詩 都市 批評 電脳


第15号 1994.10.31 227円 (本体220円)

〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18 (TEL:03-3428-4134:FAX 03-5450-1846)
(郵便振替:00160-8-668151 ブービー・トラップ編集室)
8号分予約1100円 (切手の場合90円×12枚+20円×1枚) 編集・発行 清水鱗造


表紙-ロー、ローラ、ロリータ、-陽の埋葬-巨きな花の内部のように…-ブラディーマリー-すてきなブルーの新車-はい、キタダです-炎焔-衛星-マシュマロの唄-陽の堀をのがれ暗の扉にかくれるあなた-疲れた時計--少年-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-塵中風雅 12-Booby Trap 通信 No. 6

ロー、ローラ、ロリータ、

田中宏輔



「どうしてあなたはこんなところにたったひとりですわってらっしゃるの?」  議論なんかしたくないと思ったので、アリスはそうたずねました。 「なぜって、だれもつれがいないからさ」ハンプティ・ダンプティは答えました。 (ルイス・キャロル「鏡の国のアリス」高杉一郎訳) きょうは仕事を休んで、ただ部屋でぼうっと過ごしているつもりだった。 車に乗って遠出をしようだなんて、ちっとも考えちゃいなかった。 でも、あんまり陽気がよかったから、ずいぶん遠いところまで車を走らせた。 車を止めて休んでいると、公園で遊んでいるきみの姿が目に入った。 砂場で遊んでいる、小さくて可愛らしいきみの姿が目に入った。 きみは変わった子だったね。 おじさんちに遊びにくるかいっていうと、 「誘拐するのね」って、 「そして、わたしに悪戯するのね」っていって笑った。 そのとき、ぼくはナボコフのロリータを思い出したよ。 そして、ぼくは、こういったね。 「さあ、ローラ! はやく車にお乗りよ」って。 そしたら、きみは、ぼくの顔を、きっと睨み返して、こういったね。 「わたしはアリスよ」って。 でも、どっちにしたって、 そのこまっしゃくれた、生意気な口の利き方は とっても可愛らしかったよ。 そう思ったのは、ぼくが、おじさんだからなのかもしれないけどね。 ああ、それにしても、 きみの裸は美しかった。 その剥き出しの足は、ことのほか美しかった。 そのやわらかな太腿、そのやわらかくすべすべした膝っ小僧、 そのやわらかくすべすべした小さな踵。 すべてがやわらかくすべすべして小さくて可愛らしかった。 ぼくの指が触れると、 きみはくすくす笑って、すっかり薄くなったぼくの髪の毛を引っ張った。 「なんて、へんてこな気持ちでしょう」と、アリスはいいました。 (ルイス・キャロル「ふしぎの国のアリス」高杉一郎訳) でも、きみは夜になると、家に帰りたいといって泣き出した。 その声があんまり大きかったから、ぼくはきみの口をふさいだ。 鼻もいっしょにおさえた。 苦しがるきみの顔は、とても可愛らしかった。 とても可愛らしくて、愛らしかった。 だから、ぼくは、おさえた手を離すことができなかった。 できなかったよ。 「ロー、あれをごらん」 (ナボコフ「ロリータ」大久保康雄訳) 「アリスだっていったでしょ」 「口答えは、およし。ローラ」 流れ星だよ。 はじめて、ぼくは見たよ。 きみは、何かお願いごとをしたかい。 ぼくはしたよ。 これからも、きみといっしょに、 ずっといっしょにいられますようにって。 「ね、ローラ」 「アリスだっていったでしょ」 「おまえは、おかしなやつだね、ロリータ」 (ナボコフ「ロリータ」大久保康雄訳) さっ、ローラ。 また、ぼくといっしょに遊んでおくれ。 残り少ないぼくの髪の毛を、思いっきり引っ張っておくれ。 引っ張って、ひっぱって、引き毟っておくれ。 「そのかわいい爪でね、ロリータ」 (ナボコフ「ロリータ」大久保康雄訳)


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陽の埋葬

田中宏輔



  I 少年は待っていた 雨が降っている 少年は待っていた 雨が降っている 少年は待っていた 男は来なかった 少年は待っていた 雨が降っている 少年は待っていた 男は来なかった 少年は待っていた 男は来なかった   II あの日も雨が降っていた 男は少年を誘った 少年はまだ高校生だった あの日も雨が降っていた 男は少年を抱いた 少年ははじめてだった あの日も雨が降っていた 男に買ってもらったCD ホテルに忘れて あの日も雨が降っていた また、逢ってくれる? 少年は男にきいた あの日も雨が降っていた また、逢ってくれる? 男は頷いてみせた あの日も雨が降っていた また、逢ってくれる? 声は雨に溶けて   III 少年は待っていた 男は来なかった 少年は待っていた 男は来なかった 少年は待っていた 雨が降っている 少年は待っていた 男は来なかった 少年は待っていた 雨が降っている 少年は待っていた 雨が降っている いつまで待っても 雨が降っていた いつまで待っても 男は来なかった 雨と雨粒 睫毛に触れて 少年のように 雨が降っていた 少年のように 雨が待っていた


表紙-ロー、ローラ、ロリータ、-陽の埋葬-巨きな花の内部のように…-ブラディーマリー-すてきなブルーの新車-はい、キタダです-炎焔-衛星-マシュマロの唄-陽の堀をのがれ暗の扉にかくれるあなた-疲れた時計--少年-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-塵中風雅 12-Booby Trap 通信 No. 6

巨きな花の内部のように…

倉田良成



巨きな花の内部のように スイートバジルの匂いがたちこめる四つ角 世界は甘い蝋で密閉されたひとつの部屋なのだ ときおり雨が地面を濡らし虹が起って消える 発熱する白地図のうちにわれわれの懲罰は存在しない 一瞬の稲妻のうちに啓示と涅槃をはてしなく繰り返す あの夏木立と雲はどんな癒しよりやさしく そこへ行くためにそそくさとよそおう ガーデンパーティに似て死はどんな旧友よりもなつかしい いまここにあることの不思議 青空はいかなる絶望よりももっと深いのだ かさねてたちこめるクチナシの花の巨きな匂いのなかで 銀のスポークをきらめかせて自転車がやってくる どこを発ち、どこへ向かおうとしているのか 予感のようにすれちがって私たちはふたたび出会わない どこかで脆い時間がかすかに流れた そして彼女は「部屋」のかなた 積乱雲のほうへ走り去る 風の裂け目から洩れてくる遠いガムランを聴きながら 洗濯物を取り入れる主婦の白い二の腕を見上げている (私はかつて、私の子供だった?) この昼の静けさについて少し首をかしげながら考える まるでコップに無造作に投げ入れられた 歯磨きと歯ブラシのような永遠! と 蜜で封印された巨きな部屋に寂光が降りてくる 馬の腹のようにあえいでいたアスファルトにも水が撒かれる 雷が爆竹の火を連れて襲来し、たちまち乾きあがる夏の夕 上気したアカシアの葉脈が血液のように透きとおり きたるべき夜をおもむろに用意する 幻灯の神々がゆらゆらと踊る大音響のなかで うしなわれてきた千年の失跡が眼を覚まし 死者のよみがえりのうちに示されるなつかしいクレヨン画 不細工な山羊の鳴き声をグレゴリオ聖歌のように聴きながら* 私は邂逅する 生きることのなかったおさない兄たち姉たち その平癒の海に浮き沈みするものたちに!

*「グレゴリア聖歌のやうな声を出す誰飼ふとなき山羊と居りたり 岡井隆」より



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ブラディーマリー

駿河昌樹



ジャンはポールを仲間にいれて 財布に黒豚グルーチョいれる 遊びを六月いっぴにはじめ 八月末日までやった 黒豚グルーチョ財布にはいり 財布は黒豚グルーチョ蔽い ジャンはポールを仲間にいれて ポールはジャンの仲間にはいる 広場の隅には崩れたレンガ 頭割られたマリーはひとり 目開きひとみに青空の青 映して吸って息絶える


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すてきなブルーの新車

駿河昌樹



それはひどいというから そうか、それはひどいのかと思ったけれど だんだん それはそれほどでもないんじゃないかと また思うようになってきていて それをひどいとどうしていうのか そうか、それはひどいのかとどうして 思ったのか 考え直していると すてきなブルーの新車が通り過ぎていったり 陽気なひとびととの出会いがあったり 大粒の雨にゆたかに降られたり ちりぢりばらばら あっちこっち また 拡散していく わたし


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はい、キタダです

関富士子



父は出かけています 母はただいま留守です どちらさまですか? 姉はずっと入浴中です 兄はずっと睡眠中です ご伝言は? 祖母は昨年亡くなりました 祖父はおととし他界しました どちらへおかけですか? 弟は足を骨折しています 妹は肺炎です 叔父はペキンに赴任しました 叔母はペナンに赴任しました どなたですか? 大伯母は耳が聞こえません 大伯父は口が利けません ご用件を…… 姪はもらわれていきました 甥はまだ生まれません 犬はいません 猫はいません もしもし?


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炎焔

園下勘治



うすい桜いろした花びらの先端に やっと一滴が到達する こう書いて雨がふりだすんなら 海を燃やすのもわけないけど 火ということばで 燃えあがる目の奥にある森 何回だって燃える脳髄の灰 けしてほんとうに死んでしまわない 見つめると穴があくというのはほんと きみの視力がとてもいいなら 酸化していまこの紙は燃えている みんなみんなにせものの火 きみがいまマッチを擦って 火と書いたところを燃やしてください


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衛星

清水鱗造



黄色いバスが走る 埃を澪のように地図につけて コロッケを中で揚げる人 熱い油は座席に飛び散って でもシェフはあきらめない いびつなコロッケが 旅行者の昼食だ 一個のコロッケが揚がったら 次の試みが始まるだろう それは観光旅行の 快楽だから 鰯雲がバスの天井に映って * 机の上に恒星をおいて まわりに消しゴムのかすを飛ばしてみる それはくるくると回りだした 朝の光と煙草のけむり 逆立った髪の毛 明治の街のルポルタージュがぱらぱらと 降ってくる部屋 消しゴムのかすは 小惑星群のように僕の背後から窓の前をめぐり 恒星は赤斑や黒点を小さく面に映していた * 街角に少女は 何度も何度も現われる 赤斑や黒点となって 建物の陰に立つ あの少女がかつて 湖のほとりで抱き締めた幼女であったことは もうぼくも気づかなかった * 夜のマンション群 あいだの駐車場 月が息する 獣姦が降ってくるのだが それはビデオレンタルショップの 磁気だ さいわいにしてここにも 回覧板がまわってくる 老人むけのバス旅行に ぼくも行くだろう * 旅をしていれば 給水口も楽しい のちに筋肉がばらばらになって 菌類に喰われるにしろ 頬の産毛は そのまま高速度で ニューロンをめぐる 旅 排水口も楽しい 隣りから痴話喧嘩が聞こえるにしろ * モップを持った女性がドアを開けて入ってくる 作業服を着て 割れたガラス窓の向こうに稲妻 サングラスに映る稲妻 ぼくはパイプベッドの隅に座る 煙草をすって灰皿をもって 女性は床をごしごし掃除して 出ていってしまう 机の電灯のスイッチをいれる 割れた窓からはいる風 ぱらぱら紙が飛ぶ 空には稲妻 まだ雨を降らせない稲妻 * 恒星のまわりに牛を飛ばしてみる 牛は素直にまわりだす ときどきピンセットで干し草をやり 牛糞は恒星の輪になる それは腐食画の アニメの のんびり煙草をすう男の机でまわる 電話が鳴るとき 恒星は牛を連れて 恥ずかしそうに天井の隅に移動する * Tシャツの絵は そのまま動きださないとはかぎらない ベトナムのフエの漕ぎ手は 部屋の湿った川を日笠をかぶって汗をかき カリフォルニアのサーファーがコーラの瓶を持って 笑いかける その一枚はバスが出る直前 裸を隠すために 買い求めたものだったのだけど * シャベルを持った女性がドアを開けて入ってきた ぼくは煙草をくわえたままそちらを見た 金髪で作業服を着てサングラスをかけた女性 彼女は何かを埋めたかった でもぼくの部屋に地面はなかった きょろきょろ見まわして 出ていった ぼくは向き直って文字を書いて 煙草を灰皿に置いた 小さい骸骨が上空で踊っている * 街角が透けて見えるこの壁 立ちんぼの少女が 赤い煙草をすっている あの子が赤ちゃんだったことは 銀行の看板が保証する ぼくのエロスが霞網になっても * 赤まんまだけが咲いている野原を 古いバスは疾走する 埃を蹴たてて バスのなかで耳かきをするのは 危険 すでにバスには耳鼻科の 赤外線照射装置が 置いてある 雲の影が野原の向こうに 走っていく * 街の壁の落書きはたいてい FUCK YOU! ぼくのパンツは花柄 起きぬけに壁から街に出るのは できない 花柄が恥ずかしいから だから 電信柱から水着の女が下りてきて 落書き屋さんになったのだ * 青いランニングシャツを着て パイプベッドに横になり 岩清水をペットボトルのまま飲んでいると 金属探知器をもって銀色の服を着た女が ドアを開けてはいってくる 女は床とベッドの下を調べて いくつかのクリップをポケットにいれた ちょうどライオンの顔が 窓の外を通りすぎるところだった ぼくは枕に耳を押し付けて 潮の音を聞いた 濃い口紅の女は 満潮とともに出ていった * フラッシュ 煙草を吸っている壊れた眼鏡の自画像 フラッシュ 傘の骨にまつわるポリエチレン袋と唾液 フラッシュ 軟体動物の微細な器官と尖る細胞 フラッシュ 中央演算装置に流れる電流の菌類 フラッシュ 砂粒に凝集していくカルシウムの粘液と狂った株価 フラッシュ 壁に張り付く売春婦の影とバーコードの人 フラッシュ 朝のゲートボール大会でセクシュアルレボリューション フラッシュ バーベルを挙げる痩せた女と剃った無駄毛 フラッシュ 田舎が明るくなると同時に米が孵化する フラッシュ 黄色いバスが走り一人暮しの男の耳栓が飛ぶ * いつしか ぼくは花柄のパンツで街を歩き始める フリージアの模様のパンツで


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マシュマロサンドの唄

清水鱗造



チョコレートに挟むマシュマロ ぼくの尻はサンドできない あの子の尻はマシュマロだから サンドできるって おじさんが言ってた ピーポー パトカー ふんどししてみる僕の尻 あの子の尻はふんどしできない って風呂で思案する ピーポーピーポー パトカー やっぱりうちに止まる 「おめでとうございます」 マシュマロサンド


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陽の堀をのがれ暗の扉にかくれるあなた

沢孝子



陽の堀を踏む足にこぼれる激しい水の言葉 石のようにこわばる壷の闇の記憶 表面の昭和のカレンダーに「神風」と「生神」という満ち潮の嵐がまきおこる 眼の水のかがやきで念じていた空へ 大和の剣が切り込む 袴の思想の移り変わりの 逃亡の形のよさを嫌悪する くりゃくりゃと舞う南のくらしの 歌を踊りの角にできたおできがあって 苦い歴史の水の肌の摩擦 諸関係のながれを 明治という近代の深い井戸を汲みとる目覚め 扇形にひろがる心の水の呪文の時間がうるむ

暗の扉の晴地がなしの古代の砂浜で 亀裂した愛の昭和のカレンダーにある嵐の夜を閉じてカナカナと泣く 体内にひびきわたってきた蛇皮線の ラブレターの満ち潮の呪文がやってくる あらゆる文字の骨をくだいた時間でかたりだす 巫女となった時代のくらし 角のおできにある亡びのリズムが目覚め 本土の袴の思想で泳いだ術の 逃亡の形のよさを嫌悪する 明治の近代の井戸底に立ち現れてきた座の琉球へと たぐりよせた巨大な帆の揺れ 飢えのくるいの海腹にこもっている害虫を吐く

大和の剣には骨をくだく文字の応戦 古代の砂浜の引き潮の精神が発酵する カナカナと泣く亀裂した列島の愛の祈りの 蛇皮線がひびく浮き草の体内のいたみ 民族の根が切られている不安と 巫女となった時代のドレイの自由な計算で 交わっていた陽の堀の 満月にある亡びのリズムの泳ぐ術 極限の春夏秋冬の死の断面に立ち現れてきた尼地ぶしょうへ 掘りおこす巨大な反乱の帆がある 恐くなっていく四季の渦暦の泡 泡 系幕が垂れ下がる組織の圧力の堀をのがれようともがいた害虫 グロテスクになる離別の海腹の恨みが 浜の小屋で嘔吐する 埋もれた掟のさまざまな飢えの現象を抱きしめる

琉球の座に今もゆがんでいく引き潮の精神の 地図に発酵する放浪の線路の浮き草の愛 民族の根が切れるところの雪の山で 自由なドレイの別れが計算した 南の砂利の一つ一つのふるえを確かめる 満月と交わる旅の終わりの死の断面 春夏秋冬に凝結する藩への反乱の 渦暦に浮かぶ武の泡の捕らえられない構造 グロテスクになって投じた鎌の浜の小屋には さまざまな掟へ焦る無知の判断がある 暗の扉にずーっとゆれつづけた夜這いの性器で 千年万年億年の大木の不安を抱きしめ 優しい神の警告を待つ 整えられてくる「神風」と「生神」を念じる空の 自然の器にある伝統の壷の闇の隙間をのぞいた もてあそばれてきたような苦い歴史の摩擦 水の肌の諸関係の感覚にある 作法の「気」にふれて扇形にひろがってくるくらしの殺意 信じることができるでしょうかと 異質な血を抜く夜の「呼吸」 石垣の扉にかくれたあなたの だらんとなる胸の乱れをなぞりつつ

(改稿)



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疲れた時計

長尾高弘



机の横の時計 ちょっと立派なたたずまいだが 秒針が八時と九時の間で痙攣している 文字盤の下の窓からは キラキラ光る玉のついた四枚の羽が 右に少し回っては左に少し回り 右に少し回っては左に少し回り まるで時を刻んでいるかのように見えるのだが 秒針は八時と九時の間で痙攣している 時計は最初からこうだったわけではない 正しい時間を指し示していた頃もあった (当たり前?) 狂っているのに気付いたのは何日か前のことである 時計がいつやる気をなくしたのか 気付いてやれなかったのが残念だ 時計はその後もときどき動く気になったことが あったらしい 何日かたって見ると別の時間を指し示している さらに何日かたって見るとまた別の時間を指し示している しかし 私が見ているときにはいつも 秒針が八時と九時の間で痙攣している (きっと一番辛い勾配なのだろう) 時計がいつやる気になるのか わからなくても残念ではない ともあれ 私はこの時計の今の状態が気に入っている まるで時を刻んでいるかのように見える四枚の羽 ちらりと覗くだけなら 秒針も八時と九時の間を動いているように見える そして私は時計が疲れていることを忘れる 時計が指し示している時間にいつまでも留まる


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長尾高弘



夏の陽光を浴びて 海の上に横たわる女 まるいちぶさも ほともあらわにして 知ってるよ、あのスタイル 涅槃仏って言うんでしょ うん、手枕で横向きに寝ているやつね あの叢のあたり、もう雨が降っているよ ぼくたちも早く帰ろう


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少年

築山登美夫



去年の夏 雨の降る屋久島で 黄色いレインコートを着て 大きな目をひらいて 弥生杉を見上げていたきみ まるく突き出した断崖で 父と手をつないで 暗い碧(ミドリ)の淵をのぞきこんでいたきみは まだこどもだったが 今年 きみと二人 颱風(タイフウ)の海を渡って来た神津島で 荒波をかぶって泳ぐきみののびた四肢は もう父がうらやむほどの力がみなぎって それから遊泳禁止の標識が出て きみは おしよせる大きな海と 泡だつ白と青の かぞえきれない波がしらを あかず見つめていたっけ (父がきみときみの母で棲んだ家を出て行ったのは きみがちょうど十歳になった年 そのとききみは「三人がいい!」と云って泣いたのだ そのあどけない顔がわすれられない 父はきみにとってとり返しのつかないことを きみにまだ理解できない理由で  いつかきみにわかる日がくるだろうか だが父にはわかっていた とつぜん父を襲った 昔の恋人との感情の暴風雨のさなかにあっても 父はきみを愛しぬくだろうと……) ぼくたちの旅は ふたたび颱風に襲われ きみと二人 トランプなどして遊んだ旅館から 早朝 追いたてられるように はげしく横揺れする船に乗った 荒れる海 揺れる心 (あれるうみ ゆれるこころ) さようなら つかのまの夏 波のかがやき きみの知らない あるいは きみの知る ひき裂かれた執着の渦をのみこみ また吐きだし 船は走りつづける


表紙-ロー、ローラ、ロリータ、-陽の埋葬-巨きな花の内部のように…-ブラディーマリー-すてきなブルーの新車-はい、キタダです-炎焔-衛星-マシュマロの唄-陽の堀をのがれ暗の扉にかくれるあなた-疲れた時計--少年-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-塵中風雅 12-Booby Trap 通信 No. 6

バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第8回

吉田裕



6 戦時下に読まれたニーチェ

 第二次大戦は、三九年九月に始まり、翌年五月にパリはドイツ軍の占領下におかれる。以後、社会科学研究会等の公然の活動は不可能になり、バタイユの活動はもっぱら書くことに限定されることになる。この時期の彼の著作は四三年に『内的体験』、四四年に『有罪者』、四五年に『ニーチェについて』である。戦後になって彼は、これら三冊にいくつかの書物を加えて、『無神学大全』という複合的な書物を計画するが、ほかの書物を加えるという計画は実現できず、以上の三冊にいくつかの章を補って、この名でまとめることになる。だから現行の三冊も、一貫した視点のもとに書き下ろされたというものではなく、さまざまのテキストを集めたものである。また書物としての発行年とそこに含まれる諸論文の執筆時期が正確に対応しているわけではない。このように『無神学大全』は、定型からはずれ、かたちを取ることを拒絶しているような書物だが、内容、文体、量のいずれから見ても、バタイユの中心をなす著作であることは疑えない。
 ニーチェに関するテキストは、書名から予想されるように、『ニーチェについて』のなかに多いが、題名にニーチェの名を含む、あるいは内容にニーチェへの言及が多いという基準からいえば、ほかにあげなければならないのは、『内的体験』の第一章「内的体験への序論草案」と第四章「刑苦への追伸」の第六節「ニーチェ」である。『有罪者』は、ニーチェについては名前が数回引かれるだけであって、本格的な論究は含んでいない。
 さまざまの視点と叙述の層を含んだ『無神学大全』をあえて要約すれば、中心にあるのは神秘体験、彼の言葉でいう内的体験である。ファシスム批判と神秘経験というバタイユのニーチェ理解の二つの側面は、『無神学大全』のなかにも存続しているが、前者について言えば、その主な論点はアセファルの時代にすでに出ていて、『無神学大全』でなされるのは、おおよそのところその反復だが、それに対してニーチェに媒介されたバタイユ自身の神秘的経験の側面は、現実化した戦争に支えられていっそう鮮明になり、『無神学大全』の中心テーマとなる。
 内的体験が神秘体験だとすれば、神秘体験がいちばん強く現れるのは、それを題名とする『内的体験』ということになる。この書物は「内的体験」と「瞑想の方法」という二部に分かれているが、後者は、五四年の再版に際して加えられてものであるから、はずしておく。「内的体験」は五章構成だが、核をなしているのは第二章「刑苦」であって、それを中心にして「内的体験への序論草案」、「刑苦の前歴」、「刑苦への追伸」が置かれている。
「刑苦」は、バタイユ自身の言葉で叙述が進められ、意外だがニーチェの名前は現れない。この時期彼は、自分では内的と呼んだ神秘体験を、ヨガ、禅などの方法を摂取し、また改変しながら果敢に実践したようだが、「刑苦」の章では反省的な記述が多く、経験を直接的に記述した断章は思いのほか少ない。多いのはむしろ「刑苦への追伸」である。これらの断章は、私には常にニーチェの影をを思わせる。それらのうちのいくつかを引いてみる。最初は「刑苦」でのレンヌ街の突然の哄笑の経験である。
〈おびただしい笑いをちりばめた空間が、私の前にその暗黒の淵を開いた。フール通りを横切りつつ、私はこの「虚無」のなかで、突如として未知の存在となった。………私は私を閉じこめていた灰色の壁を否認し、ある種の法悦状態に突入していった。私は神のように笑っていた。傘が私の頭に落ち掛かってきて、私をつつんだ(私は故意にこの黒い屍衣をかぶったのだ)。私はかつてだれも笑ったことのない笑いを笑い、いっさいの事物の底の底が口を開け、裸形にされ、私はまるで死人のようだった〉
これを読むとき、私は『ツアラトゥストラ』のなかの、黒く重い蛇を噛みきって永劫回帰を理解した羊飼の変貌と笑いを語る一節が響いていると感じずに入られない。〈それはもはや牧人ではなかった。もはや人間ではなかった。――彼はひとりの変容せる者、光に包まれた者であった。そして笑った。――およそ地上で、ひとりの人間が、今彼が笑ったように、高らかに笑ったことはなかった〉(「幻影と謎」)。バタイユのこの哄笑の経験は、十五年前のこととされてはいるが、彼が自分の根本に置いている経験であると思われる。
 次は「序」のなかの幻視を語った一節である。
〈所在を忖度されたこともない国々に経巡って、私はかつて人間の眼が見たこともないものを見た。これ以上人を酔わせるものはない。笑いと理性、恐怖と光が、互いに浸透し合うものとなった………私の知らぬものはなにひとつなく、私の狂熱の接近しえぬものもなにひとつなかった。不思議な狂女のように、死は可能事の扉を絶えず開き、また閉じしていた〉
 この一節は、『メモランダム』の引用番号二五〇の遺稿中の次のような一節、バタイユがニーチェから引用するたぶん一番神秘的な一節を思い出させる。〈そしてなんと多くの新しい神々が、まだ可能なことか! 私自身のうちでは、宗教的な、すなわち神々を産み出す本能が、しばしば思いがけず作用し、ために私はその度毎に、さまざまなやり方で聖なるものが現れるのを経験した。………私は時間の外に位置するこれらの瞬間に、かくも多くの奇怪なものどもが通り過ぎるのを見た。これらのもろもろの瞬間は、月から落ちてでも来るように、われわれの生の中に落ちてくる。そのさなかでは人は、自分がすでにどれほど老いているのか、またどれほど若返ることができるのかを知らないのだ〉。
 彼は雷に打たれた樹木、また炎への化身、中国の死刑囚の写真の凝視による共犯の感情、暁光への同化を語っているが、そこには前出の「死を前にしての歓喜の実践」のエピグラフに引かれた〈私は同時に鳩であり、蛇であり、豚である〉が聞こえるような気がする。またそれは、コジマあての発狂直前の手紙の一節の遠い反映と見ることもできるのではあるまいか。〈しかし私はインドでは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。アレクサンダーとシーザーは私の化身です。………最後にはヴォルテールとナポレオンでもありました。ひょっとしたらリヒャルト・ワグナーであったかもしれません〉。無論正確な対応関係を証明することなどできはしない。だが恍惚を語るバタイユの言葉の背後には、どうしてもニーチェの声が聞こえてくるのだ。
 ニーチェへの直接の言及が行われるのは、前述のように、第二章「内的体験への序論草案」と第四章「刑苦への追伸」においてだが、前者で印象に残るのは、ニーチェを推論的思考を極限まで押し進めることで神秘的な経験を持った人と考えていることである。可能事を越える経験を持つためには、まず可能事をつくさねばならない、とバタイユは考える。そこで不可能なものは可能なものと不可分の様態で現れる。彼はニーチェの中心にあるのは永劫回帰の思想だとしたが、それに触れて次のようにいっている。〈永劫回帰についていえば、私はニーチェが、いうところの神秘的形態のもとにさまざまの推論的表象と混ざりあったかたちで体験を持ったと考えている〉。同様に、バタイユの言う神秘的経験とは、神の経験にとどまらず、神を越える経験である。神は概念としてとらえられる限り、推論の領域内にある。本来的に神的なものを求めるならば、この限界を越えねばならず、その時神は神でなくなるが、神的なものが経験されるのは、そこ以外ではあり得ない。〈神は人間の極限ではない。だが人間の極限は神聖なものだ〉(『有罪者』)と彼は言う。
 では神を越えることは、ニーチェにとってどのようにして可能だったのか。ここにきわめてバタイユ的な解釈が現れる。それは神の殺害によってなのだ。真っ昼間に提灯をともして広場へかけていき、「神はどこにいる!」と叫んだ『華やぐ知恵』の狂人の一節を、バタイユは賛嘆をこめて長々と引用している(「刑苦への追伸」)。ひとしきり問いかけたあと、この狂人は、あざけり笑う衆人に対して解き明かす。「おれが言ってやろうか、おれたちが神を殺したのだ――おまえたちとこのおれでな! おれたちはみんな神殺しなのだ」。ニーチェによれば、人間はまず人身の供犠、しかもおそらくはもっとも愛するものを捧げた。ついで自分たちのもっとも暴虐な本能、すなわち自然を捧げた。これはキリスト教の倫理の発端である。〈そして今、どのようなものが供犠に付すべく残されているのか。最終的に、すべて慰撫してきたものを、聖化してきたものを、すべての希望を、ひそかな調和へのいっさいの信仰を供犠に付さねばならなかったのではないか。神自身を供犠に付すべきだったのではないか。………神を虚無のために供犠に付すこと――この最終的残酷さの逆説的秘儀は、私たち登場しつつある世代のためにとっておかれたのだ〉。この一節は『善悪の彼岸』からだが、もちろんバタイユが引用しているものである。
 ここで言明された過程の上に、バタイユが社会学的な探求によって知った動物の供犠、人間の供犠、またキリスト教の起源にある神の子の殺害を数え入れていることは疑いを入れない。人間は、神のために、神をあらわにするために、自分にとって次第に大きくなる大切なものを捧げるようになってきたが、この過程をさらに延長すると、もはや大切なものはすべて捧げられ、残るものとては神それ自身しかなくなる。だから彼は神を供犠に捧げようとする。しかしながら、このように神を供犠に捧げようとするとき、それは何をあらわにするためなのか? それはもはや神をあらわにするためではあり得ない。神はすでに、捧げられるものになりかわっているからだ。だから神が供犠に捧げられるとき、あらわにされるのは、神の不在である。けれども、明らかにされるこの神の不在は、神の存在よりもずっと神的なものだ。なぜならそれをあらわにするために捧げられたのは、神という人間の愛の最大の対象だったからである。これが〈逆説的秘儀〉の意味である。
 〈神の殺害はひとつの供犠である〉(「刑苦への追伸」)とバタイユは言う。バタイユは神の死の宣言というニーチェの最大の決断を、神の供犠による聖なるものの探求という彼自身の探求と同一化する。これがバタイユがニーチェに見いだした最大の合致点であると私には思われる。

『ニーチェについて』は、題名とは裏腹に、半ば以上が四四年二月から八月、つまり戦争末期の日記である。そのほか、第一章「ニーチェ氏」は、ほぼ引用で成り立っている。だから狭い意味でニーチェ論として取り上げることができるのは、「序文」と補遺のなかの「ニーチェとドイツ国家社会主義」と「ニーチェの内的体験」の三つの論文であろう。
「ニーチェの内的体験」では、文字どおりバタイユが自分の言う内的体験とニーチェの体験を重ね合わせようとしたものだが、すでに引用した部分を除けば、大部分は『内的体験』でつくされたものの繰り返しである。「ニーチェと国家社会主義」も、反ユダヤ主義また愛国的軍国主義への批判等は、アセファルで提出されたものと変わっていない。
 ただ「ニーチェと国家社会主義」には、興味を引く点がひとつある。それはファシスムに対して、客観的と言うべきような評価、ある種の意味を認めるようなところが見られることである。〈旧来の道徳を拒否するというところは、マルクス主義、ニーチェ主義、国家社会主義に共通している〉とバタイユは言う。またニーチェについて、次のようなことも言っている。〈ニーチェは、プルードンやマルクスと同じく、戦争に有益な要素のあることを肯定した〉。これはニーチェとファシスムの間にある種の接点を認めているのだろうか? 元になった「ニーチェはファシストか」には、次のような一節がある。
〈もしファシスムが正当にニーチェを利用することが出来たなら、それは私たちが想像するような空虚とはならなかったのだろうか? ニーチェはファシストか? また彼はドイツ人であるのか?
 この問は問うてみる価値がある。いずれにせよ、ファシスムは人間の起こした出来事である。しかし、私たちはふつう、それがその責任とその廃虚のうちに人間の本質的な一部分を引き込んだ、とは考えない。私たちはむしろそこに、ある階級の利益、孤立した民族の利益、陰謀家一味の利益等、さまざまの利益の組み合わせを見るのである。だがもし、それがある哲学の表明であったならば、あらゆる種類の人間を生命に向かって目覚めさせる劇的な哲学の表明であったならば、ことは別なものとなるだろう〉。
 消去されたものを取り出すのは慎重でなければならないが、これは一度は公表されたものである。ここでバタイユは、ファシスムが〈人間の本質的な一部分を引き込ん〉で、〈人間を生命に向かって目覚めさせる劇的な哲学〉でありうる可能性を持っていた――実現されなかったとしても――と感じているのだろうか? このような言明は、三〇年代には見られなかったものだ。これはドイツの敗北がほぼ明らかになったことではじめて書かれたにちがいないが、そこにはファシスムが彼の時代の人間が持った願望に、何らかのかたちで反応するものであったと彼が感じていたことを示しているのだろうか?
 無論バタイユは、ファシスムとそのニーチェ理解に反対という基本的な姿勢を崩してはいない。〈ニーチェの思考の領域は、政治を決定する必要性と共通性に対する配慮を越えていた。それは悲劇や笑いや苦痛、また苦痛にもかかわらずわき起こる歓喜、精神の豊かさと自由に関する領域であった〉と言い、また〈彼は給与とか、政治的自由とかの第一次的な問題からは背を背けていた。危険に満ちた生という彼の原則は………大衆的な闘争とは無縁であった〉とも言う。だがこれらの理由づけは必ずしも説得的ではない。ニーチェは非政治的だったという主張はあるが、ニーチェもまた政治的な文脈のなかに入らざるをえないことへの十分な解明はないからである。
「序文」は、彼の考えを一般的に述べており、執筆時期からして、彼のニーチェ理解のひとつの総括だと考えられる。そこにはこれまで同様にニーチェを汎ゲルマン主義、反ユダヤ主義的に解することへの反撥がある。また神秘的解釈も以前の通りである。ニーチェの持った情熱を、〈神や善のために殉死した人々の情熱〉だと彼は言う。ニーチェが自分の教説のために門弟と組織を求めたこと、つまり共同体への願望を持っていたことも述べられている。
 目新しいのは、バタイユが、ニーチェの本質的な問題を「全体的人間」というかたちでとらえていることである。それは〈膨大な数をなす低劣な人間は単に序奏あるいは前稽古にすぎず、ただそれらを合わせて奏することで、総体的人間がここかしこに現れるようにすることができる。この総体的人間は、人類がどこまで到達したかを示す里程標のようなものだ〉(『力への意志』)というニーチェの言葉によっている。これは見るからにナチスムの人種理論に利用されそうな一節だが、バタイユはこの全体性を、今度は彼自身の言葉で、いくつかの視点から定義している。ひとつにはそれは民族とか時代とか、さまざまの個別の価値に従属して断片となってしまった人間に対する批判である。〈生が全体的でありうるのは、生命が自分を無視した明確な目的に従属していない限りにおいてである〉。一方それは欲望との関係では次のようである。〈総体性は、ただ燃焼したいという欲望だけを理由として――総体性がまったく全面的であるということだけを理由として――自分を燃焼させたいという不幸な欲望、空しい欲望なのだ〉。この一節からは、全体性のなかに非生産的消費の主張が重ねられていることがわかる。ついでそれは行動に対する批判である。〈私は何らかの仕方で行動の段階を越え出て、初めて総体的に存在することができる〉。〈世界・変革の・任務に従事する人間は、人間の断片的な姿でしかなく、この変革が完了したあと、今度は彼自身が全体的な人間に変化することになるだろう〉。ここにはたぶん、戦争が終わって力を持ち始めたたサルトル的なアンガジュマンの思想への反撥がある。またそれは哲学的な基本の違いでもある。〈
結局全体的人間とは、その内で超越性が消滅する人、もはや何物も分離していないことにほかならない〉。この時期彼は、前出のヤスパースにならって、超越性transcendanceに対する批判を内在性immanenceという言い方で主張している。バタイユは、ニーチェ的人間は全体的であるほかないと考えるが、この全的人間の観念は、人間の全活動を探ろうという戦後の普遍経済学の試みにつながるに違いない。
『ニーチェについて』において、バタイユは以前に述べたことを整理して反復し、また他人の言説との差異を明確にしようとする。だが、そこには戦争開始前後のようなつま先立つような切迫感は感じられない。これは、戦争の趨勢が見えてきた時、ファシスムの問題もかつてほどの緊急性を持たなくなっていたということかもしれない。

(この項終わり)



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塵中風雅 (一二)

倉田良成



 元禄三(一六九〇)年の晩秋、芭蕉は湖南の木曽塚から京(と思われる)の加生(凡兆)に宛てて書簡を認める。あたかも「猿蓑」編集のただなかの時期にあたる。以下全文を引いてみる。

頃日去(然)御方(けいじつさるおかた)樣より御文被下(ふみくだされ)、御無事に御いそがはしく御座候由、珍重に存(ぞんじ)候。拙者も持病さしひき折々にて、しかじか不仕(つかまつらず)候故、五三里片(邊)地、あそびがてら養生に罷越(まかりこえ)候。自是(これより)御左右申進(さうまうししんじ)候まで、御状に預(あづかる)まじく候。先以(まづもつて)去来子方病人いかゞ。度々(たびたび)御尋申(たづねまうす)も且(かつ)は物にまぎれいかゞと、延引いたし候。扨々無心元存斗(さてさてこころもとなくぞんずるばかり)に御座候。其許(そこもと)より御次手(ついで)に右之旨被仰達可被下(おほせたつせられくださるべく)候。
一、文集の事も、追付(おつつけ)上京いたし候間、染々(しみじみ)相談可致(いたすべく)候間、何角(なにかと)をも暫(しばらく)御とゞめ候半(さうらはん)と推察申(まうし)候。嵐蘭(らんらん)より燒蚊(かをやく)のことば一巻参(まゐり)候。是も重而(かさねて)持参可致(いたすべく)候。
一、憎烏之文(からすをにくむのぶん)御見せ、感吟いたし候。去乍(さりながら)、文章くだくだ敷所御座候而(て)、しまりかね候樣(やう)に相見(あひみ)え候間、先々他見被成(まづまづたけんなさる)まじく候。殊外(ことのほか)よろしき趣向にて御座候間、拙者に可被懸御意(ぎよいをかけらるべく)候か。文章に増補いたし、拙者(せつしやの)文に可致(いたすべく)候。もし又是然(非)と思召(おぼしめし)候はゞ、拙者(せつしやの)文御覽被成(なされ)候而、其上にて又御改可被成(あらためなさるべく)候。文の落付所(おちつきどころ)、何を底意(そこい)に書(かき)たると申(まうす)事無御座(ござなく)候ては、お(を)どり・くどき・早物語の類(たぐひ)に御座候。古人の文章に御心可被付(つけらるべく)候。此(この)文にては烏の傳記に成申(なりまうし)候間、能々(よくよく)御工夫御尤(ごもつとも)に存(ぞんじ)候。
     九月十三日                      はせを
加生(かせい)
尚々こよひの月、漁家にて見申筈(みまうすはず)に御座候。發句は有(ある)まじく候。野水(やすい)返事も不参(まゐらず)候。もしもし御あひ被成(なされ)候はゞ、先日之返事いかゞと御尋可被下(たづねくださるべく)候。

 加生(凡兆)についてはすでに述べた。書簡冒頭の「去御方樣」とは、貴人のことらしいが不詳。「五三里片地」は堅田のことを指す。ここで芭蕉は「病雁の夜寒に落て旅寝哉」の吟をものしている。書簡ではしばらく手紙をよこさないでほしいと言っているが、こういう言い回しは芭蕉書簡のなかでは意外に多いことに気づく。例を挙げればこれ以前にも「拙者無事の旨御告可被下(つげくださるべく)候。其元別条無御座(ござなく)候はゞ、御状不及(ごじやうにおよばず)候」(元禄元年杉風宛)、「仙台より北陸道(ほくろくだう)・みのへ出(いで)申候而(て)、草臥(くたびれ)申候はゞ又其元(そこもと)へ立寄申(たちよりまうす)事も可有御坐(ござあるべく)候。もはや其元より御状被遣(つかはさる)まじく候」(元禄二年桐葉宛)、「近々他の地へ巣を移し可申(まうすべく)候。しばらく書音絶可申(しよいんたえまうすべく)候」(元禄三年去来宛)などがある。
 ここから一所不住の芭蕉の境涯を思うのは比較的容易だが、私はむしろここに彼の人間関係に対する濃やかに行き届いた神経を見たい。なぜなら、この言い回しと表裏するようにして次の言及がなされているからだ。「罷帰(まかりかへり)候へば、又いつ上り可申樣(まうすべきやう)にも無御座(ござなく)、一入々々(ひとしほひとしほ)御ゆかしきのみに候」、「猶貴面(なほきめん)」(なおくわしくは直接お会いしたおりに)、「此度御厚志忝(かたじけなく)、態(わざと)世間めき候へば、御禮不具(つぶさならず)」(世間並みのことばでは申し尽くしがたいので、わざとお礼は申しません)。なにごとも直接に会って話してみるまでは、友は幻のような存在でしかない。会者定離の人間が、一夜俳席をともにするからこそ連句ははなやぐのだ。一所不住をいうのならそこのところを押さえるべきだろう。
 ところで「去来子方病人いかゞ」とあるのは、書簡註でもいうように去来の猶子(兄弟や親戚の子を自分の義子にすること)俊乗のことを指すか。「猿蓑」巻之三、秋の項には「仲秋の望、猶子を葬送して」の詞書がある去来句「かゝる夜の月も見にけり野邊送」を載せる。「度々御尋申も且は物にまぎれいかゞと、延引いたし候」云々という芭蕉の筆致には、去来に対する並々ならぬ気遣いが感じられるのである。
 ちなみに、書簡本文中にいう「文集」とは、言うまでもないが「猿蓑」のこと。最初の計画では、「蚊ヲ燒」のことばや「烏ノ文」への言及があることからも窺えるように、多く俳文を収録するつもりであったらしい。それが途中から変更になって結局「文」といえるものは芭蕉の「幻住庵記」一篇となってしまったという事情がある。ここで注目されるのは芭蕉が凡兆に対して、その趣向を譲ってほしいと申し出ている点である。けだし、芭蕉の生きていた時代と私たちの生きている近・現代とを大きく分かつところであろう(ただし、比較的最近の例では田村隆一が鮎川信夫から「立棺」ということばを作品のタイトルに貰い受けたということがある)。最終的には「烏」の趣向は、芭蕉の「烏之賦」となって落ち着くのだが、師が弟子の作を奪ったということではない。この書簡のすぐ前の曲水宛書簡のなかでは、「桐の木にうづら鳴(なく)なる塀の内」という句について「うづら鳴なる坪(塀)の内、と云(いふ)五文字、木ざはしや、と可有(あるべき)を珍夕(碩)にとられ候」と報告しており、この手のことは蕉門のなかでは相当自由に行われていたことがわかるのである。付け付けられることはもとより、それに付随する本歌取り、脇起こしなどが日常茶飯である俳諧の世界では当然のことであろう。折口信夫が日本の文芸を「非文学」と喝破したのも、「近代」主義的な解釈では到底理解しえない分厚い伝統を意識してのことだった。そうした流れはむしろその人間一代のみで後人が使ってはならぬとされる詩語、「制(せい)ノ詞(ことば)」という奇妙なものさえ生み出すにいたっているくらいである。
 ところで、凡兆の「烏ヲ憎ム」の文について、それがどのようなものであったか、オリジナルが伝わっていないので不明だが、芭蕉によれば「文章くだくだ敷」、「しまりかね候樣」と形容され、この文では烏の伝記にすぎないものになってしまうとされている。大切なのは「文の落付所、何を底意に書たる」かという点だと芭蕉は言う。「古人の文章に御心可被付候」とも。ではここに「烏ヲ憎ムノ文」の趣向が芭蕉によっていかに増補され発展させられたか、その全文を引いてみたい。なお、芭蕉によるタイトルは「烏之賦」である。

一烏(いちう)大小有りて、名を異(こと)にす。小を烏鵲(うじやく)といひ、大を觜太(はしぶと)といふ。此の鳥反哺(はんぽ)の孝を讃して、鳥中の曾子(そうし)に比す。或いは人家に行く人を告げ、天の川の翅(つばさ)を竝(なら)べて、二星(じせい)の媒(なかだち)となれり。或いは大歳(おほどし)の宿りを知りて、春風を覺(さと)り巣を改むといへり。雪の曙の聲寒げに、夕(ゆふべ)に寐所(ねどころ)へ行くなんど、詩歌の才子も情(なさけ)有るに云ひなし、繪にも書かれて形を愛す。只貪猾(どんくわつ)の中にいふ時は、其の徳大(おほ)いなり。
 又汝が罪を數ふる時は、其の徳小にして害又大(おほ)イなり。就中彼(なかんづくか)の觜太は性佞強惡にして、鳶の翅をあなどり、鷹の爪の利(と)き事を恐れず。肉は鴻雁(こうがん)の味もなく、聲は黄鳥(くわうてう)の吟にも似ず。啼く時は人不正の氣を抱きて、かならず凶事を引いて愁ひを向かふ。里にありては栗柿の梢を荒(あら)し、田野に有りては田畑を費(つひや)す。粮(らう)に辛苦の勞を知らずや。或いは雀の卵(かひこ)をつかみ、沼の蛙をくらふ。人のしかばねを待ち、牛馬の腸をむさぼりて、終(つひ)にいかの為めに命をあやまり、鵜の眞似をしてあやまりを傳ふ。これみな汝食(なんぢむさぼ)る事大にして其の智を責めざる誤(あやまり)なり。汝がごとき心貪欲にして、形を墨に染めたる、人に有りて賣僧(まいす)といふ。釋氏(しやくし)もこれを憎み、俗士(ぞくし)も甚だうとむ。アヽ汝よく愼しめ。ガイが矢先にかゝつて、三足(さんぞく)の金烏(きんう)に罪(つみ)せられんことを。

 ここで若干の註を付しておきたい。○烏鵲/カササギのこと。烏鴉とあるべきか。○反哺の孝/烏は母烏に六十日養われた恩返しに六十日口移しに食べさせる、という伝承を踏まえる。○鳥中の曾子/曾参(そうしん)。孔子の門人で孝をもって知られる。○鴻雁/鴻は雁の大きなもの。ともに美味。○黄鳥/鴬の異称。○粮に辛苦の勞を知らずや/食べものを得るのに苦労することなく。○いか/いかのぼり。凧のこと。○賣僧/俗情に染みた坊主を嘲罵していう。○ガイ(HTML版のための注:羽の下に廾という字)が矢先にかゝつて、三足の金烏に罪せられんことを/ガイはゲイとも。中国古代伝説上の人物で弓の名人。一度に十の太陽が出て暑さに民が苦しんだとき、尭(ぎよう)に命じられて太陽を九つまで射落としたという。三足の金烏は太陽のなかにいるとされる三つ足の烏。

 さて、一読して芭蕉の俳文独特の晦渋さを感じるが、「底意」の意味するところは明らかであろう。「文の落付所」のあるなしは、「文」にメタフィジックがあるかどうかにかかっている。人生観と言い換えてもよいが、私は芭蕉に関してはできるならこのことばを避けたい。たんなる倫理というには、あまりにも高速度・高密度で機能している存在の機微のようなものが感じられるからだ。「古人の文章」は、芭蕉にとって目のあたりに実在し、実感されるものでなくてはならなかった。この「烏之賦」で芭蕉は、烏の大小を分かち、その古典からの面影を引き、その徳と罪とを挙げているが、このようなスタイルはむろん「おどり・くどき・早物語」の羅列主義から完全に脱却しているとは言いがたい。逆に見れば、蕉門全般の「文」に臨む態度は貞門時代からつづく一種の伝統に根ざしていると言えそうだ。しかしこれを宝暦ごろに書かれた次の「俳文」と比較してみるとどうであろうか。

燒蚊辞(かをやくのじ)
おのが身ひとつは唯塵ひぢの幽かなる物ながら、類を引き雲(カ)をなし、夕の背戸に柱を立て軒端に雷の聲をなし、貴賤の肌をなやますより、世に蚊帳といふ物を以て汝を防ぎ、末々の品に至るまで、誰か一釣の帋帳をもたざるべき、積りて世の費いくばくぞや。されば虻の利觜蜂の毒尾も、しひて人を害せむとはせず、既に仇の逼る時、是をもて防がんとするは、人の刀剣を帶するに等し。汝が針は只人の油断をうかがひ、ひとり口腹のためにむさぼらんとす。たまたま蜘の巣につつまれ、人の手に握られて、其針を出すことあたはず、然れば巾着切のはさみには劣れり。今宵一把の杉の葉をたいて、端居を心地よくせんとすれど、猶も透間をうかがふ憎さに、おとなげなき業ながら、紙燭さして汝を駈る。ひとへに汝が業火(ごふくわ)なれば、他をうらむ事あるべからず。さるにても殘ましき汝が身を觀ずれば、
 火をとりに来ぬ蚊は人に燒かれけり     (横井也有「鶉衣」より)

 人も違う。時代も違う。同工異曲だが、芭蕉のそれとくらべて格調の落差はいかんともしがたいところである。ただこの文にただよう、突き抜けたような明るいニヒリズムの匂いは賞してよいだろう。芭蕉の生きていた元禄から半世紀ほどのちの宝暦ごろになると、「俳諧」はこのような姿をとって延命していたことになる。そして蕪村の中興まではあと四半世紀ほどの歳月を必要としていた。しかしそれとても、乱世の翳をどこかで木枯らしのようにまとわせた芭蕉の次の句の世界を「再興」するものではなかった。

いねいねと人にいはれても、猶喰(なほくひ)あらす旅のやどり、どこやら寒き居心(ゐごごろ)を侘(わび)
(すみ)つかぬ旅のこゝろや置火燵(をきごたつ)

(この項終わり)

    * 参考文献/朝日新聞社「日本古典全書・芭蕉文集」(荏原退蔵校註・山崎喜好増補)、同付録(山崎喜好文)。岩波文庫「鶉衣」(石田元季校訂)。


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Booby Trap 通信  No. 6

禁忌と禁忌の侵犯に人間をみる
聖女たち――バタイユの遺稿から/著訳者・吉田裕/書肆山田/定価2000円(本体1942円)

【目次】
●「聖ナル神」遺稿 ジョルジュ・バタイユ/吉田裕訳
「エロチシスムに関する逆説」の草稿
聖女
シャルロット・ダンジェルヴィル
●淫蕩と言語と――「聖ナル神」をめぐって―― 吉田裕
(書店でお買い求めください)
歴史の「中心」をめぐって――友人への9通の手紙/私家版(残部僅少)/無料
【関連資料】吉田裕『歴史の「中心」をめぐって』(非売品)は一九八九年から九一年までの、詩を書いている築山登美夫への手紙を中心に編まれている。八九年の春から一年間フランスにいて、ルーマニアのことなどが日本への情報とは違ったかたちで受けとめられたことなど、もちろん文学をやっている者が状況とどんなふうにかかわっていくか、という根底的な問題ももどかしく感じながらも書かれている。この本のもうひとつの中心はジュネットのセミネールで直接講義を受けた体験と、ジュネットの思想の解析である。ジュネットはタイトル、献辞、序言、あとがき、インタヴュー、自己解説、回想などの周辺のテキストをパラ・テキストという概念にまとめ、テキスト論を展開する。手紙の形式からいっても量的にも、ジュネットの考え方をめぐった随想というかたちであり、著者の関心はバタイユに移っていくところで手紙は終わっている。(中略)
 吉田の本を読んでいてもうひとつ感じたのは、西洋やその他の国の思想の異化ということが身近に自然になってきたということである。わが家にも昨年アメリカ人の少年が二カ月ほど、ごく自然に生活していった。ヘヴィメタルバンド・メガデスのマーティ・フリードマンのアルバム『憧憬』の〈Realm Of The Senses〉という曲の演歌のメロディラインの異化作用。日本の時間的な隔たりによる異化ならば寺山修司作高取英演出『盲人書簡』。(後略)(「週刊読書人」1993・3・15号〈さまざまな異化作用〉・清水鱗造)
(著者に直接注文してください。著者住所:〒168杉並区高井戸西2-7-29)
【近況】『死者』はバタイユのいちばんすごい作品だと思っているが、今の日本語訳の元になっているポヴェール社の版は、ガリマールの全集によれば最終的なかたちではないとのことなので、この全集のかたちで新しく訳してみたい。またこの作品についてもバタイユは、続編を考えていたようで、それが『ジュリー』という題で草稿で残っている。これも併せて訳して(これはほぼ完了した)、これらをどう読めるか試してみたい。ひとつの作家をあまり長くやる方ではなく、バタイユもせいぜい3、4年と思っていたが、どうやら長引きそうな気配である。

Pastiche/田中宏輔/花神社/定価2400円(品切れ)
いくら あなたをひきよせようとしても
あなたは 水面に浮かぶ果実のように
わたしのほうには ちっとも戻ってはこなかったわ
むしろ かたをすかして 遠く
さらに遠くへと あなたは はなれていった

もいだのは わたし
水面になげつけたのも わたしだけれど
(〈水面に浮かぶ果実のように〉)
【プロフィール】1961年、京都生まれ。現在、同志社国際高校数学科講師。『Pastiche』(1993.5刊)は処女詩集。「ポパイ」2.10号47ページに顔写真とインタビューが載っています。同性愛を織り込んだ詩も書く。
(著者住所:〒606 京都市左京区下鴨西本町36-1-2A号)
【近況】一人の青年と出会いました。そして、出会った次の日に、彼は仕事の都合で、遠い所に行きました。でも、まだ、キスしかしていないのに、一日しかいっしょに過ごしていないのに、彼のことを考えると、胸がいっぱいになります。いま、ぼくはこんなことを思っています。愛することはたやすい。愛されることもたやすい。信じることさえできれば、……と。

新刊!
『蚤の心臓』/関富士子/思潮社/定価2600円(書店でお買い求め下さい)

棚の下の暗がりをすばやく歩く者は
猿のような後ろ姿だが
首だけあおむけて
蜂をほおにとまらせたり
幹の蟻をこすり落としたり
蔓や葉は光の方へ伸びるが
房がながながと垂れるので
日暮らし膝でいざり歩く
下草に濡れてふるえながら
てのひらで房の重みをはかっている
房は熟して張りつめ
汁がその手にしたたるだけで発酵する
びしょぬれで飲みつづける毎日のあと
枯れ落ちようやく明るんだ棚の下で
酔いざめのくしゃみをする
〈時をめぐる冒険〉より〈葡萄畑〉
【プロフィール】1950年、福島県生まれ。双子座のB型。編集業。特技は早寝早起き。趣味は飼育。詩集『螺旋の周辺』(1977年)、『飼育記』(1991年絶版)。現住所〒351朝霞市泉水2-7-34-101
【近況】トルストイの民話を読んでいたら、汚れた雑巾でテーブルをふく主婦の教訓(神の名づけ子)があったが、心の迷いを縞模様のテーブルにたとえるのは妙に実感がある。

長尾高弘
【近況】詩というやつは、クスリのようなもので、次第に強いものでないと効かなくなってくるようです。詩を再開してからそろそろ1年近くなるのですが、去年なら満足できたものでも、今年は満足できません。最近「ロシアアヴァンギャルド6:フォルマリズム」(国書刊行会)という本を手に入れたのですが、巻頭から、言葉(そして状況や作品も)は時間とともに形式(音とイメージ)を奪われ、化石化し、詩から散文への変遷をたどるといった内容の文章にぶつかり、おおと声を上げそうになりました。満足はいつまでも続かないのです。
【プロフィール】1960年4月6日生。(住所:〒223横浜市港北区東山田3-26-16)

沢孝子
(住所:〒560豊中市東豊中町5-2-106-504山形方)

白蟻電車/清水鱗造/十一月舎/定価1500円(送料込み)
穢れを通して生きていることの意味を探るというのはかなり勇気の要ることだ。清水鱗造はいまそれを敢えてやろうとしている。――鈴木志郎康(帯文より)
蟻の文字がぎっしり詰まった丸まった新聞紙が
ボッと発火する
吉凶吉凶吉凶…と燃える
家系を満たす甘い雪崩…と燃えている
凌辱するものは味方でも撃て…と燃える
菊が硫酸に浮いている
声がただれてくる
逆円錐の渦(白眼)
渦(白眼)
渦(白眼)
渦(白眼)
渦(白眼)
百平方メートルの皮膚がいっせいに鳥肌立つ
(〈渦群〉より)
【近況】木の枝のように、いろいろ考えることややることが湧いてきます。もちろんその枝のひとつにBooby Trapがあって、湧いてくることのリズムをつくっていくのですが、さらにここからまた太い枝にしていきたいと思ってます。文庫本を週に1冊ぐらい買って、楽しんで読んでいます。積んどくになっていた書物もすこしずつ消化しています。今年も詩集はたくさん読みました。味読という感じで読めればいいのですが、それができる時間が欲しいです。C.G.ユングは折りにふれて読むのですが、この秋も3冊ほど読みました。
(著者に注文して下さい。著者住所:〒154世田谷区弦巻4-6-18)

解剖図譜/築山登美夫/TEC/定価1600円(送料込み)
 *
そこに蹲っていると
さまざまな風景が視えてくる
汚れを落とそうと鰭をばたつかせて
かえって泥まみれになってしまう
泥海の魚
なだれ落ちてはさかのぼり
そこが元の位置だとは気づかずに
くりかえしなだれ落ちていくエッシャーの滝
あらゆる方向に並列した蛆虫のむれが互いを忌避しながら
けっして交わらずに遠ざかっていく
なだらかな斜面
さまざまな風景が乱脈に
ひとつの舞台のなかに組みこまれる
灰をかぶった登場人物の顔はみわけがつかず
せりふから直接性は剥ぎとられ
それぞれに勝手気儘な長広舌をふるっている
その舞台のなかに入って行くと
そこが広さも奥行きもない寝室であることを知らされる
私たちはそこで心ゆくまで
たがいの体をあじわいつくす
  (「夢がたり 三つの断片」より、第二の断片)
【著者紹介】1949年10月生れ。詩集『海の砦』(82年/弓立社刊/1400円)、『解剖図譜』(89年/TEC刊/1600円)。
【近況】今年の夏は息子と隠岐島に行ってきました。記憶の写真がたまります。ひどく消耗しながら、みじかい瞬間のかがやきを追いもとめていくしかないのでしょう。女のところへ行こうとしてバイク事故で重傷を負い、顔面マヒのまま堂々と記者会見に現れたビートたけしは男の鑑だと思いました。そして、〈女〉なるものとの葛藤のあげくの吉行淳之介の〈戦死〉も。だれも非難できない大義や人権をうりものにしてきた「今年度ノーベル文学賞作家」とはエライちがいだ。本のオススメは竹田青嗣『ニーチェ入門』、小浜逸郎『ニッポン思想の首領たち』――ともに現在をのりこえようとする試みの煮つまった停滞のはてに、唐突に未来に出てしまった感のある力作で、共感をおぼえずにはいられません。云わでもがなのことでしょうが、これらの仕事を政治に翻訳すれば、現在の自社連立政権なるアンシャン・レジームを根柢的に否定していることになります。(94/10)(現住所〒145大田区北千束2-15-12-302)

長編書き下ろし!
倉田良成詩
〈金の枝のあいだから〉/私家版/頒価2300円(送料共)
挿画・造本/三嶋典東

はげしい視線が照射する
十月を堪えてあるく
世界のおおきな翳りのなかを
むらがりあつまる朝焼け
秋の身体に迷走神経のようにからまる
ねじれた風の束のむこうから
たびびとがやってくる  (パート6「たびびと」より)
【近況】主義、というほどではないけれど、コーヒーにはクリームを入れないで飲んできましたが、最近になって無慮ウン十年ぶりにクリームを入れるようになりました。なんだかブラックコーヒーに体のほうが倦んできた感じです。これも年のせい、ということになるのでしょうか。月に二篇は作品を書くこと!

パソコン通信で「Booby Trap」の一部が読めます!
◎Panix BBS
・所在地 東京
・ホスト mmm
・電話番号 03-5430-7062
音楽、読書などの話題を中心とした草の根ネットです。現在52人の会員がいて、楽しいコミュニケーションをしています。guestでログインすれば入会手続きができます(入会無料、接続分の電話代がかかるのみです)。pmdさん、rapperさんが運営している世田谷区にあるBBSです。「Booby Trap」編集者や一部執筆者と電子メールの交換ができ、過去の作品の一部をボードで読むことができます。通信のやり方は編集者まで気軽にお尋ねください。(執筆者ID=gizmo[清水鱗造]、nyagao[長尾高弘]、SINKAN[園下勘治])

【編集後記】いろいろ、Booby Trapに関連させてやってみたいことがあるのだけど、16号を編集しつつ書き手たちと相談して、来年にはやってみたい。バックナンバーは12〜14号のみ残部あります。

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
[No.15目次]
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