解酲子飲食 5・6・7・8・9

倉田良成



銀座のアマダイ

 宰相のせがれで文学者の故・吉田健一氏がその名を聞くと取り乱したものは鰯だったが、私が取り乱すのはさしずめ甘鯛だ。関西でグジと呼ぶこの魚の身はきわめて濃やかで女性的で最後の皮まで舌にからみついてきて、食い終わったあとにはなんだか大いくさをした気分になる。あの震災前の神戸でこれの酒蒸しを試みたときは、眼のしたの頬肉を友達に取られて本気で恨めしく思った。若狭グジというくらいで、関西だけのものかと考えていたら最近では(といってもここ十年ほど)築地にも静岡産のものが入っているようで、銀座の魚屋でこれの西京漬けを見つけたときはうれしかった。だがしかし予約制で片身売りで片身七千円はおいそれとは手が出ない。ある年の春先、珍しく切り身で甘鯛が置いてったので購入に及んだ。包んでくれるとき「好きな客は生の身にみそだけ塗って焼くんだぜ」と言ったおやじの顔が甘鯛に見えてきたのは春の幻だったのか。


豆腐礼賛

 豆腐についてはどこの何と言いたくない心持ちだ。雑誌ライターの磯山久美子姐さんの持論では豆腐屋が二軒以上ある街はいいところだそうだが、豆腐屋でなくとも近ごろのスーパーは選択肢が増えて少し出せばかなりの佳品が手に入るようになった。ただし一丁千円というのはあれは豆腐じゃない。また、夏のざる豆腐の甘さや冬の湯豆腐の滋味はわざわざ店へ行って味わう性質のものではない気がする。青木正児(まさる)先生によって知ったのだが、明代の文集のなかに「豆腐三徳賛」というのがあって、そのどこから食べてもよいのが徳の一、その思う存分噛めるところが徳の二、さっぱりして生臭くないのが徳の三だそうだ。最後のさっぱりしてというのも注釈が入り用で、モノによっては下手なチーズどころではない味を持つ類がある。こうなると、久保田万太郎翁のかの「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の豆腐もなんだか濃厚なものに見えてくるのは当方のひがめか。


発酵食品考

 酒を嚆矢とする発酵食品の類は耕作文化の発生とともにあって、そんな大げさな話でなくてもある種の酒や味噌なしで生活は考えられないという地方や家庭は多い。そのにおいや食味の科学的な説明は坂口謹一郎先生の天国での講義にお任せして、酒はまあ別格としてもたしかに味噌や塩辛やその一種であるクサヤなどには魔味というべきものがある。いつかテレビで極地のイヌイットを映した番組があったが、初老で独身だというその男は酷寒の冬の夜のテントで「おれにはこれが楽しみなんだ」と言って何かのスピリッツをやりながらツグミみたいな小鳥の塩辛をむさぼり食っていたが、あれはずいぶん臭そうで迫力があった。若いころ、金も立場もなくなって親戚の惻隠の情を見当に転がり込んだ地方で、みんなが寝静まった夜半、最明寺殿を気取ったわけではもちろんないが、一合の酒のアテに小葱と削り節をたたいて混ぜた葱味噌の味が忘れられない。


彼岸のモロコ

 どうしたはずみでか友人と二人で奈良のもう一人の友人のところへ遊びに行ったことがある。大阪を経由したのだがとんだ弥次喜多道中で、法善寺横丁の焼鳥屋で異様に上質のコモカブリを出すので警戒しながら杯を重ねていったら(鶉や鴨や地鶏で)、二人で二万円弱という変なボラレ方をした(もしかしたら、ボラレてはいなかったのかもしれない)。そんなこんなで翌日は二日酔いで、酒は飲まないのに車で案内をするのが大好きという、われわれにとっては神様のような奇特な奈良の友人のハンドルで大津へ行った。石山寺や三井寺を回る途中「ここ、知っとる」という私設運転手のひと声でモロコの炭火焼きを食わせる店に入ったのだが、ざるに並べられたモロコは銀の腹にコを持っていて、あぶったやつを酢醤油だけでほおばる昼酒の趣は、「湖水朦朧として春を惜しむに便あるべし」(去来抄)だ。おりしも彼岸中日、モロコは罰当たりたちの酔眼に消えた。


大陸伝授

 あんな巨怪な国のことを大雑把にはとても書けないが、それでも中国の食文化は南と北とで特徴的に分けられるのではないか。南の米食文化に対し北の小麦というよりは非米食文化、南の醸造酒文化に対する北の蒸留酒文化、といった具合に。しかし貫くものはひとつあって、いまでこそ海鮮だツバメの巣だと騒いでいるが、中国人があくなき執着を寄せるものといったらそれは豚に決まっている。大陸帰りの人間が口をそろえて言うのは、かの国の豚肉のまがまがしいほどの香り高さだが、当の豚はとてもお話にならない飼料によって育てられているという。エサについてはここでは書かないが、大陸で嫁になったうちのおふくろの作るギョーザはたしかによそと違ってうまい。豚のほかにあきれるほどニラをもちいるそれは中華街のものよりも中国の味がして、子供のころから食っていた私にはかの国への郷愁さえ感じる。おふくろは家にいたクーニャンに教わったと言っていた。

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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