第25号 1998.1.31 231円(本体220円)

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5号分予約1100円(切手の場合90円×12枚+20円×1枚)編集・発行 清水鱗造
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表紙-愛のキルト-後悔-時間-和合報道-水上の音楽-ぬいぐるみ-飛び魚-Corpus /Grain Side Version.-解酲子飲食 2・3・4-例の黒山-《溶けていく丑》-微茫録(97/5〜97/11)-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 2-政治の中のバタイユ 4-はっぱ-〈近況集〉-〈編集後記〉

愛のキルト

森原智子



北アメリカに わたしのキルトが待っている 「泣く柳」と命名されて 棺をおおう 特別な黒いキルトで 陽に透かせると 無数の昆虫の寝相がみえた 蛙は虫ではないけれど 芭蕉の蛙は虫であっていい くぐもっていったまま存在していることで といえば 女友だちが 「泣く」と「柳」では すこうし つきすぎてはいないかしら そうかもしれない そうでないかも いきなりで悪いけれど あの 制服の金ボタンは 胸の肉より すこうし はなれるようにつけたものだ 浮いているようにね 空へむかって ぶらぶらする想いのことを言うなら すこうし のところで ぶらぶらの人生に 困ったことない? たとえば 地に植えつけた たくさんの 涙の茎のように ふるえても みえることが


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後悔

長尾高弘



僕は相変わらず眠っていて きみはくるくるまわっている どうしてまっすぐ向こうに歩いていかないのだろう 早く行けばいいのにと思いながら まわっているきみはかわいいね と口にしている きみはほほを赤くそめて もっと勢いよくくるくるまわって 決して向こうに行こうとしない またやってしまったと思いながら 僕は相変わらず眠っていて さらに深く沈んでいくのを感じている


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時間

長尾高弘



火山灰のようなものが 降りつづき 降りつづいて 降りやまない 大切なものも そうでないものも 身につけていないものは 埋もれてしまった 足跡でさえ 数歩のうちに輪郭が ぼやけて消えてしまう いつまで歩いてゆけるのか いつになったら静かに 埋もれることができるのか


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和合報道

中野隆行



早稲田は何でも速いっていうじゃないか。読め、 『近代クソ社会』。ところで、いつまでそこにい る気? 両手を本に挟んだまま、いただきまーす。 何箇所か膿ませておけばいい。応用文庫ォ。池袋、 吾が墓所。否、サイン良く運動会へと駒を進める。 きれいごと大好き。荘厳なるかなパリこそ吾が墓 所なり(金)! 肌着といわず万事低速にかぎる。 町なら一番のお気に入り。これはほんと、浮かせ ておくに限るワ。運河への想い。 * ごあいさつだな、ベイビー。ヒッたな? 一方生 意気ながらも立派な名乗りをあげること。ハテ、 どうしたものか。非常線とトモダチを思い出した りもするぜ、ああ、という(マジ)話だぜ。であ るからして諸君、ここはよく考えたいものだ、う ん、n'否、考えこそするけど、しかし…。うん、 ところでさぁ、しかしベイビーの批判ではまだま だうろ覚えなんだぜ。ベイビーが(えっ?)、で きるのだろうか、と自問また想像。反抗と力の加 減も美しく、場所代だけがこれまた悩みの種だ。 よう!、何とか言え! * 方位の先生の 居したもう「ほう」に もう一人の 「せんせい」。模範でも居残り。媚びて条件克服 したいものだ。のどかな審判。おそらくはまだ続 いているのであろうから。乞う檄文。誰がもし正 道なおそれ、当時のしかし人間という、もし殻に は? あくまで更新所。同じ流れとして、ロデオ とジュエリー、また煮ばかに干(ひ)ばか。これ らすべて略して「インジュリー」。深いったら平 易に飽く運動。 * ドームの巻。活は文(ふみ)に参り。バッジでわ かるんだけど、幼いものなんだよ。この中にいる の? きみの話から往々にして第一、砂漠なんて 遠いではないかと言われれば、たしかに、いまど きそうかもしれませんな。ご存知とはもったいな い。世界なの。だったら走ってな。でも無機的で 死んでもいるわけだ。下り電車へと競う本能じゃ。 ここに感情その極に達する。さて、はい、それで もアカデミックにはなれっこないんだぜ。coffin?


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水上の音楽

倉田良成



こまかに折り畳まれた音階が聞こえてくる 無数の楽人のいる異様な積乱雲、青空がもたらすあらゆる岸辺から 夏の昏睡の耳に近く、羊や糸杉のある丘のむこうから ウォーター・ミュージック! 紺碧のかなたを走る七月の船の白いかがやきは きみと私がこの世でいだくどんなに深い絶望であったか 街をジグザグに迷走しながら雨が落としてゆく光の爆撃は ゆらめき立って水平線に出現する見知らぬ尖塔の、どんな沈思を誘うのか 異国をこんなにそばに感じるとは、きみと私も 真夏のバルコニーに立って風に吹かれる午後には、かすかに晩年を考えていい こまかに吹奏される金管の低い音程に徐々にいざなわれながら ウォーター・ミュージック! あそこには 白い巻毛をしたおびただしい楽人がいる 急激な来迎の衆のたけだけしい松籟の弾奏とは反対に きみと私は、朝ごとに淹れるコーヒーのしたたりのうちに 窓の外で永遠につづいている夏空をきょうも聴く…… 青空の岸辺から、船から、喜びのとき・悲しみのとき簡単に歌われるミサ曲のように 小さくて壮麗なホルンが鳴ってくる (渡ると知らない人になる河はゆたかに流れ、王宮ではたえまなく昼の花火が上がり) 「王の不興を買ったドイツ生まれのゲオルク・フリードリヒは、 友人の一計に乗って組曲を作り、大船遊びのときににぎやかに演奏して許されたが それは船上で行われるため、すべてヘ長調に編曲されていた。 テムズの流れのせいであったかどうかは詳らかにしないけれど、その後 王の寵を受けた彼は地位と財を得て、幸福なイギリス人としてその地に没した」*

*「名曲事典」(属(さっか)啓成著・音楽之友社)による



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ぬいぐるみ

清水鱗造



ぬいぐるみが 街路に発生する ひょろひょろ生えて 地面の穴から ぬいぐるみが ひとつひとつ 歩きだす アルミのマシンに ぺこちゃんとぽこちゃんが 明らかに湿った舌をだして くくられている 左のくちびるの端から 右のくちびるの端から 軟らかい舌を 小さく出す ぼくらは赤い糸で ひどく編み物をする けば立ちを舌で ざらざらこすりながら 伸びをする猫に巻く 長いどてらを編む まったいらな地面 ひん曲がっていくけど ぬいぐるみや アルミ缶は 街の炭酸水 ぴちぴちはねる


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飛び魚

清水鱗造



縦横に管が巡る 地面に建物に 建物の影に その管は生体としての街路を生き延びさせるための 生理的な管であり 月や陽 天体と共鳴してどくどくと脈打つ 放り投げられた体は 街の壁の罅に 一挙に吸い取られ 裸のまま加速度を付けて やがて管の中を疾走するものになり 電子雲のようにそこいらじゅうを経巡る 体が尽きることはけしてない なぜならそれは円環を描き 白から濁りに 濁りからまた純白に動く波動運動だから 強い力がコンクリートの高速道の橋脚にかかる それは眼球から圧力となって のたうち回る線形の有機体の過剰な光ともいえる 光はぐちゃぐちゃな波形を描き 高速道を螺旋を描いてぐるぐる巻きにする 何万もの飛び魚はテレビ塔の隙間を通過し 泥のような汁や透明なマント また血や粘液を霧にして飛ばしながら 街を耳の穴の開口部のようにしてちぢに飛び散る 翅の着いた魚たち


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Corpus / Grain Side Version.

田中宏輔



波音を聞いて、

(ヘンリー・ミラー『暗い春』夜の世界へ・・・・・・、吉田健一訳)

足下を振り返った。

(マーク・ヘルプリン『シュロイダーシュピッツェ』斎藤英治訳)

僕が見たものは、

(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

四角く切り取られた

(トム・レオポルド『誰かが歌っている』29、岸本佐知子訳)

海だった。

(ジュマーク・ハイウォーター『アンパオ』第二章、金原瑞人訳)

四角い海は

(ステファニー・ヴォーン『スイート・トーク』大久保 寛訳)

見るまに

(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』2、浅倉久志訳)

大きく

(トム・レオポルド『君がそこにいるように』土曜日、岸本佐知子訳)

部屋いっぱいに

(スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』68、柴田元幸訳)

ひろがっていった。

(フォークナー『赤い葉』4、龍口直太郎訳)

小さな花がひとつ、

(スーザン・マイノット『セシュ島にて』森田義信訳)

さざ波といっしょにぼくのほうへ漂ってきた。

(ギュンター・グラス『猫と鼠』VIII、高本研一訳)

まるで海のように青い

(日影丈吉『崩壊』三)

濃い青。

(ピーター・ディッキンソン『エヴァが目ざめるとき』第一部、唐沢則幸訳)

僕の見たことのない花だった。

(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

目の前につまみ上げて

(トム・レオポルド『誰かが歌っている』5、岸本佐知子訳)

近くで見ると、

(スーザン・マイノット『セシュ島にて』森田義信訳)

その瞬間、

(志賀直哉『濁った頭』三)

一波(ひとなみ)

かぶって

(泉 鏡花『化鳥』十)

はっと目をさました。

(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

すぐ後ろから声をかけられたのだ。

(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

妹が

(志賀直哉『児を盗む話』)

ハンカチをさし出した。

(ハイゼ『片意地娘(ララビアータ)』関 泰祐訳)

なんだい?

(キャロル『鏡の国のアリス』7、高杉一郎訳)

思い出せない?

(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

どうかしたのかい?

(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第二部・2、石井清子訳)

思い出せないのね?

(カフカ『城』20、原田義人訳)

わからないよ。

(トム・レオポルド『誰かが歌っている』3、岸本佐知子訳)

覚えてないんだ。

(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』25、野崎 孝訳、句点加筆=筆者)

子供たちが並んでバスを待っていた。

(スーザン・マイノット『シティ・ナイト』森田義信訳)

どうしても解けないのよ、

(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第二部・第七章、望月市恵訳)

うん?

(スタインベック『二十日鼠と人間』三、杉木 喬訳)

バス・ステーションから一台のバスがゆっくり這うようにして出てきた、

(ゴールディング『蠅の王』10、ほら貝と眼鏡、平井正穂訳)

そうだ、思い出した。

(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

ふと、

(谷崎潤一郎『産辱の幻想』)

思い出したよ。

(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

青い

(トム・レオポルド『誰かが歌っている』20、岸本佐知子訳)

花が真ん中に描かれている

(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

白いハンカチ、

(川端康成『山の音』島の夢・二、句点加筆=筆者)

そのハンカチを

(ハイゼ『片意地娘(ララビアータ)』関 泰祐訳)

ぼくは

(バーバラ・ワースバ『急いで歩け、ゆっくり走れ』吉野美恵子訳)

結んだことがあった。

(グレイス・ペイリー『サミュエル』村上春樹訳)

今もそのままかい?

(ギュンター・グラス『猫と鼠』II、高本研一訳)

妹は

(カフカ『村の医者』村の医者、本野亮一訳)

死んで生れた

(志賀直哉『母の死と新しい母』七)

袋児であつた。

(川端康成『禽獣』)

見ると、

(スタインベック『贈り物』西川正身訳)

結び目はそのままだった。

(ピーター・ディッキンソン『エヴァが目ざめるとき』第二部、唐沢則幸訳)

そら。

(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第二部・第二章、望月市恵訳)

これでいいかい?

(ヘミングウェイ『われらの時代に』第四章・三日間のあらし、宮本陽吉訳)

ぼくは

(サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)

ハンカチを解(ほど)いて

(ヘミングウェイ『われらの時代に』第一章・インディアン村、宮本陽吉訳)

妹に

(夏目漱石『三四郎』三)

渡した。

(志賀直哉『母の死と新しい母』六)

バスが待っていた。

(ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』直角三角形の斜辺、野崎 歓訳)

僕は

(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

妹と一緒(いっしょ)

(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、大山俊一訳)

バスに乗った。

(日影丈吉『緋文』一)

バスは

(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』不在、三好郁朗訳)

音を立てて

(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

動き出した。

(ヘミングウェイ『われらの時代に』第一章・インディアン村、宮本陽吉訳)

妹が

(志賀直哉『児を盗む話』)

ページを繰り

(ジイド『贋金つかい』第二部・二、川口篤訳)

父の真似(まね)をして

(エレンブルグ『コンミューン戦士のパイプ』泉 三太郎訳)

詩のように

(シャーウッド・アンダスン『南部で逢った人』橋本福夫訳)

聖書の言葉を

(カポーティ『草の竪琴』5、大澤 薫訳)

呟き

(芥川龍之介『報恩記』)

はじめた。

(ジイド『贋金つかい』第二部・二、川口 篤訳)

僕は

(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

視線をそらして

(ゴールディング『ピンチャー・マーティン』14、井出弘之訳)

窓の外を眺めやった。

(サリンジャー『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』野崎 孝訳)

(『陽の埋葬・先駆形』)



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解酲子飲食 2・3・4

倉田良成



町田のグラッパ

 ローマへ行っていちばん印象的なのは、壮麗な遺跡とともに口腹に関することへの毎日が祝祭のような独特のセンスだ。立ち飲みのエスプレッソからはじまって、岩塩で締めてある生ハムやサラミを挟んだパニーニというスナック、そこらじゅうにあるピッツェリアに群がる人々、昼めしやディナーで大量に消費されるワイン……と、数え上げればきりがないが、なかでも極め付きは大食のあとのグラッパだろう。ありていに言えば、葡萄から造った焼酎にほかならないが、これが胃袋を燃やして消化を助ける役割を負っているという。きわめて個性的な芳香を持つこの酒は、しかしローマの下町やタクシーのなかに残留していた「芳香」から察するに、たんに消化を促すためだけのものとは思われない。
 旅行から帰って、小田急線町田駅近くのケトバシ屋に入って昼酒を酌んでいると女房が妙な顔をする。「これ、グラッパみたい」とつぶやいた酒は一杯百五十円の泡盛だった。

直侍を気取る

 一時江戸趣味に走ったことがある。テレビの銭形平次ではなくて、岡本綺堂先生や杉浦日向子姉御のそれだ。それらによって初めて知ったことは、江戸情緒といわれるものが、江戸という町の夜の闇の深さや人々の恐怖と隣り合わせに成立していたということだ。清元の幽玄さなどというものもそういう史実によって初めて推し量られるのである。深川に泥鰌を食いに行ったのを手始めとして、日本堤の桜鍋屋はまあいいほうで、真夏の夕方に鰻が出来上がるのを待ちながら手酌で熱燗をちびちびやっていたときなど、自分で自分の神経をやや疑った。行き着くところは蕎麦で、歌舞伎座でこの狂言があったときは夜近所の蕎麦屋が満席になるという「忍逢春雪解」、情趣といったらこれにとどめをさす。ちゃんとした店ならいい酒を出すもので、焼き海苔や蒲鉾などでやるヒヤったらない。ときに蕎麦自体がどうでもよくなってしまうのは、蕎麦屋の罪ではなくて功徳だ。


七部集のウルメ

 芭蕉七部集の「猿蓑」に「灰うちたゝくうるめ一枚」という凡兆の句がある。それに付けた芭蕉の句は「此筋は銀(かね)も見しらず不自由さよ」で、貧窮の生活のうちに、銀の持つインパクトある青ざめた光と、貴重な一枚のウルメイワシが帯びている「青」とを交錯させた仕掛けとなっているのだが、連句の解釈はさておき、このウルメがじつにうまそうだ。私だったら「灰うちたゝく」というところで唾をのむ。芭蕉の世界にはこのほかにも食い物の記事が意外にあって、「おくのほそ道」の途次に詠んだ「めづらしや山を出羽(いでは)の初茄子」のナスビなどは、流火草堂先生によれば出羽名産の民田(みんで)茄子という小粒のナスビのことだそうで、これなどは漬物にして丸ごとこりこりと噛んでみたい気がする。芭蕉は門弟からも尾張名産宮重大根だの長良川の干し白魚だの送られていて、下戸で痔持ちだが酒嫌いではなかった俳聖の食いしん坊の一面がうかがわれる。


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例の黒山

夏際敏生



ところで例の黒山沿い 空へと途切れてゆく大通りを 臆面のにやにやする映像に並び 乳の切れた胸襟を閉じて 複数形の母がたゆたっていく どのコーナーでも旗が卷かれている この手の肉体離れ 寒さが冬の麦に応えるように 人間の目に応える人間の目 犬儒を食う犬がいるかどうか すだく氷も祭りの夜の思い出にすぎない 建築のシルエットにおいて アパシー熱も冷まされている よくテレビの寿命が云々される 食人鬼が食中(あた)り この面も銜え込んでやれ 空生まれ板育ち 霜に取り持たれた二人 お座なりに隣った星座なのだから 言葉尻の割れ目に座る女を置いたら サンダルつっかけて きらきらする戸外へ襤褸けていけ すぐそこのグロサリーまで


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《溶けていく丑》

夏際敏生



富んだ夜だったじゃない いまは東のこの白みヒッ提げて ご就床さまということ 転びのカタチは星雲にでも擬させていただき どこ吹く風に吹かれて たとえば石油に降りるのも一つ 真空の揺らぎに消えるのが二つ 立体が真っ平なので 移ろう午前は見上げて遣り過ごすのだよ 午後は午後でご愁傷さまということだ そしてもう掌は返せない 返事もいらない 和臭なども NEVER MIND いやに勢いのない破竹の先で 騙れ、けっして歌うな、と 空は節くれだつアーバニティーを体している 女の子たちも、ぺこん 獏もブリキの太鼓も、同上 ベゴニアだって


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微茫録(97/5〜97/11)

築山登美夫



○今年にはひつてからも幾つか事件があり、あるものを阻止しに血だらけになつて帰つて来るのを覚悟して体を張りに行く(空ぶりにはをはりましたが)といふこともありました。くはしくは述べられませんが、しかし本人にとつては胸の皮が裂けるやうな事件も、第三者からは笑ひ話にしかならない、そんなことを何度経験してきたことでせうか。単純な正義感の発露がみつともないのは、それが全体の構造にたいする無知をさらけだしてゐるからでせうが、それでもじぶんなりに冷静に検討しつくしたあげくに、なほまちがつてゐるかも知れない行為に出る、といふことはあります。小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』が面白いのも、冷戦構造とともに凍結され、またその崩壊とともに溶融してしまつた、われわれの倫理の発露としての行為の構築といふことが、これからの時代の差異線となつて行く経緯を、みごとに描出してゐるからでせう。それが世間の、現在の言説空間の荒波に揉まれて、停滞をもしながら高度化していくさまは興味津々です。昨年末からのトゥパック・アマル革命運動のメンバーによるペルー日本大使公邸人質事件が、この四月二十二日、武力突入によって十七人の死者を出して終結しました。皆殺しにされた彼らトゥパックのメンバーはまれにみるイノセントな、しかも日本人的な情にうつたへかける面をも持つた革命グループだつたのではないでせうか。少なくとも彼らの身に何が起らうとも人質に危害をくはへる意図がないことだけははつきりとわかりました。それにたいしフジモリ大統領とペルー軍・情報機関の詐欺師的なやりくちはひどすぎました。それを許容した橋本政府も同罪です。ですから、ぼくの場処からもつとも関心の的となるのは、解放された日本人人質のうち、政府と所属する企業の箝口令をこえて、だれかがほんたうのことを語るかどうかです。「トゥパック・アマルによつてマインドコントロールされた人物」などといふ風評が致命傷となるやうなわが風土では、そんな勇気のある人物はひとりもゐなかつたといふことになるのかも知れませんが。

(97/5)


○この六月二十八日に逮捕された連続小学生殺人事件の犯人とされる十四歳の自称「酒鬼薔薇聖斗」こと***少年(マス・メディアとそれに同調するライターは匿名にし、顔写真の掲載も見合せてゐるやうですが、何の意味もないと思ひます)にかんする報道や論評をみてゐてぼくが感じたのは、この市民社会の窒息性を強化しようとする無意識の意図ばかりでした。そしてこの市民社会の空気と、***君の犯罪は表裏の関係にある、といふよりもつと恐ろしい因果関係があるやうに思ひました。小説『午後の曳航』(六三年)で十三歳の少年の殺人を共感をもつて描き、絶筆の一つとなつたエッセイ『小説とは何か』(七〇年)で、当時のシージャック事件(警官を刺して逃走中のライフルを持つた二十歳の青年が船舶を乗つ取り射殺された事件)にたいする反応であらはになつた「弁天小僧を讃美した日本の藝術家の末裔とも思へぬ、戦後民主主義とヒューマニズムといふ新らしい朱子学に忠勤をはげんだ意見ばかり」になつてしまつた文学者の倫理の堕落を批判し、「地獄の劫火の焦げ跡なしに、藝術は存在しない」と悠然と述べた三島由紀夫のやうな存在がこの社会から払底してしまつたこと、そこにどんな、この四半世紀の時間のうつりゆきの必然があつたのか、といふ深刻な問ひがたつてゐます。どんな不利益をかうむることになつても、この社会からもつと過激に孤立し、文学者が文学を殺し詩人が詩を圧殺する世界――この狭い世界が全体に見えてしまふ場処から離脱しつゞけなければならないのでせう。さうしなければ、われわれの社会はふたたび大規模な惨劇を自らまねいて崩壊するまへの、時間の間延びしただけのワイマール共和国になつてしまふ。そのことにどれだけの人が気づいてゐるのでせうか。久しぶりに詩集を出しました。『異教徒の書』といふタイトルは十九歳のランボーが『地獄の季節』のさなかにかんがへてゐたタイトルを厚かましくも頂戴しました。右に書いたことはその宣伝文ともなつてゐるやうです。

(97/9)


(附記)右の文で***とある箇所は原文では少年の姓が記されてゐました。なぜさうしたのかはこれから述べますが、この文を載せてくれるはずの編集者である清水鱗造さんとの話し合ひで、明記することを断念しました。その理由は、ぼくが少年の姓を知つたのは知り合ひのジャーナリストからでしたが、すでにインターネット上で少年の姓名が興味本位に、しかも筆者自身は匿名にした上で取り沙汰されてゐるらしいこと、そして右の文もまた雑誌の方針でインターネット上に掲載されることを前提としてゐることです。ぼくが原文で少年の姓を記したのは、そのことによつて少年を断罪したかつたからではなく、むしろその逆であることは右の文で尽きてゐます。少年を断罪してメディアは実名報道せよなどと云ひながら、じぶんの文ではちやつかりと断りもなしに匿名にしてゐるオヤヂ評論家などは先のインターネット・ライター(?)と同じく論外ですが、大勢を占める、少年法の精神や少年の人権保護を云ひたてそれを隠れみのにこの少年の存在をタブーとして闇にはふむりさらうとする市民社会の冷酷な無意識は、すでに少年の弟などの家族や親族にまで及んでゐるやうです。ぼくは一般的に云つても善行と悪行を機械的にふりわけ、たとへば高校野球の有名選手が暴力事件を起したとたんに匿名扱ひになるといつたたぐひのメディアの迷信じみた作為は、善と悪とが同じ力の二つのあらはれにすぎないことを見ないふりする、そのことで善悪ともに追放しようとする市民社会の現在の姿をよくあらはしてゐると思つてゐます。ぼくの云つてゐることがわかつてもらへるでせうか。「僕ははつきりいふとスペインの画描きのやうに血に飢ゑてゐるんだ。…僕は人を殺したくて仕様がない。赤い血が見たいんだ。…これは逆説でなくつてほんたうだぜ」  かう発言したのは件の少年ではなく、並ゐる先輩文学者を前にしたある座談会での二十三歳の三島由紀夫でした。あるひはランボーが「白人の上陸」とひとこと書きつけただけで、どれほど当時の西欧市民社会の気づかれざるタブーを踏みやぶることになつたか。先頃産経新聞に掲載された「懲役13年」と題されたこの少年の手記を読むと、彼がすでに三島や埴谷雄高などの作品にふれてゐたことが知れます。ぼくはこの少年に三島由紀夫を超えるやうな文学者になつてほしいと思つてゐます。それを許容できたときこそ、わがくにははじめて成熟した文明社会になつたと云へるのではないでせうか。

(97/11)



表紙-愛のキルト-後悔-時間-和合報道-水上の音楽-ぬいぐるみ-飛び魚-Corpus /Grain Side Version.-解酲子飲食 2・3・4-例の黒山-《溶けていく丑》-微茫録(97/5〜97/11)-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 2-政治の中のバタイユ 4-はっぱ-〈近況集〉-〈編集後記〉

翻訳詩
ウィリアム・ブレイク 『無垢と経験のうた』―人間の相反する二つの精神状態を示す─ 連載第二回

訳 長尾高弘



(承前)

 揺りかごのうた

私のいとし子の頭のうえに、
影をつくれあまい夢。
やわらかな月の光をあびた、
気持ちよい小川のあまい夢。

やわらかく沈むあまい眠りよ、
まゆを編んでちいさな冠をつくれ。
おだやかなあまい眠りの天使よ、
私のしあわせな子のうえに浮かべ。

夜のあまいほほえみよ、
私の歓びのうえに浮かべ。
あまいほほえみ、母のほほえみは
長い長い夜をなぐさめる。

あまい寝言、小鳩のようなため息よ、
この子のまぶたから眠りを追い出すな。
あまい寝言よりもっとあまいほほえみは、
小鳩のような苦しみをなぐさめる。

眠れ眠れしあわせな子。
神が創られたものはみな眠りほほえんだ。
眠れ眠れしあわせな眠り、
お母さんの涙のしたで。

いとしい我が子、おまえの顔に、
神様の御姿が透けて見える。
いとしい我が子揺りかごのなかで、
神様は私のために泣いてくださった。

私のためにおまえのためにみんなのために、
幼な児だった神様は泣いてくださった。
おまえにはいつでも見える、
おまえにほほえみかける神様のお姿。

おまえにわたしにみんなに、
幼な児になられた方はほほえみかける。
幼な児のほほえみは神様のほほえみ。
天地をなぐさめやすらかに眠らせる。


 神のすがた

慈悲、憐憫、平和、愛。あらゆる者は、
苦しみのうちにこれらを求めて祈り、
これら歓びの美徳に
感謝の気持ちを返す。

なぜなら、慈悲、憐憫、平和、愛は、
我らの父、神だから。
そして、慈悲、憐憫、平和、愛は、
神のいとし子、人間にほかならない。

なぜなら慈悲は人の心、
憐憫は人の顔、
愛は人の神聖なかたち、
平和は人の衣装。

だから苦しみのうちに祈る
あらゆる土地のあらゆる者は、
慈悲、憐憫、平和、愛
人の神聖なすがたに祈る。

相手が異教のトルコやユダヤであっても
人は人のすがたを愛さなければならない。
そこには慈悲、憐憫、愛が住み
神も住んでいるのだから。


 昇天祭

昇天祭の日だった。親のない子どもたちは無邪気な顔を浄め
赤、青、緑の服を着て、二人ずつ手をつないで歩いていった
雪のように白い杖をついた銀色の髪の儀官が子どもたちを導き
テームズを流れる水のようにセントポールの大聖堂まで歩いていった

おお何とたくさんのロンドンの花ロンドンの子どもたち
仲間同士で固まってすわり、それぞれがそれぞれの光を放っていた
たくさんのざわめき、しかしそのときたくさんの小羊たち
数千の男の子女の子たちが汚れを知らない手を上げた

そして子どもたちは強い風のように天に向かって歌声を上げた
天上の人々の間をめぐって響き合う雷鳴のように
その下に座るのは、年老いた人々、貧者の賢い守護者たち
だからやさしい気持ちになって、門口から天使を追い払わないで


 夜

日が西に沈んでいく、
宵の明星が輝いている、
鳥は巣に戻って鳴きやみ、
私は自分の巣を探さなければならない。
花のような月は、
静かな光に包まれて、
天上高い四阿に座り、
夜にほほえみかけている。

さようなら、群れなす羊を楽しませていた
緑の野、しあわせな茂みよ。
小羊たちが草を食んでいた野山を
光の天使たちは静かに進む。
天使たちは目に見えぬかたちで
ひとつひとつの花と芽に
眠っているものの胸に
やすみなく祝福と歓びを注ぐ。

鳥たちを暖かくつつむ
無防備な巣をのぞき、
獣たちの住む洞穴をもれなく訪れる。
それらのものが傷つかぬように。
眠ることができなくて
泣いているものがあれば、
そのまぶたに眠りを注ぎこみ、
寝床のかたわらに座って見守る。

狼や虎が獲物をもとめて吠えるときには
憐れみのあまり立ち止まり泣く。
彼らの渇きをいやす道を探し求め
羊に手を出さないように導く。
しかし彼らが激しく猛り狂うときには
思慮深き者、天使たちは
従順な魂をひとつひとつ受け取り、
新しい世に送り出す。

そこでは、獅子たちの赤く燃える目も
黄金の涙を流す。
弱いものを憐れんで吠え、
羊たちの群のなかを歩きまわって言う。
怒りは彼のおだやかさによって
病は彼の健やかさによって
この不死の世界から
追い払われた

そして穏やかに鳴く羊よ、
これからはお前のかたわらに横たわり、
お前の名で呼ばれる方のことを思い、
お前を見守って泣く。
命の川で洗い清められた
私のたてがみは、
永遠に黄金のように光り輝く。
お前たちを守り続ける限り。


 春

笛を鳴らせ!
今は静か
鳥たちは
昼と夜を喜ばす
谷間の
ナイチンゲール
空のひばり
陽気に
楽しく楽しくようこそ春

小さな男の子
歓びでいっぱい
小さな女の子
とても愛らしい
鶏がときの声を上げる
だから君らも
陽気な声で
子どもたちのさざめき
楽しく楽しくようこそ春

小さな小羊
ぼくはここだよ
おいで、ぼくの
白い首をしゃぶって
きみのやわらかい毛に
さわらせて
きみのやわらかい顔に
キスさせて
楽しく楽しくようこそ春


 乳母のうた

子どもたちの声が緑に響き
笑いが丘にあふれるときは
私の心は安らぎ
ほかのものもみな静か

日は沈んだ、夜露も浮かぶ
子どもたち帰っておいで
空に朝が顔を出すまで
遊ぶのをやめて戻っておいで

いやいやもっと遊ばせて
まだ明るいし寝れないよ
おまけに空には小鳥が飛んでいる
丘は羊たちでいっぱいさ

はいはいそれなら遊んでおいで
真っ暗になったら帰って寝ましょう
小さな子どもたちははねて叫んで笑い
丘じゅうがこだまをかえした。


 幼い歓び

名前はない
だって生まれてまだ二日--
きみのことをどう呼ぼうか?
私はしあわせ
だから私は歓び
すてきな歓び きみのもとに

かわいい歓び
生まれて二日のすてきな歓び
きみのことを歓びと呼ぼう
きみは笑う
私は歌う
すてきな歓び きみのもとに


 夢

夢は天使が守る私のベッドの上に
本当に影を織りなしたことがあった。
蟻が迷子になっていた。
そこはたぶん私が横になっていた野原だ。

何かの間違いで迷って一人
真っ暗な闇のなかに歩き疲れた姿。
幾重にももつれあった茎のうえで
悲嘆にくれる彼女の声が聞こえた。

おお、私の子どもたちよ! 泣いているのだろうか
父親のため息を聞いているのだろうか
私がいないかとおもてに出て
見つからずに戻って涙を流しているのだろうか

かわいそうになって私の目からも涙が落ちた。
しかし私は、近くに土蛍がきて
応えるのを見た。泣き叫んで
夜の番人を呼び出したのは誰かな。

黄金虫が巡回するとき
私は地面を照らすことになっている。
黄金虫の羽音についておいで。
小さな放浪者よ、家路を急ぎなさい


 ひとの悲しみに

ほかの人が苦しんでいるのを見たら、
私も悲しまずにはいられない。
ほかの人が苦しんでいるのを見たら、
慰める方法を考えずにはいられない。

涙がこぼれ落ちるのを見たら、
同じ気持ちにならずにはいられない。
父が子の泣く姿を見たら、
悲しみで胸がいっぱいにならずにはいられない。

子どもが幼い恐怖にうめき苦しんているのに、
母親は黙ってそれを聞いていることができるだろうか。
いやいやそんなことはできはしない。
決してできるわけがない。

まして私たちみなに微笑みかけて下さる方が、
鷦鷯の小さな悲しみを聞き
小鳥たちの憂いや悩みを聞き
子どもたち哀れな様子を聞いたら、

巣のかたわらに座って
彼らの胸に憐れみの心を注いだり、
揺りかごのそばに座って
子どもたちとともに涙せずにいられようか。

私たちの涙をぬぐうために、
昼も夜も私たちを見守らずにいられようか。
いやいやそんなことはできはしない。
決してできるわけがない。

その方はあらゆるものに歓びを与え、
その方は小さな子どもになられる。
その方は嘆きの人となって、
その方は悲しみをともにする。

あなたがため息をついているのにあなたを創った方が、
ため息をつかないなどと考えてはならない。
あなたが涙を流しているのにあなたを創った方が、
涙を流さないなどと考えてはならない。

おお、神は私たちに歓びをくださる、
神は私たちの悩みを打ち砕く、
私たちの悩みが消え去るまで、
神は私たちの傍らで悲しみつづける。


  経験のうた


 序詩

詩人の声を聞け!
その者は現在、過去、未来を見る、
その耳は
古代の木々の間を巡る
神聖な言葉を聞いた。

失われた精霊を呼び
夜露に涙をながす声は、
北極星を
動かし、
堕ちた光を生き返らせるだろう!

おお地よ、地よ蘇れ!
湿った草の間から立ち上がれ。
夜は衰えた、
眠りの群の間から
朝が立ち上がる。

もう顔をそむけるな。
なぜお前は顔をそむけるのだ。
星の広間
海に沈んだ岸は
夜明けまでの存在なのに。


 地の応え

恐ろしく陰惨な暗闇から
地は頭を上げた。
彼女は光を奪われていた。
岩のような恐怖!
髪は灰色の絶望に覆われていた。

私は海に沈んだ岸に閉じ込められ
不寛容の星は私の穴を
凍った霜で覆っています
私は泣きながら
古代人の父の声を聞いています

人間のわがままな父
残酷で不寛容で利己的な恐怖
夜のなかに縛られている
歓びが朝と若さの処女(おとめ)たちを
生むことができるでしょうか。

芽や蕾が育つときに
春が歓びを隠すことがあるでしょうか?
種を蒔く人は
夜に種を蒔くでしょうか?
暗闇で鋤を鋤く人がいるでしょうか?

この重い鎖を断ち切ってください、
それが私の骨を凍らせているのです。
利己主義! 虚栄心!
永遠の苦悩!
それが自由愛を縄で縛り付けているのです。


 土くれと小石

愛は自分の歓びを求めたりはしないよ、
自分のことを気にかけようともしない。
ほかの人に安らぎを与え、
地獄の絶望のなかに天国を築くんだ。

 牛の足に踏みつけられた
 小さな土くれはこううたった。
 しかし小川の小石は
 震える声で本当のうたをうたった。

愛が求めるのは自分の歓びだけ、
自分の歓びのために他人を縛ることだけ。
他人の楽しみは安らぎを奪い、
天国の悪意のなかに地獄を築く。


 昇天祭

これが神聖な光景だろうか、
豊かで実り多い国で
幼な児は貧困に突き落とされ、
冷たい欲得ずくの手に養われるのか?

あの震える泣き声がうたか?
あれが歓びのうたになりうるのか?
貧しい子どもがこんなに多いのか?
ここは貧困の地だ!

彼らの太陽は決して輝かず、
彼らの土地は草もなく寒い。
彼らの道は茨に覆われている。
そこは永遠の冬だ。

太陽が輝くところなら、
雨に潤うところなら、
幼な児が飢えるはずがない、
貧困が心を脅かすことも決してない。


表紙-愛のキルト-後悔-時間-和合報道-水上の音楽-ぬいぐるみ-飛び魚-Corpus /Grain Side Version.-解酲子飲食 2・3・4-例の黒山-《溶けていく丑》-微茫録(97/5〜97/11)-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 2-政治の中のバタイユ 4-はっぱ-〈近況集〉-〈編集後記〉

バタイユ・ノートIV
政治の中のバタイユ 連載第4回

吉田裕



第11章 革命の可能性を求めて
 コントル・アタックのような運動体を過不足なく捉えることは、多くの視点を総合することが必要で難しい。今はバタイユに関心を絞って軌跡を辿ってみる。彼がこの運動のなかで書き残したもののなかで基本的なのは、「コントル・アタック宣言」「街頭の人民戦線」「現実の革命を目指して」の三つだろう。これらは状況に即した論文であり、その間に起こった出来事を考えれば、すべてを同一の平面上で扱うことはできないが、これらからまず共通するものを取り出し、通約を越えていくものがあれば、あとでそれを補う。
 これらを合わせ読むときに共通して見えてくることの第一は、当然のことながらきわめて左翼的な立場である。「同盟」は、〈現体制に対する攻撃〉を目的とし(第三項)、〈資本主義のあらゆる奴隷どもに死を!〉(第六項)と呼びかけ、〈同盟が創出すべき任務を負っている原理の基本的諸問題は、ひとつとしてマルクス主義の根本的命題と矛盾するものではない〉(第七項)と述べられ、十分ではないものの、生産手段の共有、労働者と農民の生活の改善等に対する政策が提議されている(第九、一〇、一一項)からである。この立場からいくつかの主張が出てくる。最初の一つは、国家あるいは民族というものに対する激しい反撥と批判である。「宣言」の第一項は、次のように言っている。

〈われわれは、いかなる形態をとるにせよ、国家もしくは祖国の諸概念のために「革命」を籠絡せんとするいっさいの傾向に激しく反対し、留保するところなくあらゆる手段を尽くして資本主義権力およびその政治的制度の打倒を決意するすべての人に呼びかけるものである〉(第一項)

 もう一つうかがえるのは、議会主義あるいは議会を支える近代的ブルジョワ民主主義への批判である。議会というものが国家の枠内に収められて存在している点からすると、この批判は「国家」批判の延長上にあるものでもある。バタイユは、変革への意志が書記局や委員会の間の意見調整、議会での交渉、さらにロビーでの裏取引などによって押しつぶされてしまうことを強く批判する。これは選挙協力によって議会で多数を占めることで政権を取ろうとする現今の人民戦線が陥ろうとする罠でもある。〈人民戦線の指導者たちは、ブルジョワ制度の枠内で、権力と接近することになるだろうが、このような綱領は破産に瀕しているということを私たちは言明する〉(第五項)。
 この批判を反転させると、バタイユたちの求めるところがあぶり出されてくる。一番大きな枠組みは、ファシスムに抗しながら、同時に国家という前提に依拠しないということだろう。それは当然簡単なことではないが、彼らはどのように実践しようとしたか? バタイユは政党を頭からすべて否定するわけではない。組織と持続性は政党の持つものである。しかしながら、最終的に依拠するに足るのは民衆自身が持つ直接の力であり、その力を用いて権力奪取に踏み切らなくてはならない。
 これに従って「コントル・アタック手帖」のパンフレットの一つは、前述のように武装民兵組織の結成を呼びかける。しかしながら、急進的なインターナショナリスム、暴力革命の主張は、おそらくは他の極左的な小グループに共通する主張であったろう。バタイユはこうした部分をこれらのグループと共有しているが、それでも彼が固有の運動を試みなければならなかった所以は次の段階から現れる。第三項がその概要を示している。

〈私たちは、現体制に対する攻撃は、新たな戦術によらねばならないことを断言する。革命運動の伝統的な戦術は、専制君主制の清算に適用された場合にしか効果がなかった。民主主義体制に対する闘争に用いられた場合には、この旧来の戦術は、労働運動を二度破滅に導くことになったのだった。私たちの本質的かつ緊急の任務は、直接的な経験から引き出される一つの原則を構築することである。私たちが生きている状況においては、経験から教訓を引き出しえないことは、犯罪的であると見なされねばならない〉(第三項)

 二度の破滅とは、イタリアとドイツの場合を指すのだろうか。新しい現状認識を迫る主張は、以後とりわけ「現実の革命」で取り上げられることになるが、今はまずバタイユの持った全体的な構図を取り出す。革命運動は、専制政体に対する場合から民主主義政体に対する場合へと変化した。そしてこの二つの場合では、革命の方法は異なる。現在フランスで問題になっているのは民主主義政体に対する革命であって、その場合、課題は全く新しいかたちで出てくる。

〈しかし現在の私たちは、政治というゲームにおいて、一挙に主要な位置を占めるようになった新しい形態に直面している。新しい社会構造の構築というスローガンを、私たちも掲げざるを得ない。今日、社会の上部構造に関する研究が、あらゆる革命的活動の基礎となるべきであることを私たちは断言する〉(第八項)

 この社会の上部構造とは、もちろん「ファシスムの心理構造」で取り上げられたもののことである。下部構造すなわち経済的な因子はもちろん重要だが、それだけでは社会の動きの全体を理解することができない。とりわけ現代においてそうなのだ。バタイユはコントル・アタックに関わる論文のなかでは、上部構造のことを情動・情念emotionという表現で取り出している。〈経済的な基盤の分析が、その結果は限定的であるとしてもいったんなされたなら、私たちの関心をとりわけ引くのは、人間の集団に権力への飛躍を与える情動という問題である〉(「街頭」)とバタイユは言う。人間が集団をなしたときに現れる心理は、経済的な条件からは相対的に独立して特異な作用をすることがある。それをとらえることができたのはファシスムであって、彼らの独創は、情念の昂揚としてのファナチスムを利用しえたことである。

〈私たちの確認したところでは、他の国々においては、労働者階層によって生み出された政治的武器が、国家主義反動によって利用された。今度は、私たちのほうが、ファシスムによって生み出された武器を利用する番なのだ。ファシスムは、感情の昂揚と熱狂に対する人間の根本的渇望を利用するすべを心得ていた。だが人間の普遍的利益のために用いられるべきであるこの昂揚は、社会の維持と祖国の利己的利益に隷属したナショナリストどものそれとは全く別の大きさを持った、はるかに重大で破壊的なものであらねばならない〉(第一三項)

 労働者階級が生み出した政治的武器が国家主義反動によって利用された、というのは、ムソリーニがレーニンを尊敬し、職業革命家による規律ある組織によって政権を奪取するという方法論を学んだことを指しているが、重要なのは、ファシスムがファナチスムを利用するすべを知っており、それによって民主主義政体を覆すことができたという部分である。ファシスムはこれまでのところ、民主主義政体に対して革命を起こしえた唯一の運動である。目的は違うがこの「武器」は利用せねばならない、というのが彼の主張である。たぶん他に類例がなかったであろうこのような主張は、「宣言」では項目として列挙されているにとどまる。それをより詳細に、そして以後の展開まで知るには、続く論文を読まなくてはならない。

第12章 どこでファシスムに抗するか
「現実の革命目指して」は思いがけないほどの歴史的分析と現状認識を見せているが、それは政体の違いによる革命のありようの違いについても、詳述している。専制君主制に対するプロレタリア革命の試みは、パリ・コミューンとロシア革命があるが、それは直接プロレタリア革命として実践されたのではなく、専制政治が何らかの理由によって倒され、自由主義社会が出現しようとし、それが安定する直前を捉えて行われたものである。ロシアの場合それは一応の成功を収め、以後それが他の国のプロレタリア運動の手本となったが、現在の西欧には〈いったん安定した民主主義体制〉(第五節)があり、だからロシアを手本とすることは時代錯誤でしかない。現在の革命は民主主義政体を対象とし、全く違った方法を必要とする。
 二つの政体の差は主に権力のありように関わる問題である(第三節)。この権力論が、異質学の探求の蓄積の上にあることは明らかである。専制政体では一人の君主に権力が集中しており、そのことは逆に、民衆にとってこの政体が耐え難いものになるとき、不満と憎悪をこの権力者に集約し、この集約によって蜂起を可能にする。これに対して民主主義政体においては、元首あるいは政府の首班は、不満の対象になると交代させられるので、反対を持続的に集約させることができなくなる。〈民主主義においては権威が不在〉であり、そのために〈この政体の危機は、専制政体の危機と同じ意味ではなく、根本的に異なった意味において起きる〉(第五節)。
 では民主主義政体の危機とはどんなものか? それは経済的な停滞、社会的な不安の増大というだけでなく、それに対処できないというところにある。危機という現象の下に現れてきた大衆レベルでのエネルギーは、先に見たように議会制度下の不毛な曲折によって、うやむやのうちに消滅させられてしまう。

〈ブルジョワ社会とは、本当の権力が存在しない組織なのだ。それは常に、とりあえずの均衡の上に成り立っていて、この均衡が次第に困難なものになりつつある現在、権力が欠けているために死にかけている。この社会に対して戦いが仕掛けられねばならないのは、それが解体すべき権力としてあるからではなく、権力の不在として存在しているからである。資本主義者どもの政府に攻勢をかけること、それは人間の心を失い、名前さえ失って盲目となった指導部に対して、途方に暮れ、愚かしくも深淵に向かって歩みつづける詐欺師たちに攻勢をかけることである。この屑たちに対立させるべきなのは、「直截に」、強権的な暴力である。それは直接的に、容赦ない権威に基づく根底的な諸々の力を統合することだ〉(第八節)

 専制政体においては、権力は一人の君主に集中している。それに対して民衆の側に権力を奪取したはずの民主政体においては、権力は議会の迷路の中でそのエネルギーは失われ、あるべき権力は不在であり、あるのはただ不能な権力にすぎない。専制政体から民主政体へという過程を、バタイユは権力の問題として捉え、そこに権力が衰退していくありさまを見て取る。すると彼の次の関心もまた、この権力問題の延長上に捉えられることになる。現在西欧にあるのは民主主義政体の不能に陥った権力だが、それに対して最初に別な考えを打ち出し、実践的たりえたのはファシスムである。ファシスムは、とにもかくにも強力な権力を打ち立てた。しかしながら、それはどのような権力であったか? それについては、すでに「ファシスムの心理構造」がある。ファシスムは大衆に権力を与えるもののように見せながら、実際にはすり替えによって一人の人物が権力を搾取し、大衆自体は擬似的な権力、権力でない権力をあてがわれ、本当はいっそう惨めな従属状態に置かれるものにすぎなかった。
 だから権力という観点からバタイユの問題を言うならば、それは民主主義を超え、ファシスムの陥穽を抜けて、大衆自体が権力を現実的に保持するためにはどうすればよいのか、そしてそのように保持された権力はどのようなものか、というものであった。民主主義、とファシスムに対する批判はこれまでもあったが、それらに変わる権力あるいは権威に関する積極的な主張は、コントル・アタックの時期にいたって初めて打ち出されたように思われる。「現実の革命」ではこの主張は「有機的運動」という名称で提出される。

〈また有機体的運動は、蜂起である以上、出来合いの政治的枠組みからは独立的に、議会主義に対してはあからさまに敵意を示しつつ、厳密に規定された利益に基礎を置いたプログラムから出発してではなく、激しい情動の状態から出発して展開される〉(第九節)

 それは権力の不在に対して権力を持とうとする運動であり、また合理的な利害の判断よりは情動によって動かされるところのものだ。だがこれらの言明は、バタイユにとっての条件である民主主義に対する批判から始まってはいるものの、具体的な運動として打ち出すことはまだできていない。そのような提示の仕方は、このような種類の主張にとっては難しいことであり、また時間的な余裕を欠いていたことも確かだろう。だがそれが現状に対する批判にとどまる限りは、どうしてもファシスムと共有するところが前面に浮上してくることになる。バタイユは、自分の主張がファシスムとある種の共通性を持つことを認めている。情念のファナチスムは、どちらの側からも利用可能である。〈私たちは、少なくとも新しい秩序ができあがるまでは、なにがしかの行動の形態は、原則的に、ある方向においても、その反対の方向におけると同様に使用可能だと認めることができる〉(第一〇節)。そしてそれがどちらの側に転ぶかについては、予測不可能なのだ。

〈有機体的運動が解放するのは、正確には、プロレタリアの階級の願望のように、決定的に定義されてある願望ではなく、大なり小なり首尾一貫し、所与のある場所、ある時刻には騒然たるやり方で形成される大衆が持つ願望である。ここにこそ、極度な慎重さを求める事実がある。ある点までは社会的構成を変えるかもしれない変容のうちに捉えられたこの大衆が、ある時間が経たあげくに、ナショナリスト的願望に、あるいは労働者の自由に敵対する趨勢に動かされることになってしまわないかどうかを、どのようにして前もって知ることができるだろうか? 一見したところでは、反ファシスム的なものと見える運動が多少の差はあれ早々とファシスムに向かって変貌してしまわないかどうかを、どうやったら知ることができるだろうか?〉(第一〇節)

 この分岐点が彼の最後の問題になる。彼は終盤部で、理論的のみならず現実的な考察を重ねている。第一〇節では、フランスの現状という条件を、いくつかの項目を立てて検討している。要約すれば、まず第一に、フランスは対外的に国家として屈辱を受けたことはなく、ナショナリストに利用を許す潜在的な怨恨はない。第二に、国内的には民族的な統一は以前からなされており、ナショナリスムはとくに自己主張する余地を持たない。第三に、ブルジョワのある部分は現状に批判的であり、これらと連携することで、ナショナリスムに対抗する地盤がある。さらにフランスの労働者は、イタリアとドイツの労働者がだまされた例を見ており、「火の十字架」などのデマゴーグには乗らないだろう、云々。フランスはファシスムの余地からは遠いと言うのが彼の結論ではある。これらの分析は、今日からの目で見ても、それほどはずれているとは言えない。だが問題は原理的に明らかにされねばならない。「現実の革命」は、ファシスムとの分岐点についてどのように判断したのだろうか? 

〈闘いの運動を作り上げていくことは、その基礎に、人民戦線の騒擾を孕んだ全現実を持たなくてはならない。人民戦線の拡大された基礎だけが、ファシスムのめくらめっぽうな猛威に応戦できる力を集結させることを可能にする。この力は組織されて、孤立せず、あらゆる責任を引き受ける〉(同右)

 考えてみるとすぐわかるが、どこでファシスムを批判するかというのは、百通りもの答えがあって、現在でも解決していない問題である。ここに提出されたバタイユの回答もまた、原理的であるだけにその有効性がかえってよく見えない、つまり人を即座にはうなずかせないようなものだった。ここに見えてくるかぎりでは、わたしたちもまた、彼が持ったのは断固たると同時に曖昧たらざるをえない決断だったと言うほかないのかもしれない。シュルファシスムという批判は避けえないものであったろう。だが理論的に表明されたものがすべてだというわけではない。私たちはそのほかにまた別のありようをする世界をバタイユが持っていたことを知っている。そして右の言明のなかのいくつかの部分、たとえば有機的運動が「普遍的な意識の運動」であると述べている箇所、またあるいは人民戦線があらわすのが「全現実」であると述べている箇所が私たちの関心をそちらの側に促す。
 この時期バタイユは並行してもう一つの論文を書いている。それは「街頭の人民戦線」である。私たちは「現実の革命」の右に引いたような箇所を読むとき、それが「街頭の人民戦線」の次のような部分に反響していると思わずに入られない。〈同志諸君、人間の現実というものがある。正確に言うとそれは街頭における人間の現実のことだが…〉、あるいは〈私たちは人民戦線の中に、動きつつある現実を見ている〉(第四節)。なにもかもを理論的に解決した上で、実践に移るというのでは全くなかった。時は切迫していたし、また理論と実践は――仮にそう分離して考えることが出来たとしても――別物ではなかった。だから、普遍的な意識の運動と全現実のためには、ただ考察に没頭するのではなく、同時に実践的でもあらねばならなかった。彼が同時に見ていたのは「街頭」である。

第13章 街頭へ
「街頭の人民戦線」は、三五年十一月二四日の集会での演説が元になっているらしいが、デュビエフによればのちにかなりの加筆があり、したがってバタイユにとってのコントル・アタックに関する最後の証言だと言えるだろう。この論文の中には、デモクラシー批判、ファシスム批判、既成左翼の限界の指摘など「設立宣言」や「現実の革命」の中で述べられていたことをほぼすべて含みながら、先行する論文に少なくとも十分には表明されていなかったことが表明されている。それは「街頭へ」という方向性である。これは明らかに、コントル・アタック創設時から予告されていた武装民兵組織の計画に一歩踏み出そうとして行われた講演であった。十二月半ばから行われるアンケート作成の作業は、おそらくこの講演に続くものである。
 街頭へという方向性は、「防御の人民戦線から闘いの人民戦線へ」あるいは「防御的反ファシスムから反資本主義的攻勢へ」などいくつかの表現を与えられている。それはファシスムの勃興に共同して対抗するという人民戦線の最初のありようを、ファシスムに対する攻撃へと転化し、さらにプロレタリア革命にまで導こうとする意図を持っている。前者の標語は、当時社会党左派の活動家で、社会党の側からの人民戦線の推進者の一人であったピヴェールが唱えていたものだが、バタイユはそれを受け継ぎながら彼自身の意図をいっそう明らかにしようとして、「街頭の人民戦線」という表現を選ぶ。「街頭へ」という表現はこの時期のバタイユの関心をもっともよく表す。

 街頭での行動、ひいては民兵組織による武装蜂起を見越したこの提案は、当然の異ながら権力奪取の問題として提起されている。権力puissanceあるいは権威autoriteという表現は、当然支配する権力を指すことができ、誤解を招くことがあり得る言い方だが、バタイユの言う権力はこの時期すでに違ったものとして現れようとしていて、その過程を見失ってはならない。それはまず、〈民衆的な全能感に満ちた騒擾を担って、武装して街頭に降りた〉民衆を突き動かす力である。民衆は、自分の中に権力を意識すると街頭に降り立つ。彼は次のように書く。

〈踏みつけられた人類は、すでに何度かの激しい権力puissanceの噴出を経験してきた。これの力の噴出は、混沌としているが仮借ないものであり、革命の名の下に歴史を領してきた。数度にわたって人民のすべてが街頭に降りたったことがあり、その力の前には、何ものも抵抗することができなかった。ところで、もし人々が民衆的な全能感に満ちた騒擾を担って、武装して街頭に降り、集団で立ち上がったとしても、それは細心の注意を払いうわべで行われた政治的な組み合わせから結果したものではけっしてなかったということは、疑う余地のない事実である〉(「街頭」)

 この「街頭」の最初の姿は、三四年二月一二日のデモンストレーションであり、背後には当時各地に頻発していた街頭での示威行動がある。バタイユはこの自然発生的な民衆の動きの成長に貢献するのが自分たちの任務だと考える。〈私たちは、民衆の集団が権力を意識することに貢献しなければならない〉。この民衆の力は、政党へと組織されるものではない。〈私たちは力は戦術からよりも、集団的な昂揚から来るということを確信する〉(同上)とバタイユは続ける。〈私たちは指導部というものを信頼することからはあたう限り遠い〉。彼は蜂起した民衆の力を、指導部や綱領に上昇させるという方向は取らない。それは再び「民主主義」という迷路に迷い込むこと、あるいはいっそう巧妙に導かれれば、すべての力をただ一人の人間に委託し、自分たちはそれに従属するファシスムという罠に陥ることになってしまう。この二つの袋小路を避ける唯一の道は、民衆の見いだした力をそのままに維持することである。それはコントル・アタックにおいては、情念・情動を何よりも重視することなのだ。
「権力」という問題は、やはりもっとも注意を要する問題である。コントル・アタックにおける権力の主張は、まず支配者――とりわけファシスム――の権力に対する民衆の権力という図式に拠った上で、対抗的に後者を強調する。だがこの後者のうちにすでに変化が兆してくる。「街頭」の権力は、特定の人物の権力にすべてを譲り渡し、実際には従属しているにすぎないのに権力を持っていると錯覚しているファシスムの擬似的な権力とも、権力を行使しながら、いつの間にかそれを失っているデモクラシーの権力の不在とも異なるものだ。街頭とは沸騰と白熱、あるいは運動の場であり、そこにあらわれる権力とは、常に複数的で、生成状態にあり続け、単一の方向に作用することなく、統一を絶え間なく覆し続けるものである。その意味ではこれはけっして権力ではあり得ない権力なのだ。そして力というものがあるとすれば、バタイユが肯いうる力は、このようにどこまでも運動の中にあり、固着を解き放ち続ける力以外にあり得なかった。バタイユは「街頭」が醸成するこのような力に魅惑されたのである。そしてこの力は街頭でのみ存在し、持続する。問題は持続させることだ。持続のための要件を見出すこと、それが「街頭の人民戦線」の主題である。
 だが彼の問いかけは明瞭な回答を得ただろうか? この時期に書き残されてものからは、少なくとも明確にそうであったようには見えない。彼は大衆のもたらす力を、街頭に出ることであらゆる固着を乗り越えて持続させるという以上に明瞭に表現された方法を持つことは出来なかったように思える。彼は後年、次のように書く。〈ありのままのブルジョワ世界が暴力を挑発しており、この世界では暴力の外面的な形態が人を魅了するのは確かなのだ。(しかしともあれ、少なくともコントル・アタック以来、この魅惑は最悪の事態に導くとバタイユは考えている)〉。たぶんこれは正当な反省なのだろう。しかしながら、これも政治に背を向けて宗教的探求に入ったという言明と同じほどの後からの単純化があるように思える。少なくとも彼にとって権力の問題は、まだいくつかの側面で、少しずつ辿るほかない変容を受けることになる。権力の問題は、教会、軍隊など続く社会学研究会の時期の主要なテーマとなる。また同じ時期に彼が耽読したニーチェの読み方には、その帰結がよく現れているように見える。バタイユは、ニーチェの力への意志の教説を批判しながら、彼の理解の中心を、力のあらゆる方向への作用としての「永劫回帰」へと移していった。この批判はコントル・アタックでの権力をめぐる経験に裏打ちされているのではあるまいか? また彼は戦争開始以後、内的体験と呼ぶものを追求をすることになるが、この体験の根拠の不明に苦しんだ後、内的体験はそれ自体が権威なのだと考える。それ自体が権威であるとは、他に対しては権威を持たないということだが、内的体験のこのようなありようは、バタイユにおける権力の問題の帰結であるようにも思える。
 だがこの時期に限って言えば、バタイユは、権力の問題を無限定的な力の問題へと読み変えながら、街頭に降り立ち、同時にそれによって思想的な領界を越え出ようとしていたように見える。彼は行動しようとしていたが、それは思想を捨てることではなく、思想が異物にぶつかることであり、思想と現実のあわいに立とうとすることだった。同時にそれは完結しようとする思想に開口部を開くことであって、思想を活性化するほとんど唯一の方法でもあった。ブルトンたちの離反は、半ば予想していたにちがいないが、それでも彼を落胆させたろうし、また武装民兵の蜂起という発想が、大衆運動の高まりの中で有効な場を占め得ないことも、彼は次第に理解していったに違いない。彼は自分がある偏流の中に足をすくわれかけていることを自覚していたろう。しかしながら、彼が自分の思考にある開口部を見出していたのもたしかであると思える。開口部は半ば歪んだかたちでしか現れなかったとしても、そこが思想の根拠であるという確信を彼に与えたに違いない。この確信は、生まれると同時に消えてゆこうとする言葉――アジテーションの言葉――で書き留められるほかなかったが、こうした言葉を読みとれるがどうかが、バタイユにとってのコントル・アタックの意味を理解する鍵であるように思われる。
 コントル・アタック崩壊のほぼ二年後、そしてブルムの内閣が潰えて一年がたとうとした三八年の春、NRFの編集者であったジャン・ポーランは人民戦線の持った意味を尋ねるアンケートを何人かの文学者に行い、バタイユはそれに応えて「人民戦線の挫折」という短い文章を書く。この企画は雑誌上では実現されず、彼の回答は草稿のまま残されるが、その中に次のような箇所がある。

〈…社会的な動揺は、人間の深みから来る動揺と切り離されえない。もしこのように切り離されないものであるなら、政治的な出来事は、プロパガンダの持つどんな明快さとも異質であるような注意力を求めてくることになるだろう。直接的な現実が観察からもれることはなくなる。そしてデモクラシーの世界での内部的な動きは、狭い限界内にあることが見えてくる。同時に、視野は開放され、地平は開け、そしてさまざまの衝突のなかで賭金となっているものの大部分が、本当は、あまりにも実際的な利得や挫折と結ばれているものではないことがわかってくる〉

 社会的、政治的なものは、プロパガンダや政治的利害には還元されえず、本当は人間のもっとも内部にあるものと切り離しえないものであることがわかってくる、と彼は言う。同時にこのように結ばれることで、政治的なものがただ政治的であるだけではないこともわかってくる。バタイユの中で私たちの目を引くのは、このように「社会的なもの」と「人間の深み」を直結させ、それによって双方のありようが変わっていくのが見えてくることである。
 この結合はまた、バタイユにとって彼自身を内部に置いて現実の全体を見いだすことであったが、この全体はファシスムの言う民族という限定にも、コミュニスムの言う階級的な限定にも対立するものであった。だからこの全体性は、政治的な回路を通ってきたというのは事実であるにしても、けっして政治的であるだけではない全体性なのだ。
 私が読みえた限りでは、バタイユがこのような現実の全体性を予感したのは、ブルトンとの論争のなかで、整序された世界の外側に存在する物質を直感したときである。それは異質なものとして作用するのを追跡されたが、その広がりの全体に実践的に触れえたのは、コントル・アタックに至る試行錯誤を通すことによってである。この全体性は破砕の直前にあるような緊張した様相をもって現れ、事実それはバタイユの試みを挫折へと押し流した。しかしながら、全体というものに触れえたという確信はいったん獲得されたら、容易に失われることのないもの、持続する類のものであって、現実にはこの全体性が奪われれてあるときも、すなわち政治的な実践から一歩退いたところに位置せねばならなくなったときにも、彼にこの全体性を問うことを可能にする。それは以後、社会学研究会において、また戦争に入って自由を奪われたときにも、バタイユに全体を仮構する試みを許し、かつ促すことになる。

「政治の中のバタイユ」終わり



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はっぱ

関富士子



  ひかる      ふるえる          ふくらむ               ほどける                            はる                                ひらく                                   ふれる                                    はねる                               ひる                                   ほたる                                ゆれる                           ささやく                      したたる                    すくう                 すう                 さぐる                さる                 すける                     ざわめく                                  さく                                    しずく                                        すぼむ                                      そまる                                         しめる                                             ながれる                                              にじむ                                          ぬぐう                                     ねじれる                                          のびる                                     ならぶ                                にぎわう             ぬれる          のむ         あびる           うかぶ                あおがえる                あおぐ                         うらがえる                               うらなう                                   うみう                                あつまる                                             あぶ                                             とぶ                                                  わらう                                                    まわる                                                    みみずく                                                 めくれる                                                      まねく                                                   むすぶ                                  もえる                                  きらめく                               かくれる                           くすぐる                                    こすれる                        かわく                             くすむ                                 かわう                                かたむく                                            このはずく                                                  かげろう                                           きこえる                                               くるむ                                                  かさなる                                                         よる                                                      たどる                                                      ちぢむ                                                       つもる                                                     ともる                           *もんだい:はっぱのかげにどうぶつなんびき?


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近況集

関富士子
清水さんにや長尾さんに励まされつつ、個人詩誌「rain tree」を初めて五か月ほど。インターネットにもサイトを開設してスリリングな毎日です。つまり日夜噴飯ものの冷や汗ものを宇宙に向かって散らしている。宇宙は巨大で寛大な胃袋か。はかなくいとおしい言葉たち。
"raintree"url<http://home2.highway.or.jp/ofuji/> 

長尾高弘
突然思い立ってNTTのOCNというサービスを契約した。常時接続の専用線で自宅とNTTの中継点を結ぶ。専用線にルータとサーバをつなげば、インターネットに24時間接続される。世界じゅうから私の横にある小さなPCにアクセスして、私のホームページを見せることもできる。いちいちプロバイダに電話をかけなくてもインターネットにアクセスできるのは便利なのだが、常時外からこの仕事部屋が覗かれているような気分にもなって、妙に落ち着かない。現実にはそのようなことはないのだが、事実として知っていることと心理のずれが面白いと思った。

ナーダ夏際(夏際敏生)
 1997年5月8日午後5時7分。胃癌と食道癌による敗血症で夏際敏生は亡くなりました。思えば20余年間生活を共にし、「希死念慮」という病で入院していた私を、舞踊の世界へと導いたのは彼でした。そして15年間、30回の舞踊公演の全作品では、構成・演出・音楽・照明プランの全てに力を発揮してくれました。
 そんな意気軒昂な彼を、私は常に師と仰ぎ生きてきたように思います。ですから病に倒れてからの、はかなげで虚ろな姿を想うと今でも、息苦しく眠れぬ夜がしばしばです。
 でも唯一の慰めは、清水鱗造氏のご尽力で「Booby Trap」第23号を病院のベッドで受け取ることができたことです。いつになくきりりとした目つきで、くい入るように読み、とても嬉しそうでした。そして5月10日には「Booby Trap」第23号を携えて荼毘に付しました。
 この場を借りて改めて、清水鱗造氏にお礼を申し上げます。又、ずっと先になると思いますが、1960・1970年代の作品をまとめ、昧爽社より出版することで、生前の夢を実現させたいと思っています。今度ともどうぞよろしくお願いいたします。

吉田裕
 ノートも第IVにまで及んで、バタイユにけりを付けるところまで来るかなと思っていたら、まだ周辺部分を固める作業に終始しました。次には宗教的関心の遍歴を辿るつもりで、これこそが中枢部分になると考えていますが、どこに落とし穴があって、迷い込むことになるかわかりません。それも楽しいかもと考えつつ、ともかく書き続けます。


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【編集後記】

今月は2号出すことになった。ものすごく遅れたり、早まったり、雑誌の出し方としてはうまいやり方ではないかもしれないが、僕自身はこの小冊子を出すことで、編集することを楽しみ、DTPを楽しむ。そして自分の書く方向を徐々に決めていくという意味を持たせようとしている。なにか、楽しく(不気味にでもいい)生成していく場所、Internetと連動することによって、その感触は少しずつはっきりしてきている。気分の揺れや過ぎていく生活の時間の中に、書くのに集中するための輪郭線が炙り出されてくるのはどの書き手でも同じかもしれないし、すでに集中点が明るく見えている方もいるだろう。というか、それを逃さないような心身の状態が敏感に反応できていればいいのだと思う。いつも書くが、読者諸氏にはHomePageも覗いてくださると幸いである。(清水鱗造)

[ホームページ(清水)] [ホームページ(長尾)] [編集室/雑記帳]
エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
[No.25目次]
mail: shimirin@kt.rim.or.jp error report: nyagao@longtail.co.jp