バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第9回

吉田裕



7 戦後の場合
 ヨーロッパでの戦争は、四五年五月八日に、ベルリンで降伏文書が調印されることで終わる。フランスではパリが四四年八月二五日に解放されるが、六月の連合軍のノルマンディ上陸の頃から、戦争の終わりはちかいと予感されていたようだ。この時期以後、バタイユは、消費をも含んだ普遍経済学の体系を構想し、それを示すために『呪われた部分』という題名の三巻からなる複合的な書物を考える。それは第一巻『消費』、第二巻『エロチスムの歴史』、第三巻『至高性』というものだったが、実際に刊行されたのは、第一巻のみでこれがふつう『呪われた部分』と呼ばれる。第二巻は後に書き直されて『エロチスム』として刊行されるが、『至高性』は遺稿として残された。その中に三つのニーチェ論が含まれる。またほかにそれらの元になった雑誌論文がある。戦後のニーチェ論の中心は、これらの論文だが、中で目につくのは、ニーチェとコミュニスムの関係を取り扱ったものである。この問題が戦後のバタイユのニーチェに対する関心の中心にあった。それに対比すると、ほかの問題は個々の思想家との比較の問題の域をさほど出ないように思われる。
 四六年の「ジッド・ニーチェ・クローデル」は、表記の三人の作家に関する独立した短い三つの書評からなっている。クローデルに関する項にはニーチェに関する言及はない。ジッドに関する項では、ニーチェの「更なる仮面を」という願いはジッドにおいては百倍もかなえられたという一節があるだけである。ニーチェに関する部分は、キノーという人のニーチェの翻訳および注解の本に対する書評である。キノー氏は、ニーチェを〈キリスト教なき十字架の聖ヨハネ〉、つまり神の探求者とみなしたらしい。この見方は一見バタイユに近いように見えるが、バタイユはそれを、〈神的なものの感覚は、悲劇的なやり方で神の不在の感覚に結びつく〉と批判する。神の探求は、神の不在にいたりつくからだが、この点は、いわゆる神秘家とバタイユを区別する最も重要な点である。
 四九年の「ニーチェ・ブレイク」も、独立した二つの書評が合わさったものである。ブレイクは、ロールの棺に詩集『天国と地獄の結婚』が入れられたり、また『内的体験』に詩が引用されるなど、以前からバタイユの愛好する詩人ではあった。バタイユは、ブレイクがシュルレアリスムに近かったこと、またキリスト教的モラルに敵対したグノーシス的傾向を持つ幻視者であったことを評価する。ブレイクに関する言及は五一年の「ニーチェ」にもあって、この詩人は〈ニーチェの知られざる先行者〉で、「善悪の彼岸」の世界を最初に考察したと述べられている。
 五九年の「ツァラツストラと賭の魅惑」には、興味を引く問いかけがある。それは第一次大戦以来、ドイツの多くの青年がポケットに『ツァラツストラ』を持って戦死していったが、それをどう解すべきかという問である。バタイユは次のように答える。〈そのことは、たいていの場合、著者が危惧したように、この書物が誤解されたということを考えさせる〉。この誤解をバタイユは、戦争の質の違いに見ている。戦争は、古代においては人間の高貴さを示す無償の行為でありえたが、一九一四年においては、目的と結果を重視する合理的な操作にすぎなくなり、ニーチェの言う戦争とはまったく違ったものとなっていたと彼は言う。戦争に関する解釈は、検討の余地があるだろうが、これはまたニーチェを戦争賛美者として利用したファシスム的な理解への批判として読むことができる。
「ニーチェとイエス」は、ジッドとヤスパースのニーチェ理解に関する本に対する書評を元にしている。ジッドについては、ルネ・ラングという批評家のジッドに関する評論、またヤスパースについては『ニーチェとキリスト教』が対象である。ジッドに対するバタイユの評価は厳しい。バタイユによれば、ジッドは、イエス自身の言動とパウロによって確立された宗教としてのキリスト教を区別したものの、ニーチェのことを、教会は批判したが、イエスには羨望と共感を持ったとみなしてしまう点で誤解をおかす。
 バタイユは、パウロの解釈を逃れたところに見いだされるイエスに対するニーチェには、なおも批判が存続しており、そこにこそ本来のニーチェが現れると考える。この判断を支えるのがヤスパースの分析である。ヤスパースによれば、ニーチェにおいては、イエスに対して常にディオニュソスが対置されていた。バタイユはヤスパースを、次のように引用する。〈十字架上のイエスの死は、ニーチェの目に生命の衰退と映り、生命に対する糾弾となっているのに対し、ばらばらに引き裂かれるディオニュソスは、彼にとって、悲劇的な快活さでもって昂揚し、絶えず更新される生命を意味する〉。だがこれは、イエスをただ嫌悪して退けることではない。ヤスパースは次のように続ける。〈だが驚くべき曖昧さを保ちつつ、ニーチェは――確かにまれにではあるが――イエスの態度を束の間自分のものとすることができた。そして狂気のなかで書かれた短信………にいたるまで、ディオニュソスの名のみならず、「十字架にかけられし者」とも署名した〉。
 ニーチェがイエスに持ったのは、ディオニュソスを媒介として一体となった嫌悪と共鳴である。ヤスパースのこの分析を受けて、バタイユは、イエスに対するニーチェの感情を次のように述べる。〈………深いところでニーチェはイエスに似ている。とりわけ、二人はともに、彼らの心を離れなかった至高性の感情と、至高ななにものも「モノ」からは生じないという等しい確信とによって動かされていた。ニーチェには自分たちの類似のほどがわかっていた〉。至高性の感情は、イエスによってもっとも強く経験されたとバタイユは考える。しかしこのイエスは、ディオニュソス的ニーチェ的なイエスなのだ。これはキリスト教に対する、もっとも肉薄したところからの批判であり、バタイユの反キリスト教の意識をよくうかがわせるところである。
「ニーチェと禁制の侵犯」は、ニーチェをモデルにしたとおぼしいトーマス・マンの「ファウスト博士」を発端とする。モデルという点では、バタイユの評価は高くない。この本は〈哲学者ニーチェの相貌を照らし出すどころか、その特徴を消してしまう〉。ただバタイユに示唆的だったのは、ニーチェが人間の限界を超えようとしたファウストという伝説上の人物に擬せられたという点であろう。ファウスト的な悪魔との契約は、レーファーキューンの宿命で、ニーチェはそこから遠いところにいるとバタイユは考えるが、人間の限界、つまり禁制を超えようとして、なかば伝説となるほかなかった人物たちとニーチェを比較するように彼は促される。対象は、ダ・ポンテとモーツァルトによるドン・ジュアンと、サルトルが描くところのボードレールである。
 バタイユは、合理主義による無神論は評価しない。それは神に対する無知であり、禁制を犯すとしても、それと知らずに犯すのであって、本当の意味では禁制を犯すことにはならないからである。ドン・ジュアンが自分が殺した騎士長を招待するというのは、死者に対する恐怖を感じないでそうしたのだから、禁制の侵犯にはならない。ただ彼が最後に、後悔を迫られながら「否」を言い通すとき、それは自分が地獄に呑み込まれることを確信した恐怖に満ちた「否」であって、神の死を確信したことから来るニーチェの恐怖に通じるものとなる。しかしバタイユは、ニーチェの恐怖が道徳的要請のかたちを取って内側から来るのに対し、ドン・ジュアンの場合は、彼をうちひしぐ力はあくまで外側から来ると考える。したがって、バタイユにとっては、ニーチェの例のほうがさらに本質的なのだ。
 ボードレールについては、バタイユはサルトルの革命家と反逆者、無神論者と黒ミサの司祭の差異から出発する。サルトルによれば、革命家は世界の秩序をかえることを望み、無神論者は神のことなど気にかけないのに対して、反逆者は破壊することも乗り越えることもなく、結果的に秩序を尊重するだけであり、黒ミサの司祭は、神を尊重する故に嘲弄するだけである。ボードレールはこの後者の例とされるが、バタイユはサルトルのいう革命家も、既存の秩序を覆すとしても、なお新たな秩序を作り出さねばならず、秩序を逃れられないという点では、反逆者と変わりないと批判する。彼は禁止と侵犯の関係が、単純な二者択一ではありえないもっとアンビヴァレントなものだと考える。規範とそれに対する侵犯は、規範の無視によるのでもなければ、規範に対する無力に終わるのでもない。規範は侵犯のために保持されねばならず、保持されはするが、確かに破壊はされるのである。〈ニーチェは神を気にかける無神論者である〉、あるいは〈ニーチェは、はじめから禁止と侵犯のどちらか一方に身を任せきることはできないという逆説的な不可能に気づいていた〉とバタイユは言う。この両義性、それがつきることのない動的な力の源泉ではあるのだ。

8 コミュニスムの問題
 コミュニスムは、ヨーロッパにとって、ファシスムがとりあえず現実の問題ではなくなったあと、もっとも緊急な問題となった。しかし、コミュニスムという用語は、バタイユにおいては多様な意味を含むから、注意を要する。彼が二〇年代に初めて左翼運動に接近したとき、それはすでにコミンテルンの系列にある公認のコミュニスムではなく、トロツキーとスヴァーリンの系譜を引く反スターリン主義の運動の側であった。この経験は戦後にも尾を引く。戦後の左翼運動、また実存主義を通じての知識人のアンガジュマンの運動がもっぱらソ連の影響下におかれた時、この経験はそれに追従することをバタイユに許さなかった。だが同時に、このロシア的に変質したコミュニスムを批判することを、他の人々に先んじて可能にもしたのである。
 しかしながら、この批判にも時代的な限界があることは、承知しておかなければならない。九〇年代も半ばにいる私たちは、すでにソ連と東欧圏の崩壊を経験し、またそれ以前にスターリニスムはもちろん、トロツキスムを批判することも、マルクスをいわゆるマルクス主義から分離して読むことも知っているからだ。だがバタイユのコミュニスム論は、これらとは異質なほかに例を見ないものである。それは三〇年代のいくつかの論文と実践に散見されるが、まとまったかたちを見せるのは、戦後の『呪われた部分』の第五部と、『至高性』の第二、三部においてである。前者はコミュニスムを、主に経済的な観点から、後者は人間の原理としての至高性の観点から追求しようとしたものである。これらの考察は、理論的であるよりも、コミュニスムと称するところの社会の現状を対象とした実践的な分析である。バタイユがコミュニスムと言うとき、それはほとんどの場合、ソ連式の社会主義である。〈コミュニスム――むしろスターリニスムと言ったほうがよい〉とバタイユは言う。
 またバタイユのコミュニスムは、ブルジョワ社会に対立する社会を指しているのではない。『至高性』のなかで示される彼の歴史的なパースペクティヴは、特異なものだ。彼の視点はただ至高性の上にある。彼の原理では、フランス革命とロシア革命の間にほとんど差異はない。前者がブルジョワ革命で後者が社会主義革命という定義は、意味をなさない。至高性を原理として歴史的な区分を行うとき、バタイユが本質的とみなす変化はひとつであって、封建制から近代への移行の根底に見いだされる変化だけである。封建制とは、王政、君主制、帝政すべてを含むが、それは〈富を非生産的な様態で用いることにもっとも優先権が与えられている〉社会であった。それに対して革命が起こったとき、たとえばフランス革命だが、それは〈資力や諸手段を蓄積する〉社会をもたらしたのである。しかしこの変化は、ただフランス革命、イギリス革命のみによってもたらされたのではない。それは、封建的支配と結びついた教権に反抗した都市市民の運動であった宗教改革がすでに持っていた変化であり、広い意味での「産業革命」だったのだ。
 ところでこの変化は、二〇世紀の革命、つまりロシア革命においても変わらないとバタイユは考える(中国革命は五〇年代にあっては進行中で、彼は判断を保留しているが、基本的にはロシア革命と同質だとみている)。彼はまず、ロシア革命がブルジョワ革命の達成のあとで初めて可能になる社会主義革命として実行されたのでなく、封建制を直接打倒する役割を担わざるをえなかったことを指摘する。それはすでに当初からレーニン自身らによって認識されていたことだが、この変質は理論の部分的な変更だったのではない。以後期待された本来の社会主義革命がドイツにもフランスにも起こらなかったこと、それにロシア革命が実際上は主に農業の集団化や計画経済として実行されたことと考え合わせると、コミュニスム革命とは、本質的には封建制打倒の革命、富の蓄積をめざす革命だったのであって、そこに成立したのは、西欧的なブルジョワ社会と性格を同一とする社会だったのである。〈ブルジョワ社会とスターリン的社会は、ほぼ同じかたちで封建社会に対立する〉。しかも、中央集権的な権力構造によって実行される計画経済という面から見れば、ブルジョワ社会よりもはるかに徹底した効用と蓄積の社会である。この点においてコミュニスム社会は、ブルジョワ社会のさらに前方をいく〈現代社会にとって不可避の運命〉なのだ。
 そして至高性が富の消尽に根拠を持っているとすれば、富をあたう限り蓄積と再生産に振り向けるコミュニスム社会は、〈至高性が否定される世界〉(第二部第三章題名)である。バタイユは、〈本質的にあらゆる人間に属する〉はずの至高性が、ただそれを放棄するというネガティヴなかたちで実践されるという〈平等主義的消尽〉によって、また〈君主にも似た権利をロシアの国民に対して持っていた〉スターリン個人によって実践される可能性があると言っているが、放棄は放棄であり、スターリンが持っていたのは本当は至高性ではなく、強大ではあるがただの権力にすぎず、いずれの場合も蓄積されたもろもろの力の自由な消費という意味での至高性は、コミュニスム社会では完全に抑圧される。
 これは単にソ連だけの問題ではなく、世界全体の今日と明日の問題である。このコミュニスム的社会に、ニーチェの思考だけが対立する。〈ニーチェの立場は、コミュニスムの外に対立するただひとつの立場である〉(「ニーチェとイエス」)。また彼は自分のことも、ソ連的なコミュニスムとは無縁であると言っている(「『至高性』第三部第二章)。「ニーチェとコミュニスム」で、バタイユは次のように書いている。〈伝統的な至高性=君主権については、彼もコミュニストたちと同じ態度をとった。だが彼は、人間が――ひとりひとりの人間が――ある集団的企図の手段であって目的ではないような世界を、受け入れることはできなかった。彼が国家社会主義の先駆者たちを相手取るときの嘲笑的なアイロニーやコミュニスムの元になった当時の社会民主主義に対して示したそっけない、しかし軽蔑なしの拒否は、そこから生じる。他に仕えること(有用であること)への拒否こそ、ニーチェの思想の原理である〉。他に従属することへの拒否、それ自身の価値を求めること、これがファシスムに抗しようとするバタイユが見いだしたニーチェの原則だったが、バタイユのコミュニスム批判の根底にあるのもまた、同じ原則である。バタイユにおいて、ファシスムに対立したのは唯一ニーチェだったように、コミュニスムに対立するのも唯一ニーチェである。これを見るとき私たちは、ニーチェこそが、バタイユにとって生涯を通じてもっとも親密な思想家であったと確認することができる。(了)

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