第21号 1996.8.28 227円(本体220円)〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18(TEL:03-3428-4134;FAX:03-5450-1846)(郵便振替:00160-8-668151 ブービー・トラップ編集室) Internet Homepage:http://www.kt.rim.or.jp/~shimirin/ http://www.st.rim.or.jp/~t-nagao/ E-mail:pcs35778@asciinet.or.jp shimirin@kt.rim.or.jp 5号分予約1100円(切手の場合90円×12枚+20円×1枚)編集・発行 清水鱗造 ロゴ装飾:星野勝成 |
さそわれる、ように、ひかりの、 |
駿河昌樹 |
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わたし、たちとなった風、景 |
駿河昌樹 |
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辰野豊吉商店の顛末 観察詩1 |
山本育夫 |
辰野豊吉商店の古い木造のたたずまいを、春の午後、しばらく観察していた日があった。風もなく穏やかな昼下がりではあったが、喉の仏のあたり、誰かがいがいがしい触りのようなものを残していった気がする。それがいつのことだったのか、思い出そうとするのだがぼんやりとしていてどこまでも覚束なく、さてあれはいつのことだったのか、そうあらためて一人で言葉に出してみる。しかし、そんなことにはいっこうに無頓着な装いで、辰野豊吉商店は、背後に黒く大きな塊のような影を抱え込んだまま、時間の荒波を力業で耐えているように思えた。まず、辰野豊吉商店の「表面」について観察してみる。商店には通りに面して六枚のガラス戸がはめこまれている。往時にはこのガラス戸は開け放たれていて、近隣の人々は通りすがりに「おい、豊吉っあん、そこんとこにある黒いガラス玉みてえなもんはなんでえ」「ほお、またへんなもんを買いこんだもんじゃんけ」などと言って冷やかしたという。だいたいがこの商店。商店というわりには摩訶不思議な商品ばかりを集めて店に並べていたらしく、役所の古文書をひもといてみると「辰野豊吉商店に至っては言語道断」などという役人の墨書が残っているので、思わずその「言語道断なる商品とはいかなるものであるのか」と詮索したくなる。六枚のガラス戸には、その二枚ほどを荒々しく横断する形で長細い板が、平行に、時には交差するように打ちつけられている。その板の表情を仔細に凝視して見るまでもなく、緻密に付着している埃の垢。のみならず商店の正面全体にはくまなく埃の垢が付着していて、それがちょうど人の体に分泌していく垢のように、言いようのない「てかり」を持っているのが不思議だ。通常の埃なら乾燥質のパウダーのようなものなのだが、それに比べると確かに、辰野豊吉商店の表面に付着している埃は、どこか生きた肉質を感じさせるところがあり、風向きによっては恐ろしく本質的な臭気を伴うことさえある。表面のおうとつのなかには、明らかにかつて「辰野豊吉商店」という浮き彫りの看板であっただろうと思われるものもある。それは斜め右に少しばかりかしがってぶらさがっている。辰野豊吉は人肉を売っていたという、まことしやかな噂が流れたことがある。その噂のでどころは、辰野豊吉の親類筋にあたる日比野捨吉という男だった。捨吉がある夜遅く、何かのついでがあってぶらりと豊吉を訪ねた日のことだ。いくら呼んでも誰も出てこないので、おい、豊さんあがるよといって、捨吉は奥の部屋までずんずんと進んで行った。すると座敷の暗闇の中に、豊吉がむこう向きにこう座っていて、振り返るとその口に千切れた子どもの手をくわえていたというのである。これはいささかできすぎの話ではあるが、確かに豊吉の戸籍謄本を見てみると、一家八人がわずか五年の間に皆死に絶えているのである。豊吉の両親も、豊吉の妻も豊吉の娘と息子四人も、すべてが病死している。しかも豊吉は、一切葬式などあげなかったので、その得体の知れなさがますます奇妙な風評を生んだのであろう。豊吉自身も、初めは左指が、つづいて左手首が、さらに左腕が次第になくなってゆき、しまいには右足は股の付け根のところから義足になっていたという。辰野豊吉商店の店先にはいつも、黒い奇妙な臭気のある塊が、ギヤマンの透明な容器のなかに実に丁重にしまわれて並べられていた。そのギヤマンの数は百個にも及んだというから驚くのだが、もちろんそんなものが売れるわけもないので、実は豊吉が食っていたに違いないと噂された。ある日、捨吉が店の裏手からひょいと庭先を覗くと、開け放たれた縁側の鴨居で首を吊って死んでいる豊吉の姿が見えた。すでに腐りかけていて、庭には体の一部と思われる肉塊が落ちていた。不思議なことに、義足だけは体から離れずにいたという。静かな日だまりが豊吉の周辺を明るく照らし出していて、鴬が鳴いていた。 |
清水青磁歯科医院の狂騒 観察詩2 |
山本育夫 |
歯科医院の午後は、モダニズムの憂鬱である。誰も彼もが眠ったように動かない。ひとけのない真っ白な土道を、黒い影を引き連れてひとりで、ぽつんと、そう、全身にいっさんの蝉時雨を浴びながら、清水青磁がウィスキーのポケット瓶に、こう、人差し指を差し入れたまま、立っている。上下白の綿のスーツが細かな皴を寄せているのは、哀愁である。白いハットが清水青磁の顔を黒い塊にしていた。その青磁の立ち姿を見ていたのは、この村の頭上一面に午後からむくむくと発達していた巨大な積乱雲ばかりであったが、実はもうひとり、清水青磁歯科医院の二階の、洋風の白い窓からその姿を覗き見していた者がいた。清水菜々子、つまり清水青磁の次女である五歳の娘。清水青磁が道の真ん中に立ちすくんでいたのには理由があったのだが、その時その理由をもちろん村中の誰一人として知る者はなかった。広大な敷地を持つ歯科医院は、林の中に建つ西洋館であり、当時としては珍しい地下室を持っていた。昼でも庭は湿り気を帯び、その湿り気はそのまま地下室にも這い及んでいて、奇妙な人体模型の残骸や、頭蓋骨などが散乱しているその暗い部屋の奥には、巨大なコンクリートの桶がしつらえてあり、ホルマリンがあたり一面に臭気を放っていた。そこに母が眠っているのを菜々子は知っていて、時折その小さな白い足の裏をひんやりとさせながら地下室の桶を覗き込み、母さま早く目を覚ましてねと呼び掛けたりしていたのであるが、しかし眠っている母の真っ白な裸身の中の柔らかな乳房の丸みと乳首の朱色、股間にゆらりと立ち上がっている陰毛の、その黒い茂みを無表情な目で見つめていることもあったというから、すでに五歳にして菜々子は、宿命をその白い小さな心に痣のように染み付けてしまっていたのかもしれなかった。その母の裸身には、首がなかった。清水青磁の人差し指の先の、茶色い小さな空間の中で、ちゃぽっと、ウィスキーの芳醇な香りが跳ねた。よく見るとその、琥珀色の水の面には、小さく白い積乱雲の影が映っている。清水青磁はそれから、ゆらりと歩みを進め、それと同時にあたりには村の日常の活気のようなものがよみがえったのではあるが、そのとき歯科医院の一階にある診療室の暗い医療器具たちもまた、周囲にあった少ない光を吸収してざわりと身震いした。その診療室の片隅で、向こう向きに座り込んで一心に江戸川乱歩の少年探偵団を読んでいるのは、長女の祥子。祥子は今日、級友の葬式で長い弔辞を読んできたばかり。そのとき流した涙のあとが白く、切れ長の鋭い目の縁に残っている。土道をゆく、青磁。明日は「天皇陛下」が「御越し」になるというせいか、太平醸造社長金丸信は、額の汗をぬぐいながら社員をどやしつけている。おお、青磁さん、と信は青磁を見つけて歩み寄り、それにしても顔色がわりいじゃねえか、とそっとうかがったが、すぐにまた、なにしろ明日は陛下が来る、この村も有名になる、と吐き捨てるようにそう言うと、そのまま背を向けた。青磁は、そんな信に構いもせずに、角の豆腐屋に入っていく。振り返る豆腐屋主人、坂田冬至。その一瞬に喉仏をするどい何かでかき切られた。血はあたり一面に吹き出し、水底に沈む白い豆腐の塊はみるみる赤く染まった。青磁は指の先のウィスキー瓶をいつの間にか石塀の角か何かで叩き割っていたのであった。「翌々日」の新聞記事がある。山梨日日新聞である。四十年ほど前のこの事件は、紙面の片隅に小さく報じられている。なにしろ「翌日」の新聞の一面には大々的に天皇陛下の来訪記事が載ったばかり。あまりにも不吉な出来事であり、しかも事件は天皇が来訪する前日に太平醸造の隣の店で起こったのであったから、報道を押さえられたに違いない。「歯科医師、妻を寝取られ逆上し、豆腐屋を殺す」と、ある。なぜ青磁が妻の首を切ったのか、また、妻の首はどこに隠されたのか、ついにわからぬままであった。 |
亀の背に乗って帰る。 |
田中宏輔 |
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タコにも酔うのよ。 |
田中宏輔 |
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銀河系 |
築山登美夫 |
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ふとんにはいる時 |
布村浩一 |
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成りたち |
阿部恭久 |
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昼夜 |
阿部恭久 |
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三月うさぎ |
倉田良成 |
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播種 |
清水鱗造 |
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バタイユ・ノート3 バタイユ・マテリアリスト 連載第5回(最終回) |
吉田裕 |
9 「老練なもぐら」 「老練なもぐら」は、執筆時期を特定できないものの、草稿として残されたものを辿っていくと、「サド」のあとに書かれたことは確かなようだ。「サドの使用価値」では、等質的同一的世界から分離された異質なものがさらに、高貴な異質さと忌まわしい異質さに分離すること、だがこの前者は等質的な世界と同化してしまいがちであるのに対して、後者はどこまでも異質なものにとどまることがサドを主題にして述べられた。「もぐら」は、たしかにこの点を引き継ぎ、比較して言えば、等質性と異質性の分離と後者の中のさらなる区別を前提とした上で、低い異質性から発する高い異質性に対する激しい、けれども論理的な批判が中心となっている。反対に、社会革命との関わりの問題は、それほど厳密には述べられない。多く言及される作家はニーチェだが、ニーチェそのものが問題にされるのではなく、それはこの場合ひとつの例である。簡単に言えば、これはイデアリスム批判を主題とする論文である。反対に「サド」にあった社会革命との関連づけは、「もぐら」ではそれほど明瞭には現れない。この点は、同時に書かれつつあった一連の異質学の草稿に委ねられたのだろう。 高貴な異質性と低い異質性の対比は、「もぐら」では鷲ともぐらの対比としてあらわされる。鷲とはもちろん高く飛ぶもの、もぐらとは地の底、腐敗の中をはいずり回るものである。前者はブルトン、後者はバタイユである。後者は次のように批判を展開する。 同質化された社会の内部から批判者が出ることはないわけではない。その同質性から来る束縛に息苦しさを感じるからだ。だがそれは、しばしば次のような経路を取ることになる。彼らはこの社会から脱出しようとするのだが、現実的な世界を動かすことが難しいために、その脱出は抽象的、観念的な世界に向かうことになってしまう。それは、十分な批判と破壊を行いえないときなのだが、結果として、この社会を批判するためにという理由のもとに、より高みにある別の権威を求めることになってしまう。求められた権威とは、神という名を持ってはいないとしても、精神、超現実、絶対など、イデア的なものである。それは高貴な異質性にほかならない。これがシュルレアリスム(超現実主義)とニーチェの超人に含まれる超の意味である。 この高みへの志向、観念性が同質性と癒着して権力を構成してしまう危険は、「サド」で明らかにされたが、「もぐら」ではもう少し別の可能性が示され、より詳細な分析がなされている。すなわちこの高みへの思考が同質性とすぐさま癒着しない場合でも、倒錯と退廃に陥らざるをえない。なぜなら、自分の出自たる場所から観念の世界へと越え出たものは、批判の視座を勝ち得るものの、距離を持つことによって不安を持つことになる。観念性は、それが強くなればなるほど、深い不安、一種のインフェリオリティ・コンプレックスをもたらす。このコンプレックスは罪責感と自己処罰の感情として現れる、とバタイユは言う。罪責感とは自分の出自の場所を離脱したことに起因するものであり、それが高じるとそのような誤りを犯した自分を処罰しようとする衝動が無意識のうちに現れるのである。それはまたすでに「去勢されたライオン」の去勢でもあった。古典的な例を引くならば、天上の火を盗んで禿鷲に肝臓を裂かれ続けるプロメテウスであり、あまりに高く太陽に近づいたために失墜するイカロスである。 同じことが〈純粋に文学的な存在〉であるブルトンにも起こっているとバタイユは指摘する。ブルトンは第二宣言の末尾で〈一切の事物の獣性に対抗するイデアという復讐の武器〉と言っている。彼はイデアを自分の根拠だと確信している。この立場はバタイユの対極にある。バタイユによれば、ブルトンはポエジーの領域内から出ることができず、出ようともせず、不可避的にコンプレックスと退廃をはらむ。『第二宣言』冒頭には、〈もっとも単純なシュルレアリスト的行為は、ピストルを手に持って街路に降り立ち、できるだけあてずっぽうに群衆に向かって発砲することだ〉という物議を醸した一節があるが、バタイユはそこに、罪責感と自己処罰の欲求があることを見出す。これはイデアの世界にあまりにも深く入り込んで支えを失った心情が、罰されたいという無言の欲求を隠しつつ、どのように爆発するかを示しているのだ*1。 次いで重要なのは、この精神の劇が社会の中に位置づけられていることである。それは「サド」で、作家としての物質性の探究が革命運動と重なり合おうとする様として触れられたが、「もぐら」においては、もっと今日的な姿をとることになる。 神であれ、王であれ、単一的な権力に支配されているゆえに同質的な社会からも、批判的な精神は生まれうる。しかしながら一九世紀においては、この観念的な革命性は権力と癒着し、革命を挫折させ、軍事的なファシスムに接近する。ナポレオンがその例であった。そしてニーチェは*2、一九世紀終わりにおいてもその危険があることを、古典的な優越者のモラルを称揚することで示すが、シュルレアリスムは今日もまだ同じ危険のあることを示す。しかしながら、今日事情はある意味では根本的に変わった。中世において騎士階級は、現実には無慈悲な略奪者にすぎなかったが、聖杯伝説を媒介にして騎士道の理想という神話を作りだしえた。だがブルジョワ社会の支配者たちは、このような聖化の可能性を持っていない。銀行家はどう見ても英雄となりえない。そのようなとき、聖なる異質さを担うべき人間は、同化すべき至高の存在を見出すことができず、ただ観念的な存在にとどまるほかなく、その時退廃と去勢の危険は不可避のものとなる。 だから「サド」から「もぐら」へという二つの論文で示されたのは、高いものと低いものの単なる二者択一ではない。バタイユからすれば、ブルジョワ社会を批判してこの倒錯を避けるためには、もぐらのごとく〈ブルジョワ文化の悪臭を放つどぶを掘り返す〉ほかないのである。 10 シュルレアリスムと共有するもの もっとも目に付きやすい区切り方をすると、バタイユの最初期の活動は、シュルレアリスムとブルトンに対する構想としてとらえることができると考えて、その過程をまず彼の著作に密着するかたちでたどってきた。この作業をとりあえず終えたところで、次に必要な作業は、それをもう少し掘り下げ、バタイユの原理的な姿にもう一歩近づくことである。そのためには、シュルレアリスムとの関係を総括して、次の時期への視野を拡げておく必要がある。 シュルレアリスムとの関係は、異質性をめぐる違いも、サドの読み方をめぐる差異も、深いものでありながら、少し視点を高くするならば、大きな共通性を持っているとも言える。なぜならサドを問い、異質性を探究するなどということは、どう考えてみてもごく少数の者のみが行いうる行為だったに違いないからである。バタイユが自分をシュルレアリスムと無関係と考えることができなかったのはそのためである。 三〇年前後のこのやりとりは、ブルトンの側からすれば、単にバタイユとの論争であるにとどまらず、シュルレアリスム内部に顕在化してきた矛盾とそれに伴う変化の問題であった。この時期以後のブルトンの志向は二つの局面をとって顕在化する。それは〈神秘主義への傾斜とコミュニスムの戦闘主義への服従〉(ナドー『シュルレアリスムの歴史』*3)である。ただこの傾向は二〇年代半ばからすでに現れている。『第二宣言』でブルトンは、〈私の願いはシュルレアリスムの深遠、かつ誠実な秘教化である〉と書き*4、占星術、錬金術への関心を明らかにしている。女性を通って現れる神秘もその一つである。『第二宣言』では〈女性の問題こそは、この世における不可思議かつ混沌としたものの代表である〉と書いているが、すでに二八年の『ナジャ』は女性から来る神秘がもたらした物語である。そののあとには、三〇年に「処女懐胎」、三一年に「自由な結合」、三二年に「通底器」、三七年『狂気の愛』、四四年『秘法一七』が書かれる。 コミュニスムへの傾斜も二五年頃から始まり、ブルトンは二七年には共産党に加盟する。一方彼はトロツキーに惹かれている。そして『第二宣言』をめぐる騒動で「シュルレアリスム革命」誌が廃刊になった後、彼は「革命に奉仕するシュルレアリスム*5」誌を創刊する(三三年までに六号を発行)。この誌名からだけでも、ブルトンがシュルレアリスムを政治に重ね合わせようとしたことを見て取ることができる。だが彼はひたすら忠実な党員であったわけではなく、曲折がある。三一年の「赤色戦線」に始まるアラゴン事件を経て、彼はソ連系正統派共産党的なコミュニスム運動から離れる。次いで彼は「コントル・アタック」の冒険を経て、トロツキーへのいっそうの親近を明らかにし、三八年にはメキシコまで会いに出かけるのである。 興味深いことだが、この二つの局面の顕在化はバタイユの側でも同じである。三〇年に彼は「低次唯物論とグノーシス」を書いて、物質性が宗教性と対立するどころかその不可欠の条件となる場合のあることを示して、新たなかたちの宗教的関心を覗かせる。三一年には『太陽肛門』を書き、同じ頃高等研究院でコイレによるニコラウス・クザーヌスの「無知の知」「反対物の一致」のセミナール、続いて三四年からは、その跡を継いだコジェーヴによるヘーゲルの『精神現象学』のセミナールに出始める。彼がそこで知ることになるのは、プロシア国家の御用哲学者ではなく、狂気の一歩手前まで行ったヘーゲルであるり、後の神秘的な傾向の発端でもある。女性への関心について言えば、『眼球譚』は二八年だが、それはまさに『ナジャ』の年でもある。またアラゴンの『イレーヌ』も同じこの年である。 他方政治的な側面はもっと類似性を示している。彼が左翼的な思想への関心は「もぐら」で明らかである。「ドキュマン」の廃刊前後の三一年、彼はボリス・スヴァーリンと知り合い、「民主共産主義サークル」に加盟する。これはトロツキーの影響の強い非共産党系の組織である。そしてその機関誌「社会批評」に同じ年の一〇月の第三号から寄稿しはじめ、この時期の彼の最重要の著作、社会的政治的な射程を持った「消費の概念」「国家の問題」「ファシスムの心理構造」(三三、四年)を発表する。そして三五年には、「コントル・アタック」で再びブルトンと会いまみえることになる。 むろんこの中にも差異を無視することはできない。物質に関する考えかたは見てきたようにずいぶん異なる。ブルトンは史的唯物論、唯物弁証法、マルクス主義と言われるものに同意している。〈シュルレアリスムは、すでに見たように社会的にはマルクス主義の公式を断固として採用するものである〉*6。これに対してバタイユは、とうてい採用するなどという姿勢をとることはなかったろうが、それは別にしても、「もぐら」の冒頭に、〈自然においても、歴史においても、腐敗は生命を生む実験室である〉というマルクスからの引用を置く。このマルクスは、史的唯物論として取り出されるマルクスとは、ずいぶんと違っているだろう。またトロツキーについても、彼はスヴァーリンやまたこの頃知り合うシモーヌ・ヴェイユの影響か、批判的な姿勢を最初からとっている。 だがここに並行性を見ることは不自然ではない。しかしこれを単にブルトンとバタイユの間だけのことと限定するのは間違いである。シュルレアリスムは、三〇年代に入って以前のような固有の力を失っていたように見える。神秘的なものへの関心は、彼ら二人だけのものではなかった。オリエは〈神話は時代の流行だった〉と言っている。また政治的な動向への関心はロシア革命以後の世代に共通であり、さらにそれに応じるようにして勃興したファシスムは、あらゆる芸術家思想家に、政治的な立場、また政治に対する立場を明らかにすることを否応なしに強いたからである。その時ブルトンあるいはバタイユの立場は、特別なものではなかったが、おそらくは彼らは相手に対する近さと差異を測りつつ、時代の中へ拡散していった。それはひとつ時代をもっと深く共有することであった。 11 補遺 バタイユ・ノートの3「物質の探求者」をとりあえずここで終える。この標題で書き始めたとき、三九年つまり戦争が始まるまで行くつもりでいたが、いったん休止符をおくことにする。しかしそれはこの主題が無効だったということではなく、展開しながらそれが別の言葉のほうがふさわしい姿を取り始めたように思うからである。 「物質の探求者」を始めたとき、バタイユの生涯を通じての探求の一番底部には、不可解な手触りを持った何かがあるように思え、それを何とかして明るみに出してみたかったからである。この手触りはそれと名指すことは難しいが、それでも確かなものであって、さかのぼっていくと、初期にはかなり明確なかたちで現れていて、「物質」というのがこの手触りの元にあるものだということがわかってきた(あるいは私にはそう思えた)。ものを書き始めた頃のバタイユには、物質論への傾斜がはっきりとしている。しかしそれはある時期から、私にはそうだったように、見えにくくなっていく。それを何とかして連続させて読み通したいというのが、念願だった。バタイユの中でもっとも人目を引き、確かに興味深いものである内的体験やエロチスムも、基底にあるこの物質性との関係を明確にしない限りは、十分明瞭なものにならないと思えた。 それで「物質の探求者」を始めたのだが、それをここで終えるのは、今言ったようにバタイユの物質性が、変化しながら――見えにくくなるのはこのためなのだ――別の様相を持ち始め、物質性という、通常ではスタティックな印象を与える標題の元では追跡しにくくなったからである。バタイユにおいて物質が物質性そのものを保ちつつ、その強度を一番高めるのは、三〇年前後のことである。そしてまさにこの獲得された強度を条件として、それは変化を起こす。すなわちバタイユの物質は運動し始めるのである。それをどうとらえるか。まずとりあえずとしては、社会的な関心と視野の広がりとなって現れたと言ってみるのが、妥当だと思われる。 社会的な関心と視野とはもっと具体的には何か、と反問されれば、それは彼が社会学や民族学といった新たな視野を開発しつつあった学問領域の読書と、政治的な実践に近づいたことをあげられる。しかしそれを単に彼の知的好奇心の幅の広さとか、思想も実践もともに行った人間性といった観点で見るべきではない。そこに現れるのは、言ってみれば一つの「空間」あるいは「場」である。社会学とは、社会に対する知であるが、もっと根本的には社会に対する関心であり、もっと下れば社会的意識そのものではないのか。バタイユが行おうとしたのは、社会学という学問のかたちにまで形成されてしまったものを、もう一度社会に対する意識という最初のかたちにまで還元しようとすること、それを通じて人間を社会的存在という様式にま戻してみようとすることだったと思える。そのことがさまざまのきしみをもたす。 典型的には、社会学研究会は、バタイユの中でこの還元の試みであった。それはある程度まで提唱者たちの共通の目的だった。三七年三月の「設立声明」では、この研究会で対象とされる社会学は、聖ナルモノに関する社会学だが、それは「聖社会学sociologie sacree」ともなると言われている。逐語的な翻訳ではうまく表せないが、ここで言われている変化は、社会学が、聖ナルモノを研究する、つまり客体化する立場にたっての学問であるにとどまらず、この学問自身が聖ナルモノとなる、すなわち社会的な意識そのものとなること、しかも聖なると言われるほどに動的なものとなることを指している。 この過程はどのように実践されたのか。社会学研究会とはたぶんその結論的な試みであって、それを十分にとらえるには、「ドキュマン」以降のバタイユの試行錯誤を丹念に辿る必要があるだろう。だが社会学研究会においても、バタイユのやり方は、主要な同人であったカイヨワあるいはレリスのやり方と、かならずしも一致しているわけではなかった。バタイユと彼ら二人の間で問題になったのは、まずバタイユがデュルケムやモースの著作を恣意的に読み過ぎるという批判だった。これはたぶんにレリスとカイヨワが訓練を受けた専門の研究者であったのに対して、バタイユはこれらの学問に対してはアマチュアであったからだ。たとえばデュルケムの『宗教生活の原初形態』、モースの『供犠』(これはユベールとの共著)『贈与論』を、バタイユの神秘主義、あるいはポトラッチに関する所論と較べて見れば、これは一読して力点の置き方が違うことがわかる(バタイユはニーチェについても、読み方が恣意的だという批判を受けている)。だがこの差異は、専門家とアマチュアの読み方の差異ばかりではない。それはバタイユが、社会学を社会的な意識そのものへ還元することがあまりに激しかったためだと私には思われる。カイヨワにしても、レリスにしても、そういう志向を持たなくはない人々であった――特に前者――が、それでもバタイユのやり方は、異和をきたすほどのものだったのだろう。 政治的なものについても同じことが言える。バタイユにとっては政治とは政策ではない。彼がもっとも政治化したとされる時期に彼が書き残したものを辿ってみても、政策的なものは見あたらない。またニーチェの政治について、〈彼は給与とか政治的自由の問題とかいった一時的な問題からは身を背けていた〉と言っている(「ニーチェはファシストか」)のも、同じ傾向を示そうとしたものだ。これは確かにリアル・ポリティックの領域では限界を持つ立場だろう。しかしそれはこれまで未知であったものを示す立場でもある。政治とは権力の問題として現れる。だがこの権力というのは、そのまま現存の政治組織のことではない。それは何か力の作用の仕方、社会的とはまた違った現れようである。この点についてはまだうまく言えない。それをとらえ、言い表そうというのがこれからの試みなのだが、ほかのところで示唆を受けた文章があったので、引いてみる。フーコーは『性の歴史』の中で次のように言っている。〈権力という語によって私が表そうとするのは、特定の国家内部において市民の帰属:服従を保証する制度と機関の総体としての「権力」ではない。私のいう権力とは、また、暴力に対立して規則の形をとる隷属の仕方でもない。さらにそれは、一つの構成分子あるいは集団によって他に及ぼされ、その作用が次々と分岐して社会体全体を貫くものとなるような、そういう全般的な支配の体制でもない。権力の関係における分析は、出発点にある与件として、国家の主権とか法の形態とか支配の総体的統一性を前提としてはならないのだ。これらはむしろ権力の終端的形態にすぎない。権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ〉(邦訳第一巻p119)。 国家の主権とか法の形態とかは、権力の終端的形態にすぎない。それは社会学は社会的な意識の終端的形態にすぎないのと同様である。バタイユにおいて政治は、無数の力関係にまで還元される。そうするともはや社会的なものとの間に境界はないのだ。そして私は自分がバタイユに見いだしてきたことを思い出すのだが、彼は同じことを、神に関して、また文学に関してもやってきたのではないのか。彼は〈神とは流動的な概念だ〉と言っている(「ニーチェの笑い」)。つまり、キリスト教的な神、人格神化された神を、恐怖と笑いに満ちた原初の神的な存在――神の不在――にまで戻してしまおうとする。また彼の言語もあらゆる形式を踏み倒して横溢し始める(これに関しては『聖女たち』所収の論文「淫蕩と言語と」を参照していただきたい。そこで私は「流動する言語」という章題を用いたが、それは図らずものことだった)。 バタイユの世界は、三〇年代に入って一挙に流動化した、という印象を私はうける。この流動的な世界の中で、物質性は一方のメルクマールをなしている。もう一つメルクマールをなしているのは、神秘的つまり彼が言うところの内的経験である。この二つを極としてバタイユの思想的な――というよりも彼の存在の全体に関わるところのと言うべきだろうが――空間は限界を越えて拡げられる。そしてこの二つは本当は同じ一つのことだろう。そのための還元と解体の作業には、彼が出発点で見定めた物質性、どんな観念化にも有効性にも取り込まれないその永続的な異質性が作用している。この作用を見失うことなく彼の三〇年代を辿る(物質性の作用を見失わないことは辿るための絶対的な条件である)、まず物質性に一番近い社会的政治的な意識の変遷をたどるというのが、次のノートの主題である。 *1バタイユの出発点にある、観念性に対するこのように激しい批判を読むとき、私がどうしても思い出すのは、吉本隆明の場合である。吉本もその思想的出発にあたって、観念性批判を展開せねばならなかった。それが最もよく見られるのは「マチウ書試論」の場合であろう。彼は原始キリスト教の激しいユダヤ教批判の中に、現実から疎外されたものの攻撃的パトスを見たが、この深い疎外は、反面で現実から外へ出たということから来る不安を「原罪」の意識にまで集約させたと見ている。罪責感、自己処罰の欲望、去勢願望、原罪はすべて同じ心的構造から来ている。それを去勢願望と見るところにはフロイト読書が、原罪を批判するところには、おそらく『道徳の系譜』のニーチェが作用している(吉本の場合はそう告白している)に違いない。 *2バタイユは「もぐら」の第三章全体をあててニーチェを論じている。ニーチェとはもちろんバタイユにとって最重要の哲学者のひとりである。バタイユは二五年頃からこの哲学者を読み始めるが、熱心に言及しはじめるのは、三五年の「アセファル」以降のことである。そこでは全面的なニーチェの世界への全面的な同意が見られるが、それと対比すると「もぐら」での明らかなニーチェ批判は注意を引く。ただしバタイユの見方は一貫していると言わなくてはならない。なぜならバタイユは、ニーチェを力への意志ではなく永劫回帰を中心に置いて読むようになるが、ニーチェの超人は力への意志の文脈に属する思想であるからだ。バタイユのニーチェ理解に関しては、本ノートのU「バタイユはニーチェをどう読んだか」(現在『ニーチェの誘惑』の標題で書肆山田から発売中)を参照していただきたい。 *3思潮社、二四四ページ。 *4アンドレ・ブルトン集成第五巻、一一三ページ。次は一一六ページ。 *5考えてみると、この雑誌の名前そのものが、バタイユの求めたところとはずいぶん異なっている。彼はこの時期以後ニーチェに傾倒するが、それは〈ニーチェの原則は利用されることが出来ない〉ものだという性格を持つものであるからだった(この点については、『ニーチェの誘惑』の第5節を見ていただきたい)。このようなありようは、ファシスム的な利用に反対するために強調されたが、そのときバタイユの頭の片隅には「革命に奉仕」しようとしたシュルレアリスムへの反発が作用していたかもしれない。少なくともバタイユはこのような名前はつけなかっただろう。 *6アンドレ・ブルトン集成第五巻、九三ページ。 (バタイユ・ノート 3 「バタイユ・マテリアリスト」終わり) |
お詫び |
長尾高弘 |
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銅像 |
長尾高弘 |
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ハイパーテキストへ(連載第4回) |
長尾高弘 |
こういう始まり方が恒例になってしまったが、まずは前回の自己批判である。「今回の原稿はヘルプ版の方がはるかに読みやすいはずだ」と書いたとき、内心、そんなことを書いてよいのかいなと思ってはいた。あの文章を書いたとき、私は実際にヘルプ版を作ってみたわけではなかった。そして、ヘルプ版を作るのは面倒くさい仕事なのである。当時ほかのことに熱中していたこともあって、結局ヘルプ版を作ったのは、印刷された20号を手にしてからだった。あんなことを書いてしまった以上、ヘルプ版にそれなりに凝ったものにしなければならない。19号までのヘルプ版では使わなかった第2ウィンドウも使ってそれらしいものを作った。自分の原稿の部分だけ力を入れたような形になって気まずかったが、結果は惨敗だった。 と言っても、ヘルプ版を見てみた読者はほとんどいないだろうと思われるので、どう惨敗だったか説明しておく必要があるだろう。本文を表示しているのとは別のウィンドウをオープンするとなると、それなりに時間がかかる。リンクのついたところをわざわざクリックしてみたのだし、少々待たされるのだから、それなりに面白いことが書いてあるのだろうと読者は期待する。しかし、前回の文章はそのようには構成されていなかった。エディタで平面的に書いていたときには気付かなかったのだが、コメントの内容は、わざわざウィンドウを1つオープンするほど面白いものではなかったのだ。コメントからコメントを呼び出す形にしたのも、いざヘルプにしてみると、わずらわしいだけだった。平行して流れるテキストというアイディアには、正直なところ、まだ未練があるのだが、片方の流れがもう片方の流れに従属する形では、限界があるような気がする。少なくとも、今回は前回のようにコメントの山を築かないようにしようと思う。 さて、前回の原稿を書いてから、鈴木志郎康氏のエッセイ、「インターネットと詩人」(日本経済新聞4/14朝刊)と小倉利丸氏の「インターネットと法言説」(現代詩手帖96/4)を読んだ。それぞれのエッセイの趣旨とは無関係ながら、目を引いたのは、「ホームページの存在はリンクによって支えられているが、ややもすると知人友人の輪の中を堂々めぐりする傾向があるので、それを破って広がって行きたい」(鈴木氏)、「この文章に図版が欲しいという場合に、雑誌や本ならば図版の版権をとって複製を作成して掲載することになるが、「リンク」という機能はそうした手続きを不要にする」(小倉氏)の二箇所だった。リンクがそういうものだということは、もちろん知っているから、そのことに驚いたわけではない。ただ、私の今までの原稿では、自分が書いたものをハイパーテキスト的に構成することに熱中するあまり、「堂々めぐり」に陥っていたということに気付かされたのである。ハイパーテキストの本領は、小倉氏が言うように「他人が作成した公開のデータを自分のデータと結び付ける」ことにある。最初に白状した前回の失敗とからめて言えば、リンクの対象を自分が書いたコメントなどに矮小化せず、電子的にアクセスできるあらゆる情報に広げるべきだったのだ。 鈴木氏は、新聞に記事が掲載されるとすぐにエッセイのインターネット版を公開したが、インターネット版はエッセイ中で紹介されているさまざまなホームページへのリンクがふんだんに含まれている。鈴木氏のエッセイを読みながら、へー、それを見てみたいなと思えば、マウスクリック1回で見ることができるわけである。小倉氏も、エッセイの本来の趣旨である電子ネットワーク協議会の「倫理綱領」に抗議するホームページを公開しており、このホームページからは「倫理綱領」そのものが掲載されているホームページ(公開しているのは電子ネットワーク協議会自身である)や通産省、「倫理綱領」に抗議するその他の個人、アメリカの通信品位法(CDA: Communication Decency Act)関連のホームページへのリンクがふんだんに埋め込まれている。リンクした先が知らない間に消えてしまったりすることはあるが、このような形でのリンクの利用には、やはり可能性がある。この連載では、関心の対象がWindowsヘルプとWWWの間で行ったり来たりしていたようなところがあるが、最近はどこでも誰でもリンクできるWWWがあれば、Windowsヘルプはもういいかなという気になり始めている。 確かに閉じた世界では、Windowsヘルプの方がWWWよりも軽いというメリットはある。これは当然のことで、Windowsヘルプのコンテンツは、1つのファイルのなかに詰め込まれているから、最初に全部メモリにロードできる。WWWのページは、次にどのページにアクセスするか予測できないので、直近に読んだいくつかのページをキャッシュメモリ(あるいはプロクシーサーバに)残しておくことぐらいしかスピードアップの方法がない。新しいページを開くたびにその内容をせっせと読み込み、レイアウトを計算して表示しているのだから遅くて当たり前である。WWWブラウザは、ネットワークの先にあるページだけではなく、ローカルマシンのページも読み込めるが、ネットワークの負荷がかからないローカルマシンのページ読み込みでも、Windowsヘルプと比べるとずいぶん重く感じる。しかし、それもどのようなマシンを使うかである。Windows 95登場以降の中レベル以上のマシンなら、両者の差が気になるようなことはあまりないはずだ。 スピードの差が今後あまり気にならなくなるとしたら、どの程度楽に作れるかといったところが問題になってくる。そして、この点ではWWWの圧勝である。Windowsヘルプは、Microsoft Wordという遅くて不安定なアプリケーションを使ってえっちらおっちら作らなければならない。しかもヘルプコンパイラでコンパイルしなければ、ヘルプファイルは手に入らない。HTMLファイルはテキストエディタでも簡単に書けるし、書いたファイルを保存してブラウザからロードしてみるだけでテストできる。HTMLエディタも急速に発展し、ブラウザ、ワープロソフト、DTPソフト、グラフィックソフトの延長線上にいくつもの新製品が登場している(もっとも私は使っていないが)。これらを使えばHTMLタグの知識がなくてもホームページらしきものは作れてしまう。 ただ、HTMLのオーサリングにも問題がないわけではない。詩集をそっくりHTML化するとなると、何ページ分ものファイルを作ることになる。このような場合、目次ファイルを作ってそこから各ページにリンクを張ることになるが、これだけでは本文を1つ読むたびに目次に戻らなければならない。次のページ、さらに欲を言えば前のページへのリンクも欲しい(Windowsヘルプなら、このようなページ付けは、最初からサポートされているが)。私も自分の詩集『長い夢』を初めてHTML化したときには、手作業で目次と前後のページへのリンクを作った。 しかし、この前後のページへのリンクというのが曲者である。コンピュータの作業の常としてコピーアンドペーストを最大限に活用しても、ページごとに細かく書き換えていかなければならない。これが、人間のやる単純作業の常として、どうしても間違うのである。1つ前にリンクしたはずなのに、2つ前にリンクを張ってしまうようなことがかならず起きる。それでも、既刊詩集をそのまま掲載するだけならまだよいが、ページとページの間に何かを挿入したくなったときなどは面倒である。その挿入するページだけではなく、前後のページのリンクの部分も書き換えなければならない。たとえページ順をいじらなくても、表題の字のサイズに手を加えたり、表題と本文の間に線を入れたり、背景色を変えたりしたくなったとき、同じ作業を何十枚ものページで繰り返さなければならない。持ってみればわかることだが、ペースの差こそあれ、ホームページは変化するものである。しかし、HTMLファイルは、そのままでは変化に対応しにくい。できるだけオリジナルのテキストに近い形で管理したいところだ。 このようなときにHTMLファイルが基本的にはテキストファイルだということが大きな意味を持つ。特定のアプリケーションに依存するフォーマットのファイル(WindowsヘルプのMicrosoft Word形式のファイルのように)だと、そのアプリケーションのなかで作業しなければならないが、テキストファイルは、指示に基づいて一括変形できるプログラムが無数にある。その中でも、perlというプログラムは強力である。スクリプトと呼ばれる簡易プログラムを書けば、かなり細かい仕事もしてくれる。スクリプトを作ってしまえば、DOSのコマンドプロンプトで C:>perl <スクリプト名> <スクリプトの引数> といった形式の行を入力するだけで、全部の作業をあっという間に片付けてくれる。ウィンドウのなかで対話的に操作していくどのタイプのプログラムよりも速いし、単純作業にうんざりすることもなくなる。 詳細は省くが、今年の2月から4月にかけては、このスクリプト作りに没頭した(冒頭で言ったほかのこととはこれである)。そして、OLBCK(OnLine Book Construction Kit)という名前を付けて、ホームページでの公開にこぎつけた。鈴木氏の日経エッセイでも取り上げていただいた。しかし、鈴木氏がそこでも書かれているように、使い方に慣れるまでに少し時間がかかるのが難点である(というか、使える状態にする==インストールするのが少し難しい)。慣れてしまえば簡単であり、テキストがあればどんどんHTMLファイルを作れる。これは私だけではなく、清水鱗造氏もOLBCKでBooby Trap予告篇を作っていて、慣れると簡単だねと言ってくださったので、うそではないと思う。http://www.st.rim.or.jp/~t-nagao/olbck/で公開しているので試してみていただきたい。 OLBCKも結局は本の模倣であり、閉じた世界と言われればそれまでだが、元ファイルは別に純粋なテキストファイルでなくても、HTMLタグが含まれている半生状態のファイルでもよい。だから、テキストに適宜リンク先のタグを埋め込めば、先ほど述べたような横道に自由にそれる文章を簡単にHTMLページとして作ることができる(そして、この横道へのそれ方に「詩」の可能性があるかもしれない)。 それはともかく、HTML形式での詩集の流通には期待もある。下世話な話になるが、今、本の形で詩集を作ろうと思えば、数十万円から百万円ほどの出費になる。まぁ、これは詩集を出したことのある人にとっては常識だが、印税が入るのではなく、かなりの持ち出しになるわけである。そのようにして作った詩集には、2000円台の値札が着くが、あいにくほとんどの書店には並ばない。大半は“ぱろうる”以外には並ばないと言ってもよいだろう。買う側からすれば、2000円以上出して買う気になる本はごくまれである。となると、読んでもらえるのはタダで配った本のごく一部ということになる。あまりに虚しい投資ではないだろうか? Internetに置いておけば、誰でもアクセスできる。すでに、Internetにアクセスするための機材は十分安くなった。けちれば20万でお釣がくる(ハードソフト込みで)。そして、プロバイダも値下げ競争に走っている。年間で5万以下で十分アクセスできる。ほかに電話代もかかるが、少なくとも詩集を1冊作るよりははるかに安い。まだ、通信自体のコストが高いので、じっくり読んでもらうという点では期待薄だが、市場が大きくなれば(また業者が市場を大きくしたければ)、環境は改善されることはあっても悪化することはまずないと思う。確かに、まだ、Internetに“誰もが”アクセスしているわけではないが、今後、Internet人口が上がっていくことはあっても、下がることはないだろう。詩を書くのは詩人、読むのも詩人という構図を少しでも変えていきたいなら、Interenetは間違いなく1つの可能性である。 しかし、手放しでInternetの可能性を謳歌するわけにはいかないというマイナスの要素も少しずつ出てきている。その1つが小倉氏のエッセイでも触れられていた、「倫理綱領」を始めとする検閲への動きである。実は、私自身は、小倉氏のエッセイを読んだあと、遅まきながら小倉氏が主催する検閲問題のメーリングリストにも参加させていただいて、検閲問題の状況と考え方を勉強している最中である。このメーリングリストでさまざまな情報や意見に接すれば接するほど、これはなかなか容易ではない問題だと感じてきている。しかし、次回では、「ハイパーテキストへ」というテーマからは少し外れるが、何とかこの問題についての自分の考え方をまとめられるようにしてみるつもりである。 詩関連ホームページURLリスト(Part 3) |
《近況集》 |
長尾高弘 8月いっぱいでぱろうる渋谷店は閉店になるという。以前も近況に書いたことだが、こういう店がなくなるのはやはり残念なことである。閉店直前の数ヶ月間、『長い夢』を置いてもらえたのはうれしいことだったが、結局売れはしなかった。だからというわけではないが、ホームページで『イギリス観光旅行』という新詩集を公開した。ホームページに置くと、どのくらい読まれたかが大体わかる。しかし、世の中にはわからない方がよいこともあるようです。 田中宏輔 『陽の埋葬・先駆形』は、ひとつの理論であり、その実践なのですが、統覚力だけが勝負の、ほとんど推敲なしのオートマティックな作品群です。かつての投稿時代のダイナミックな手応えが甦りました。ところで、いま、ある新聞の日曜版の折り込みに、月二回というペースで、拙作を掲載させて頂いているのですが、『水面に浮かぶ果実のように』や『高野川』のような、投稿時代の雰囲気とよく似たものになっています。これは、若返りというものでしょうか、それとも、退行というものでしょうか。まっ、いずれにせよ、しばらくは、こういった状態が続きそうな気配がいたします。 築山登美夫 会社という摩呵不思議な閉塞空間にしばらく閉じこめられていました。自由闊達で風通しのよい場処にいつになったら到達できるのか。そんなことばかりかんがえていたようです。もしかしたら人間というのは精神的な不具を代償にして社会化するイキモノで、そのことにじつはなんの痛痒も感じていないのではないか。サリンを撒いてこい、と云われればサリンを撒きに行く、ばかりでなく、そのことをすぐに忘れ、プロ野球の話をしたりなんかしている。逮捕されてはじめてじぶんのしたことに気づく、ばかりでなく、その人が同時に人望があつかったり、人情味のある人だったりする−−などというのはほんの一部ですが、しかしそんな共同体人間批判もじぶんにアイソづかしをしないための防御機制の発動なのかも、などとかんがえていたら、いま吉田裕さんから電話がかかってきて、ひさしぶりに風通しのよい話をしました。どうせ短い人生、つまらないことに顧慮せず生きたいように生きるほかなく、次回はきっと、もっと愉しい報告をします。それにしても、もっとも個性的に生きたいように生きているようにみえる野茂やイチローのような人ほどつまらなそうな表情をいつも浮べている日本人とは何なのか、とかんがえざるをえません。本のオススメは高橋英利『オウムからの帰還』です。その他のオウム本は、吉本隆明のものはさすがに参考になりますが、それ以外は芹沢俊介のものもふくめて、全部ダメです。危機感がなさすぎると思いました。オウム事件にたいする反応で大きな岐路に立たされているのは確かなようです。 ( 96/6) 吉田裕 「バタイユ・ノートV:バタイユ・マテリアリスト」の題で載せて貰ったものが、本になります。対象にした論文の翻訳と一緒で、『ニーチェの誘惑』の題で、版元は書肆山田です。場を与えてくださった清水さんと有形無形の励ましをくださった方々に感謝。次の仕事のためにも、売れてくれると良いのだけれど。ご支援をお願いします。 |
【編集後記】 |
またしても遅れ気味。僕の組み作業の遅れです。またしても原稿溢れ。刊行ペースを早めなければどうしようもありません。この数ヶ月またいろいろなことに手を出していました。仕事の濃度もけっこう高くなっているので、寝る前にパソコンプログラムのコードをマゾヒスティックに見たりしています。 インターネットのホームページは読んでくれている人が思ったより居てうれしいです。ウィンドウズヘルプバージョンのブービー・トラップもちょくちょくダウンロードしてくださる方がいるようです。僕はホームページで週刊で詩とコラムを入れています。長尾さんのところも充実してきましたので、是非覗いてみてください。 |