ハイパーテキストへ(連載第7回)

長尾高弘



 この連載の第1回は、Windowsヘルプを使って詩集を作ろうというものだった。つい3年ほど前のことだ。たったこれだけの間に状況ががらっと変わってしまうのが、コンピュータの世界のコワイところであり、コンピュータなんか人に勧めてよいのだろうかといつも疑問に思ってしまうのもそのためだ。まず、その第1回の原稿を書いたすぐあとにWindows 95が登場し、ヘルプエンジン自体が変わってしまった。もちろん、古いバージョンのデータファイルは新しいヘルプエンジンでも動作するのだが、コンピュータの世界では、古いということはバカにされるということである(一応、私もこの業界でメシを食っているわけですし^^;)。そのときは、作ったヘルプファイルは『長い夢』だけだったので、急いで新バージョンに合わせて作り直した。そして、「Booby Trap」の既刊20冊ほどを一挙にヘルプ化した。
 しかし、その後急速にWWWが普及した。Microsoftでさえ、Visual C++というプログラム開発用ツールの新バージョン(ver.5)では、WindowsヘルプをやめてWWWを使うようになった。「Booby Trap」もWWW版を作って、私のWebサイト(以前はホームページと呼んでいたが、こちらの方が正確な呼び方なので、これからはWebサイトという用語を使う)のディスクスペースを使って公開するようになった。このとき、実はちらっと気付いていたのだ。ヘルプは面倒くさい。WWWは、以前も書いたように、テキストだけでできているので、テキストの加工に適したperlなどのプログラミング言語でちょっとしたプログラム/スクリプトを書けば、自動的に生成することができる。それに対し、ヘルプの場合は、Microsoft Wordの上で手作業であれこれのマークを付けていかなければならない。
 以上は本連載の3、4回とダブる話である。もうだいぶ前になるが(97年の5月頃)、ついにこのWindowsヘルプを捨てる日が来た。電話代を使わずに読めるハイパーテキスト的なブラウザがもう1つ見付かったのである。それが(株)ボイジャー(http://www.voyager.co.jp/)のエキスパンドブックである。
 エキスパンドブックのことを知ったのは、そのときが初めてではない。もともと、ボイジャーのアメリカの親会社(http://www.voyagerco.com/)は、電子本の出版ということでは知られた存在だった。この連載でも紹介したことのある、Paris ReviewのWebサイトは、アメリカボイジャーのスペースを間借りしている。ソフト屋に行けば、アメリカボイジャーのPoetry in MotionとかLewis Carroll "Alice's Adventures in Wonderland"のエキスパンドブックが並んでいた。しかし、私のメインプラットフォームはWindowsであるのに対し、エキスパンドブックはMacintoshの世界だった。95年から97年にかけて、事務所にMacを置いていた時期はあったが、Windowsでブラウジングできないものには興味がなかった。
 ところが、97年の5月頃になって、ふとしたきっかけで、ボイジャーには日本法人があり、エキスパンドブックの日本語版があることや、新しいバージョンはWindowsとMacintoshの両方でデータを作成でき、両方でブラウジングできることを知った。新潮社はこれを使って「新潮文庫の100冊」の電子本を発売している。そして、データ作成ツール(オーサリングツール)はもちろん有料だが、ブラウジングツールはWebから無料でダウンロードできることもわかった。これは試してみるしかないと思い、早速アキバに行って買ってきた。3万8千円ほどだった。バージョンは、1.6である(98年5月現在、Windows版オーサリングツールの定価は45000円となっているが、http://www.voyager.co.jp/cgi-bin/shop/のボイジャーのオンラインショッピングを使えば36000円で買えるようである。Mac版ツールは28000円と安いが、これはWindows版には紙のマニュアルも含まれているからである)。
 ここでエキスパンドブックの特徴をヘルプやWWWと比較してみることにしよう。
 まず最大の長所だが、エキスパンドブックは縦組みに対応している。縦組みと書いたのは、単なる縦書きではなく、細かいところに神経が行き届いているからである。たとえば、英数字が入ってきたとき、全角(2バイト)文字を使えば縦書きになるが、半角(1バイト)文字を使えば横書き(首を右に倒して読む形)になる。これは当たり前である。1字の場合やNHK、IMFといった大文字の頭字語、1998年のようなものは全角文字を使い、Windowsとかhttp://www.何たらかんたらのようなものなら半角文字を使えばよい。問題は2桁数字である。通常の縦組み印刷なら、2つの半角数字を並べ、さらに90度左に倒す。Microsoft Wordのようなワープロでは、これができないが、エキスパンドブックではできる。ルビも付けられるし、行間、文字間も細かく調整できる。Windowsヘルプでは、ルビを付けるために非常に苦労をした。行間、文字間は、Windowsヘルプでは調整できるが、WWWではあまりうまく調整できない(スタイルシートなどの比較的新しい機能を使えばよいが、画像と共存させるのが難しい)。
 一方、画面サイズは固定されており、1つのディスプレイに表示できるエキスパンドブックウィンドウは1つだけに制限されている。これは、エキスパンドブックがもともとHyperCardだったことを反映しているのだろう。画面サイズが固定されていることには、良い面と悪い面がある。良いというのは、レイアウトが楽になることである。画面サイズが変更されて1行の文字数が変わったときのことをあれこれ計算する必要はない。悪い面は、解像度の低いディスプレイに合わせて画面を設計しなければならないことである。そうしなければ、画面サイズの小さいノートパソコンユーザーを排除することになってしまう。しかし、1600×1200ドットの画面で640×480の小さな画面を見るのはむなしい。津野海太郎氏は、読みやすいと書かれており(「本はどのように消えてゆくのか」。http://www.voyager.co.jp/aozora/からエキスパンドブック形式でダウンロード可能)、確かに1行の文字数が20字であっても苦にならない散文の場合にはそれでもよいのだろうが、詩の場合には1行の文字数があまり少ないとピンとこない場合がある。だからといって文字数を増やそうとすると、文字サイズを小さくしなければならないわけで、これは読みにくい。エキスパンドブックウィンドウの回りに広大に広がるスペースを恨めしく睨むばかりである。
 1つのディスプレイに表示できるエキスパンドブックウィンドウが1つだけに制限されているのは、マニュアルがオンライン形式のみで提供されているMacintosh版を使うときには苦痛だろう。わからないことがあってマニュアルを読もうとすると、作業中のブックが消えてしまうのである。作業に戻ると今度はマニュアルが見えない。これはとても苦痛である。紙のマニュアルは別売で出ているが(Windowsなら添付されているが)、ブックを2つ同時に表示できれば、だいぶ楽になると思う。
 良くないこととしてはもう1つ、プログラムがバージョンアップしたときに古いバージョンのデータが無駄にならないかどうか、安心できないということがある。安心できないというのは、無駄にならないかもしれないが、その確証がないという意味である。アプリケーションプログラムが独自のデータフォーマットを持つ場合には、このことが常にポイントになるが、アプリケーションというものはばかばかしいほどすぐにバージョンアップされ、そのたびにデータフォーマットも変わる。本来なら、古いバージョンのデータも読み込めて、新旧の適当な形式で保存できるようであってほしい。しかし、エキスパンドブックの場合、この辺がもう1つはっきりしない。そして、Mac用のバージョン1.5で作成されたデータをいただいたことがあるのだが、これはWindows用バージョン1.6のブラウザでは表示できなかった。ブックウィンドウ自体が出てこないのである。
 最初にも述べたように、エキスパンドブックはMacintoshで育ってきたソフトウェアであり、Windows、Macintoshの両バージョンの完全な互換性を保証するようになったのは、バージョン1.6からである。だから、Mac用バージョン1.5のデータがWindowsで読めないのはしかたのないことなのかもしれない。しかし、ソフトウェアのバージョンが変わるたびにデータ自体を作り直さなければならないのでは、安心してデータを作ることはできない。もちろん、エキスパンドブックというソフトウェアがいつまでも存在するという保証はないし、こういうことを心配しだすときりがないのだが、データだけがあってもソフトウェアがなければ読めないというところがコンピュータ本の場合には常に問題になる。
 エキスパンドブックに対する注文ばかり続けて書いてしまったが、最後にヘルプをやめてエキスパンドブックに移行することを決断した最大のポイントを挙げておこう。それは、コマンドをテキスト形式で記述できることである。ルビでも、縦横変換でも、すべて特殊文字を挿入すればテキストで表現できる。それらコマンド用特殊文字を入れたテキストファイルをブックに落とせば、自動的に整形されたエキスパンドブックになる。私にとって、これは何よりも便利な機能である。
 コンピュータのユーザーインターフェイスはいかにあるべきか、という議論では、画面に見えるものを直接キーボードやマウスで操作して操作結果を確かめながら対話的に仕事を進めていくことが理想とされることが多い。このような環境をいち早く実現したのは、Macintoshである。画面上の一角のコマンドプロンプトと呼ばれる場所に暗号めいたコマンド名をキーボードで入力しなければならないMS-DOSやUNIXと比べて、Macintoshは非常に優れていると高く評価された。しかし、WindowsがMS-DOSに取って代わり、XウィンドウがUNIXでも当然のものとして普及するようになって、今や対話的操作は当たり前のものとなった。1回のマウスクリックで新しいテキストにジャンプしていくハイパーテキストは、このような対話的操作が実現されなければほとんど不可能だっただろう。
 しかし、見ながらデータを作っていくということは、人間が手作業をしなければならないということでもある。その作業が機械的である規則に沿ったものだったとしたら、その作業はまさにコンピュータにさせるべきものではないだろうか? 人間は機械的な単純作業には不向きである。コンピュータよりも作業ペースは恐ろしく遅いし、コンピュータなら間違えないところを人間は間違えることがある。そして、単純作業を長時間強制されると人間は心底疲れてしまう。
 Windowsヘルプにうんざりしたのは、このような単純作業をコンピュータにさせることができなかったことにある。Booby Trapのヘルプ版を作るために、一晩の自由時間を全部つぎ込まなければならない。しかし、エキスパンドブックなら、テキストファイル上であれこれ操作してから流し込むことができる。テキストファイルの操作とくれば、perlの得意分野である。テキストエディタの検索コマンドも手伝ってくれる。実際には、テキストファイルをエキスパンドブックに流し込んでから、ルビの位置などについてはチェックをかけ、手で修正を施さなければならないのだが、Windowsヘルプと比べればはるかに簡単である(ただし、エキスパンドブックには最後の注文を付けておかなければならない。テキストを流し込んだときに化ける文字がある。エキスパンドブックからコマンド入りのテキストファイルを取り出すこともできるのだが、エキスパンドブックに流し込む前のテキストファイルとは微妙に異なるものになってしまう。このほかにも、細かいバグがあって疲れることが多い。面白いプログラムなのだが、考え方をもう少し整理して作り直したら、もっと操作しやすく、効率よく作業できるプログラムになるはずだと思う)。
 というわけで、従来Windowsヘルプだったコンテンツは、すべてエキスパンドブックで作り直した。また、専用線をひいたので、Webサイトも移転した。新しいURLは、http://www.longtail.co.jp/である。また、Booby Trapのページはhttp://www.longtail.co.jp/bt/に、エキスパンドブックコンテンツのダウンロードページはhttp://www.longtail.co.jp/exbook.htmlにあるので、アクセス環境のある方は是非覗いてみていただきたい。

[ホームページ(清水)] [ホームページ(長尾)] [編集室/雑記帳]
エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
[No.26目次] [前頁(すばらしいことばをわたしはいわない)] [次頁(〈近況集〉)]
mail: shimirin@kt.rim.or.jp error report: nyagao@longtail.co.jp