべく)候。かごのうちにて、こしもかたもいたみ候而(て)、やうやういがへ入申(いりまうし)候。 水な(菜)は方々へわけて送り、さけはでししゆ(弟子衆)にふるまひ候。 いつもいつもよめご御ほねお(を)らせ、まことにいたいた敷(しく)、忝(かたじけなく)ぞんじまゐらせ候(そろ)。よくよく御心得なされ可被下(くださるべく)候。 正月十九日 はせを 智月さま 智月は湖南蕉門の有力メンバーであった乙州(おとくに)の姉で、夫とのあいだに子がなかったためか、彼をその養嗣子とする。貞享三年夫と死別したのを機に剃髪、智月尼を名乗る。生没年不詳だが芭蕉よりは十歳ほど年長で、宝永五(一七〇八)年以降に没したことは確実であるから享年は七十ほどか。最初尚白門。芭蕉との交渉を示す最初の資料は次の芭蕉の句と詞書である。 大津にて智月といふ老尼のすみかを尋(たづね)て、をのが音(ね)の少将とかや、老の後此あたりちかくかくれ侍しといふをおもひ出て 少将のあまの咄(はなし)や志賀の雪 これは元禄二年冬、芭蕉が乙州の留守宅を訪れたさいのものであり、これを立句とする歌仙一巻が智月の真蹟により残されているという。「をのが音の少将」とは、鎌倉時代中期の人で藤原信実の女。後堀河天皇の中宮藻壁門院に仕え、中宮少将・藻壁門院少将と呼ばれた。芭蕉の一句はその後世に名高い歌「をのが音につらき別れはありとだに思ひも知らで鳥や鳴くらむ」を踏まえ、湖畔に老いを養う智月その人をことばでやわらかく光被している。彼女が若いころ宮仕えして歌治(歌路)といっていたということもあるいは芭蕉の念頭にはあったか。雪が暖かく感じられる句というのはありそうでなかなかない。私にとって現実にはない記憶を呼び覚ますような、懐かしい一句である。 ところで書簡のなかの「われらぢびやう」とはなんであったのか。元禄三年七月十七日付牧童宛書簡、同二十三日付智月宛書簡などに徴してみるとどうやらそれは痔疾であったらしいことがわかる。帰郷するにあたって駕籠を使い、「さけはでししゆに」ふるまうしかなかったのである。また、「はるのうちやうぜういたし、おにのやうになり候て、しきものゝふとんもいらざるやうになり候て、御めにかけ可申候」とあるが、三月の中旬から下旬にかけて芭蕉は再び膳所へとおもむいている。この元禄三年という年は、湖南との交渉が芭蕉の生涯のなかでももっとも頻繁であった年といえる。よほど芭蕉を引き付ける何かがこの地にあったと考えられるが、そのひとつとして智月をはじめとする湖南の人々への親愛が挙げられると思う。有名なものではあるが、次に引く句にそのことは象徴的に表れている。 望湖水惜春 行(ゆく)春を近江の人とお(を)しみける この句を尚白が難じて、行春は行歳にも、また近江は丹波にも置き換えられるつまらぬ句であるといったと「去来抄」にある。それに対して去来は「尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をお(を)しむに便有(たよりある)べし。殊に今日の上に侍(はべ)るト申(まうす)」と師を弁護し、芭蕉はそれにつけくわえてひと言、「しかり、古人も此國に春を愛する事、おさおさ都におとらざる物を」といったとある。 「近江」という語感のなかには、湖の朧々たる眺望のうららかさだけではない、何か歴史や時間の悲しみのようなものがこめられている気がする。一句はそれを陽春のうちに幻視する。「近江の人」とはそうした数限りない古人の俤を濃(こま)やかに帯びた幻想の隣人でもあった。「志賀辛崎に舟をうかべて」芭蕉が惜しんでいたのは「春」ばかりではなかったような気がする。 この年が湖南との交渉がもっとも頻繁であったといったが、それは芭蕉が一年の大半を幻住庵や木曽塚で過ごしたためである。当然句も(「行春」の句とともに)湖南にちなんだ佳什が多い。以下挙げてみる。 膳所へゆく人に 獺(カハウソ)の祭見て来よ瀬田のおく 洒落堂記(文略) 四方より花吹入(ふきいれ)てにほの波 勢田に泊(とま)りて、暁、石山寺に詣(まうづ)。かの源氏の間を見て 曙はまだむらさきにほとゝぎす 「勢田の螢見二句」のうち ほたる見や船頭酔(ゑう)ておぼつかな 堅田にて 病雁の夜さむに落(おち)て旅ね哉 比良みかみ雪指(さ)シわたせ鷺の橋 乙州が新宅にて 人に家をかはせて我は年忘(としわすれ) こう並べてみると、湖のうちに閉ざされているというか、湖にむかって開かれているというか、独特な「近江」という土地がはらんでいる風光が匂い立ってくるようだ。 ここで句の註を二三入れておきたい。まず最初の「獺の祭」であるが、「獺祭(だつさい)」という成語があり、カワウソが取った魚を食べる前に並べておく習性が魚を祭るように見えることから、転じて詩文をつくるさいに書物を投げ散らかしておくさまをいう。正岡子規が獺祭書屋と名乗ったことは有名である。この句の場合は膳所蕉門の精進ぶりを見てこよ、という意味で使われているのだと思われる。次に「にほの波」(「卯辰集」の句形では「鳰(にほ)の海」)だが、「鳰の海」は琵琶湖の別称。現在木曽塚のある義仲寺の前の地名は「鳰の浜」となっているが、新しくつけられたものであろう。さらに「曙は」の句の詞書にある「源氏の間」は、ご存じのかたも多いと思うが、紫式部が石山寺に参籠して源氏物語を書いたという伝承を踏まえている。「むらさき」の一語はその縁である。「ほたる見」の句についていえば、「おぼつかな」いのはもちろん船頭が酔っているせいであるが、それだけにはとどまらない。「おぼつかな」さは螢というかすかな光にもとどき、また「ほたる見」という行為にもとどいて、幽暗な夏の情感をたちのぼらせている。「猿蓑」における芭蕉の一極致といえるだろう。有名な「病雁」の句は当然近江八景のうちの堅田落雁をかすめたものであることは間違いない。ただ、元禄三年九月二十六日付の茶屋与次兵衛(昌房)宛書簡のなかでこの句に触れ、「拙者散々風引(ひき)候而、蜑(あま)のとま屋に旅寝を侘(わび)て、風流さまざまの事共(どもに)候」とあるように「夜さむに落」ちたのは自分だという見定めの、これは自らのポートレイトであったといえる。「比良みかみ」の句は、どうも平地から見た嘱目ではなさそうだ。句の角度がひとつの鳥瞰図になっているようなのである。またこれは大伴家持の「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける」を俤にした句でもある。このバーズ・アイの働く場所を湖南にもとめるとしたら、幻住庵記の次の一節に解はあるのではないか。「山は未申(ひつじさる)にそばだち、人家よきほどに隔り、南薫(なんくん)峯よりおろし、北風(ほくふう)海を浸して涼し。日枝(ひえ)の山、比良の高根より、辛崎の松は霞こめて……」とあるような、幻住庵でこの句はものされたと考えるのが妥当なような気がする。最後の「年忘」の句は、何か深刻な事情があって大津に帰らなかった乙州が、芭蕉の慫慂を容れ帰津して一件が落着したときに詠まれたもの。塵中をつきぬけたところで俳諧師が見せるはれやかな顔である。 ところで、芭蕉宛智月書簡が一通だけ残っているので次に引用したい。ちょうどこの元禄三・四年と推定されるころのものである。 よきやうに御なお(ほ)し被下候(くだされそろべく)候。又あとより申上(まうしあげ)参らせ候。めでたくかしく。 なんど(納戸)ゑ(へ)も月はさしこむねごしらへ とぼとぼとむかへば月にごくはう(後光)かな 一、せんだくの御きりもの(着物)御ざ候はゞ、御こし被成候べく候。 八月十三日 ち月 はせを樣 しきりに芭蕉の添削を受けていたこと、また芭蕉の着物の洗濯など、身の回りの世話を焼いていたことなどがうかがわれる。彼女の入集句は「猿蓑」に四、「炭俵」に五、「續猿蓑」に四などである。それぞれの集から一句ずつ引いてみる。 孫を愛して 麥藁の家してやらん雨蛙(猿蓑) なしよせて鴬一羽としのくれ(炭俵) 鴬に手もと休めむながしもと(續猿蓑) 総じて清新な女性らしい視線が光っている作風だと思う。いっぽうで、商用で留守がちな乙州に代わり、家をきりもりして来遊する諸俳人をこころよく迎えた練達の主婦(そういうことばがあるならば)の手際も感じさせるようだ(なお「なしよせて」とは借金を返しすませてという意)。元禄七(一六九四)年冬、大坂で没した芭蕉の遺骸を義仲寺の木曽塚のそばに葬るにさいし「浄衣その外(ほか)、智月と乙州が妻、ぬひたてゝ着せまゐら」せたという。「人に家をかはせ」た芭蕉は最後まで「身の回りの世話」を焼かせたことになる。 (この項終わり)
*参考文献/芭蕉関係のテキストは岩波文庫を用いた。以後いちいちこれを記さない。中公文庫『歌を恋うる歌』(岡野弘彦著) |
Booby Trap 通信 No. 4 |