バタイユ・ノートIV
政治の中のバタイユ 連載第4回

吉田裕



第11章 革命の可能性を求めて
 コントル・アタックのような運動体を過不足なく捉えることは、多くの視点を総合することが必要で難しい。今はバタイユに関心を絞って軌跡を辿ってみる。彼がこの運動のなかで書き残したもののなかで基本的なのは、「コントル・アタック宣言」「街頭の人民戦線」「現実の革命を目指して」の三つだろう。これらは状況に即した論文であり、その間に起こった出来事を考えれば、すべてを同一の平面上で扱うことはできないが、これらからまず共通するものを取り出し、通約を越えていくものがあれば、あとでそれを補う。
 これらを合わせ読むときに共通して見えてくることの第一は、当然のことながらきわめて左翼的な立場である。「同盟」は、〈現体制に対する攻撃〉を目的とし(第三項)、〈資本主義のあらゆる奴隷どもに死を!〉(第六項)と呼びかけ、〈同盟が創出すべき任務を負っている原理の基本的諸問題は、ひとつとしてマルクス主義の根本的命題と矛盾するものではない〉(第七項)と述べられ、十分ではないものの、生産手段の共有、労働者と農民の生活の改善等に対する政策が提議されている(第九、一〇、一一項)からである。この立場からいくつかの主張が出てくる。最初の一つは、国家あるいは民族というものに対する激しい反撥と批判である。「宣言」の第一項は、次のように言っている。

〈われわれは、いかなる形態をとるにせよ、国家もしくは祖国の諸概念のために「革命」を籠絡せんとするいっさいの傾向に激しく反対し、留保するところなくあらゆる手段を尽くして資本主義権力およびその政治的制度の打倒を決意するすべての人に呼びかけるものである〉(第一項)

 もう一つうかがえるのは、議会主義あるいは議会を支える近代的ブルジョワ民主主義への批判である。議会というものが国家の枠内に収められて存在している点からすると、この批判は「国家」批判の延長上にあるものでもある。バタイユは、変革への意志が書記局や委員会の間の意見調整、議会での交渉、さらにロビーでの裏取引などによって押しつぶされてしまうことを強く批判する。これは選挙協力によって議会で多数を占めることで政権を取ろうとする現今の人民戦線が陥ろうとする罠でもある。〈人民戦線の指導者たちは、ブルジョワ制度の枠内で、権力と接近することになるだろうが、このような綱領は破産に瀕しているということを私たちは言明する〉(第五項)。
 この批判を反転させると、バタイユたちの求めるところがあぶり出されてくる。一番大きな枠組みは、ファシスムに抗しながら、同時に国家という前提に依拠しないということだろう。それは当然簡単なことではないが、彼らはどのように実践しようとしたか? バタイユは政党を頭からすべて否定するわけではない。組織と持続性は政党の持つものである。しかしながら、最終的に依拠するに足るのは民衆自身が持つ直接の力であり、その力を用いて権力奪取に踏み切らなくてはならない。
 これに従って「コントル・アタック手帖」のパンフレットの一つは、前述のように武装民兵組織の結成を呼びかける。しかしながら、急進的なインターナショナリスム、暴力革命の主張は、おそらくは他の極左的な小グループに共通する主張であったろう。バタイユはこうした部分をこれらのグループと共有しているが、それでも彼が固有の運動を試みなければならなかった所以は次の段階から現れる。第三項がその概要を示している。

〈私たちは、現体制に対する攻撃は、新たな戦術によらねばならないことを断言する。革命運動の伝統的な戦術は、専制君主制の清算に適用された場合にしか効果がなかった。民主主義体制に対する闘争に用いられた場合には、この旧来の戦術は、労働運動を二度破滅に導くことになったのだった。私たちの本質的かつ緊急の任務は、直接的な経験から引き出される一つの原則を構築することである。私たちが生きている状況においては、経験から教訓を引き出しえないことは、犯罪的であると見なされねばならない〉(第三項)

 二度の破滅とは、イタリアとドイツの場合を指すのだろうか。新しい現状認識を迫る主張は、以後とりわけ「現実の革命」で取り上げられることになるが、今はまずバタイユの持った全体的な構図を取り出す。革命運動は、専制政体に対する場合から民主主義政体に対する場合へと変化した。そしてこの二つの場合では、革命の方法は異なる。現在フランスで問題になっているのは民主主義政体に対する革命であって、その場合、課題は全く新しいかたちで出てくる。

〈しかし現在の私たちは、政治というゲームにおいて、一挙に主要な位置を占めるようになった新しい形態に直面している。新しい社会構造の構築というスローガンを、私たちも掲げざるを得ない。今日、社会の上部構造に関する研究が、あらゆる革命的活動の基礎となるべきであることを私たちは断言する〉(第八項)

 この社会の上部構造とは、もちろん「ファシスムの心理構造」で取り上げられたもののことである。下部構造すなわち経済的な因子はもちろん重要だが、それだけでは社会の動きの全体を理解することができない。とりわけ現代においてそうなのだ。バタイユはコントル・アタックに関わる論文のなかでは、上部構造のことを情動・情念emotionという表現で取り出している。〈経済的な基盤の分析が、その結果は限定的であるとしてもいったんなされたなら、私たちの関心をとりわけ引くのは、人間の集団に権力への飛躍を与える情動という問題である〉(「街頭」)とバタイユは言う。人間が集団をなしたときに現れる心理は、経済的な条件からは相対的に独立して特異な作用をすることがある。それをとらえることができたのはファシスムであって、彼らの独創は、情念の昂揚としてのファナチスムを利用しえたことである。

〈私たちの確認したところでは、他の国々においては、労働者階層によって生み出された政治的武器が、国家主義反動によって利用された。今度は、私たちのほうが、ファシスムによって生み出された武器を利用する番なのだ。ファシスムは、感情の昂揚と熱狂に対する人間の根本的渇望を利用するすべを心得ていた。だが人間の普遍的利益のために用いられるべきであるこの昂揚は、社会の維持と祖国の利己的利益に隷属したナショナリストどものそれとは全く別の大きさを持った、はるかに重大で破壊的なものであらねばならない〉(第一三項)

 労働者階級が生み出した政治的武器が国家主義反動によって利用された、というのは、ムソリーニがレーニンを尊敬し、職業革命家による規律ある組織によって政権を奪取するという方法論を学んだことを指しているが、重要なのは、ファシスムがファナチスムを利用するすべを知っており、それによって民主主義政体を覆すことができたという部分である。ファシスムはこれまでのところ、民主主義政体に対して革命を起こしえた唯一の運動である。目的は違うがこの「武器」は利用せねばならない、というのが彼の主張である。たぶん他に類例がなかったであろうこのような主張は、「宣言」では項目として列挙されているにとどまる。それをより詳細に、そして以後の展開まで知るには、続く論文を読まなくてはならない。

第12章 どこでファシスムに抗するか
「現実の革命目指して」は思いがけないほどの歴史的分析と現状認識を見せているが、それは政体の違いによる革命のありようの違いについても、詳述している。専制君主制に対するプロレタリア革命の試みは、パリ・コミューンとロシア革命があるが、それは直接プロレタリア革命として実践されたのではなく、専制政治が何らかの理由によって倒され、自由主義社会が出現しようとし、それが安定する直前を捉えて行われたものである。ロシアの場合それは一応の成功を収め、以後それが他の国のプロレタリア運動の手本となったが、現在の西欧には〈いったん安定した民主主義体制〉(第五節)があり、だからロシアを手本とすることは時代錯誤でしかない。現在の革命は民主主義政体を対象とし、全く違った方法を必要とする。
 二つの政体の差は主に権力のありように関わる問題である(第三節)。この権力論が、異質学の探求の蓄積の上にあることは明らかである。専制政体では一人の君主に権力が集中しており、そのことは逆に、民衆にとってこの政体が耐え難いものになるとき、不満と憎悪をこの権力者に集約し、この集約によって蜂起を可能にする。これに対して民主主義政体においては、元首あるいは政府の首班は、不満の対象になると交代させられるので、反対を持続的に集約させることができなくなる。〈民主主義においては権威が不在〉であり、そのために〈この政体の危機は、専制政体の危機と同じ意味ではなく、根本的に異なった意味において起きる〉(第五節)。
 では民主主義政体の危機とはどんなものか? それは経済的な停滞、社会的な不安の増大というだけでなく、それに対処できないというところにある。危機という現象の下に現れてきた大衆レベルでのエネルギーは、先に見たように議会制度下の不毛な曲折によって、うやむやのうちに消滅させられてしまう。

〈ブルジョワ社会とは、本当の権力が存在しない組織なのだ。それは常に、とりあえずの均衡の上に成り立っていて、この均衡が次第に困難なものになりつつある現在、権力が欠けているために死にかけている。この社会に対して戦いが仕掛けられねばならないのは、それが解体すべき権力としてあるからではなく、権力の不在として存在しているからである。資本主義者どもの政府に攻勢をかけること、それは人間の心を失い、名前さえ失って盲目となった指導部に対して、途方に暮れ、愚かしくも深淵に向かって歩みつづける詐欺師たちに攻勢をかけることである。この屑たちに対立させるべきなのは、「直截に」、強権的な暴力である。それは直接的に、容赦ない権威に基づく根底的な諸々の力を統合することだ〉(第八節)

 専制政体においては、権力は一人の君主に集中している。それに対して民衆の側に権力を奪取したはずの民主政体においては、権力は議会の迷路の中でそのエネルギーは失われ、あるべき権力は不在であり、あるのはただ不能な権力にすぎない。専制政体から民主政体へという過程を、バタイユは権力の問題として捉え、そこに権力が衰退していくありさまを見て取る。すると彼の次の関心もまた、この権力問題の延長上に捉えられることになる。現在西欧にあるのは民主主義政体の不能に陥った権力だが、それに対して最初に別な考えを打ち出し、実践的たりえたのはファシスムである。ファシスムは、とにもかくにも強力な権力を打ち立てた。しかしながら、それはどのような権力であったか? それについては、すでに「ファシスムの心理構造」がある。ファシスムは大衆に権力を与えるもののように見せながら、実際にはすり替えによって一人の人物が権力を搾取し、大衆自体は擬似的な権力、権力でない権力をあてがわれ、本当はいっそう惨めな従属状態に置かれるものにすぎなかった。
 だから権力という観点からバタイユの問題を言うならば、それは民主主義を超え、ファシスムの陥穽を抜けて、大衆自体が権力を現実的に保持するためにはどうすればよいのか、そしてそのように保持された権力はどのようなものか、というものであった。民主主義、とファシスムに対する批判はこれまでもあったが、それらに変わる権力あるいは権威に関する積極的な主張は、コントル・アタックの時期にいたって初めて打ち出されたように思われる。「現実の革命」ではこの主張は「有機的運動」という名称で提出される。

〈また有機体的運動は、蜂起である以上、出来合いの政治的枠組みからは独立的に、議会主義に対してはあからさまに敵意を示しつつ、厳密に規定された利益に基礎を置いたプログラムから出発してではなく、激しい情動の状態から出発して展開される〉(第九節)

 それは権力の不在に対して権力を持とうとする運動であり、また合理的な利害の判断よりは情動によって動かされるところのものだ。だがこれらの言明は、バタイユにとっての条件である民主主義に対する批判から始まってはいるものの、具体的な運動として打ち出すことはまだできていない。そのような提示の仕方は、このような種類の主張にとっては難しいことであり、また時間的な余裕を欠いていたことも確かだろう。だがそれが現状に対する批判にとどまる限りは、どうしてもファシスムと共有するところが前面に浮上してくることになる。バタイユは、自分の主張がファシスムとある種の共通性を持つことを認めている。情念のファナチスムは、どちらの側からも利用可能である。〈私たちは、少なくとも新しい秩序ができあがるまでは、なにがしかの行動の形態は、原則的に、ある方向においても、その反対の方向におけると同様に使用可能だと認めることができる〉(第一〇節)。そしてそれがどちらの側に転ぶかについては、予測不可能なのだ。

〈有機体的運動が解放するのは、正確には、プロレタリアの階級の願望のように、決定的に定義されてある願望ではなく、大なり小なり首尾一貫し、所与のある場所、ある時刻には騒然たるやり方で形成される大衆が持つ願望である。ここにこそ、極度な慎重さを求める事実がある。ある点までは社会的構成を変えるかもしれない変容のうちに捉えられたこの大衆が、ある時間が経たあげくに、ナショナリスト的願望に、あるいは労働者の自由に敵対する趨勢に動かされることになってしまわないかどうかを、どのようにして前もって知ることができるだろうか? 一見したところでは、反ファシスム的なものと見える運動が多少の差はあれ早々とファシスムに向かって変貌してしまわないかどうかを、どうやったら知ることができるだろうか?〉(第一〇節)

 この分岐点が彼の最後の問題になる。彼は終盤部で、理論的のみならず現実的な考察を重ねている。第一〇節では、フランスの現状という条件を、いくつかの項目を立てて検討している。要約すれば、まず第一に、フランスは対外的に国家として屈辱を受けたことはなく、ナショナリストに利用を許す潜在的な怨恨はない。第二に、国内的には民族的な統一は以前からなされており、ナショナリスムはとくに自己主張する余地を持たない。第三に、ブルジョワのある部分は現状に批判的であり、これらと連携することで、ナショナリスムに対抗する地盤がある。さらにフランスの労働者は、イタリアとドイツの労働者がだまされた例を見ており、「火の十字架」などのデマゴーグには乗らないだろう、云々。フランスはファシスムの余地からは遠いと言うのが彼の結論ではある。これらの分析は、今日からの目で見ても、それほどはずれているとは言えない。だが問題は原理的に明らかにされねばならない。「現実の革命」は、ファシスムとの分岐点についてどのように判断したのだろうか? 

〈闘いの運動を作り上げていくことは、その基礎に、人民戦線の騒擾を孕んだ全現実を持たなくてはならない。人民戦線の拡大された基礎だけが、ファシスムのめくらめっぽうな猛威に応戦できる力を集結させることを可能にする。この力は組織されて、孤立せず、あらゆる責任を引き受ける〉(同右)

 考えてみるとすぐわかるが、どこでファシスムを批判するかというのは、百通りもの答えがあって、現在でも解決していない問題である。ここに提出されたバタイユの回答もまた、原理的であるだけにその有効性がかえってよく見えない、つまり人を即座にはうなずかせないようなものだった。ここに見えてくるかぎりでは、わたしたちもまた、彼が持ったのは断固たると同時に曖昧たらざるをえない決断だったと言うほかないのかもしれない。シュルファシスムという批判は避けえないものであったろう。だが理論的に表明されたものがすべてだというわけではない。私たちはそのほかにまた別のありようをする世界をバタイユが持っていたことを知っている。そして右の言明のなかのいくつかの部分、たとえば有機的運動が「普遍的な意識の運動」であると述べている箇所、またあるいは人民戦線があらわすのが「全現実」であると述べている箇所が私たちの関心をそちらの側に促す。
 この時期バタイユは並行してもう一つの論文を書いている。それは「街頭の人民戦線」である。私たちは「現実の革命」の右に引いたような箇所を読むとき、それが「街頭の人民戦線」の次のような部分に反響していると思わずに入られない。〈同志諸君、人間の現実というものがある。正確に言うとそれは街頭における人間の現実のことだが…〉、あるいは〈私たちは人民戦線の中に、動きつつある現実を見ている〉(第四節)。なにもかもを理論的に解決した上で、実践に移るというのでは全くなかった。時は切迫していたし、また理論と実践は――仮にそう分離して考えることが出来たとしても――別物ではなかった。だから、普遍的な意識の運動と全現実のためには、ただ考察に没頭するのではなく、同時に実践的でもあらねばならなかった。彼が同時に見ていたのは「街頭」である。

第13章 街頭へ
「街頭の人民戦線」は、三五年十一月二四日の集会での演説が元になっているらしいが、デュビエフによればのちにかなりの加筆があり、したがってバタイユにとってのコントル・アタックに関する最後の証言だと言えるだろう。この論文の中には、デモクラシー批判、ファシスム批判、既成左翼の限界の指摘など「設立宣言」や「現実の革命」の中で述べられていたことをほぼすべて含みながら、先行する論文に少なくとも十分には表明されていなかったことが表明されている。それは「街頭へ」という方向性である。これは明らかに、コントル・アタック創設時から予告されていた武装民兵組織の計画に一歩踏み出そうとして行われた講演であった。十二月半ばから行われるアンケート作成の作業は、おそらくこの講演に続くものである。
 街頭へという方向性は、「防御の人民戦線から闘いの人民戦線へ」あるいは「防御的反ファシスムから反資本主義的攻勢へ」などいくつかの表現を与えられている。それはファシスムの勃興に共同して対抗するという人民戦線の最初のありようを、ファシスムに対する攻撃へと転化し、さらにプロレタリア革命にまで導こうとする意図を持っている。前者の標語は、当時社会党左派の活動家で、社会党の側からの人民戦線の推進者の一人であったピヴェールが唱えていたものだが、バタイユはそれを受け継ぎながら彼自身の意図をいっそう明らかにしようとして、「街頭の人民戦線」という表現を選ぶ。「街頭へ」という表現はこの時期のバタイユの関心をもっともよく表す。

 街頭での行動、ひいては民兵組織による武装蜂起を見越したこの提案は、当然の異ながら権力奪取の問題として提起されている。権力puissanceあるいは権威autoriteという表現は、当然支配する権力を指すことができ、誤解を招くことがあり得る言い方だが、バタイユの言う権力はこの時期すでに違ったものとして現れようとしていて、その過程を見失ってはならない。それはまず、〈民衆的な全能感に満ちた騒擾を担って、武装して街頭に降りた〉民衆を突き動かす力である。民衆は、自分の中に権力を意識すると街頭に降り立つ。彼は次のように書く。

〈踏みつけられた人類は、すでに何度かの激しい権力puissanceの噴出を経験してきた。これの力の噴出は、混沌としているが仮借ないものであり、革命の名の下に歴史を領してきた。数度にわたって人民のすべてが街頭に降りたったことがあり、その力の前には、何ものも抵抗することができなかった。ところで、もし人々が民衆的な全能感に満ちた騒擾を担って、武装して街頭に降り、集団で立ち上がったとしても、それは細心の注意を払いうわべで行われた政治的な組み合わせから結果したものではけっしてなかったということは、疑う余地のない事実である〉(「街頭」)

 この「街頭」の最初の姿は、三四年二月一二日のデモンストレーションであり、背後には当時各地に頻発していた街頭での示威行動がある。バタイユはこの自然発生的な民衆の動きの成長に貢献するのが自分たちの任務だと考える。〈私たちは、民衆の集団が権力を意識することに貢献しなければならない〉。この民衆の力は、政党へと組織されるものではない。〈私たちは力は戦術からよりも、集団的な昂揚から来るということを確信する〉(同上)とバタイユは続ける。〈私たちは指導部というものを信頼することからはあたう限り遠い〉。彼は蜂起した民衆の力を、指導部や綱領に上昇させるという方向は取らない。それは再び「民主主義」という迷路に迷い込むこと、あるいはいっそう巧妙に導かれれば、すべての力をただ一人の人間に委託し、自分たちはそれに従属するファシスムという罠に陥ることになってしまう。この二つの袋小路を避ける唯一の道は、民衆の見いだした力をそのままに維持することである。それはコントル・アタックにおいては、情念・情動を何よりも重視することなのだ。
「権力」という問題は、やはりもっとも注意を要する問題である。コントル・アタックにおける権力の主張は、まず支配者――とりわけファシスム――の権力に対する民衆の権力という図式に拠った上で、対抗的に後者を強調する。だがこの後者のうちにすでに変化が兆してくる。「街頭」の権力は、特定の人物の権力にすべてを譲り渡し、実際には従属しているにすぎないのに権力を持っていると錯覚しているファシスムの擬似的な権力とも、権力を行使しながら、いつの間にかそれを失っているデモクラシーの権力の不在とも異なるものだ。街頭とは沸騰と白熱、あるいは運動の場であり、そこにあらわれる権力とは、常に複数的で、生成状態にあり続け、単一の方向に作用することなく、統一を絶え間なく覆し続けるものである。その意味ではこれはけっして権力ではあり得ない権力なのだ。そして力というものがあるとすれば、バタイユが肯いうる力は、このようにどこまでも運動の中にあり、固着を解き放ち続ける力以外にあり得なかった。バタイユは「街頭」が醸成するこのような力に魅惑されたのである。そしてこの力は街頭でのみ存在し、持続する。問題は持続させることだ。持続のための要件を見出すこと、それが「街頭の人民戦線」の主題である。
 だが彼の問いかけは明瞭な回答を得ただろうか? この時期に書き残されてものからは、少なくとも明確にそうであったようには見えない。彼は大衆のもたらす力を、街頭に出ることであらゆる固着を乗り越えて持続させるという以上に明瞭に表現された方法を持つことは出来なかったように思える。彼は後年、次のように書く。〈ありのままのブルジョワ世界が暴力を挑発しており、この世界では暴力の外面的な形態が人を魅了するのは確かなのだ。(しかしともあれ、少なくともコントル・アタック以来、この魅惑は最悪の事態に導くとバタイユは考えている)〉。たぶんこれは正当な反省なのだろう。しかしながら、これも政治に背を向けて宗教的探求に入ったという言明と同じほどの後からの単純化があるように思える。少なくとも彼にとって権力の問題は、まだいくつかの側面で、少しずつ辿るほかない変容を受けることになる。権力の問題は、教会、軍隊など続く社会学研究会の時期の主要なテーマとなる。また同じ時期に彼が耽読したニーチェの読み方には、その帰結がよく現れているように見える。バタイユは、ニーチェの力への意志の教説を批判しながら、彼の理解の中心を、力のあらゆる方向への作用としての「永劫回帰」へと移していった。この批判はコントル・アタックでの権力をめぐる経験に裏打ちされているのではあるまいか? また彼は戦争開始以後、内的体験と呼ぶものを追求をすることになるが、この体験の根拠の不明に苦しんだ後、内的体験はそれ自体が権威なのだと考える。それ自体が権威であるとは、他に対しては権威を持たないということだが、内的体験のこのようなありようは、バタイユにおける権力の問題の帰結であるようにも思える。
 だがこの時期に限って言えば、バタイユは、権力の問題を無限定的な力の問題へと読み変えながら、街頭に降り立ち、同時にそれによって思想的な領界を越え出ようとしていたように見える。彼は行動しようとしていたが、それは思想を捨てることではなく、思想が異物にぶつかることであり、思想と現実のあわいに立とうとすることだった。同時にそれは完結しようとする思想に開口部を開くことであって、思想を活性化するほとんど唯一の方法でもあった。ブルトンたちの離反は、半ば予想していたにちがいないが、それでも彼を落胆させたろうし、また武装民兵の蜂起という発想が、大衆運動の高まりの中で有効な場を占め得ないことも、彼は次第に理解していったに違いない。彼は自分がある偏流の中に足をすくわれかけていることを自覚していたろう。しかしながら、彼が自分の思考にある開口部を見出していたのもたしかであると思える。開口部は半ば歪んだかたちでしか現れなかったとしても、そこが思想の根拠であるという確信を彼に与えたに違いない。この確信は、生まれると同時に消えてゆこうとする言葉――アジテーションの言葉――で書き留められるほかなかったが、こうした言葉を読みとれるがどうかが、バタイユにとってのコントル・アタックの意味を理解する鍵であるように思われる。
 コントル・アタック崩壊のほぼ二年後、そしてブルムの内閣が潰えて一年がたとうとした三八年の春、NRFの編集者であったジャン・ポーランは人民戦線の持った意味を尋ねるアンケートを何人かの文学者に行い、バタイユはそれに応えて「人民戦線の挫折」という短い文章を書く。この企画は雑誌上では実現されず、彼の回答は草稿のまま残されるが、その中に次のような箇所がある。

〈…社会的な動揺は、人間の深みから来る動揺と切り離されえない。もしこのように切り離されないものであるなら、政治的な出来事は、プロパガンダの持つどんな明快さとも異質であるような注意力を求めてくることになるだろう。直接的な現実が観察からもれることはなくなる。そしてデモクラシーの世界での内部的な動きは、狭い限界内にあることが見えてくる。同時に、視野は開放され、地平は開け、そしてさまざまの衝突のなかで賭金となっているものの大部分が、本当は、あまりにも実際的な利得や挫折と結ばれているものではないことがわかってくる〉

 社会的、政治的なものは、プロパガンダや政治的利害には還元されえず、本当は人間のもっとも内部にあるものと切り離しえないものであることがわかってくる、と彼は言う。同時にこのように結ばれることで、政治的なものがただ政治的であるだけではないこともわかってくる。バタイユの中で私たちの目を引くのは、このように「社会的なもの」と「人間の深み」を直結させ、それによって双方のありようが変わっていくのが見えてくることである。
 この結合はまた、バタイユにとって彼自身を内部に置いて現実の全体を見いだすことであったが、この全体はファシスムの言う民族という限定にも、コミュニスムの言う階級的な限定にも対立するものであった。だからこの全体性は、政治的な回路を通ってきたというのは事実であるにしても、けっして政治的であるだけではない全体性なのだ。
 私が読みえた限りでは、バタイユがこのような現実の全体性を予感したのは、ブルトンとの論争のなかで、整序された世界の外側に存在する物質を直感したときである。それは異質なものとして作用するのを追跡されたが、その広がりの全体に実践的に触れえたのは、コントル・アタックに至る試行錯誤を通すことによってである。この全体性は破砕の直前にあるような緊張した様相をもって現れ、事実それはバタイユの試みを挫折へと押し流した。しかしながら、全体というものに触れえたという確信はいったん獲得されたら、容易に失われることのないもの、持続する類のものであって、現実にはこの全体性が奪われれてあるときも、すなわち政治的な実践から一歩退いたところに位置せねばならなくなったときにも、彼にこの全体性を問うことを可能にする。それは以後、社会学研究会において、また戦争に入って自由を奪われたときにも、バタイユに全体を仮構する試みを許し、かつ促すことになる。

「政治の中のバタイユ」終わり


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