第26号 1999.3.15 220円(税別)

〒154-0016 東京都世田谷区弦巻4-6-18(TEL:03-3428-4134;FAX:03-5450-1846)
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5号分予約1100円(切手可) 編集・発行 清水鱗造
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表紙-タイトな感情-日曜日-共寝-STORMY WEATHER 1990-ベルベット・スカイ-メンソレータム・ラブ・ソング-歩くひと-レンガの家ならへっちゃらさ-旧道-瓶の底-蓋がない-いちごジャムはまぼろし-ない蓋を閉める振りをする-露岩-溶解する冬-コントロール-王國の秤。-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 3-エクスターズの探求者 1-解酲子飲食 5・6・7・8・9-すばらしいことばをわたしはいわない-ハイパーテキストへ 7-〈近況集〉-〈編集後記〉

タイトな感情

森原智子



正月ってなぜか消化が悪い 誰かがどこかで決めていることらしい 広い海面に すべての 船は傾いた形をしたまま とどまって見えるが 本当は 少しずつ動いている 薄い服を キリもなしに脱ぐ 舞台のように それが タイトな感情ほど 気味が悪い 枯れ井戸の底で 羽化遂げる 蝶蝶を見た 欠けた月が出る空の下で 渡っていく 一月の五日間が あるようだ 行ってしまう 死んでいってしまうのだ 両性具有の蝶の股間に 不健康な旅が光り 裏海では どこまでも 幻の藻菊が 未生のものを追っていった


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日曜日

布村浩一



めずらしく店が混んでいる 日曜日だからね ペリカンのような人たちがテーブルの回りに集まって 話をしている 今日は二回 いいことがあった ドラッグストアと この店に入ってきた時と エルビス・プレスリーがかかっている 今日は薄曇り 25度にもいっていない 町は涼しくて 大学通りの北島金物店で 鍵をさげるやつを買った ひっぱるとぐーっと伸びるやつ 交差点のところの煙草屋でパイプも買う 昨日買ったパイプはまずくて吸えない 今日のはまあいける 時々このタバコ屋で買い物をすることになるかもしれない ウェイトレスはニレ?と聞いたが ぼくはカゼブレンドを注文する 日曜日には苦くないコーヒーをたのむのだ 話し声はイヤじゃない じゃまにもならない 大きな音がテーブルの上を弾けている 椅子のこすれる音もいやじゃなかった 桜の葉が夏にいっぱいある 緑の葉がものすごく多い木がそうなのだ 店の前 大学通りの向こう側とこちら側 ずっーと並んで立っている 五時ウェイトレスは歩き回って客に水をつぐ その足音が 話し声のなかで一番よく動く


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共寝

関富士子



合歓の木が川に張り出して繁っているので その全身が水に映る 頬を染める刷毛のような赤い房が 流れにきりなく落ちている さねかずらが土手をおおって 日は明るく影は濃い そこは何年も前に住んでいた家の近くの川で 小さい子供たちがザリガニ釣りをしていたのだが 今は誰もいない声も聞こえない 目覚めるときに 一晩じゅう川のほとりにいたようだ せせらぎにやさしく洗われて満たされている 少し前まではちがった 男が毎晩やってきて朝までわたしを抱きしめた わたしたちは抱き合いながら 口説いたりののしったりするらしかった 言葉はわからないがさまざまな感情に揺さぶられて 眠りながら泣いたり笑ったりした 目覚めると首や背中に抱擁の疲れが残っていて 快楽のあとのように存分に腰が重かった やはりとても幸福だった 男が来なくなってから 合歓の木が現れる 一晩じゅうたえず見ている気がする ときに日がかげり水に映る影はくろずむ 雲が晴れて小さな波がいくつも輝くこともある なんと静かな合歓だろうか ただいつまでも川面に花が落ちるのである


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STORMY WEATHER 1990

夏際敏生



見果てようとまた夜に臨む わたしの不用意を盾に取るのはわたし 寒い昼下がりをだらだら下がって 水際へ、渋らない手を握りに行く 足が足で鈍りがちなもので 陸の魚に尾鰭をつけても足りない 音楽から委曲が消えていった 血は争えることの争えない証拠も上がった 女たちもどうして なかなかに捨てたモノでしたね あしらいばかりが照り輝く月の市街 空の青息吐息で曇る鳥声 わたしは転がったまま雨意を催している この辺で降(ふ)りたい なんとなく山肌が恋しいし どこかの窓ガラスを伝って滴るのもいい 詩の語の抜かさないですむ 順不同も氷れないまま勝手に善がれ


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ベルベット・スカイ

夏際敏生



東の空が鼻白んでいる 語を儚みながら 世を夢みながら ストレリチアも枯れた床で 物質を私するなりなんなりして また一輪の籤を引く 霙が霙でない快不快はあやふやで 恋人も誰ともどちらともつきそうにない その上、この国で踊りといえば(々)くらい この下もない下の下の舞い上がりぶりだし 兄弟は浮かない目線を殖やしながら 明日の左右までも低くする寸法らしい ザ・ベルベット・アンダーグラウンドのように だから水を得ることのない魚のようにしか すでに空気が存在しない 美は存在しない 根っから根無し草の一行(総勢三)を紹介しよう 写真は左から気分、セメント、女レスラー (その時は逆だったはずだが ご笑覧の向きはどうぞご不随意に


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メンソレータム・ラブ・ソング 

青木栄瞳



沁みるよ! ――主語は無い。  世の中って――  本当のような、  ウソのような 話ばかりね。       ウソのような、       本当のような、       世の中って、       本当のような、       ウソのような、       話ばかりだわ! メンソレータム・ラブ・ソング (オリジナル作品であれば、ジャンルは問いません)  ウソのような  本当のような、  猫、    ふんじゃった、  猫、    ふんじゃった。       本当のような       ウソのような、       猫、ばかりね、          本当のような       ウソのような       猫、        ふんじゃった、       猫、        ふんじゃった。       ウソのような       本当のような、       男 ばかりだわ!  本当のような  ウソのような、  話 ばかりね (たどたどしい夢ばかりだわ!) メンソレータム・ラブ・ソング ――「初ミミ」です。 *第3回クロコダイル朗読会のタイトル『水の傷』にあわせて創作。  傷口につけると沁みる軟膏薬「メンソレータム・ラブ」の商品名に、「ラブ・ ソング」を合体させた青木栄瞳流の造語。ちょっと沁みる明るく楽しい恋の歌 である。

1997 9 27



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歩くひと

山本泰生



そよ風をじっとこころに受けている せまい川にかかる橋のうえで 水はぶつかり休みなく滑りおりる 竹と土がむつみあって匂う 影ひとつない明るい河原はふくみ笑う 風の温もりにやわらぐ どこへ向かって歩きだそうか 透き通った川の流れに手をつけると 柔らかい手と触れたようで かつてそんなこともなかったのに ―郷愁― 脈絡もなく これは何だろう この深さはどこから 深い空を仰ぐ ふわりと のみこまれていく 立っているところがぼんやり霞む いるところがなくなっていく だれかのなかに想い出を置き去る ゆっくり痛みを忘れていく ふいに ―貝塚― ことばがばらばらのまま からだに埋まっている なにげなく捨てられたかけらが尖り 肉を傷め 疼く日もある 暗い洞あなで何を思って 毎日の瞬間しゅんかんを過ごしたか 赤い岩のうえで 交わるよろこびも生きたか 遠くへ 山の果てまでさかのぼる 一粒の雨の残留がはじまり ふたつが合わさってしずくになる ちいさく するどく 転がる 孤独な水が流れはじめ 水が走るにつれて やさしい風の声 茅の葉をゆらし 鳥の羽を撫で こころの隅々までしみる このこころのどこかに ―隠れ家― らしきものがあっていい 自身だけでなく 得体の知れない者も来たり ちがう者どうし 背中を合わせてあたためあおう 夢が熱いバトンをうけわたそう しかし 次の走者がいない 家は地図にない 扉もない 戸外はこんなに賑わっているのに ほてる季節だから からだが風を吸っている からだが蛍火に似て浮く ふる郷に住みつづけながら ふる郷を訪ねる 訪ねあぐねる 憶い出せないがここではない 郷愁のかすかな道 歩むひとは疲れている それでも


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レンガの家ならへっちゃらさ

丁田杵子



 ひるまおうちにいたときにたずねていらしたおきゃくさま、ドアもあけずにつっけんどんにおいはらってごめんなさい、きっとあなたもおしごとだったのですね、はんせいしてます。
 こんどおいでになるときは、ピンポンピンポンにぎやかにチャイムをおしたりなさらずに、「あけておくれ、おかあさんだよ」と、7ひきのこやぎをねらったおおかみさんのように、うっとりするようなこわいろをつかわれてはいかがでしょう。
 しっそなアパートでございますから、こぶた3きょうだいのうえのにいさんのワラのおうちみたいに「こんなうち、ぴゅーぴゅーぴゅーだ」と、ふきとばしてしまわれるのもかっこいいかもしれません。
 だけど、わたしはとっくにいたいけなこやぎでも、おちゃめなこぶたでもありませんので、あかずきんちゃんのおばあちゃんみたいに、おきゃくさまはれいぎただしくおむかえして、ぱくりとたべられてしまわないとかわいげないかもしれませんので、やっぱりはんせいします。このとしごろは、いろいろやりにくいのです。


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旧道

谷元益男



ここから少しにぎやかな その地まで いつも 国道を走っていく 車が混み合い 時間がかかるので 別の道を捜そうか 車は家族をのせて狭い道を 走り出した 当たり前だけど 道はどこかと必ず繋っているよ 生まれは南の端だが そことも切れずに何かが 流れている 乗り物だけでなく―― あどけない幼心が出発した あの土地から 体の中を走ることを おもっている いろんな道を捜して 新道だと 思って 徐々に頭部にのぼってくる 幼心を 見失ったとき 道は死ぬんだね ――背後で幼い子の声がする


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「清水鱗造・週刊詩」より
1996年からほぼ毎週一篇をホームページに発表してきた。
最近作を紙版にも掲載してみることにした。

瓶の底(1998.11.17)

清水鱗造



誰もいない 両側に木々がある道 瓶の底 微かに乾いた澱 ジャムの瓶 破線のように散るもの 沈んだ藪 雲が 瓶の上の 宙に しんしんと


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蓋がない(1998.11.24)

清水鱗造



蓋は僕が開ける 空気は耳から抜けるような すーっと音にならない音で 瓶から移動する たぶん 瓶には僕が目を凝らす 45度前方のテーブルまでの空と 同じものを宿す 蓋がない 蓋が夢になる そう 蓋が夢なんて 蓋が


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いちごジャムはまぼろし(1998.12.1)

清水鱗造



ところで 開ける蓋はない 手で 蓋ぐらいの輪を作り 反時計回りにまわす振りをする 砂の半分埋まる瓶を 拾ってきて いちごジャム遊びをする だから ジャムはない カチカチとナイフが瓶の内面に触れる音がする いちごジャムはまぼろし


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ない蓋を閉める振りをする(1998.12.8)

清水鱗造



よーっと駅で手を上げると わたしは蓋がないことに気づく (変に大人 やっと気づくなんて ペンペン草は 瓶のペンペン草は 下手な絵を描きはじめる それがね 完全にピカソよりいい 蓋がないから (大人...


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露岩(1998.12.22)

清水鱗造



突き出た岩は 骨折した骨のように ぎざぎざに 雲の前景にある 日は尖る耳のあたりから 徐々に晒され やがて鉄が打ち込まれ ねばねばしたものが凍るだろう 髭の毛先の水の 結晶が ちらちらと汚れた靴に落ちるだろう


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溶解する冬(1998.12.29)

清水鱗造



じっと見ていると 葉の上に街が展開される それは放浪者が見る 幻視に似ていなくもない 溶解する冬は それは まぼろしと 播種に似ている


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コントロール

長尾高弘



止まりなさい 止まりなさい そこで止まりなさい そこで止まるんだ! 言われたら すぐに言われたとおりにしなさい 止まりましたか? そこがあなたの死に場所です いやだ? でもあなたは 必要とされていないのです あなた以外のだれからも あなたはあなたを必要としていますか? いらないでしょう だれからも必要とされていないのだから でも あなたのからだの 一つ一つの部品は 必要です 必要とされている 人を生かすために ですから あなたの死は コントロールされなければ なりません 部品を損なうような 死に方は 認められません しかしあなたにも一つだけ 選択権を与えましょう 殺されるか 自分で死ぬか どちらにしても このロープを使うことにします 決まりましたか? それでは 一 二 三 初出: http://www.longtail.co.jp/poetryd/ 1998年9月17日付け


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王國の秤。

田中宏輔



きみの王國と、ぼくの王國を秤(はかり)に載せてみようよ。 新しい王國のために、頭の上に亀をのっけて 哲学者たちが車座になって議論している。 百の議論よりも、百の戦さの方が正しいと 将軍たちは、哲学者たちに訴える。 亀を頭の上にのっけてると憂鬱である。 ソクラテスに似た顔の哲学者が 頭の上の亀を降ろして立ち上がった。 この人の欠点は この人が歩くと うんこが歩いているようにしか見えないこと。 「おいしいお店」って 本にのってる中華料理屋さんの前で 子供が叱られてた。 ちゃんとあやまりなさいって言われて。 口をとがらせて言い訳する子供のほっぺた目がけて ズゴッと一発、 お母さんは、げんこつをくらわせた。 情け容赦のない一撃だった。 喫茶店で隣に腰かけてた高校生ぐらいの男の子が 女性週刊誌に見入っていた。 生理用ナプキンの広告だった。 映画館で映写技師のバイトをしてるヒロくんは 気に入った映画のフィルムをコレクトしてる。 ほんとは、してはいけないことだけど ちょっとぐらいは、みんなしてるって言ってた。 その小さなフィルムのうつくしいこと。 それで いろんなところで上映されるたびに 映画が短くなってくってわけね。 銀行で、女性週刊誌を読んだ。 サンフランシスコの病院の話だけど 集中治療室に新しい患者が運ばれてきて その患者がその日のうちに死ぬかどうか 看護婦たちが賭をしていたという。 「死ぬのはいつも他人」って、だれかの言葉にあったけど ほんとに、そうなのね。 授業中に質問されて答えられなかった先生が 教室の真ん中で首をくくられて殺された。 腕や足にもロープを巻かれて。 生徒たちが思い思いにロープを引っ張ると 手や足がヒクヒク動く。 ボルヘスの詩に 複数の〈わたし〉という言葉があるけど それって、わたしたちってことかしら。 それとも、ボルヘスだから、ボルヘスズかしら。 林(はや)っちゃんは、 毎年、年賀状を300枚以上も書くって言ってた。 ぼくは、せいぜい50枚しか書かないけど それでもたいへんで 最後の一枚は、いつも大晦日になってしまう。 いらない平和がやってきて どぼどぼ涙がこぼれる。 実物大の偽善である。 前に付き合ってたシンジくんが 何か詩を読ませてって言うから 「月下の一群」を渡して、いっしょに読んだ。 ギー・シャルル・クロスの『さびしさ』を読んで これがいちばん好き ぼくも、こんな気持ちで人と付き合ってきたの って言うと シンジくんが、ぼくに言った。 自分を他人としてしか生きられないんだねって。 うまいこと言うのねって思わず口にしたけど ほんとのところ、 意味はよくわかんなかった。 扇風機の真ん中のところに鉛筆の先をあてると たちまち黒くなる。 だれに教えてもらったってわけじゃないけど 友だちの何人かも、したことあるって言ってた。 みんな、すごく叱られたらしい。 子どものときの話を、ノブユキがしてくれた。 団地に住んでた友だちがよくしてた遊びだけど ほら、あのエア・ダストを送るパイプかなんか ベランダにある、あのふっといパイプね。 あれをつたって5階や6階から つるつるつるーって、すべり下りるの。 怖いから、ぼくはしないで見てただけだけど。 団地の子は違うなって、そう思って見てた。 ノブユキの言葉は、ときどき痛かった。 ぼくはノブユキになりたいと思った。 鳥を食らわば鳥籠まで。 住めば鳥籠。 耳に鳥ができる。 人の鳥籠で相撲を取る。 気違いに鳥籠。 鳥を牛と言う。 叩けば鳥が出る。 鳥多くして、鳥籠山に登る。 高校二年のときに、家出したことがあるんだけど 電車の窓から眺めた景色が忘れられない。 真緑の なだらかな丘の上で 男の子が、とんぼ返りをしてみせてた。 たぶん、お母さんやお姉さんだと思うけど 彼女たちの前で、何度も、とんぼ返りをしてみせた。 遠かったから、はっきり顔は見えなかったけれど ほこらしげな感じだけは伝わってきた。 思い出したくなかったけれど 思い出したくなかったのだけれど ぼくは、むかし あんな子どもになりたかった。

(『陽の埋葬・先駆形』)



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翻訳詩
ウィリアム・ブレイク 『無垢と経験のうた』―人間の相反する二つの精神状態を示す─ 連載第三回

訳 長尾高弘



(承前)

 迷子になった女の子

預言者である私には見える。
将来
地は眠りから
(この文字を深く刻み込め)

目覚め、彼女の穏やかな
造り主を探し求める。
そして不毛の荒野は
穏やかな庭園になるだろう。
 --------------------
強い夏が
決して衰えを見せない
南の国で
かわいいライカが横になっている。

七つの夏を数えた
かわいいライカ。
怖い鳥の声をききながら
長い間歩いてきた。

この木のしたにきたら
眠くなってうとうとしだしたの。
お父さんとお母さんが泣いている--
ライカはどこで寝ているんだろう。

不毛の荒野で道に迷ったのは
お父さんとお母さんの子。
お母さんが泣いているのに、
どうしてライカが眠れるでしょう。

お母さんの心が痛んでいるなら、
ライカを起こしてください。
お母さんが眠っているなら、
ライカは泣かないわ。

まぶしい荒野を覆い隠す
不機嫌で暗い夜。お願いだから
私が目を閉じている間、
月を上らせていて。

ライカが横になって眠っていると、
深い洞穴から
猛獣たちが出てきて、
眠っている娘を見た。

獅子の王が立ち
少女を見下ろした、
そして聖別された地で
踊りまわった。

横になっている彼女のまわりで
豹や虎もはしゃぎまわった。
年老いた獅子は
黄金の鬣をかがめ、

彼女の胸をなめ
首のまわりをなめた。
獅子の燃える目から
ルビーの涙が流れ落ちた。

獅子の女王は娘の
粗末な衣装を脱がせ、
裸にして、眠っている娘を
自分たちの洞穴に運んでいった。


 見つかった女の子

ライカの二親は
目を泣きはらして、
夜通し深い谷を進んだ。
荒野は泣いていた。

歎きのあまり疲れはてやつれはて、
声は枯れはてた。
手に手をとって七日間、
二人は砂漠の道をたどった。

深い影のもとで、
七夜を過ごし夢を見た。
二人の娘は荒れ果てた砂漠で
おなかをすかせていた。

夢に現れた娘の幻は
道なき道をさまよい、
飢え、泣き、弱り、
あわれな声で叫んでいた。

女は身震いして
休まらぬままに起き上がった。
悲しみに疲れ果てた足では
もう一歩も先に進めなかった。

悲しみに震える女を
男は両腕で抱きかかえた。
ふと気が付くと
目の前に獅子が横たわっていた。

戻ろうとしてももう遅い。
重々しい鬣に気おされて
二人は地にひれ伏した。
獅子は餌食のにおいをかぎながら

二人のまわりを歩きまわった。
しかし獅子が二人の手をなめたとき
二人の恐怖はやわらいだ。
獅子はただ静かに立っていた。

二人は深い驚きに満たされて
獅子の目を見上げた。
金色に輝く精霊を
不思議な思いで眺めた。

獅子の頭には冠
肩には流れる
金の鬣。
二人の怖れは完全に消えた。

獅子は言った。私についてきなさい。
娘のために泣く必要はない。
ライカは私の宮殿の奥深くで
ぐっすり眠っている。

そして二人は
ビジョンが導くままに従った。
荒々しい虎に囲まれて
娘が眠っているのを見た。

彼らは今も
寂しい谷間に住んでいる。
狼の吠える声にも
獅子のうなる声にも恐れることなく。


 煙突掃除の少年

雪のなかに小さな黒いもの。
悲しい調べでそうじ、そうじと叫んでいる!
お父さんやお母さんはどこにいるんだ? え?
二人はお祈りのために教会へ。

荒野で幸せそうにしていたから、
寒い雪のなかで笑っていたから、
二人は死の衣装で子どもの身をくるみ、
悲しい調べのうたを教えた。

子どもがうたって踊って幸せそうだから
二人は我が子を傷つけたなんて思っていない
そして神と司祭と王を称えに行った
我らの悲惨から天国を作った者たちを称えに


 乳母のうた

子どもたちの声が緑に響き
ささやきが谷をうめつくすとき、
若き日の思い出が鮮やかに蘇り
私のほほは妬みに青ざめる。

日は沈んだ、夜露も浮かぶ
子どもたち帰っておいで。
遊んでいるうちに春も昼も消え失せる
冬と夜は偽りのうちに費やされる。


 病める薔薇

おお、薔薇よ、病める美。
嵐の夜、うなる風に
飛ばされてきた
目に見えない虫が

お前の深紅の歓びに酔い
住みついてしまった。
彼の暗いひそかな愛が
お前の命を確実に奪う。


 蝿

なあ、蝿よ
今、おれの手は
何も考えずにお前の夏の歓びを
吹き払っちまったが、

おれはおまえのような
蝿なのではなかろうか?
おまえはおれのような
人間なのではなかろうか?

おれが歌って踊って
酒を飲んでいられるのも、
目の見えない何者かの手が
おれの羽を引っこ抜くまでのことさ。

思考が生命で
息で強さなのだとすれば、
思考が足りないのは
死んでるってことなら、

それじゃおれは
幸せな蝿になろう。
生きているなら、
死んじまうなら。


 天使

私は夢を夢見た! それに何の意味があろうか?
私は処女の女王で
優しい天使に守られていたが
愚かな悩みは決していやされなかった!

そして私は夜も昼も泣いた
天使は私の涙をぬぐってくれた
それでも私は泣き続けた
私の心の歓びは閉ざされてしまった

天使は羽をつけて逃げていった。
そして赤い薔薇のように真っ赤な朝。
私は涙をぬぐい、万の槍と盾で
怖れを守り固めた。

天使はすぐに帰ってきたが、
私の守りは固く、入ってこれなかった。
若き日は逃れ去り
髪は灰色になっていた。


 虎

虎。それは夜の深い森に
燃え輝くシンメトリ。
この恐怖のかたちをあえて作った
不死の手、不死の眼はいかなる存在なのか?

虎の眼が焼き焦がした深さ
空の高さはどこまで果てしないのか?
神はどんな翼で天にかけ上がり
どんな手でその火をつかんできたのか?

力強い心臓を支えるのは
どんな肩、どんなわざなのか?
その心臓が鼓動を刻みだしたとき
四肢がかくも恐ろしく躍動するのはなぜなのか?

鋭い頭のかたちを鍛えたのは、どんな槌、どんな鎖
どんなかまどとどんな鉄床なのか?
恐ろしい形をあえてつかんだその手より
恐ろしいものはいったいあるのだろうか?

星々が輝く槍の雨を降らせ
涙で天をあふれさせたとき
神はそれを見て満足の笑みをもらしたのか?
この恐怖を作った神は本当に羊を作った神なのだろうか?

虎。それは夜の深い森に
燃え輝くシンメトリ。
この恐怖のかたちをあえて作った
不死の手、不死の眼はいかなる存在なのか?


 私のかわいい薔薇の木

花をあげようというのだった。
五月さえも生み出せない素敵な花、
しかしかわいい薔薇の木がありますから
と言ってその花はやり過ごしたのだ。

そして私のかわいい薔薇の木に向かい、
昼となく夜となくかわいがった。
しかし薔薇はやきもちやいてそっぽを向いた。
私の歓びときたら彼女のとげばかり。


 ああ、ひまわりよ

ああ、時に倦んだひまわりよ!
旅人が旅を終える
甘い黄金の土地を求めて、
日の歩みを数えるもの。

望みを奪われた若者と
雪に覆われた乙女が
墓場からふらふらと立ち上がるところ。
お前はそんなところに行きたいのか。


表紙-タイトな感情-日曜日-共寝-STORMY WEATHER 1990-ベルベット・スカイ-メンソレータム・ラブ・ソング-歩くひと-レンガの家ならへっちゃらさ-旧道-瓶の底-蓋がない-いちごジャムはまぼろし-ない蓋を閉める振りをする-露岩-溶解する冬-コントロール-王國の秤。-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 3-エクスターズの探求者 1-解酲子飲食 5・6・7・8・9-すばらしいことばをわたしはいわない-ハイパーテキストへ 7-〈近況集〉-〈編集後記〉

バタイユ・ノートV
エクスターズの探求者 連載第1回

吉田裕



1 前歴
 バタイユ・ノートのIVを先回で終えて、Vに入ろうとするのだが、その前に、自分がこれまでバタイユをどのように読んできたのか、そしてこれからどのように読もうとするのか、自分の位置を確かめてみたいと思う。
 私はバタイユについての興味は学生時代からあって、少しづつ読んではいたが、書こうとすることはなかった。とても自分に扱えるような作家ではないと思っていたからである。それが書くことになったのは、築山登美夫が自分の雑誌「なだぐれあ」で、ポルノグラフィの特集をやるというので、バタイユには未完だがまだいくつか未訳の小説があるよ、と言ったところ、それを訳し、解説を付ける仕事をやらないかと誘われたのがはじまりである。それで「シャルロット・ダンジェルヴィル」を訳し、解説を書いた。「なだぐれあ」は途中で休刊になり、計画したものを全部出すことはできなかったが、出来上がっていた訳と論文を、彼が出版社に紹介してくれ、「シャルロット」と「聖女」の訳に、『マダム・エドワルダ』まで遡り、『わが母』を含む「聖ナル神」の全体に触れる論文を合わせて、『聖女たち』の題で本をまとめることが出来た。これは私のバタイユに対する最初の接点であり、以後のための橋頭堡となった。
 ただ「聖ナル神」は、魅力的とはいえ、バタイユという巨大な全体の露岩の一つであることはよくわかっていた。だからその次には、もう少し持続的な触れ方をしてみたかった。それで設定したのが、ニーチェ論を読み連ねることである。バタイユは生涯を通じてニーチェ論について言及し、抜き出してみると論文は二十を越えるので、それらを読むことで、自分の持つバタイユのイメージに一本の筋道を通せるのではないかと考えた。この時清水鱗造氏から誘いを受け、「ブービー・トラップ」に連載の場をもらって、それを実現することが出来た。これがバタイユ・ノートのII「バタイユはニーチェをどう読んだか」である。目論見は、半分当たり、半分外れた。宗教的なエクスターズを求める探求、ファシスム批判については、ニーチェ論に視点を置くことでかなりの程度をカバーできる。しかし、有り体に言えば、戦後のニーチェ論は、このような集中力を持っていないと見えた。もし哲学だけで言うとすれば、戦後のバタイユが主な参照対象とするのは、ヘーゲルの方であろう。ただ一九四五年くらいまでのバタイユについては、ニーチェ論を読むつなぐことで、ほぼイメージを持つことが出来たように思う。ついでに言っておけば、戦後のバタイユは、私にとっては、いくつかの例外――先に触れた「聖ナル神」あたり――を除いて、ほとんど未知の領域である。どちらかと言えば私は、戦後のバタイユよりも、戦前から戦中までのバタイユのほうに引かれる。後期は確かに収穫期だが、それよりも放蕩と政治に同時に深入りし、訳の分からぬ宗教的実験に邁進し、まとまる当てもない論文を書き散らしていたバタイユが好きである。またバタイユの読者の関心は、多くの場合は思想的な著作、特に挙げるとすれば『内的体験』当たりに集中し、小説は省みられることが少ないのだが、私は彼の小説は好きである。
 バタイユのありようは捉えがたいが、ニーチェ論に視点を置くことでいくらか鮮明なイメージを結ぶようになった。私に見えてきたのは、もっとも鋭い場合には政治的なかたちをとる現実に向かう関心と内的体験となる宗教的な探求との二つに引き裂かれている作家の姿である。これはある人には、前者から後者へと継起的に起こったように見えるらしいが、私には、いくらか時間的にずれがあることは本当だとしても、二つはほぼ同時的で、複合的に関係していると、すなわち二つを一体のものとして捉えなければ、どちらも本当の姿が見えてこない、と思えた。私にとってこうした考えは、必ずしもバタイユひとりに触発されて出てきたものではない。たぶんずっと前から考え、また書いてきたことでもある。必要とあれば、バタイユ論の中で、これまで他の作家について書いてきたのと同じことを繰り返しているのを、自分で指摘することができるだろう。自分の内部と外部を一体のものとして捉えたいというのは、私自身の根本の願望であって、その願望に動かされた記述は、私のバタイユ論のいたるところで目につく。だがそれは、私がバタイユについて書いていることが、できあがった考えかたの応用編であるというのではない。私の願望は、バタイユを読むことでいっそう明らかになってきたのであり、この点でバタイユは、私にとって、またとない試薬になったということだ。
 便宜上簡略化して、内と外という言い方をすることにする。私はこの二つのイメージをともに手放さないようにしようとしたが、しかしながら、実際に書こうとするときには、テーマを一つに限定せざるを得ないことはある。私が次に選んだのは、バタイユにとってのシュルレアリスムという問題であった。この頃私はともかくバタイユを全部読んでやろうという気持ちになり、そのために、一番常套的な手段だが、ともかく彼が書いた順に著作を読もうと考えたのだったし、シュルレアリスムというテーマは、二〇年代をほぼ網羅するものだったからである。これがバタイユ・ノートのIII「バタイユ・マテリアリスト」となった。書き始めたときは、ただ初期の活動の一つを確認することが目標だった。シュルレアリスムのような運動体は、人間関係を頭に入れるだけでも難しいのだ。だが書くことでわかってきたのは、バタイユの中に物質への異様なまでの関心と、それと一体になってイデアリスムに対する激しい憎悪があることだった。それはある程度予想していたことだが、これほどまでに強烈であるとは知らなかったというのが本当である。そしてもう一つには、物質へのこの関心が、異質学というさほど展開されず、したがってあまり知られることのない試みを経て、政治的な関心の原理にまで届いていることが見えてきた。
 その延長上で、コントル・アタックに行きつく三〇年代の彼の政治的闘争を読むこととなった。それがノートのIV「政治の中のバタイユ」で、そこではコミュニスムとファシスムに関してバタイユ個人が問題にならないところまで叙述を拡げなければならなかったが、それによって「外」を拡大することができたと思う(「ユリイカ」の『青空』論もその一環で、これらを近々本にまとめるつもりでいる)。私のイメージでは、物質と政治は、位相を異にし、ずれながらも、重なり合い、共通する原理に貫かれている。そしてこの原理は、物質から政治へと堀削されたことにより、その反対側、すなわち「内」の側にも展開され、しかも前者が広くなればそれだけ後者も深くなる、と思えるのだ。

2 供犠とカトリシスム
 こうして私は今一九四五年以前という限定つきだが、「内」について書こうとするところまで来た。だが「内」とは何だろうか? それはバタイユにおいて宗教的な経験のことであろう。彼は宗教に対する強烈な批判者でもあったから、宗教的という言葉は適合しないが、それでもとりあえず宗教的と言っておこう。しかし、宗教も、主題と言うにはあまりに漠然としていて、書き始めるにはもっと個別的な限定が必要だろう。宗教の内部でもっと限定された主題としては、何が浮かんでくるだろうか? たとえばキリスト教批判、神秘主義、ヨガや禅との修練、アセファルの実験、宗教社会学の摂取、内的体験、等々。そのなかから、私はまず「供犠」という問題を設定してみたい。なぜなら、供犠とは、バタイユが宗教的行為の中心にあると考えていたものであるようだし、また彼の全集を読んでいくと、もっとも多くの場所で出てくるものであると見えるからだ。アズテカの太陽神への数千人を捧げる儀式から受けた衝撃、宗教社会学への関心、ゴッホら自己毀損者を供犠の視点から読みとること、三〇年代のマソンとの画集「供犠」の共同作業、アセファルの実験、「死を前にしての歓喜の実践」、神の殺害者ニーチェの背後に供犠の姿があること、ヘーゲル論「死と供犠」すなわちヘーゲルが供犠の関心から読まれていること、もちろん内的体験、等々。内的体験は、たぶんバタイユにおける供犠的な経験のもっとも先鋭な姿だが、それを最初から持ち出すことはしない。なぜならそれをすると、問題がほぼ『内的体験』という書物に限られてしまうからだ。無論これは重要な書物であって、供犠の問題を辿っていくとその頂点にこの書物に収束していくのだが、それでもそこに至る過程も視野に入れるためには、まず供犠を主題とした方がよいように思われる。また内的体験は変化していく(そう私には見えるのだが)が、それを確かめるためには、その発端からはじめて基本的な構造を見ていくことが必要であると思われる。
 だから今私はこの探求を、概略的には供犠から内的体験へというかたちで想定する。だが、バタイユの宗教という問題を検討するためには、供犠を出発点とするとしても、実はその前に、もう一つ準備作業を行うことが必要である。それは言ってみればバタイユの宗教的気質の問題、具体的に言うと「ランスのノートルダム」とほかいくつかのテキストが提示してくる問題である。
「ランスのノートルダム」*1とは、一九一八年、二十一歳の時に書かれたものであって、バタイユの手になるものとしては、残っている最初の著作である。ランスは北仏にある町で、彼は中部のビヨンという町に生まれたが、四歳の時にそこに転居し、パリに出るまで暮らす。彼はこの町で第一次大戦に遭遇する。その時のことは、後に『眼球譚』で語られるが、それよれば、ドイツ軍の包囲下の町に盲目で半身不随の父親を残して母とともに避難し、その間に父親は死ぬ。そのことは彼に深い傷となって残るが、この戦争中に、町にあった有名な大聖堂がフランス軍の観的哨として使われ、そのためにドイツ軍の砲撃を受け、会堂の部分を破壊される。戦後これを再建する運動が起こり、当時バタイユは・サン・フルールの神学校にいたが、一役買って、再建運動への協力を呼びかけるパンフレットを起草したのである。
 このパンフレットを読むと、聖堂の建築によって大戦で荒廃した精神を立て直そうと訴える敬虔と言うほかない青年の姿が現れてくるのだが、問題となるのは、後年のバタイユはこれについては完全な沈黙を守ったという点である。この文書の存在が明らかにされるのは、彼の死後、古文書学校時代のバタイユの友人であったアンドレ・マソン(画家のマソンとは同姓同名の別人)が書いた書いた追悼記(一九六四年)の中で、そのような文書があったらしいことを回想したからである。文書は数年たってようやく発見される。生前それほど著名だったとも思われないのに、バタイユは自分の草稿類を執拗なまでに保存したが、それと較べるとこれほどの隠蔽のしかたは注目を引く。だがこれを実際に読んでみると、彼が隠そうとした理由はむしろ単純だと思える。この敬虔ぶりは、以後激烈なキリスト教批判者となった人間から見れば、若年の迷妄とは言わないにしても、一時の姿にすぎないと見えたに違いない。彼は聖堂が象徴する天空へ向かう志向を称揚したが、それは十年後のドキュマンでは完全に転倒され、大地と暗闇への志向が宣言されるからである。
 それにこの論文には、キリスト教のみならず、フランスという風土の称揚すらある。ランスの大聖堂はゴチック様式の代表とされるが、ランスの聖堂が持つのは、ただ美術的な価値だけではない。ランスの町は、四九六年にフランク王国の建設者であったクロヴィスがカトリックに改宗し、戴冠式を挙げた町であり、聖堂はその由来を背負って建設され、以後歴代のフランス国王は、ここで戴冠式を挙げなければフランスの国王とはみなされないという由緒ある聖堂であった。ジャンヌ・ダルクがシャルル七世を戴冠させたのもここである。だからランスの聖堂を再建するというのは、フランス精神の再建という意味を伴っていたのであって、それはやはり後年の民族や土地に対する民族主義的固着――ナチスムの標語の一つは「血と土」というものだった――を激しく批判してきた人間にとっては、許容できないものだったのだろう。
 この著作をどう受け取るか。これは以後のバタイユの著作全体からすると異物のようなものであって、バタイユ自身がしたように目をつぶってしまうと、一貫したイメージが結びやすくなるのだが、今は知らぬふりをして通すことは出来ない。少なくともバタイユの宗教的探求を辿ろうとするときには、どう読むかを提出しておかねばなるまい。ある人々は彼のこの「処女作」を重要視し、そこに後年の彼の全思想の萌芽を読みとろうとする。「処女作」、とりわけ秘められてきた「処女作」については、それを大きく取り上げようとする傾向が働くのだろう。だが私はこのような読み方に対しては用心したい。この著作から見えてくるのは、彼が宗教的な傾向、すなわち個体あるいは合理性という限界を超えようとする傾向を強く持っていたという点である。このことは最低限確かであって、それを読みとることは十分妥当だと、わたしには思われる。そしてこのような傾向は、少年期までの間では育った環境から大きく限定されるために、バタイユの場合はカトリックの伝統に接近するほかなかったということだ。
 以後の彼の過程は、この最初の限定をいかにして乗り越えるかという方向に向けられる。だがそれはうまくいったかどうか。「ランスのノートルダム」を読むと、私はもう一つの後期のあるテキストを思い出す。後年のバタイユは、時に不用心なと思えるようなやり方で「神」という言葉を使うことがあって、これは当時のバタイユの友人や数少ない読者を関心を引き、あるいは苛立たせることがあったようだ。一九四八年に彼は「シュルレアリスム的宗教」*2という題の講演をし、後で討論が行われたが、そのなかでクロソウスキーが単刀直入に「あなたはカトリックでしょう」と尋ねている。それに対するバタイユの答は、次のようである。「私がカトリックですって? 反論はいたしません。なぜならなにも言うことはないからです。私はひとがそう考えてくれなら何者でもあってもいいのです」と答えている。だがクロソウスキーは、当然ながらこの答には満足できなかったようで、しばらくあとに同じ問を繰り返している。「私は時に触れて、あなたのことをカトリックだと思ったことがあります」。これに対するバタイユの答は次のようである。「私は、私がカトリックだという評価に抗議しようとは思いません。全く支持できないことを言われたときには、私は答えることをしないのです」。
 これは文字通りに取れば、自分のことをカトリックだというような下らぬ問いには答えないと言うことである。だが見ようによっては、この問いに自分は答えようがないのだとも言っているように見える。またそもそも、一人のフランス人がもう一人のフランス人に、あなたはカトリックだろう、と言うとき、とりわけクロソウスキーのような人がバタイユのような人に向かって言うとき、どのような意味が込められているのか? 私にはにわかには推測がつかない。もし問が、信仰を持っているかどうかという意味だったら、あなたはクリスチャンだろう、というかたちを取った野ではないか? そうだとすれば、あなたはかとりっくだろうという問の意味は、あなたはプロテスタントではなくカトリックだということだったのだろうか。そうだとすると、ほかに少し考えるところがある。
 カトリシスムとプロテスタンティスムの違いは、バタイユにとってきわめて大きな問題であった。たとえば、バタイユの歴史認識では、近代の最大の転換点は、ルネサンスでも、アメリカ独立でも、フランス革命でも、産業革命でもなく、宗教改革なのである。プロテスタンティスムは、教会の権威に頼らず、神を内面化し、神と個人が直結しうることを教えた。それは人間の個人としての存在が重きをなすようになった近代が必要とし、また可能にした信仰の形態であった。そこから振り返ってみると、カトリシスムは、イエスの十字架上の死を共同で経験することによって成立する共同体すなわち教会を不可欠とし、それを聖餐式として繰り返す宗教、後に彼が非生産的消費と呼ぶ共同での生命の濫費を条件とし、古代の遺風を色濃く残す宗教であった。
 ところで、バタイユはそう見ていたと思えるのだが、カトリシスムの信仰の中心にあるのは、聖餐式であり、すなわち反復されるイエスの処刑である。するとこれは供犠なのだ。供犠への関心というのは、とりわけカトリック的な関心ではないのか。クロソウスキーがバタイユに言ったカトリックというのは、このような関心の持ち方だったのだろうか?
 だが供犠とカトリックを結ぶことは、前者が後者に含まれるということではない。クロソウスキーの尋ね方にはむしろそのような見方が感じられるが、バタイユにおいてはそれは逆で、供犠のほうがカトリックよりはるかに大きい概念であると設定されていたように思える。この違いがバタイユの木で鼻をくくったような答の理由ではないのか? 単純な見方をすれば、供犠は世界のほぼすべての原始的宗教に見られるものであり、その点からはイエスの死も一例にすぎず、だからイエスの死を供犠へと一般化することで、カトリックそしてキリスト教の限定を越えることが出来ると考えられていたのではないか? 先に私は、供犠から出発して内的体験にいたるというのを、今回のノートの仮説だとしたが、今はこのプロセスの前にもう一つ、カトリックあるいはキリスト教という段階を加えるべきかもしれない。カトリック的な出自を乗り越えるために、供犠に関心を集中したというのは言い過ぎだろうが、供犠に対する関心の中には、それがカトリシスムを相対化し、越えるための強力な一助になるという考えはあったに違いない。また供犠に対する関心は、すなわち彼が生来残酷さへの強い関心の持ち主だったということではなく、カトリック的な素養が作用していたとは言えるかもしれない。そして彼がカトリシスムあるいはキリスト教を乗り越えるとしたら、それはヨガや禅のようなほかの宗教、あるいは唯物論を対置し、横にずれて乗り移るのではなく、供犠から内的体験へというプロセスのうえで前方に向かって乗り越えられたのだ。この仮説の下に、今しばらく彼の供犠に対する関心を探ってみたい。

*1「ユリイカ」九七年七月号掲載。酒井訳。
*2ガリマール版全集第七巻、三九六ページから九七ページ。未訳。


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解酲子飲食 5・6・7・8・9

倉田良成



銀座のアマダイ

 宰相のせがれで文学者の故・吉田健一氏がその名を聞くと取り乱したものは鰯だったが、私が取り乱すのはさしずめ甘鯛だ。関西でグジと呼ぶこの魚の身はきわめて濃やかで女性的で最後の皮まで舌にからみついてきて、食い終わったあとにはなんだか大いくさをした気分になる。あの震災前の神戸でこれの酒蒸しを試みたときは、眼のしたの頬肉を友達に取られて本気で恨めしく思った。若狭グジというくらいで、関西だけのものかと考えていたら最近では(といってもここ十年ほど)築地にも静岡産のものが入っているようで、銀座の魚屋でこれの西京漬けを見つけたときはうれしかった。だがしかし予約制で片身売りで片身七千円はおいそれとは手が出ない。ある年の春先、珍しく切り身で甘鯛が置いてったので購入に及んだ。包んでくれるとき「好きな客は生の身にみそだけ塗って焼くんだぜ」と言ったおやじの顔が甘鯛に見えてきたのは春の幻だったのか。


豆腐礼賛

 豆腐についてはどこの何と言いたくない心持ちだ。雑誌ライターの磯山久美子姐さんの持論では豆腐屋が二軒以上ある街はいいところだそうだが、豆腐屋でなくとも近ごろのスーパーは選択肢が増えて少し出せばかなりの佳品が手に入るようになった。ただし一丁千円というのはあれは豆腐じゃない。また、夏のざる豆腐の甘さや冬の湯豆腐の滋味はわざわざ店へ行って味わう性質のものではない気がする。青木正児(まさる)先生によって知ったのだが、明代の文集のなかに「豆腐三徳賛」というのがあって、そのどこから食べてもよいのが徳の一、その思う存分噛めるところが徳の二、さっぱりして生臭くないのが徳の三だそうだ。最後のさっぱりしてというのも注釈が入り用で、モノによっては下手なチーズどころではない味を持つ類がある。こうなると、久保田万太郎翁のかの「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の豆腐もなんだか濃厚なものに見えてくるのは当方のひがめか。


発酵食品考

 酒を嚆矢とする発酵食品の類は耕作文化の発生とともにあって、そんな大げさな話でなくてもある種の酒や味噌なしで生活は考えられないという地方や家庭は多い。そのにおいや食味の科学的な説明は坂口謹一郎先生の天国での講義にお任せして、酒はまあ別格としてもたしかに味噌や塩辛やその一種であるクサヤなどには魔味というべきものがある。いつかテレビで極地のイヌイットを映した番組があったが、初老で独身だというその男は酷寒の冬の夜のテントで「おれにはこれが楽しみなんだ」と言って何かのスピリッツをやりながらツグミみたいな小鳥の塩辛をむさぼり食っていたが、あれはずいぶん臭そうで迫力があった。若いころ、金も立場もなくなって親戚の惻隠の情を見当に転がり込んだ地方で、みんなが寝静まった夜半、最明寺殿を気取ったわけではもちろんないが、一合の酒のアテに小葱と削り節をたたいて混ぜた葱味噌の味が忘れられない。


彼岸のモロコ

 どうしたはずみでか友人と二人で奈良のもう一人の友人のところへ遊びに行ったことがある。大阪を経由したのだがとんだ弥次喜多道中で、法善寺横丁の焼鳥屋で異様に上質のコモカブリを出すので警戒しながら杯を重ねていったら(鶉や鴨や地鶏で)、二人で二万円弱という変なボラレ方をした(もしかしたら、ボラレてはいなかったのかもしれない)。そんなこんなで翌日は二日酔いで、酒は飲まないのに車で案内をするのが大好きという、われわれにとっては神様のような奇特な奈良の友人のハンドルで大津へ行った。石山寺や三井寺を回る途中「ここ、知っとる」という私設運転手のひと声でモロコの炭火焼きを食わせる店に入ったのだが、ざるに並べられたモロコは銀の腹にコを持っていて、あぶったやつを酢醤油だけでほおばる昼酒の趣は、「湖水朦朧として春を惜しむに便あるべし」(去来抄)だ。おりしも彼岸中日、モロコは罰当たりたちの酔眼に消えた。


大陸伝授

 あんな巨怪な国のことを大雑把にはとても書けないが、それでも中国の食文化は南と北とで特徴的に分けられるのではないか。南の米食文化に対し北の小麦というよりは非米食文化、南の醸造酒文化に対する北の蒸留酒文化、といった具合に。しかし貫くものはひとつあって、いまでこそ海鮮だツバメの巣だと騒いでいるが、中国人があくなき執着を寄せるものといったらそれは豚に決まっている。大陸帰りの人間が口をそろえて言うのは、かの国の豚肉のまがまがしいほどの香り高さだが、当の豚はとてもお話にならない飼料によって育てられているという。エサについてはここでは書かないが、大陸で嫁になったうちのおふくろの作るギョーザはたしかによそと違ってうまい。豚のほかにあきれるほどニラをもちいるそれは中華街のものよりも中国の味がして、子供のころから食っていた私にはかの国への郷愁さえ感じる。おふくろは家にいたクーニャンに教わったと言っていた。


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すばらしいことばをわたしはいわない

駿河昌樹



は詩人のものだから かなしいとき あなたは詩を開こうともしない だれでもないあなたに だれかになったひとのことばなど むかない だれでもないひとのことばをさがせば あなたはわたしにたどりつくだけ だれでもないわたしの 詩ではないことばに かごろ インスタントコーヒーばかりで 不満にも思わず いつかの青空に飛び立った鳩の影を 湯気のなかに思い出したりする ほんとうの友情が じぶんに残っているのか気になり 鳩なんて 平和の象徴でなんかないと つぶやこうとして やめる いいことも わるいことも やめてきた そんなふうに そんなふうなじぶん と反省が伸びはじめて またやめる がすきで 切り花を買ってくるひとは ほんとうに花が すきなの? 未来のない花 花の死をみたいのでしょう? 花を飾るひと死になさい むごたらしく 大股びらきして そうして何百何万の花を救う 愚行かしら? 愚行かしら? いちじくのドライフルーツを噛みながら こころは冬 そこもここも わびしい枯野じゃないの 歯にじゃりじゃりと いちじくの極 ちいさな種 んとうに弱いものは どこにいるのか わたしは複雑な電流だから だれか青い紅茶をいれてください 蝶々が 一羽、二羽、三羽、 花園ですもの、といって 姉はさきに毒をあおったのでした 嘘かしらね、それ だれが弱かったのかしら と、ぷつぷつ残る つぶやき 感がすすんでいく ひとのこころに無限につながり
わたしは
わたし
の外まで痛い
どうしよう、寒い 枯れていくものがわたしのなかにわびしい ざわざわと集団のわたし 集団のそともわたし 死ねない魂が死ねたらと夢みて 人間のふりをしていたりするのよね 死ねないものとあきらめて きょうも釣師に引き上げられて ゆうがたには活きづくり それでも死ねない とばはいくつか 手持ちがあるけれど なにを構成すればいいのかわからない だれにむければいいのか だれとして 音にのせればいいのか ああ、(とすぐにいえたころはよかった……) 「として」が多すぎる時代 腕時計の螺子をまく 半ズボンのていねいなことばづかいの子も もうなかなかみつからない 猫だけ永遠かしら いつでもニャンとして 過去も未来もニャン 毛のはえた 聖書のようね だ わたしは行くの? つらい つらい といっているのも つらい 結婚でもしてしまおうか じぶん自身への複雑な愛人をやめて スリッパをあたらしくし 玄関口を模様替えして さっぱりと 風ふきぬけるような透明家族のほうヘ 崩れようか 負けかもしれない 負けかもしれないと思うから 負けではないわけだろうが 愛の問題ではなく 未来永劫さびしさの問題が つづいていくばかり ぶんが言い じぶんが聞いてをくりかえすばかり 宇宙はこんなにさびしくて 震えがたましいのはじまりで いまでも夜空の下 煙草に火をつければ 宇宙の小さなはじまりがくりかえされる わたしだけひとり わたしだけが震えて ささえていく虚空の森 をつぶれば この安寧はどうしたことだろう まだ生きて いけるか、遠い子ども わたしなどのことはもういいから 遠くにたいせつなものが 奇跡のうえにも 奇跡がかさなり 生まれ落ちて育っていくように 望の側へとむかおうか 希望ということばの おそらくエメラルド色の影の敷く側 わたしには未知の土地 こんなにも痩せ細った足で つかれた腰で わたしは豊穣な荒れ野のほとりに立つ すばらしいことばは前の世代たちが語りつくし すばらしいことばはどれも地に滅んだから すばらしいことばをわたしはいわない わたしだけに聞こえることばで 宇宙をほんのすこし さびしくなくすることから はじめた からっぽなわたしのしくみのすべて 見通したうえで 荒れ野の枯れ木のように まだかたちもとっていない希望の梁を ささえていく


表紙-タイトな感情-日曜日-共寝-STORMY WEATHER 1990-ベルベット・スカイ-メンソレータム・ラブ・ソング-歩くひと-レンガの家ならへっちゃらさ-旧道-瓶の底-蓋がない-いちごジャムはまぼろし-ない蓋を閉める振りをする-露岩-溶解する冬-コントロール-王國の秤。-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 3-エクスターズの探求者 1-解酲子飲食 5・6・7・8・9-すばらしいことばをわたしはいわない-ハイパーテキストへ 7-〈近況集〉-〈編集後記〉

ハイパーテキストへ(連載第7回)

長尾高弘



 この連載の第1回は、Windowsヘルプを使って詩集を作ろうというものだった。つい3年ほど前のことだ。たったこれだけの間に状況ががらっと変わってしまうのが、コンピュータの世界のコワイところであり、コンピュータなんか人に勧めてよいのだろうかといつも疑問に思ってしまうのもそのためだ。まず、その第1回の原稿を書いたすぐあとにWindows 95が登場し、ヘルプエンジン自体が変わってしまった。もちろん、古いバージョンのデータファイルは新しいヘルプエンジンでも動作するのだが、コンピュータの世界では、古いということはバカにされるということである(一応、私もこの業界でメシを食っているわけですし^^;)。そのときは、作ったヘルプファイルは『長い夢』だけだったので、急いで新バージョンに合わせて作り直した。そして、「Booby Trap」の既刊20冊ほどを一挙にヘルプ化した。
 しかし、その後急速にWWWが普及した。Microsoftでさえ、Visual C++というプログラム開発用ツールの新バージョン(ver.5)では、WindowsヘルプをやめてWWWを使うようになった。「Booby Trap」もWWW版を作って、私のWebサイト(以前はホームページと呼んでいたが、こちらの方が正確な呼び方なので、これからはWebサイトという用語を使う)のディスクスペースを使って公開するようになった。このとき、実はちらっと気付いていたのだ。ヘルプは面倒くさい。WWWは、以前も書いたように、テキストだけでできているので、テキストの加工に適したperlなどのプログラミング言語でちょっとしたプログラム/スクリプトを書けば、自動的に生成することができる。それに対し、ヘルプの場合は、Microsoft Wordの上で手作業であれこれのマークを付けていかなければならない。
 以上は本連載の3、4回とダブる話である。もうだいぶ前になるが(97年の5月頃)、ついにこのWindowsヘルプを捨てる日が来た。電話代を使わずに読めるハイパーテキスト的なブラウザがもう1つ見付かったのである。それが(株)ボイジャー(http://www.voyager.co.jp/)のエキスパンドブックである。
 エキスパンドブックのことを知ったのは、そのときが初めてではない。もともと、ボイジャーのアメリカの親会社(http://www.voyagerco.com/)は、電子本の出版ということでは知られた存在だった。この連載でも紹介したことのある、Paris ReviewのWebサイトは、アメリカボイジャーのスペースを間借りしている。ソフト屋に行けば、アメリカボイジャーのPoetry in MotionとかLewis Carroll "Alice's Adventures in Wonderland"のエキスパンドブックが並んでいた。しかし、私のメインプラットフォームはWindowsであるのに対し、エキスパンドブックはMacintoshの世界だった。95年から97年にかけて、事務所にMacを置いていた時期はあったが、Windowsでブラウジングできないものには興味がなかった。
 ところが、97年の5月頃になって、ふとしたきっかけで、ボイジャーには日本法人があり、エキスパンドブックの日本語版があることや、新しいバージョンはWindowsとMacintoshの両方でデータを作成でき、両方でブラウジングできることを知った。新潮社はこれを使って「新潮文庫の100冊」の電子本を発売している。そして、データ作成ツール(オーサリングツール)はもちろん有料だが、ブラウジングツールはWebから無料でダウンロードできることもわかった。これは試してみるしかないと思い、早速アキバに行って買ってきた。3万8千円ほどだった。バージョンは、1.6である(98年5月現在、Windows版オーサリングツールの定価は45000円となっているが、http://www.voyager.co.jp/cgi-bin/shop/のボイジャーのオンラインショッピングを使えば36000円で買えるようである。Mac版ツールは28000円と安いが、これはWindows版には紙のマニュアルも含まれているからである)。
 ここでエキスパンドブックの特徴をヘルプやWWWと比較してみることにしよう。
 まず最大の長所だが、エキスパンドブックは縦組みに対応している。縦組みと書いたのは、単なる縦書きではなく、細かいところに神経が行き届いているからである。たとえば、英数字が入ってきたとき、全角(2バイト)文字を使えば縦書きになるが、半角(1バイト)文字を使えば横書き(首を右に倒して読む形)になる。これは当たり前である。1字の場合やNHK、IMFといった大文字の頭字語、1998年のようなものは全角文字を使い、Windowsとかhttp://www.何たらかんたらのようなものなら半角文字を使えばよい。問題は2桁数字である。通常の縦組み印刷なら、2つの半角数字を並べ、さらに90度左に倒す。Microsoft Wordのようなワープロでは、これができないが、エキスパンドブックではできる。ルビも付けられるし、行間、文字間も細かく調整できる。Windowsヘルプでは、ルビを付けるために非常に苦労をした。行間、文字間は、Windowsヘルプでは調整できるが、WWWではあまりうまく調整できない(スタイルシートなどの比較的新しい機能を使えばよいが、画像と共存させるのが難しい)。
 一方、画面サイズは固定されており、1つのディスプレイに表示できるエキスパンドブックウィンドウは1つだけに制限されている。これは、エキスパンドブックがもともとHyperCardだったことを反映しているのだろう。画面サイズが固定されていることには、良い面と悪い面がある。良いというのは、レイアウトが楽になることである。画面サイズが変更されて1行の文字数が変わったときのことをあれこれ計算する必要はない。悪い面は、解像度の低いディスプレイに合わせて画面を設計しなければならないことである。そうしなければ、画面サイズの小さいノートパソコンユーザーを排除することになってしまう。しかし、1600×1200ドットの画面で640×480の小さな画面を見るのはむなしい。津野海太郎氏は、読みやすいと書かれており(「本はどのように消えてゆくのか」。http://www.voyager.co.jp/aozora/からエキスパンドブック形式でダウンロード可能)、確かに1行の文字数が20字であっても苦にならない散文の場合にはそれでもよいのだろうが、詩の場合には1行の文字数があまり少ないとピンとこない場合がある。だからといって文字数を増やそうとすると、文字サイズを小さくしなければならないわけで、これは読みにくい。エキスパンドブックウィンドウの回りに広大に広がるスペースを恨めしく睨むばかりである。
 1つのディスプレイに表示できるエキスパンドブックウィンドウが1つだけに制限されているのは、マニュアルがオンライン形式のみで提供されているMacintosh版を使うときには苦痛だろう。わからないことがあってマニュアルを読もうとすると、作業中のブックが消えてしまうのである。作業に戻ると今度はマニュアルが見えない。これはとても苦痛である。紙のマニュアルは別売で出ているが(Windowsなら添付されているが)、ブックを2つ同時に表示できれば、だいぶ楽になると思う。
 良くないこととしてはもう1つ、プログラムがバージョンアップしたときに古いバージョンのデータが無駄にならないかどうか、安心できないということがある。安心できないというのは、無駄にならないかもしれないが、その確証がないという意味である。アプリケーションプログラムが独自のデータフォーマットを持つ場合には、このことが常にポイントになるが、アプリケーションというものはばかばかしいほどすぐにバージョンアップされ、そのたびにデータフォーマットも変わる。本来なら、古いバージョンのデータも読み込めて、新旧の適当な形式で保存できるようであってほしい。しかし、エキスパンドブックの場合、この辺がもう1つはっきりしない。そして、Mac用のバージョン1.5で作成されたデータをいただいたことがあるのだが、これはWindows用バージョン1.6のブラウザでは表示できなかった。ブックウィンドウ自体が出てこないのである。
 最初にも述べたように、エキスパンドブックはMacintoshで育ってきたソフトウェアであり、Windows、Macintoshの両バージョンの完全な互換性を保証するようになったのは、バージョン1.6からである。だから、Mac用バージョン1.5のデータがWindowsで読めないのはしかたのないことなのかもしれない。しかし、ソフトウェアのバージョンが変わるたびにデータ自体を作り直さなければならないのでは、安心してデータを作ることはできない。もちろん、エキスパンドブックというソフトウェアがいつまでも存在するという保証はないし、こういうことを心配しだすときりがないのだが、データだけがあってもソフトウェアがなければ読めないというところがコンピュータ本の場合には常に問題になる。
 エキスパンドブックに対する注文ばかり続けて書いてしまったが、最後にヘルプをやめてエキスパンドブックに移行することを決断した最大のポイントを挙げておこう。それは、コマンドをテキスト形式で記述できることである。ルビでも、縦横変換でも、すべて特殊文字を挿入すればテキストで表現できる。それらコマンド用特殊文字を入れたテキストファイルをブックに落とせば、自動的に整形されたエキスパンドブックになる。私にとって、これは何よりも便利な機能である。
 コンピュータのユーザーインターフェイスはいかにあるべきか、という議論では、画面に見えるものを直接キーボードやマウスで操作して操作結果を確かめながら対話的に仕事を進めていくことが理想とされることが多い。このような環境をいち早く実現したのは、Macintoshである。画面上の一角のコマンドプロンプトと呼ばれる場所に暗号めいたコマンド名をキーボードで入力しなければならないMS-DOSやUNIXと比べて、Macintoshは非常に優れていると高く評価された。しかし、WindowsがMS-DOSに取って代わり、XウィンドウがUNIXでも当然のものとして普及するようになって、今や対話的操作は当たり前のものとなった。1回のマウスクリックで新しいテキストにジャンプしていくハイパーテキストは、このような対話的操作が実現されなければほとんど不可能だっただろう。
 しかし、見ながらデータを作っていくということは、人間が手作業をしなければならないということでもある。その作業が機械的である規則に沿ったものだったとしたら、その作業はまさにコンピュータにさせるべきものではないだろうか? 人間は機械的な単純作業には不向きである。コンピュータよりも作業ペースは恐ろしく遅いし、コンピュータなら間違えないところを人間は間違えることがある。そして、単純作業を長時間強制されると人間は心底疲れてしまう。
 Windowsヘルプにうんざりしたのは、このような単純作業をコンピュータにさせることができなかったことにある。Booby Trapのヘルプ版を作るために、一晩の自由時間を全部つぎ込まなければならない。しかし、エキスパンドブックなら、テキストファイル上であれこれ操作してから流し込むことができる。テキストファイルの操作とくれば、perlの得意分野である。テキストエディタの検索コマンドも手伝ってくれる。実際には、テキストファイルをエキスパンドブックに流し込んでから、ルビの位置などについてはチェックをかけ、手で修正を施さなければならないのだが、Windowsヘルプと比べればはるかに簡単である(ただし、エキスパンドブックには最後の注文を付けておかなければならない。テキストを流し込んだときに化ける文字がある。エキスパンドブックからコマンド入りのテキストファイルを取り出すこともできるのだが、エキスパンドブックに流し込む前のテキストファイルとは微妙に異なるものになってしまう。このほかにも、細かいバグがあって疲れることが多い。面白いプログラムなのだが、考え方をもう少し整理して作り直したら、もっと操作しやすく、効率よく作業できるプログラムになるはずだと思う)。
 というわけで、従来Windowsヘルプだったコンテンツは、すべてエキスパンドブックで作り直した。また、専用線をひいたので、Webサイトも移転した。新しいURLは、http://www.longtail.co.jp/である。また、Booby Trapのページはhttp://www.longtail.co.jp/bt/に、エキスパンドブックコンテンツのダウンロードページはhttp://www.longtail.co.jp/exbook.htmlにあるので、アクセス環境のある方は是非覗いてみていただきたい。


表紙-タイトな感情-日曜日-共寝-STORMY WEATHER 1990-ベルベット・スカイ-メンソレータム・ラブ・ソング-歩くひと-レンガの家ならへっちゃらさ-旧道-瓶の底-蓋がない-いちごジャムはまぼろし-ない蓋を閉める振りをする-露岩-溶解する冬-コントロール-王國の秤。-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 3-エクスターズの探求者 1-解酲子飲食 5・6・7・8・9-すばらしいことばをわたしはいわない-ハイパーテキストへ 7-〈近況集〉-〈編集後記〉

近況

吉田裕
 書肆山田の「るしおる」に、バタイユの『死者』についての論考「死者ノ勝利」を書きました。この激烈なポルノグラフィは、僕にとってバタイユを読ませるきっかけとなった作品で、四半世紀を経てその思いを言葉にすることが出来ました。何度読み返しても恐ろしさを感じます。ほかバタイユ・ノートのIII「バタイユ・マテリアリスト」とIV「バタイユ・ポリティック」に『青空』論「星々の磁場」をまとめて本に出来ることになりました。出版社はこれまでと同じく書肆山田。題は「物質の政治学」とするつもり。今回は翻訳の量が多くなりそうで、現在追われています。

青木栄瞳
(CATV/日経サテライトニュースに釘づけの日々が近況です)
東京株式市場第一部銘柄の
最高値と最安値。
――これが、まず、現実世界の最新のニュースです。
(ピカピカの1年生社員の長男は山一より無事平行移動決定)
(パパの会社は株価73円・次男はユメウツツのワセダ・探険部)
(気が弱いママは生まれて3回目のおみくじを初詣で引きました)
☆(太陽マーク)二十七番大吉(出産・思わず早し安産)――予定無し
       (恋愛・誠意にこたえよ)――よろしいのかしら、
       (願望・―――ナイショ)――なぜか?
       (  ・―――――秘密)――いずれ、詩編にて、

森原智子
この原稿もだがポストへ入れると、確認するためにポストの周囲を、小さな虫でもみつける様な眼つきでまわってみないではいられない。この不安神経症がこうじて正月初めは、耐えがたい地獄を味わった。カントは人間の理性へ不信を持ち『純粋理性批判』を完成したといわれているが、普通はちょっとした不条理の入口でまいってしまう。私の場合は自分の詩が未だゴールをきわめていないという声が脳内に響いていたので、医師の診察を受け、それが早い時期だった為にたすかった。信じられない言語を信じて書述する二律背反を日常行為とする詩人は、いつヤ(傍点)られるか油断出来ない。詩をかくのは生半可なカタルシスなど許さない怖ろしいものがある。

布村浩一
9月18日(97年)ミュージカル「ラ・マンチャの男」観る。楽しみにしていた。それまでは唐十郎の芝居か新宿梁山泊の芝居、そういった感じの芝居しか観なかった。唐十郎=唐組の芝居は何時観にいっても同じ劇の構造、同じ観た上での感受が続いているようで、要するにマンネリのように思って他の芝居を探していた。2階の席しかなかったせいか主演の松本幸四郎のセリフは滑らかなんだが、意味そのものは聞き取りにくいように思った。軽い動き、腹八分の動きで芝居でのパワーの出し方をよく心得ているといった感じ。松たか子は出番が少なく、しかしまじめな人だというのが伝わってきた。一番心に響いた歌は鳳蘭の歌う〈あの人はどういう人なんだろう〜〉〈あの人はどうしてああなんだろう〜〉という出だしで始まる歌。そこのところは声が涼しく、聴き入った。


表紙-タイトな感情-日曜日-共寝-STORMY WEATHER 1990-ベルベット・スカイ-メンソレータム・ラブ・ソング-歩くひと-レンガの家ならへっちゃらさ-旧道-瓶の底-蓋がない-いちごジャムはまぼろし-ない蓋を閉める振りをする-露岩-溶解する冬-コントロール-王國の秤。-ウィリアム・ブレイク『無垢と経験のうた』 3-エクスターズの探求者 1-解酲子飲食 5・6・7・8・9-すばらしいことばをわたしはいわない-ハイパーテキストへ 7-〈近況集〉-〈編集後記〉

編集後記

【編集後記】遅れに遅れてごめんなさい。いつものことながら、言い訳はもうしません。この次の号では何かもう少し、ブービー・トラップの出し方について考えをめぐらし、いままでのいいところを継承したうえで、新機軸を出すことによって弾みをつけたいと思っています。

【電子版後記】今号の紙版で、書き手本人の校正を反映しない原稿を1篇載せてしまった。谷元益男さんの「旧道」である。紙版では「新道」という題で、この電子版に載せる「旧道」は3行ほど改変されている。谷元さんは笑いながら「いいです、いいです」とおっしゃっていたが、ここに明記する。ごめんなさい。
 彼はまだ家からWebPageを覗くことはできないらしい。でも、遠くない先に谷元さんもこの文章を読むと思う。

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
[No.26目次]
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