バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第7回

吉田裕



5 過剰から神秘へ・ニーチェを照らし出すものとしての社会科学研究会
 雑誌「アセファル」のなかでニーチェが非常に大きな役割を果たしたことを、数回にわたって読んできたが、今回は社会科学研究会のなかで、またそこで活動するバタイユのなかで、ニーチェがどのような意味を持ったかをみることにしたい。とはいえ、この時期のバタイユの活動をとらえるのに、「アセファル」に触れ、次いで社会科学研究会というやり方でとらえようとすることについては、いくつかの点で注意が必要である。というのは、バタイユ自身が「自伝ノート」のなかで言っているのだが、社会科学研究会の活動は、結社としての「アセファル」のもう一つの外部活動機関として想定されていたからである。だから結社「アセファル」、雑誌「アセファル」それに社会科学研究会の三つの活動は、互いに強く結ばれており、かなりの部分で重なりあっている。前回に見たように、社会科学研究会の設立広告は、「アセファル」の3・4合併号に掲載されていた。時間的な面から言えば、この設立宣言が出されるのは37年7月であり、その実践としての講演会活動が行われたのは、37年11月から39年7月までであって、「アセファル」の最終号である第5号の刊行は39年6月であるから、社会科学研究会の活動は、「アセファル」にほぼ重なっていることになる。結社「アセファル」も、ロールの死を経た後も、39年まで持続していたようだ。だからこの時期の彼の活動を、簡単に「アセファル」(結社と雑誌の二つの意味で)から社会科学研究会へという言い方をするわけにはいかないのだ。バタイユはこれら三つの活動を、一貫したものととらえていた。ただ実際には、それぞれ性格が違うこともあって、参加者は必ずしも同じではなかったし、また結社と雑誌の「アセファル」についてはバタイユがリーダーシップを持っていたものの、社会科学研究会に関しては中心人物はカイヨワだと見られていたようだ。38年7月にNRF誌にバタイユ、レリス、カイヨワの3人の論文が発表されたとき、問題にされたのはほとんどカイヨワの「冬の風」だけだったらしい。共同体の今日的な可能性を探ることをうたったこの論文には、右翼からの反応もあったとのことである。
 社会科学研究会の活動は講演が主であったから、資料らしいものは元々少なく、さらに散逸していたが、77年にオリエによって収集がなされ、かなりよくわかるようになった(邦訳『聖社会学』工作舎。現在ではさらに増補版が準備されているらしい)。しかしそれをニーチェという関心から読んでみると、意外にニーチェに対する言及が少ないことに気がつく。ニーチェを主題にした講演は行われていない。バタイユもそのような講演を行ってはいない。資料が残っている講演のなかでニーチェの影響がもっとも明らかなのは、39年1月のガスタラの「文学の誕生」であろう。「悲劇の誕生」を思わせる題は、たしかにそれを文学に応用したことを思わせるが、論旨は意外に平凡で、編者のオリエは、この講演についてクノーが「ニーチェ以来誰でも言うような常套句の域を出ていない」と評したことを明らかにしているが、たぶんその通りだろう。そのほかのところでは、ニーチェの名は散見される程度である。比較的かたちを保ったまま残っているバタイユの講演のなかで、いくらか目に付くのは、最初の講演会である37年11月に彼が行った「聖社会学および『社会』『有機体』『存在』相互の関係」のなかで、〈ニーチェは無機物質に知覚が存在し、したがって意識が存在すると考えていた〉と書いている部分である。彼は自分もものごとを同じように見る傾向があり、そのようなニーチェの文章を非常に興味深く読んだと述べているが、これは無機物質も含めて世界を意識の作用を媒介として総体的な交感状態におこうとするためだったのだろうか。もっともそのあとに、ニーチェもその当時この問題に深くはかかわらなかったと述べているから、この言及もさしたる重要性を持っているわけではないようだ。
 だからこの時期のバタイユのニーチェ像を見るためには、社会科学研究会ではなく、雑誌「アセファル」が適当だと言うことになるだろう。しかしながら、社会科学研究会に仮にニーチェに関する直接の言及が少ないとしても、それがバタイユのニーチェ理解について知るために益するところがないと言うことはできない。なぜなら、雑誌「アセファル」でニーチェの影はすでに大きいが、その3・4合併号から5号にかけて度合いを急速に高めていくニーチェの神秘主義的解釈の傾向は、刊行期間が長いこともあって、必ずしも「アセファル」だけからは読みとりにくいのだが、社会科学研究会の活動は、背後からこの部分を照明してくれるように見えるからである。

 社会科学研究会の記録を通読して、いちばん印象的なのは共同体に対する強い関心であろう。共同体に関する関心があったればこそ、社会学を表題とする活動を組織したのだから、それは当然だとは言えるし、またバタイユには社会学に対する関心がずっと以前からあって、それがここで実践的活動を行わしめるほどの力を持つようになったとも言えるが、それでもここではもっと根本的に、なぜバタイユが共同体や社会に対して持つ関心がこれほど強いものになったかを考える必要があるだろう。補足しておくなら、共同性への関心は、結社「アセファル」やこの社会科学研究会を別にしても、またもう一つある。それは37年4月の「集団心理学会」の設立のことである。会長にピエール・ジャネという高名な心理学者をいだき、バタイユは副会長に名を連ねている。これもまた今のところ、ほとんど名前だけが伝えられているものの資料のない、あるいは本当に名前だけで終わって実質がほとんどなかったかもしれない、ある点ではいかにもバタイユ的な活動のひとつではあるが、それは少なくとも、名称が示しているように、集団すなわち共同性に対する関心を表したものではあったはずだ。
 集団、共同体、あるいは社会と呼ばれるものに対するこれほどの関心はなぜなのか。それは共同性が、神秘と表裏一体の関係にあったからである。共同性と神秘経験が結びつくことは、現在の水準ではわかりやすくはないだろう。共同体とはとりあえず社会のことだとすると、現在の通念からすれば、社会とは複数の個体の集合であり、この結合は合理的であるべきであり、そのような場合神秘経験は社会に対立するからだ。けれども神秘と共同性は、本当はひとつのものの表と裏であることを、バタイユは社会学あるいは精神分析学を引用しながら主張する。社会は単に個体の集合ではない。個体が集まって社会を作るとき、そしてそれが単なる集合ではなく有機的に結合するとき、そこには個体の和以上のものがあらわれる。その時この集団は共同体と呼ばれることになる。
 ではこの和以上の部分はなにか? それは文字どおり過剰なものである。この過剰さは、過剰さであるからには、共同体内部では解消されえない。するとそれは犯罪、破壊、暴力等共同体を脅かすものとして現れ、共同体を動揺させるのだが、共同体は逆にこの動揺を、共同体の本質としての過剰なものを確認する機会として利用し、自己を共同体として確立するのである(たとえばフロイトによれば兄弟による父親殺しがあり、またバタイユは、イエスの処刑によってキリスト教団が成立するとみている)。ただしこの時、共同体確立の根拠となった犯罪、破壊、暴力そのほかは、共同体を揺さぶるものでもあるために、隠蔽される。するとこの隠蔽によって犯罪そのほかは、触れてはならぬものとして聖なるもの、神秘的なものという性格を帯びることになる。
 バタイユとその友人たちは、社会科学研究会の活動のなかで、社会や共同体の結束点である聖なるものの探求をおこない、それは同時に新たな共同性はどのように可能であるのかの探求でもあったが、それは反対側では、共同体の結節点となるべき神秘的な体験の可能性を探し求めることであった。
 バタイユに限って言えば、この関心はもちろんそのとき急に始まったものではない。共同体が生じさせる和以上のものは、「消費の概念」以降、彼がまさしく過剰という名で惹かれ続けてきたものであったからだ。そしてこの過剰分を放出するための非生産的消費は、贈与、性愛、戦争であったが、これらが聖なるもの、神秘的なものとほぼ同一であることは、容易に理解される。しかしながら、この部分には階梯を想定し他方が問題ははっきりするだろう。つまり過剰はさらにその性格を強化して、神秘となって現れることになる。この時期のバタイユは神秘的なものへの傾斜を急激に強めていった。そのことは、いくつかの面で観察できる。先に言っておけば、神話と神話的なものへの関心はこの時代に顕著に現れていた。オリエは、神話は時代の流行だったと言っている。彼の盟友であったカイヨワが38年に「神話と人間」、39年に「人間と聖なるもの」を出し、レヴィ=ブリュルに「原始神話学」35年、「原始人における神秘体験と象徴」38年があった。ほかにナチスムに近いところで、ローゼンベルク「二〇世紀の神話」がある。
 バタイユもこのような著作と時代を共有している。彼においてこの傾向は、まず神秘経験を持った人物への関心となって反映する。彼がフォリニョの聖アンジェラやアヴィラの聖テレジアをはじめとするキリスト教の聖女たちへの関心を深めていくのはこのころからである。シュリヤによれば、バタイユの最初の神秘主義的テキストは、「死を前にしての歓喜の実践」だということだが、これは前述のように、「アセファル」第5号の「ニーチェの狂気」の特集号にでたもので、39年のことである。同じ関心がニーチェを眺める視野のうちにも侵入し、その結果としてニーチェの像を変え、神秘主義的解釈が始められたように思われる。だが彼の神秘化の傾向は、他と比べてさらに過激だったらしい。レリスは社会科学研究会の発足当時から批判的だったが、カイヨワでさえも次第に批判に転じるようになり、それが結局は社会科学研究会を崩壊させることになる。
 しかし今はバタイユの軌跡を追うことにしよう。このように「過剰」が「神秘」へと読み変えられていったとき、他方それと相関関係にあった「共同体」も変化を起こさざるを得ない。突飛な言い方に聞こえるかもしれないが、共同体が変化していった先は「戦争」であると言えるように私には思われる。過剰はあまりにも過剰なものとなり、共同体の秩序のなかに回収され得なくなる。そこで引き起こされる戦争とは、有機的な組織としての共同体の共同性、つまり人間と人間を結びつけ対立させる力がもっともむき出しにされた状態ではないのか。戦争とは共同体の本質が露呈される瞬間なのだ。
 彼は〈戦争と供犠の儀礼と神秘的生活には等価性がある〉と言っている(「有用性の限界」)。これは文字どおり、神秘と戦争の同一性を言っている。さらにバタイユが男女の性愛をしばしば供犠のイメージで語っていることを思い出せば、この同一性のなかにさらにエロチスムの問題を重ね合わせることができるだろう。事実バタイユは、社会科学研究会の最後の講演で、おそらくは不特定多数を相手にする講演という性格のために押し隠していた性愛に関する考えを、あたかもそれが最後の講演になることを知悉しているかのようにあからさまにし、性愛が共同体の擾乱に繋がっていくことを明言する。〈彼らは抱擁のなかで出会う共通存在を越えて、激しい消費のうちに見境のない無化を要求するのです。その消費のなかでは、新たな対象、つまり一人の新たな女あるいは男の所有も、さらにいっそう破壊的な消費のための口実にすぎません。………こんなふうに彼らは徐々に、自分たちの供犠への熱狂を伝染させ広めるという欲望にとりつかれてゆきます〉。ニーチェの像をめぐってなされたその神秘化と戦争のなかへの位置づけは、以上のような全体的な流動化のなかのひとつの例であるが、またニーチェの像の変化という限定された例を検証することで、この全体的な流動化を観察することもできるのである。

(この項終わり)


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