第23号 1997.4.25 231円(本体220円)

〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18(TEL:03-3428-4134;FAX:03-5450-1846)
(郵便振替:00160-8-668151 ブービー・トラップ編集室)
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5号分予約1100円(切手の場合90円×12枚+20円×1枚)編集・発行 清水鱗造
ロゴ装飾:星野勝成


表紙-自転車を置いてきて--西巻慎治さんにお便りを認める、ところ-彼らが消えた空 ――あるいは喉歌-曖昧模湖のネッシー-窓辺について-Love Songs――採集*-領土-GEORGEの胸ポケット-記念写真-『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。-死んだ子が悪い。-重力-鼻唄-骸骨順列-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 1-政治の中のバタイユ 2-解酲子飲食 1-近況集-編集後記

自転車を置いてきて

布村浩一



ミスター・ドーナッツでアップルパイと アメリカン・コーヒーを注文する アップルパイをすぐに食べ終える 急に店が混み始めて 通行人はかならず店の中をちらっと見る 店の中を50年代のロックン・ロールがながれている イギリス観光旅行という80ページの本を読んでいる 今日は秋の天気のいい日 日射がいい 歩く人が日の光を浴びている 漢方薬という看板の文字が見える 天明堂という旗の文字 30分ごとに煙草を吸って 灰皿の中に三本の煙草 これからトポスという安売りの店に行って買い物をするつもりだ


表紙-自転車を置いてきて--西巻慎治さんにお便りを認める、ところ-彼らが消えた空 ――あるいは喉歌-曖昧模湖のネッシー-窓辺について-Love Songs――採集*-領土-GEORGEの胸ポケット-記念写真-『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。-死んだ子が悪い。-重力-鼻唄-骸骨順列-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 1-政治の中のバタイユ 2-解酲子飲食 1-近況集-編集後記


布村浩一



寒い日だが ふとんをほした 12℃ぐらいだと思う 照って 消えて 消えて なくなった それから部屋に一人ぼっちになった くらい静かな日曜日 窓ガラスの暗さおとなしさが 心で 窓ガラスとずっとおなじ距離でここにいる 電気ストーブ 消してみると部屋から 音がなくなった 点けてみると グツグツという音が始まる こういうふうに なにもないということに 心の底からなれているわけではなく 窓から目が離せない 音がやってくるのを待っている 日ざしが変わるのにおどろいた 日ざしといっしょに心が変わる 窓ガラスを通してはいってくる 手 ぼくの呼吸が赤くなる


表紙-自転車を置いてきて--西巻慎治さんにお便りを認める、ところ-彼らが消えた空 ――あるいは喉歌-曖昧模湖のネッシー-窓辺について-Love Songs――採集*-領土-GEORGEの胸ポケット-記念写真-『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。-死んだ子が悪い。-重力-鼻唄-骸骨順列-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 1-政治の中のバタイユ 2-解酲子飲食 1-近況集-編集後記

西巻慎治さんにお便りを認める、ところ

駿河昌樹



仕事を文学へしている人生に羨ましく思う 夜、ふけて、港で街は深くまで しずかな海を月あかりと引いてくる 時期(優に個人的が「時期」)に迎えて 文字の記そうはするへ黒い (記そうもしなければ、ほの赤い?) 八月鉛筆で芯からほの(ほの、ほの、)あかりして てのひらの(ああ、)初夏への高原墓地 変わる憧れへ立ち枯れている 変わらない 西洋梨でお腹は鍵屋さん、りん、りん、りん、りん、 くどいようでも、(あじけなさにくどかった)わが生 まだまだ、レジュメ欲と続いているじゃないの まだまだ、ふりかえり、まだまだ、 切れ目にない線へ探して、まだまだ、 確認を虜、自己認識とか、「わたしは」とか 食生活へかえて、ビニールから近ごろ 食べはじめ、つぎな発砲スチロール、エナメル線、 着古しが麻とか、(単なる)空気とか、 ウォークマンがソフトケースとか、わたぼこりとか 気づくでまだまだ、「わたしは」なんて連音するがで 続く食生活再検討年間、「しずかも、うるさいも、 ひかりも、闇も、試しはじめています」と 西巻慎治さんにお便りを認める、ところ


表紙-自転車を置いてきて--西巻慎治さんにお便りを認める、ところ-彼らが消えた空 ――あるいは喉歌-曖昧模湖のネッシー-窓辺について-Love Songs――採集*-領土-GEORGEの胸ポケット-記念写真-『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。-死んだ子が悪い。-重力-鼻唄-骸骨順列-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 1-政治の中のバタイユ 2-解酲子飲食 1-近況集-編集後記

彼らが消えた空 ――あるいは喉歌(ホーミー)

倉田良成



(彼らはどこへ走り去ったのか) 報道によれば、中国・内モンゴル自治区において、 一キロ以上の距離にわたり約一万個に及ぶおびただしい恐竜の足跡が発見されたという。 推測される恐竜は体長一メートルほどの草食性で、 素早く走る強靭な脚と体力とを備えていたと思われる。 そこには半ば成熟した骨格を含む、割れた卵の化石も混在しており、 「今世紀最大の発見のひとつ」との学者のコメントも添えられている。 (彼らはどこへ走り去ったのか) 新聞には現場のカラー写真が載せられていて はるか彼方から土煙をあげながら押し寄せて、肉食性恐竜の卵を蹴散らし 流れるたてがみのような地紋を残して去っていった丘のあたりの青空が写っていた (そしてそのむこうには何もない) ヒトも文明もNationもまだ何もない、 大陸と海の入り組みも異なった明るい別世界で (彼らはどこへ走り去ったのか) 昼の横浜駅のホームでは焼けたハンバーグの匂い 午後の新橋駅ではカレーの匂い 夜の東京駅ではフライドチキンを揚げる匂いがたちこめて 待ち合わせのたび、きみと私はおたがいの空腹を確認する ローマ人たちは塩とミルク粥で神話が描くすべてであった地中海世界を圧倒し イギリス人はローストビーフでコンパスがとどく限りの海を手に入れたが きょう食卓に置くサラダの苦味(くみ)のなかに きみと私はどんな親密な草食性の記憶の殻を確認するか? (彼らはどこへ走り去ったのか) そこは地名などない、見知らぬ太陽のかがやく場所だ 丘の勾配と地のくぼみが九千万年前の光景で風に吹かれている 夕刊を持って向かい合う、駅の待合室のきみと私のかたわらを つねにしおさいのように走り去る背のひくい影の群れ 彼らが招ばれて消えた、神が与えた青空の空虚は 朝、私を呼ぶきみの最初の声のなかで羊飼いの歌のように鳴る


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曖昧模湖のネッシー

夏際敏生



きみの拙文は拝読した きょう、湖水は平らかだ 女たちに伍して 男手ひとつでなんとか沢をキリモリしている 喋々を壁にピン留めする代わりに 床いちめん観葉に資する時を蒔く なけなしの胸ははたいて 性器も失せた木を焚き付ける 刃には葉を、とか打(ぶ)っちゃってね その舌の根の下を水道管はうねり テレビの内外で ニンゲンがめそめそしている 服を着ている 笑いさえしている その上ファチマの糸瓜のと 日本人ったら日本語がぺらぺら! 世界は他界して 蠢かない春、動く自動車 風に揺れる うろの大木 さては肉体分裂症のH氏だ 微笑を荒らげているH氏夫人だ 思想膿漏のその愛人だ なにやってんだ いつも空の下で


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窓辺について

夏際敏生



顔を染めて同席している ブラインドの透きから 意匠を懲らす横殴りの雨 花が裂いている花瓶 図体を挙げて悪びれろ みだりに黙ってきたものに 立ち居はいくども見過ごされる 窓際に漂う、fracto stratus 陸(ろく)すっぽ在りもしない陸のカッパ 父の流れない食卓 テラスに紙々の吹雪が黄昏れている 器物は木霊する その辺りを払って 目も月も梢に据わっていく ぬかるんでいる人道をもう一度 山道から黄道へ折れて 躱された微笑は位置づけられる フロアが数える流星を遡り 等身へと砕かれていく音楽を尋ねよ 片腕まくりで人類の裾まつり


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Love Songs−採集*

築山登美夫



〔裏〕 まるでいきもののやうにおよいでゐたね まるでどるふぃんみたいだつたね そのくににうまれそだつたのにそのくにになじめない たぶんどのくににうまれてもおなじだつたらうとかれはおもつた ちがふほしちがふうちう さうであればどれほどしあはせだつたか まるでいきもののやうにおよいでゐたね まるでどるふぃんみたいだつたねかのぢよのあしは 〔表〕 彼女は娘を二人産んだあと離婚して 友人の女性と暮してゐると云つた。 レズつてわけぢやないのよ今さら面倒くさくつて でもとても快適なのよ男のゐない女ばつかりの生活は。 きれいに刈りあげた頭に黒い皮ジャン耳には小さなピアス バイク用の白いヘルメットを腕にかゝへてゐた。 こどもを育てながら徐々に徐々に 体が男を受けつけなくなつていつたのだと云つた。 彼と十年ほど暮し下の子が小学校に上がつてしばらくしたころ 前から知り合ひだつたある女性と長い午前を過していたら いままで味はつたことのない幸福感にひたされたのだと云ふ。 それは性を超えた永続する快楽の時間だつた。 女に生まれてきたことの意味がはじめてわかつたと思つた。 彼にはわるかつたと思ふわ愛してくれてゐたし ときどきこどもに会ひにきてくれるのよ。 きりゝとした表情でコーヒーを飲みながら彼女は云つた。 〔裏〕 ふかみどりのうみのそこはちがふほしちがふうちうみたいで ここでならいきられるといふこゑがたえまないあはになつてふきこぼれた にんげんのゐないせかいにうまれおびたゞしいにんげんをとほつて にんげんのゐないせかいにかへる そのせつなさなつかしさがからだをはげしくつきぬけて かれはおよぐかのぢよのうつくしいあしをだきしめた ちがふほしちがふうちうみたいで たえまないあはになつてふきこぼれるこゑのさなかで 〔表〕 耳の中でしんと静寂の鳴つてゐるこの夜、 ぼくがきみを愛してゐたといふことが、きみをとてもつよく 愛してゐたといふことが、すつかり昔のことになつてしまつたやうで、 荒涼とした気分のなかを、ちひさな光に照された ちひさな馬がいくつもいくつも走つて行く。 どうしてかうなつてしまつたのか、ぼくはけんめいに かんがへようとするのだが、たくさんの愛をうちけすたくさんの 諍ひの記憶が、日々の泡のやうに流れていくだけだ疲れきつて、 さう疲れてみじろぎもできなくなつて、 あのとき 出会ひのあのときとはたがひにべつの人間にみえるほどに、 きみはきみと生きようとするぼくの意思をけんめいにさかなでようとし、 ぼくはそんなきみをさんざんにぶつたりした。 そんなこともいつか遠い過去をふりかへるやうに この炎傷をなだめてしまふのだらうか。 またいちからやりなほせるさ。 そんなふうに気をとりなほし何度も何度もやりなほして。


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領土

jaja



あ 扁平足 の たいらな あしうら が とらえる すなはま すなはま すなはま と 数歩 あるいた ところへ 稜線 を 描く 波 波 の 稜線はみるまに記憶の領域にとんでって等高線が 人のからだをおおきくはみだして敷延するこころの土地に 地図となって刻まれる。 寝小便のあとみたいに * 死んでしまった人が にっこりと くっきりと 立っている あかるいその 場所と 匂いのしないあなたが ぬけぬけと 窮屈そうに 座っている くらいその 場所とは 細い隧道を通じてつながっている。 どこへいっても匂いだらけで息が詰まりそうなのに あなただけは匂いをかがせてくれないんだね * 暗闇のなかの少年たち きみたちの顔はまめつぶみたいでよく見分けがつかないよ。 誰もみな上を向いて‘love’という四文字言葉をつぶやいている 上を向いて 月を追っている。 みかづきはあっというまに半月に そして12 13 14 とふとってくる。ふくらんでいく のが恐ろしい。月はもう 今夜は17夜 ときどき下を向いてなみだを振り捨てながら歩く。 ちいさくて ちいさくて * 山ぜんたいを白いテープでぐるぐるまきにする。 テープの面をつたって女が滑降してくる。 妻の戦意は喪失された。 余裕綽綽 矍鑠 モノクロームきらきらひかる夢 * ひっくりかえってバンザイしている風呂敷がある(もうお手上げ) 右上向いて片腕突き出しているチェロがある(ぺニスみたいに) 顔はない。女の姿はシルエットか 抽象画の線でしかない。 炎はとなりに飛び火し 象の目はそのまた隣に強いて感じられた。 英語でできたキャッチフレーズは斜向かいに口移される。 闇を基調にした白黒ばかりを選びだす ふわふわ飛びかうふうせんだけがカラーフィルムここには実感がない。 ユメの領域にとどまっている * おしだされ おしだされぬ ゴリラの密告に 狭い 細い くるしい 路地の はちきれんことよ * こんなん でんねん ですねん でっねん でふねん でんねん そや そや * ねずみる くじる さくらる うまべる * これでおしまい!を宣告するのがとりわけ下手で にゅめるくりんめりめりなどとくちごもり このうへなくやはやはなる 終わってる 終わってる ずっと前から終わってる の 父のコトバと まだまだずるずるべたばた続くんだからあっての まじまじむかつく 母のコトバとの ま に立って きょうの授業はこれでおしまい ことしの授業はこれでおしまい わたしの授業はこれでおしまい で、またあいましょうねをつけくわえるんだから世話ない * 闇のなかの子供たちよ 怖がる終わりはないのかもしれない とっくに終わってんのかもしんない 変容と周期に老いる 足跡の 領土に スペインの楼閣をなぞって 接吻する 悲愁


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GEROGEの胸ポケット

関富士子



わたしたちが出会ったとき あなたは緑がかったカーキ色の上着を着ていた アメ横で買ったという米軍払い下げの軍隊服 胸ポケットの折り返しの裏に マジックインキでへたくそに GEORGE と書いてあった こいつは今ごろベトナムで死んでるさ これを着て何人殺したかはわからない あなたが生まれる二年前に太平洋戦争は終わり わたしが生まれた年に朝鮮戦争が始まった 七〇年アンポのあとのキャンパスで わたしたちは恋をして ベトナム戦争が終わった年に娘が生まれた というわけ ある日わたしたちはピクニックに出かけた 幼い娘が真っ赤に熟れた木の実を あなたの上着の胸ポケットに入れた 娘を抱いて歩くうち木の実がつぶれて 上着の胸を真っ赤に染めた あなたが苦しげにうめいて 倒れなかったのが不思議なくらい いくら洗っても落ちなくて 腹を立ててロッカーの奥にしまいこんだまま ずっと忘れていたのについこのあいだ 娘が成田を発った日に ほこりだらけで出てきた 兵士GEORGEの軍隊服の 胸ポケットが鮮やかに染まっていた


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記念写真

関富士子



  あなたはファインダを覗いたまま後じさる    ズボンのすそにまといつくシロを払う     くすくす笑う妻と娘と古い友人と      姪や大伯父や兄や従弟や母や       人々は明るい午後の庭で        フレームをはみだす         何の祝だったか          裏がえる光           揺れる            あ           落ちる          溝にはまる         叫びとざわめき        レンズにシロの鼻面       人々はぶれたように笑う      きらめくボタンや徽章や金歯     その面影をシャッターで切り取る    時が巻き戻る一瞬ののち身を起こすと   もうあなたの前から人々は遥かに遠ざかる


表紙-自転車を置いてきて--西巻慎治さんにお便りを認める、ところ-彼らが消えた空 ――あるいは喉歌-曖昧模湖のネッシー-窓辺について-Love Songs――採集*-領土-GEORGEの胸ポケット-記念写真-『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。-死んだ子が悪い。-重力-鼻唄-骸骨順列-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 1-政治の中のバタイユ 2-解酲子飲食 1-近況集-編集後記

『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。

田中宏輔



こんなこと、考えたことない? 朝、病院に忍び込んでさ、 まだ眠ってる患者さんたちの、おでこんとこに ガン、ガン、ガンって、書いてくんだ。 消えないマジック、使ってさ。 ヘンなオマケ。 でも、 やっぱり、かわいそうかもしんないね。 アハッ、おじさんの髪の毛って、 渦、巻いてるう! ウズッ、ウズッ。 ううんと、忘れ物はない? ああ、でも、ぼく、 いきなりHOTELだっつうから、 びっくりしちゃったよ。 うん。 あっ、ぼくさ、 つい、こないだまで、ずっと、 「清々しい」って言葉、本の中で、 「きよきよしい」って、読んでたんだ。 こないだ、友だちに、そう言ったら、 何だよ、それって、言われて、 バカにされてさ、 それで、わかったんだ。 あっ、ねっ、お腹、すいてない? ケンタッキーでも、行こう。 連れてってよ。 ぼく、好きなんだ。 アハッ、そんなに見つめないで。 顔の真ん中に、穴でもあいたら、どうすんの? あっ、ねっ、ねっ。 胸と、太腿とじゃ、どっちの方が好き? ぼくは、太腿の方が好き。 食べやすいから。 おじさんには、胸の方、あげるね。 この鳥の幸せって、 ぼくに食べられることだったんだよね。 うん。 あっ、おじさんも、へたなんだ。 胸んとこの肉って、食べにくいでしょ。 こまかい骨がいっぱいで。 ああ、手が、ギトギトになっちゃった。 ねえ、ねえ、ぼくって、 ほんっとに、おじさんのタイプなの? こんなに太ってんのに? あっ、やめて、こんなとこで。 人に見えちゃうよ。 乳首って、すごく感じるんだ。 とくに左の方の乳首が感じるんだ。 大きさが違うんだよ。 いじられ過ぎかもしんない。 えっ、 これって、電話番号? 結婚してないの? ぼくって、頭わるいけど、 顔はカワイイって言われる。 童顔だからさ。 ぼくみたいなタイプを好きな人のこと、 デブ専って言うんだよ。 カワイイ? アハッ。 子供んときから、ずっと、ブタ、ブタって言われつづけてさ、 すっごくヤだったけど、 おじさんみたいに、 ぼくのこと、カワイイって言ってくれる人がいて ほんっとによかった。 ぼくも、太ってる人が好きなんだ。 だって、やさしそうじゃない? おじさんみたいにぃ。 アハッ。 好き。 好きだよ。 ほんっとだよ。

『陽の埋葬・先駆形』



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死んだ子が悪い。

田中宏輔



こんなタイトルで書こうと思うんだけど、って、ぼくが言ったら、 恋人が、ぼくの目を見つめながら、ぼそっと、 反感買うね。 先駆形は、だいたい、いつも タイトルを先に決めてから書き出すんだけど、 あとで変えることもある。 マタイによる福音書・第27章。 死んだ妹が、ぼくのことを思い出すと、 砂場の砂が、つぎつぎと、ぼくの手足を吐き出していく。 (胴体はない) ずっと。 (胴体はない) 思い出されるたびに、ぼくは引き戻される。 もとの姿に戻る。 (胴体はない) ほら、見てごらん。 人であったときの記憶が ぼくの手と足を、ジャングルジムに登らせていく。 (胴体はない) それも、また、一つの物語ではなかったか。 やがて、日が暮れて、 帰ろうと言っても帰らない。 ぼくと、ぼくの 手と足の数が増えていく。 (胴体はない) 校庭の隅にある鉄棒の、その下陰の、蟻と、蟻の、蟻の群れ。 それも、また、ひとすじの、生きてかよう道なのか。 (胴体はない) 電話が入った。 歌人で、親友の<林和清>からだ。 ぼくの一番大切な友だちだ。 いつも、ぼくの詩を面白いと言って、励ましてくれる。 きっと悪意よ、そうに違いないわ。 新年のあいさつだという。 ことしもよろしく、と言うので よろしくするのよ、と言った。 あとで、 留守録に一分間の沈黙。 いない時間をみはからって、かけてあげる。 うん。 あっ、 でも、 もちろん、ぼくだって、普通の電話をすることもある。 面白いことを思いついたら、まっさきに教えてあげる。 牛は牛づら、馬は馬づらってのはどう? 何だ、それ? これ? ラルースの『世界ことわざ名言辞典』ってので、読んだのよ。 「牛は牛づれ、馬は馬づれ」っての。 でね、 それで、アタシ、思いついたのよ。 ダメ? ダメかしら? そうよ。 牛は牛の顔してるし、馬は馬の顔してるわ。 あたりまえのことよ。 でもね、 あたりまえのことでも、面白いのよ。 アタシには。 う〜ん。 いつのまにか、ぼくから、アタシになってるワ。 ワ! (胴体はない) 「オレ、アツスケのことが心配や。 アツスケだますの、簡単やもんな。 ほんま、アツスケって、数字に弱いしな。 数字見たら、すぐに信じよるもんな。 何パーセントが、これこれです。 ちゅうたら、 母集団の数も知らんのに すぐに信じよるもんな。 高校じゃ、数学教えとるくせに。」 「それに、こないなとこで 中途半端な二段落としにする、っちゅうのは まだ、形を信じとる、っちゅうわけや。 しょうもない。 ろくでもあらへんやっちゃ。 それに、こないに、ぎょうさん、 ぱっぱり、つめ込み過ぎっちゅうんちゃうん?」 ぱっぱり、そうかしら。 「ぱっぱり、そうなのじゃあ!」 現状認識できてませ〜ん。 潮溜まりに、ひたぬくもる、ヨカナーンの首。 (胴体はない) 棒をのんだヒキガエルが死んでいる。 (胴体はない) 醒めたまま死ね! (胴体はない) 醒めたまま死ね!

『陽の埋葬・先駆形』



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重力

長尾高弘



いつでもとてもねむいので たとえば電車に乗ればコロリ と眠ってしまうくせに 夜 ふとんのなかにもぐりこむと 身体の重さが気になってねむれない 下になってしまったほうが 上になっているほうの重さに 耐えられず 交替してくれ 交替してくれとうるさくせっつく ので それではと寝返りをうって 反対にひっくりかえると それまで 楽していたほうがだんだん 苦しくなってきて しまいに 替わってくれえと悲鳴を上げる かくも重力は強い力なのだと 感心しているうちに夜は白々と 明けてきて これはまずいと 下になっているほうのうるさい 文句を聞かないよう 聞かないように心がけて やっと眠るとすぐに朝がきて 起こされる あまつさえ 下になっていたほうの腕が しびれていたりして 睡眠が 身体の疲れを取るものだとはとても 信じられない思いで一日がはじまり いつでもとてもねむいので たとえば電車に乗ればコロリ と眠ってしまうのだが なぜそのときには重力を感じない のだろうか


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鼻唄

長尾高弘



九〇歳をすぎても元気だということは すごいことだ たまたま飛び込んできた TVのワイドショウのカメラの前で 鼻唄まじりにお手玉をしてみせて 元気なおばあちゃんですねえと スタジオのレポーターたちをわかせた それから半年もたたないうちに 庭で転んで立てなくなり 近所の病院に入院することになった 同室は年寄りばかり 昼間でも眠っているような部屋だった 病院ではずっと寝たきりだったが たまに見舞いに来たひ孫の手をとって 鼻唄を歌うこともあった よく聞き取れなかったが 病院を出たときに何の唄だったのか思い出した いちにーさんしーごくろうさん ろくしちはっきりくっきりとーしばさん かなり昔のTVのCMだった 誰も覚えていないような唄を どうして覚えていて そんな唄を知らないひ孫に どうして唄ったりしたのだろうか? 病院には丸二年いた 久し振りに帰ってきた遺体の枕元で 大往生という言葉が飛び交った 葬式は参列者多数で 自宅前の道が渋滞するほどだった 享年九七歳


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骸骨順列

ホラホラ、これが僕の骨だ、――中原中也


清水鱗造



小さいくちびるは乾いて 貨物列車には骨が 青い花が斜面に塗られ 関節は煙でできている 街は沈む 人は沈む 骨に描かれた鉛筆の落書き 骨に描かれたぬいぐるみ 新しい骨と古い骨が 斜面に垂直に立ち 骨は無造作に箱に投げ込まれ 貨物列車で去っていく 交合図―― 念入りに念入りに でも コーヒー 知らない ある縁のぬめり 指さすための―― テグスに絡まった疑似餌 顎骨を象る尖先 彗星―― 彼がいうように 少しは反映されている 杭は黄色いペンキで塗られ 骨は青い細い線でいたずら描きされている 確定できるっていうのは いい境涯じゃないか わからずにまとまって コミットして糞になり ころころ転がって 彼は偉かった なんて 肥溜めだね そこを適当に 墓標にしている 似たようなものだけど 骨が白く また整然と 貨物列車でいくのを 印としよう


表紙-自転車を置いてきて--西巻慎治さんにお便りを認める、ところ-彼らが消えた空 ――あるいは喉歌-曖昧模湖のネッシー-窓辺について-Love Songs――採集*-領土-GEORGEの胸ポケット-記念写真-『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。-死んだ子が悪い。-重力-鼻唄-骸骨順列-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 1-政治の中のバタイユ 2-解酲子飲食 1-近況集-編集後記

翻訳詩
ウィリアム・ブレイク 『無垢と経験のうた』―人間の相反する二つの精神状態を示す─ 連載第一回

訳 長尾高弘



前口上
 私は英文学を勉強しているわけではないのだが、以前から詩の翻訳ということをやってみたいと思っていた。翻訳をするためには、原詩をじっくり読まなければならないが、逆に翻訳をするのでもない限り、原詩をじっくり読むような機会はなかなか得られない。たとえば私のような者が翻訳もせずに原詩を読んだとしたら、曖昧なところを漠然と残したまま少し読み進んだところで、自分の読みの雑駁さにうんざりして原詩を放り出してしまうだろう。しかし、翻訳をするとなれば、細かい一つ一つの疑問に自分なりの答を与えなければ、先に進めない。だからかえって着実に一歩一歩先に進むことができるのである。
英語と日本語には絶望的なほどの距離がある。ヨーロッパ語同士の翻訳とはわけが違う。その分、翻訳は難しいと言えば難しいが、逆に割と早い段階で忠実な翻訳ということを諦らめて、訳者が自分の考えを訳文に盛り込むことができるという側面もある。自分の考えを盛り込むと言っても、原詩に書かれていないことを勝手に書くということではないのだが、たとえば辞書にだって一つの語には複数の訳語が書かれているものだ。どれを選ぶかに訳者の考え方は反映する。しかし、英語と日本語の距離ということを考えるときに大きいのは、文章の構成方法である。文法的に忠実に翻訳しようとすれば、訳文がどうしようもなくぎごちなくなり、翻訳したものが詩ではなくなってしまう。翻訳したものを詩に近付けるためには、息継ぎをしながら日本語のコトバの海を泳ぎ回らなければならない。前のものを後ろにしたり、助詞でニュアンスを変えたり、時にはセンテンスの区切り位置を変えたりすることも、英語から日本語への翻訳では、禁じ手ではないと思う(と言うよりも、原詩を何度も何度も読んで、読み手である私の側に落ちてくるものを自然に語り直すような形で翻訳できればと思っている。私のネーティブランゲージは日本語なので、自然に出てくる言葉も日本語になるというわけである。自然にという言葉を使ったが、この過程は、アタマの仕事であるというよりも身体の仕事であるような気がしてならない。文法的なチェックは、そのようにして出てきたものをあとから点検するアタマの仕事である。そのときに、センテンスの入れ替えなどにも気付くはずである。もちろん、点検という第二次の仕事も、アタマだけでするわけではない。身体とアタマが闘いながら妥協点を見出すようなものになるはずである)。
しかし、自分でアイディアをひねり出して詩を書く場合でも、アイディアが勝負に大きな影響を与えるのは最初だけであり、後半戦はもっぱらひしめき合うコトバのなかでもがくことになるものだ。つまり、自作でも翻訳でも、後半戦の部分は同じように苦しみ、楽しむことができるはずである。それに、自分で全部作るときには、なかなか前半戦に突入できないために、後半戦を楽しむ機会にもなかなか恵まれないが、詩の翻訳をすれば、次から次へとこの後半戦の部分を楽しむことができる。これはなかなか効率的だ。
 ブレイクを選んだことに深い意味はない。著作権でもめるのがいやだったので、死後かなりたった人を選んだまでである。そのような人を探していたときに、飯島耕一の『ウィリアム・ブレイクを憶い出す詩』が、頭に思い浮かび、原書や参考書も見つかったので、ブレイクにしただけである。しかし、いざ作業を始めてみると、ブレイクを選んでよかったと思った。性に合うのである。ブレイクはアメリカ独立戦争とフランス革命を抑圧しようとするイギリスの政治に闘志を燃やし、飯島はブレイクを憶い出しながらベトナム戦争への怒りを書いた。私も闘うことを忘れない人間でありたいと思っている。
 これからお目にかけるのは、初期の代表作であり、もっともポピュラーな『無垢と経験のうた』の試訳である。一七八九年にまず『無垢のうた』が出版され、一七九四年に『経験のうた』の部分が追加されて、合本として出版されたが、『経験のうた』だけの形のものはない。『無垢のうた』の部分は、ブレイクの生涯のなかでも、素直で純真な部分が現れた珍しい作品となっている。
 原詩のテキストは次の本によった。
David V. Erdman Ed. The Complete Poetry & Prose of William Blake, Newly Revised Edition, ANCHOR BOOKS, 1988
 ブレイクの作品は、『無垢と経験のうた』も含め、ほとんどのものが本人によるイラストが入った本になっている(というよりも、全体が版画作品になっていて、ブレイク自身が印刷しているのだが)。そのページイメージをそっくり復元した本も出ている。
David V. Erdman, The Illuminated Blake, Dover, 1974
William Blake, Song of Innocence and of Experience, Oxford University Press, 1970
前者はモノクロ、後者はカラーである。後者には、経済学者ケインズの弟で、著名な書誌学者であるGeoffrey Keynesのコメントが入っている。
 ブレイクの翻訳は、戦前を中心としてかなり出ているようだが、私が入手できたのは、次の三種類である。
梅津濟美訳『ブレイク全著作』一九八九年、名古屋大学出版会
寿岳文章訳『ブレイク詩集』一九六八年、弥生書房(世界の詩五五)
土居光知訳『ブレイク詩選』一九四六年、新月社
土居訳は、昨年平凡社ライブラリーの『ブレイク詩集』としても出版されている。飯島が『ウィリアム・ブレイクを憶い出す詩』で引用しているのは、土居訳である。
 少しでも参照した研究書は、以下の通り。英文のものは、全部読み切ったわけではない。
S. Foster Damon, A Blake Dictionary, refised edition, University Press of New England, 1988
David V. Erdman, Blake: Prophet Against Empire, Dover Publications, 1957
土居光知『著作集第一巻』一九七七年、岩波書店(ただし、ブレイク論は戦前に書かれたもの)
梅津濟美『ブレイク研究』一九六三年、垂水書房
梅津濟美『ブレイクを語る〈増補新版〉』一九九一年、八潮出版社
 また、ブレイクにはキリスト教関係の単語も頻出するが、それらについては、日本聖書協会『新共同訳聖書』を参考にして考えた。
 この参考文献リストからもわかるように、私の作業は間違っても英文学者の仕事ではない。ブレイクだけでもほかに読まなければならない本はたくさんあるし、ブレイクと同時代の詩人の作品も大して読んでいるわけではない。しかし、詩の翻訳は、自分でも詩を書く人間にとっては、面白い仕事なのである。一つの決定訳をあがめるよりも、読む人それぞれがそれぞれの訳を作っていけばよいのではないかというのが、私の考え方である。
 なお、インターネットの私のホームページには、『天国と地獄の結婚』も訳出してあるので、アクセス手段のある方は参照していただければ幸いである。

  無垢のうた



 序詩

笛を吹いて下る谷
奏でるうたは歓びのうた
あれ、雲の上に一人の子。
笑いながらのおねだりは、

小羊のうたを吹いてみて。
おやすい御用とうれしく吹けば
ねえねえそのうたもう一度。
涙を流して聞いている。

楽しい笛は一休み
楽しいうたをうたってよ。
それでは楽しいうたをうたえば
涙を流して喜ぶ子。

そのうた本に書いといて、
みんなが読めるとうれしいな。
見れば子どもはもういない。
私は葦の茎をぬき

むらの筆をこしらえて
きれいな水にしみをつけ
楽しいうたを書き留めた。
みんなが楽しくなるといいな。


 羊飼い

羊飼いのやさしい丘はなんてやさしいんだろう、
羊飼いはその丘を朝から晩まで歩き回る。
一日じゅう羊たちについて歩き
一日じゅう羊たちをほめたたえる。

だって小羊が無邪気にないている、
母親がやわらかい声でこたえている、
羊飼いはみんなをまもっている、
羊飼いがそばにいるから羊たちはしあわせ。


 響きあう緑

日がのぼって
空はしあわせ
陽気な鐘が
春にようこそ
雲雀とつぐみ
森の鳥たちも
声を張り上げ
鐘にこたえる
響きあう緑に
子どもたちの遊ぶ姿

樫の木陰に座った
白髪のジョンじいさん
年寄り仲間に囲まれて
日頃の憂いも笑い飛ばす
遊ぶ子たちに目を細め
思わず口をそろえて言う
あれだ、あれこそが
子どもの頃の歓びだった
響きあう緑に
若いときの姿が見える

子どもたちの遊びも
疲れてきたらもう終わり
日がとっぷりと沈んだら
楽しいときももう終わり
おかあさんの膝のうえ
兄弟姉妹まあるくなって
巣にかえった小鳥のよう
みんなおやすみの時間
暗くなった丘に
子どもの姿はもう見えない


 小羊

 小さな小羊、誰につくってもらったの?
 それが誰だか知ってるの?
小川のほとり、草のうえ
いのちと食べ物をくださって、
何より一番やわらかい
つやつや輝くすてきな服も、
谷じゅうみんなが笑いだす
優しい声もくださった!
 小さな小羊、誰につくってもらったの?
 それが誰だか知ってるの?

 小さな小羊、おしえてあげる
 小さな小羊、おしえてあげるよ
その人の名前はきみと同じ
自分のことを小羊と言ったんだ。
その人はやさしくておだやか
小さな子どもになったんだ。
ぼくは子ども、きみは小羊
その人の名前はぼくらと同じ
 小さな小羊、神さまは
小さな小羊、祝福してる


 小さな黒人の子ども

お母さんが南のジャングルで生んだ子だから
ぼくは黒人。おお、でもぼくの心は真っ白だ。
イギリスの子どもは天使のように真っ白。
だけどぼくは光をとられたように真っ黒だ。

まだ日があまりのぼらないうちに
お母さんが木の根元に座って教えてくれた。
ぼくをひざに乗せて、ぼくにキスして
東の空を指さしてこう言ったんだ。

のぼってくるお日様をごらんなさい。あそこには
神様がいらっしゃって、光と熱をくださってるの。
花も木も、動物も人間も、朝のやすらぎ、
昼の歓びを神様からいただいているのよ。

私たちがこの地上にいるのはほんのわずか、
それは愛の輝きに耐えることを覚えるためなの。
この黒いからだと日にやけた顔は、
雲のような森の木陰のようなものよ。

魂が輝きに耐えられるようになったら、
雲は消えて、神様のお声が聞こえるの。
大事な愛しい子どもたち、木陰から出ておいで、
小羊みたいに歓んで、私の金の天幕に集まりなさい。

お母さんはこう言ってぼくにキスしてくれたんだ。
だからぼくはイギリスの子どもにこう言うよ。
ぼくが黒い雲から、きみが白い雲から自由になって
大好きな小羊みたいに神様の天幕に集まったら、

御父のひざに喜んでよりかかれるようになるまで、
きみが熱に耐えられるようになるまで、日陰を作ってあげよう。
それからぼくは立ち上り、きみの銀色の髪をなでて
きみのようになる。そうしたらきみもぼくが気に入るさ。


 花

明るい明るいすずめ
深い緑の葉のうらで
幸せの花一つ
矢のようなお前を見てる
私の胸のすぐそばに
小さな揺りかご見つけてよ

いとしいいとしいロビン
深い緑の葉のうらで
幸せの花一つ
お前の泣き声聞いている
私の胸のすぐそばに
いとしいいとしいロビン


 煙突掃除の少年

ぼくがとても小さいときにお母さんは死んじゃって、
ぼくがそうじーそうじーそうじーそうじーって
やっと言えるようになったら、お父さんはぼくを売った。
だからぼくは煙突を掃除して、煤のなかで眠るんだ。

小羊の背のような巻き髪の小さなトム・デイカー、
髪の毛剃られて泣いていた。だからぼくは言ったんだ。
泣くなよ、トム、気にするな。その頭なら
煤だってきみの銀色の髪を汚せやしないさ。

それでトムも泣き止んだ。そしてその夜、
トムは寝ている間にこんな夢を見たのさ。
ディック、ジョー、ネッドにジャック、たくさんの掃除の子たち、
みんなそろって黒い棺桶に閉じ込められ、鍵も閉められた。

そこに輝く鍵を持った天使がやってきて、
鍵を開けて、みんなを外に出してくれたんだ。
跳ねて笑ってみんな緑の野原に駆け下りた。
川でからだを洗って日の光を浴びてぴかぴか、

煤袋を残して、はだかの白いからだで
雲のうえにのぼって、風のなかで遊びまわった。そして、
天使がトムに言ったんだ。いい子でいたら神様が
お父さんになってくださるよ。そしたら、いつも楽しいんだ。

そこでトムは目が覚めて、暗いうちにぼくたちは起きた。
煤袋とぶらしを手に持って、掃除の仕事に出かけたんだ。
その朝はとっても寒かったけど、トムは幸せそうであったかかった。
自分のつとめを果たしていれば、いじめなんか怖くないのさ。


 迷子になった男の子

お父さん、いったいどこに行くの?
お願いだからそんなに速く歩かないで
お父さん、ぼくに声をかけて
かけてくれなきゃ、ぼくは迷子になっちゃう

夜は暗く、父親はどこにもいなかった。
子どもは涙でびしょ濡れ。
沼地は深く子は泣きやまない。
そしてすべては霧に覆われた。


 見つかった男の子

先へ先へと漂う光に誘い出され
寂しい沼地で迷子になって泣いている子ども。
しかし、神様はいつも近くで見守っておられます。
白い光に包まれて父のように姿を現わされたのでした。

神様は、坊やにやさしく口づけすると、その手を引き、
心配のあまり真っ青になって、寂しい谷間を
くぐり抜けてきた母親のもとに導かれました。
泣かないで、坊や。もう大丈夫だよ


 笑いのうた

緑の木々が声を出して笑い、
小川がえくぼを見せて走り抜けるとき、
風がぼくらの冗談に腹をかかえ
緑の丘がそのざわめきに笑いを返すとき、

原っぱが生き生きとした緑に笑顔を見せ
きりぎりすが明るい景色に笑うとき、
メアリーとスーザンとエミリーが
かわいい丸い口でハッハッヒーと歌うとき、

色鮮やかな鳥たちが、桜んぼとナッツを広げた
木陰のテーブルで笑い声を上げるとき、
みんなおいで、楽しくなろうよ、
いっしょにうたおう、ハッハッヒー。

(以下次号)



表紙-自転車を置いてきて--西巻慎治さんにお便りを認める、ところ-彼らが消えた空 ――あるいは喉歌-曖昧模湖のネッシー-窓辺について-Love Songs――採集*-領土-GEORGEの胸ポケット-記念写真-『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。-死んだ子が悪い。-重力-鼻唄-骸骨順列-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 1-政治の中のバタイユ 2-解酲子飲食 1-近況集-編集後記

バタイユ・ノート4
政治の中のバタイユ 連載第2回

吉田裕



第4章 ファシスム
 政治的なものに向かうバタイユの軌跡をたどろうとするならば、ファシスムの問題が最大のモメントをなしていることは、誰の目にも明らかだろう。コミュニスムがある意味では遠い国の出来事で、理論的な問題にとどまったところがあるのに対し、ファシスムは国境を接する隣国で起こり、またフランスの国内においても現実的な危険となった問題でもあったからである。バタイユの政治的意識は、ファシスムとの関わりの中でもっとも先鋭な姿を取って現れる。
 ファシスムは通常、第一次大戦後のイタリアにおいて発生し、三〇年代のドイツにおいて最盛期を迎えるというふうに理解されている。そしてバタイユの試みは、これに抵抗するものと見なされて読まれることになる。しかしながらこの姿勢は、すでに後世のある判断、すなわちファシスムはある特定の国の運動体であり、悪であるという判断を前提としている。だがこの二つの判断とも前提とするには足りない。なぜなら、ファシスムはフランスの問題でもあったし、また批判的な考えかたが最初から一般的であったわけではないからである。私はまず、当時のありのままの状況の中にバタイユを置く。彼が「シュルファシスム」と批判されたことは、今では周知の事柄に属するが、けれどもこのような視点をとることは、右の批判を肯定することではない。私は彼はファシストではあり得なかったと考えるが、しかしそれは彼がリベラリストであったということではない。彼はファシスムにもっとも近くまで接近することで批判をなしえたのであって、この様相はある種の人々には「シュルファシスム」と見えたのである。このような危険を冒した彼の大胆さは、彼を時代のなかに位置させる立場からしか理解され得ない。
 ファシスムの名のもとになった運動は、一九一九年三月にイタリアのミラノで、元社会主義者で、退役軍人であったムソリーニが「イタリア・ファッショ戦闘団」という団体の旗揚げをしたところに始まるとされている。ファッシというのは、イタリア語で「束ねる」の意味であり、このような互助的な組織は一九世紀末から存在したらしい。ムソリーニのものは、第一次大戦に従軍した帰還兵士の団体であって、戦闘を経験した者同士の友愛と結束を保持することを唱い、その上に社会的紐帯の再建を加えて、当時はイタリアのみならず、フランスでもドイツでも、さほど珍しくはない団体の一つだった。ムソリーニのこの団体は、彼の指導者としての有能性から急速に支持者を集める。また一九年から二〇年のイタリアでは、「赤い二年間」と呼ばれるほどに共産主義運動によるストライキが頻発したが、それに対する破壊活動に加わることで、ブルジョワ階級の支持をも得て、政治的な力を持ち始める。
 その結果彼は二二年に支持者を集めてミラノからローマまで示威的な行進を行う。これは実質は大規模なデモンストレーションにすぎなかったのだが、政府を狼狽させ、国王は戒厳令に署名することを拒否して、逆にムソリーニに組閣を命じる。ここに初めてファシスト政権が成立したのである。ファシスト集団の持つ軍事的暴力的な性格、指導者に対する盲目的な服従は、人々を不安にするが、他方で新しい価値観を与えるようでもあって、多くの人を引きつけもする。文学者の中でも未来派の提唱者であったマリネッティ、官能的な詩人であったダヌンチオなどが共鳴する。この政権は、経済がようやく戦争の痛手から立ち直りかけていたこともあって、かなりの成功を収め、二九年の大恐慌もとりあえず乗り切る。
 しかしながら、イタリアそのものが大国ではなかったために、ファシスト政権がフランスに強い不安をもたらしたとまではいえないようだ。バタイユに関して言えば、二四年以前の彼には政治的な関心を示した痕跡はない。はじめて政治的な発言が現れるのは、二〇年代後半だが、それはもっぱらコミュニスムに関するものである。ファシスムに関する言及が最初に現れるのは、私が知る限りでは「老練なもぐら」(三一年)である。ファシスムの不安と同時にある種の魅惑がフランスに侵入し、フランスにも存在したファシスム的要素を増幅させるのは、常に脅威であった隣国ドイツでファシスムが勃興し始めたときである。
 ドイツの場合も、第一次大戦後、イタリア同様の理由から、旧軍人の民兵的な集団が各地に生まれる。その中の一つが、一九年にミュンヘンで結成された「国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」である。創立者は別人だったが、すぐあとに入党したヒトラーは、弁舌の才によって瞬く間に指導者に成り上がる。この時期ドイツではワイマール共和制のもとにあったものの、地方分権がまだ強く残っており、バイエルン地方では軍の関係者から、強力に浸透し始めた共産主義に対抗する活動を期待され、突撃隊を中心に資金上装備上の援助を受ける。当時ヒトラーはムソリーニを尊敬していたようで、二三年には、ローマ進軍に倣ってベルリン進軍を計画し、武装蜂起を試みるが、これは事前に漏れて失敗する。これがいわゆるミュンヘン一揆である。ヒトラーは逮捕され、有罪の宣告を受け、収監されるが、その間に『わが闘争』を著す。
 ヒトラー出獄後、二五年からナチ党は政策を変え、一揆主義を放棄し、合法的な議会主義路線をとるようになる。二八年の国会選挙では、党勢はふるわない。しかし二九年に大恐慌の波が、アメリカから発して全世界を覆う。この大恐慌は大戦の痛手からようやく立ち直りかけていたドイツ経済を直撃する。大きかったのは、当時の社会生活の中心であった中産階級、自営の商工業者を没落させたことだ。破産に追い込まれたこれら中産階級は、労働階級におちていくことを肯定できず、新しい秩序を訴えるナチス党に多く参集する。その結果三〇年九月の国会選挙では、ナチス党は議席数を二八年の一二から一〇七に伸ばし、第二党に躍進し、三二年七月と十一月の選挙ではついに第一党となり、三三年一月には政権を掌握して、ヒトラーは首相に就任する。共産党は社会民主党と労働組合にゼネストを呼びかけるが、合意は得られなかった。逆に選挙直前の二月末、謀略によるらしい「国会議事堂炎上事件」によって、両党は徹底的な弾圧を受ける。三月の新国会では、政府に強大な権限を付与する授権法が成立する。この間ヒトラーは三二年一月に経済界と接触し、それなりに持っていた資本主義批判を修正して資本家階級と妥協し、政権獲得の翌三四年六月には、突撃隊の指導者であったレーム、社会主義的側面を持っていたシュトラッサーを粛清する。そして同じ八月、大統領ヒンデンブルクの死去にともなって大統領職を廃し、総統という権力を集中させた職を作り、それに就任する。これによってドイツでナチ党の独裁体制が成立する。
 以後を簡単にたどると、三五年九月にドイツ人の民族性を守るという名目のニュルンベルク法が成立し、再軍備を実行し、三六年三月にラインラントに軍隊を進駐させる(七月にスペイン内乱が始まる)。三八年四月にはオーストリア、一〇月にはミュンヘン会談をへてチェコ・ズデーデン地方が併合され、一一月には水晶の夜がある。三九年になると三月にプラハが占領され、八月には独ソ不可侵条約が締結される。そして一週間後の九月一日、ドイツ軍はポーランドに侵入し、第二次大戦が開始されるのである。

第5章 フランス
 隣国イタリアとドイツでの出来事は、フランスでも無縁でありえない。フランスは一貫して民主主義の国であったというのは、教科書的思いこみにすぎない。第一次大戦での戦勝国の側にあったとはいえ、死者は一三五万人、第二次大戦よりも多く、また経済的にも疲弊して、社会的不安はドイツとあまり変わらなかった。政治的には、第三共和政の議院内閣制の下で左右の衝突が激しく、政府は平均して八ヶ月程度の寿命しか持たなかった。三三年にはボルドーで大規模な贈収賄事件が発覚し、贈賄者とされたスタヴィスキーとが不審な死に方をして、共和制民主主義の腐敗が明らかになる。
 こうした状況に応じて、諸党派は批判を強める。左派に関しては、先に見たように二一年に社会党から共産党が分離し、労働者の間に浸透する。右派に関してはさまざまの党派が存在するが、中で特に記憶しなければならないのは、シャルル・モーラスの理論に支えられた「アクシオン・フランセーズ」と、元軍人であるラ・ロック大佐に率いられた「火の十字架団」、およびプロレタリア階級出身で共産党政治局員であったドリオの「フランス人民党」であろう。だがこれら三つは性格が異なる。「アクシオン・フランセーズ」は、ドレフュス事件さなかの一八九九年に結成され、反ユダヤ主義的傾向、王党派的反動的な性格、フランス革命以前のキリスト教(カトリック)に基づく王政の復古をめざした。これは日本型の天皇制ファシスムと似ている。これに「火の十字架団」は、元軍人とその子弟を集め、三五年には団員七〇万人と言われ、その暴力的な性格で恐れられるなど、ファシスト党の黒シャツ隊、ナチス党の突撃隊に似た性格を持っていた。三六年に結成される「フランス人民党」は、党首であるドリオの経歴から明らかなように、左翼からの転向者を集め、党員の三分の二までが労働者という特異なファシスム政党であった。
 隣国イタリアとドイツで、強い国家権力とカリスマ性を持つ強力な指導者が出現したことは、フランスの右翼をいらだたせる。これらの国々に対抗し得るおなじように強いフランスを求め、ヒトラーの独裁体制が成立したことに反応し、三四年二月六日に、「アクシオン・フランセーズ」と「火の十字架団」を中心に数千人がパリの中心コンコルド広場に集まり、激しい示威行動を展開する。これはムソリーニのローマ進軍、ヒトラーのミュンヘン一揆に相当するものだろう。デモ隊は新内閣の信任案を討議中の議会(セーヌ川を挟んだ対岸のブルボン宮にある)に押しかけようとし、警備の憲兵隊や警官隊と激しく衝突し、十数人の死者を出す騒擾事件を引き起こす*1
 この事件は、各方面に大きな衝撃を与える。フランスでもファシスムの時代が始まるのではないかという深刻な不安がフランス中を覆う。この不安はようやく社会党と共産党を動かすことになる。当時まで二つの党は、分裂の経緯と路線の違いから激しく対立し合っていた。社会党は議会主義路線をとっていたが、共産党は国際的な共同路線を重視し、議会外での行動を重視するものであった。ドイツでは二九年に、プロイセン政府、社会民主党、労働組合の指導部は過激団体の取り締まりを理由として、すべての集会とデモを禁止したが、これを無視した共産党の呼びかけによって、労働者が集結したところに警察が発砲し、多数の死傷者を出す事件が起こっている。この「血のメーデー」事件によって、社共の分裂は決定的になる。コミンテルンの見解では、社会民主主義はファシスムの予備軍であり、共産主義者は、まず社会民主主義者と戦うべきであるとされた。左翼の側のこの分裂が、ファシスムの進出を利したことは否めない。フランスにおいて社会党と共産党は、ドイツでのこの失敗に鑑みて、ようやく協調路線を取ることに合意し、騒擾事件直後の二月一二日に、その影響下にある労働組合を合同して大規模なデモとゼネストが実行する。ストライキに参加した労働者は一〇〇万と言われ、左翼は力量を示すことに成功する。
 このときの協力が元となって、翌三五年七月一四日の革命記念日に、社会党、共産党、急進社会党、それにCGTなどの労働組合、反ファシスム知識人監視委員会*2などの知識人組織を含めた「人民の結集Rassemblement populaire」を成功させる。これがやがて「人民戦線Front populaire」と呼ばれることになる。この年仏ソ相互援助条約の調印して、フランスとの友好を政策としたソ連とコミンテルンは、この統一行動を評価し、人民戦線方式を是認する。これによってフランス共産党の方針は変更され、社会党、急進社会党との間で、三六年一月に政策協定が結ばれ、反ファシスムを中心とする左翼の統一が成る。この統一党派は、五月の総選挙を経て、六月に社会党党首のブルムを首班とするところの人民戦線政府が成立させる。これはフランスの歴史上で最初の左翼政権の成立であった。この第一次ブルム内閣によって、週四〇時間労働制、二週間の有給休暇(ヴァカンス)、労働組合の交渉権の認知などブルムの実験と言われる一連の社会主義的な改良が行われ、フランスは平和な改良の時代を迎える。しかしながら、難事件は外側からやって来る。
 それはスペイン問題である。スペインでは、フランスよりもわずかに早く三六年の一月に王政を倒して、人民戦線内閣が成立し、土地改革などの改良に着手するが、軍部や地主階級の抵抗が強く、七月にはフランコ将軍が共和政府に反乱を起こす。これがスペイン戦争の始まりである。フランコの反乱に対してイタリアとドイツは公然と援助を行うが(ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃は三七年四月のことである)、フランスは同じ人民戦線政権でありながら、イギリスの協調を得ることができず、ドイツ、イタリアと直接衝突するのを恐れて、不干渉政策を採る。戦争は、三九年、共和政府側の敗北に終わり、スペインにはファシスト政権が誕生することになる。これは明らかにフランス人民戦線政府の外交上の失敗であり、また国内の経済がうまくいかなくなったこともあって、ブルム内閣は三七年六月二二日、わずか一年で瓦解する。そのあとも政権は左右に揺れ動き、三八年三月にはブルムがもう一度内閣を組織することもあるが、わずか一ヶ月間続いたのみで、もはや三六年の熱気を再現する力はなく、そのあと急進社会党のダラディエが組閣するものの、人民戦線は完全に瓦解しており、ファシスムに譲歩を重ねて、三九年九月の第二次大戦勃発を迎えることになる。

第7章 民主共産主義サークルからコントル・アタックまで
 バタイユは、この変転著しい時期をどのように生き、どのように考えたか。三三年終わり頃、彼はスイスのスキラ書店の誘いを受けて、マソンとともに「ミノトール」を計画し、発刊にまでこぎつける。バタイユはこれを「ドキュマン」の跡を継ぐものと考えていたようだが、結局シュルレアリストたちに乗っ取られる。三三年末には「民主共産主義サークル」と「社会批評」は、完全に瓦解する。これによって彼は再び、よりどころのない立場に追いやられる。彼は政治に嫌気のさすことがあったようだが、三四年二月の反ファシスムデモには参加している。同じ頃、通っていた高等研究院で、コジェーヴのヘーゲルの「精神現象学」に関するゼミナールが始まり、そこに出席し、強い影響を受ける。私生活の上では、三四年三月には妻と別居し、三五年はじめに離婚する。同時に無数の交情があり、ロールこと、コレット・ペニョとの関係が始まる(「アセファル」の冒険を経て、ロールが死ぬのは三八年十一月七日である)。
 この時期のバタイユの思想的な遍歴には、きわめて興味深いものがある。この遍歴は錯綜しているが、それを解きほぐす作業はどうしても欠かすことはできない。この時期バタイユの関心を最も強く導いたのは、ファシスムに対する批判の意識であることは間違いない。彼は「社会批評」の最後の二つの号(三三年十一月の一〇号、及び三四年三月の一一号)に、「ファシスムの心理構造」を書いている。これは特異な観点を提出して、高度な分析に及んだ論文だったが、それでも問題がこれで解決したのというのでは全くなかった。彼はいっそう深くファシスムを追求しようとする。三四年二月一二日のデモのさいには、珍しいことだが、日録風のかなり詳細な覚え書を残している*3。そして彼はファシスムを論じるために一冊の著作を計画する。この書物は「フランスのファシスム」という題名を予定されるが、バタイユの多くの著作計画と同じく、完成には至らない。だがこの関心は、変容して小説の形を取るに至る。それが『青空』である。けれどもこの作品も戦後の五七年に至るまで未刊行のままに残される。すべては最も奥深いところで、人知れず行われたのである。
 ファシスムに対する批判の意識は、ついで「コントル・アタック」という極左的なグループを結成させ、失敗させる。この時期にも、彼はかなりの量の書き物を残している。しかもこの時期に書かれたものは、眼前の事件の分析、アジテーションのためのビラ等々であって、有効性に専念するもっとも実践的な言語なのだ。この言語は、現実と激しく接触し、消え去ろうとしながら、かろうじて残される。これらもまた最も見えにくいところで行われた彼の試みの痕跡を示すものである。
「コントル・アタック」の失敗は、彼を実践的な局面から引き離すが、それでも彼を政治から背を向けさせることはない。三七年の「アセファル」また「社会学研究会」が政治の原質的なものへの強い関心に動かされていたのは、前にも見たとおりで、そして今回はこの二つにやはり同じ年の「集団心理学会」の結成があるが、かりにこれらが学問的な装いを持った関心だったとしても、その背後には、共同体というかたちでの現実への関心が作用し続けていた。加えるべき証拠に次のようなものがある。彼は「フランスのファシスム」を書くのを、少なくとも開戦に至るまではあきらめていない。三八年のことだが、彼は「社会学研究会」の共同主催者であったカイヨワに対して、後者があるガリマール社で編集の責を負っていた「君主と圧制(権力の極度の形態に関する研究)」という叢書の一冊として、「社会批評」に発表した論文に手を入れ、前文を新たに付加して「悲劇的運命」という表題のファシスム論を出せるように申し込んでいるからである*4
 三八年というと、バタイユはヨガの手ほどきを受け、秘教的な実験に乗りだそうとしていた頃である。「死を前にしての歓喜の実践」(三九年六月の「アセファル」五号に公開)が書かれ、その後に「反キリスト教徒のための心得」(これは草稿のままで残される)が続く。これらは、題名からは、もっぱら宗教的な関心のみの著作のように聞こえるかもしれないが、ことに前者は、供犠によってどのように宗教的境地が獲得されるかを心理学および社会学の立場を念頭に置いて分析したものであり、その背後にはファシスムを核とする政治的動向に結びつく関心があったはずだ。この錯綜は、とうてい一枚の見取り図に還元することは出来ない。私たちは少しずつ視点を変えながら、数回にわたってこの時期を反復してなぞることを避けえないだろう。私がまず提起したいのは、そしてそれが今回のノートの主題なのだが、最も現実的なものとしての政治的な関心である。

第8章 「ファシスムの心理構造」
 この論文を理解するためには、まずそれがこの時期のバタイユの中でどのような位置を占めているかを把握しておく必要がある。論文の一番根幹の構造をなしているのは、ブルトンとの論争文の一つである「サドの使用価値」で提起された異質学の理論である。この理論的構想は、「サドの使用価値」で最初の形を与えられた後、「心理構造」(以下このように省略する)で最も進んだ形にまで高められるが、以後は前景から退いてしまう。理論として整えることは放棄されたのだろう。ただ同じ関心は、姿を変えてこの時期の多くの論文に現れる。「消費の概念」の宗教、情念、無意識、暴力など生産に還元されない非生産的消費とは、明らかに異質的なものであり、逆にこれらの非生産的消費は、「心理構造」では異質的なものの例としてあげられている。
 「心理構造」は、理論的な面のかなりの部分を先行する諸論文に負っているが、基本的にはバタイユは、ファシスムを異質的なものの現代における最も先鋭な形態として考えている。その上で彼は次のように把握する。〈ファシスムは、なによりも権力の集中化、凝縮として現れる〉(第10章「異質性の至上形態としてのファシスム」*5)。すなわち、「心理構造」は権力論として構想され、宗教的権力、軍事的権力、王制的権力という歴史的な現れを考察し、その上で現代における課題としてファシスムを提起するという構成をとっている。バタイユは、〈王権の中に他の二つの権力、つまり軍隊と宗教の権力を構成する要素を見いだすことは容易である〉(第7章「傾向的中心統合」)、また〈王権についての一般的記述は、ファシスムに関連するあらゆる記述の基礎になる〉(第6章「異質的存在の強権的形態ー王権」)と言う。彼は人類の最初の権力として宗教的権力と軍事的権力を、そして二つが合体したものとして王権を考え、その現代的な様態をファシスムだとみなす。
 もう一つ注意しておかなければならないのは、一般的にはそう思われているような、また当時のマルクシスムがそうしていたような、経済的な優位性が権力を決定するという立場をとってはいないことである。序文で明言されているが、彼は「上部構造」が独自の動きをして、それが政治的権力の本質をなすという立場をとる。本文中でも〈ファシスムによる統一が成立するのは、それに基礎を提供する経済的諸条件の中ではなく、それに固有の心理的構造の中でのように思われる〉(第12章「ファシスムの根本条件」)と書いている。そこから導き出されるファシスムの姿は、今日でもなお私たちの目を引くものである。
 これらのことを背景にした上で読むと、「心理構造」の最も基本をなしているのは、異質なものは社会の中でどのような本質を持ち、どのように作用し、どのように錯誤しうるかという問いであることが見えてくる。彼はまず社会が同質性に依拠して形成されることを確認する。なぜなら〈人間関係というものは、一定の人員と一定の状況とによって成立する同一性の意識を基礎とする固定された法則にようやくすることで保たれる〉(第1章「社会の同質的部分」)からである。このことは、貨幣によって通約性がかつてなく拡大された近代社会においていっそうよく当てはまる。しかしながら同質性の確立は、反面で異質なものの排除であり、こうして成立した近代ブルジョワ社会へのバタイユの憎悪に近い反撥はすでに見たところである。
 この社会に対して、ファシスムとその指導者ムソリーニやヒトラーは、異なった存在の仕方を示す。〈ファシスムの扇動者たちは、異議なく異質的存在に属している〉(第4章「異質な社会存在」)。彼らの持つ魅惑の力は、民主主義政体の政治家たちがとうてい持ちえないものである。それは彼らが等質化から排除された社会の異質な部分――落伍者、あるいは元兵士といった――の出身であるところから来ている資質である。だがこのような異質性があることは、すでに「サドの使用価値」の中で指摘されていた。バタイユはエルツとデュルケムを援用して、聖なるものの存在と、それに純聖と不純聖の二つがあることを説いていた。エルツとデュルケムは、この二つの聖なるもののうち、純聖なものが宗教として結晶していくのを後付け、肯定した。しかしそのときバタイユは、純聖なものは、いつの間にか世俗的同質的世界と合一し権力と化してしまうことを指摘し、それに対して不純聖な異質さだけが、どこまでも異質的であり続けうると述べ、この後者の異質さ、すなわち汚れたものまた低次の物質に依拠することで、同質的な世界へと回収されてしまうことをどこまでも拒否しうるとしたのである。
 しかしながら、ファシスムはさらに一歩先で問題を提起したと言わなければならない。なぜならファシスムは不純な異質性から出発しながら、いつの間にか同質的な世界に合致し、権力を構成してしまうことがあり得るということを示したからである。これはバタイユにとって新しい課題であったはずだ。またそれは、聖なる世界と俗なる世界、純聖と不純聖は壁画的に分類されるものでなく、その間にダイナミックな変容と交換の可能性のあることも示したのである。あるいはそれは、イエスの十字架上の死という惨憺たる出来事を巧妙に純聖へと読み変えていったキリスト教を批判することにも通じると考えられていたに違いない。だから彼は是非とも、ファシスム的権力のよってくるところを明らかにしなければならなかった。
 私の見るところでは、彼の批判は次のように読みとることができる。バタイユは不純聖の異質さが辿りうる過程を、ファシスムに即して次のように分析している。

〈外面的な行為についてではなく、その源に関して考察するならば、ファシスムの扇動者たちの持つ「力」は、催眠状態において働く力に似ている。扇動者をその賛同者たちに結びつける感情の流れ――それは賛同者たちを扇動者に精神的に一体化するというかたちを取る(この働きは相互的である)――は、権力とエネルギーを持つことを共同で意識するという機能を果たす。それによってこの権力とエネルギーは、ますます激しさを加え、ますます常軌を逸するものとなっていき、統率者の人格の中に蓄積され、統率者が無制限に行使し得るものとなる〉(第4章「異質な社会存在」)。

 低次の異質さは、強力なエネルギーを発揮する。それはかりに扇動者を持つとしても、その関係は相互的でなければならないはずである。しかし扇動者を受け入れるということは、このエネルギーを一方的にこの扇動者にゆだねることになってしまう。扇動者はエネルギーを搾取するのであり、一方大衆は、自分たちが産出したエネルギーの過剰さに耐えられず、それを他の人間に譲り渡すのである。
 この過程はまた単なる委譲ではなく、変質を伴う。バタイユは、前述のようにファシスムに王権的性格と軍事的性格の二つを認めているが、とりわけ後者の性格が強いこと、指導者に対する絶対的な服従があることを指摘した上で、エネルギーの委譲が倒錯を引き起こすことを次のように明らかにする。

〈この統一の感情的性格は、兵士の将軍に対する癒着という形態で現れる。それは兵士それぞれが、将軍の栄誉を自分自身の栄誉と見なすことを意味する。この過程を媒介することによって、吐き気を催させる殺戮は、根本的にその逆のものである栄誉に、つまり純粋かつ強烈な魅惑に変容する〉(第8章「軍隊と将軍」)

 この過程は、もっと原理的には次のように言えるだろう。すなわち、異質的なもの、その中でも不純聖に属する異質さは、魅惑と嫌悪、引き寄せと反撥の二つの相反する作用を持っていてそれを相互に作用させることによってはじめて本来的な姿を持つのだったが、それがただ引き寄せる作用のみを拡大された時、それは引き寄せられた者たちをただ服従させ、彼らが産出したエネルギーを吸い上げ、権力的な構造を作り出し、同質的な世界と癒着することになるのである。これが、汚れたもの残酷なものを根源に持っていた宗教や軍事力がいつの間にか権力を持つことになる変質の過程であり、ファシスムは、現代においてこの過程を正確になぞったのである。
 この批判から、今度はバタイユの積極的な試みがどのような方向に向かって打ち出されようとするかを推測することは容易である。すなわち異質なものをただ魅惑する力の側面からのみとらえないこと、また魅惑の力のみが偏重されて変質と凝固が起きているときには、異質なものの持つ残酷で、汚れて、おぞましい力をいっそう明らかにすることであった。不純な異質性は、「心理構造」の範囲内では、まずプロレタリア階級に求められる。〈こうして意志的領域の上層部は、不動のものになると同時に、他を不同にするものであり、一人貧困で抑圧された階級で構成される下層部だけが身軽に動きうる。・・マルクシスムの用語でいうならば、この階級は革命的プロレタリアートとして自己を意識せねばならない〉(第12章「ファシスムの根本的条件」)。プロレタリアートがプロレタリアートとしての自己を意識するとは、下層のつまりは低次の異質性を確認し、それを決して譲らないことを意味する。
 しかしながら、注目すべきは、この動的な本質を持った部分がただプロレタリアートのみではないとされている点である。バタイユは次のように書いている。〈こうした魅惑の中核は、ある意味では「意識を持ったプロレタリアート」と呼ばれるべきものの形成以前に存在していると言うことすら可能である〉(同上)。これはバタイユの関心事が思いがけず漏れてしまった一節であるように見える。プロレタリアートの形成以前に存在するとは、〈存在論の尊大な機構に還元されることを拒否する〉(「低次唯物論とグノーシス」)ことではないのか? そしてそのように存在するのは、バタイユにおける「物質的なもの」のことではないのか? ここでバタイユは確かに、マルクス主義的な限定を越えて、いっそう物質的なものの方、そのおぞましさの方へと向かおうとするのである。
 ファシスム批判は、バタイユにとっては、政策として成文化されうるようなものではなかった。それは姿勢のちがい、もっと踏み込んで言えば、存在の仕方のちがいであった。彼は物質を求めて、いっそう深いところに潜り込まねばならなかった。思考と言語の底は、ほとんど破れようとしていた。彼が触れようとするのは、その亀裂の先にあるざらつくような現実の手触りである。

*1この事件については、さらに検討が必要である。「火の十字架」は、最終的にはブルボン宮に侵入しようという他党派からの誘いには乗らず、そのために後日批判を受ける。事件以後、いっそう過激な小グループが多く生まれるが、三六年一月、つまり六月の人民戦線内閣成立以前のことだが、極右の行動部隊に対する解散命令が出される。
*2三四年の騒擾事件に危機感を持ったブルトンの呼びかけ「行動へのアピール」をきっかけとして結成された。参加者は他にアラン、ゲーノ、マルローなど。
*3この時期のメモ類は、全集第U巻に収録されている。いずれも未訳である。その中のいくつかを以後検討の対象とする。三四年二月一二日の覚え書は比較的長いもので、「ゼネストを待ちながら」という題で収録されている。
*4『カイヨワへの手紙』Lettre a Roger Caillois, 4 aout 1935 a 4 fevrier 1959, Edition Folle Avoine, 1987, p83。未訳。
*5この論文では「心理構造」のすべての論点を網羅することはできない。権力論としてのみ取り上げる。

第2回終わり



表紙-自転車を置いてきて--西巻慎治さんにお便りを認める、ところ-彼らが消えた空 ――あるいは喉歌-曖昧模湖のネッシー-窓辺について-Love Songs――採集*-領土-GEORGEの胸ポケット-記念写真-『グァバの木の下で』というのが、そのホテルの名前だった。-死んだ子が悪い。-重力-鼻唄-骸骨順列-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 1-政治の中のバタイユ 2-解酲子飲食 1-近況集-編集後記

連続エッセイ・解酲子飲食1
江ノ島のサザエ

倉田良成



 結婚する前にいまの女房と江ノ島に行ったことがある。島と陸地とをつなぐ、いずれ江ノ島大橋とでもいうのだろうが、そこを歩いていたら橋の脇に小さな舟の発着所があったので、舟に乗って江ノ島の裏側に回った。岩肌に沿った階段をはい上がるようにしてのぼると、何軒かある茶屋のなかに、「絶景」とでも呼びたい眺望を持つたー軒があったのでそこに入った。「江ノ島とくれば」、「サザエでしょう」。彼女と漫才のように注文したサザエがなかなか出てこない。聞けばおじさんが帰るまで待ってほしいという。すこししたら濡れた漁網を重そうに提げたじいさんがやってきて、やっとサザエのご登場となったわけだがそれはわれわれの予想を軽く超克したものだった。知っているサザエの味は少し重くて苦いはずなのに、いま目の前の海から獲ってきたそれはキモからして甘くて軽い。まったく初めての鮮烈な海の匂いがした。以来わが家では「サザエは江ノ島にかぎる」。


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〈近況集〉

吉田裕
バタイユのことを調べていて、友人である画家アンドレ・マソンの存在の大きさに今更ながら気づいています。バタイユは特異な思想家であるに違いないが、それでも全く孤立していたわけではありません。神話、残酷さ、古代ギリシャ、ニーチェヘの関心などで、マソンから啓発されたものはとても大きいようです。もちろん相互的に影響し含っているのですが。いつかそんなテーマも扱えたらと思っています。

田中宏輔
現代教養文庫から出てる『妖精メリュジーヌ伝説』という本を訳者の方からいただいて読みました,さまざまな古典と同様に、物語文学の型の一つであると思われました。物語の展開に不可解なところがあるのは、古典にありがちなことですが、(例えば、あるところに、三日後に死んだという記述があるのに、そのあとのところでは、一週間以上も生きて活躍していたり、とかです。)その不可解さが、すごく面白く感じられました,ぽくも、『先駆形』の中で、こういった不可解さに通じるものを何度か表出してみましたけれど、『妖精メリユジーヌ伝説』が持つ魅力には至りませんでした。もっと素朴に、不可解たれ、ということでしょうか。まるでハイミー、いえ、俳味のようですね。(笑つてね。)

倉田良成
このあいだ「シンドラーのリスト」をテレビでやっていましたが、最後まで観る気にはなれなかった。非人間的なナチスの所業を(たとえそれが現実にあったことでも)意図された非人間的な映像で盛り上げて描くことにはやや納得できません。印象が強烈であればあるだけ、イマジネーションの悪といつたものが感じられてこころが浄化されないのです。最後まで観ていないので責任ある言辞とはいえませんが、その夜の悪夢に出てきたことだけは確かです。

築山登美夫
この2月19日は朝に埴谷雄高、夜にトウ小平と、奇妙に照応する超高齢の死がつづきました。照応する、と云ったのは、老獪、世渡り上手といったすぐ思いつく長い晩年の共通項のほかに、「世が世なれば」埴谷は周恩来のような場処にいた人なんだという意味のことを菅谷規矩雄が云っていたのを思い出したからです。新聞には礼賛記事があふれていますが、ひどいもんだねえ、というのがぽくの感想です。毛皇帝を継いだトウ皇帝のことは措くとして、埴谷を熱心に論んだのは75年の「死霊」第5章までで、とくに7章以降は読むに堪えないものでした。左翼全盛期に放ったスターリニズム批判は不朽だとは思いますが、後年の埴谷は幻の50年代、見せかけの左翼優位の冷戦構造にしがみついた神話的説話論者として記憶されるのではないでしょうか。面白くない時代がつづきます。今年あたり、守りに入っていた人々のつもりにつもった不満のエネルギーがあちこちで爆発するのでは、という気がしてなりません。本のオススメは 「吉本隆明×吉本ばなな」。いま人がもっとも知りたがつていることが詰まつた、切実で楽しい本です。


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編集後記

本号はまた遅れてしまいました。いろいろと雑用の多い時期ではありますが、言い訳できません。24ページの増ページになりました。50グラムを超えてしまうでしょう。しかし、ペースの速まりが確定的にならない以上、貴重な原稿を削るわけにはいきません。いろいろ手を広げすぎているという話もあります。泥縄式がふさわしい、それが味を出す、という好意的解釈もありますが、ほんとうにそうでしょうかね。とくにインターネットのホームページづくりは楽しんで自然に広がっていくというところです。紙のメディアでは出会えない人とも徐々に知り合いになっているこの頃です。電子テキストのほうが早く処理できて、即時的に読める利点がありますが、紙のメディアもおろそかにしたくないです。

[ホームページ(清水)] [ホームページ(長尾)] [編集室/雑記帳]
エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
[No.23目次]
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