第27号 1999.9.1 220円(税別)〒154-0016 東京都世田谷区弦巻4-6-18(TEL:03-3428-4134;FAX:03-5450-1846)(郵便振替:00160-8-668151 ブービー・トラップ編集室) Internet Homepage:http://www.kt.rim.or.jp/~shimirin/ http://www.longtail.co.jp/bt/ E-mail: shimirin@kt.rim.or.jp 5号分予約1100円(切手可) 編集・発行 清水鱗造 ロゴ装飾:星野勝成 |
かきくけ、かきくけ。 |
田中宏輔 |
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頭の名前 |
長尾高弘 |
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愛するちから |
須永紀子 |
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声 |
関富士子 |
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ゴーレム |
丁田杵子 |
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桜の方 |
布村浩一 |
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薬 |
山本泰生 |
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届いたたよりのはずれを流れた |
駿河昌樹 |
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永遠に立ち上がった |
駿河昌樹 |
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とにかくも二時 |
駿河昌樹 |
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清潔な小人を住まわせて |
駿河昌樹 |
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ドルフィン・キック |
青木栄瞳 |
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イタリア紀行 |
倉田良成 |
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千枚通し(1999.6.8) |
清水鱗造 |
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夏の秤(1999.6.15) |
清水鱗造 |
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小道の蛇(1999.6.22) |
清水鱗造 |
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反る板(1999.6.29) |
清水鱗造 |
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はがれかかるa(1999.7.6) |
清水鱗造 |
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口紅型ライター(1999.7.13) |
清水鱗造 |
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節分 ――腐蝕画―― |
荒川みや子 |
棘でかこまれている斜面。ずらっと裸木の林が 私の棲家に連なっている。風が骨のように鳴った。昼の月が正確に息を吐く。ココア色の地表と共に私達もそれに倣った。娘が輪遊びを始めようとしている。道なりにそって走ろうとしている。私は住民票を拾い集めながら 私の棲家へ入ってゆく。後ろから 鬼の影がついてきた。膝をみせて寒そうであった。たとえば ああでもなくこうでもなく流しの前で足をふく。ああでもこうでもなくフライパンをひっぱり出して豆を煎る。裏の庭で薪を割る男もいる。月はいつの間にか白い栓をゆるめた。ああでもこうでも角を出しながら豆であるらしい。娘が輪の中でぐるぐるまわっている。林の外だ。私の住民票は裸木の影に刷り込まれ 林は月を抱え笑っている。豆をやろうか。まわりの影は階段を上る度に濃くなってゆく。私は耳をあずけて夜の底へ足をはこんだ。踊り場に薪を積み上げる。輪の中へ月を入れよう。ああでもよく、こうでも悪く吐く息はここまでだ。豆を喰べてしまうと われわれは鬼のようなものである。角を撫でながらそこいらを相手に棲みつく。 |
ペーパー |
夏際敏生 |
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passers by |
夏際敏生 |
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翻訳詩 ウィリアム・ブレイク 『無垢と経験のうた』―人間の相反する二つの精神状態を示す─ 連載第四回 |
(承前) ゆり 慎み深い薔薇は棘を突き出している。 つつましい羊は恐ろしい角を持っている。 白いゆりは、愛の歓びに包まれているが、 その鮮やかな美しさは棘や怖れには汚されていない。 愛の園 愛の園に入っていくと、 決して見たことのないものがあった。 かつて遊んでいた緑のまんなかに、 教会が建てられていたのだ。 教会の門は閉じられており、 扉にはするなと書かれていた。 そこで私はとてもすてきな花が、 たくさん咲いていた愛の園に向かった。 そこは墓で覆われていた。 花が咲いているはずのところに墓石が立っていた。 そして、黒衣の僧がそれぞれの持ち場を歩きまわり、 私の歓びと望みを次々に茨で縛っていった。 小さな洒落者 お母さん、お母さん、教会は寒いよ、 パブならあったかくて楽しくて気分がよくなるよ。 それにぼくの馴染みの店だって教えてあげられる。 天国じゃそんなふうに楽しくさせてくれないよ。 でも教会にお酒が少々とあったかい火があって 楽しい気分にさせてくれるなら、 誰だって一日じゅう歌って祈るだろうし、 教会から逃げ出そうなんて思わないさ。 坊さんも説教しながら飲んで歌えば 春の小鳥のように幸せになれるよ。 いつも教会にいるお上品なラーチ夫人だって 子どもを鞭でたたいたり腹ぺこにさせたりしないさ。 お父さんだって、子どもが自分と同じくらい 幸せで楽しそうにしていれば歓ぶでしょ。 同じように神様だって悪魔だの酒樽だのとケンカしないで 優しくくちづけして飲み物と着る物をあげるようになるよ。 ロンドン 特権を与えられたテームズのほとり、 特権を与えられた通りを一つ一つ歩いた。 すれ違う顔、顔、顔には弱さの印 歎きの印がはっきり刻印されていた。 あらゆる大人のあらゆる叫びに、 恐怖におののくあらゆる子どもの泣き声に、 あらゆる声にあらゆる布告に、 心が作り出した束縛が聞こえた。 煙突掃除の子どもたちは 黒光りする教会にぞっとして泣いていた。 運のない兵士たちのため息は 血まみれになって宮殿の壁を転げ落ちた。 しかし真夜中の通りで一番多かったものは 生まれたばかりの赤ん坊を泣かせ 疫病で結婚の棺を引き裂く 若い売春婦たちの呪い 人間抽象化 貧しい人間を作らなければ、 憐れみはもういらない。 誰もが神のように幸せなら、 慈悲はもういらない。 相互の怖れが平和をもたらす。 するとわがままな愛がのさばり、 残酷な心がわなを編んで、 餌をたんねんにばらまく。 あいつは聖なる怖れを手にして座り、 地面に涙の水をまく。 するとあいつの足元に 謙遜というやつが根を張る。 あいつの頭は神秘の 陰鬱な影に覆われ。 毛虫や蝿がその神秘に たかってはびこる。 ついには赤くておいしい 偽りの実をつける。 黒い烏はこの木のいちばん 暗いところにに巣を張った。 地と海の神々は この木を見つけようとして 自然をくまなく探したが無駄だった。 こいつが生えているのは人間のオツムのなかさ。 幼い歎き お袋がうなり、親父が泣いた。 無力な裸で大声あげて、 とんだ危ないところに飛び出してきたもんだ。 雲に隠れた鬼っ子のように。 親父の腕のなかでもがき、 襁褓のひもにまたもがき、 縛られ抑えられて疲れちまった。 お袋の胸のなかですねてやるのがいちばんだ。 毒の木 友に腹を立てたときは、 怒りをぶちまけたのでおさまった。 敵に腹を立てたときは、 ぶちまけなかったので怒りが増した。 恐ろしい思いで夜も朝も、 その怒りに涙の水をまいた。 微笑みながら穏やかな 偽りに満ちた思いで日に当てた。 昼も夜も木は育ち、ついには 見事な林檎がなった。 輝く実は敵にも見えたが それはそいつの敵のもの。 夜が空を覆いつくしたとき、 そいつはこっそり庭に忍び込んだ。 朝になって私は小躍りして喜んだ。 敵は木の下にひっくり返っていた。 奪われた少年 自分と同じように他人を愛せる人なんていません。 自分と同じように他人を尊ぶこともできません。 思想が自分自身よりも偉大なものを 知ることも不可能です。 そして父よ、どうしてあなたのことや 兄弟たちのことを自分以上に愛することができましょうか? 扉の回りでパン屑をついばんでいる小鳥 のように私はあなたを愛します。 子どもの傍らに座って話を聞いていた司祭は、 震えるほどの勢いで少年の髪の毛をつかみ、 少年の小さなコートをつかんで引き立てたが 誰もが司祭らしい振る舞いを尊んだ。 高い祭壇に立ち、司祭は言い放った。 見よ、この恐ろしい悪鬼を! 我らのもっとも神聖な聖餐を 批判する理屈をこね上げた者を。 子どもが泣き叫んでも誰も聞こうとしなかった。 両親が泣き叫んでも無駄だった。 子どもは小さなシャツ一枚に剥かれ、 鉄の鎖で縛られた。 そして聖なる場所で焼き尽くされた。 すでに多くの人が焼かれた場所で。 両親が泣き叫んでも無駄だった アルビオンの岸で行われているのはこういうことだ。 奪われた少女 未来の子どもたちは、 この怒りのうたを読み、 かつてはあの愛が、甘い愛が 罪と考えられていたことを知るだろう! 冬の寒さを知らぬ 黄金の時代には、 若く輝く男女は 神聖な光を 夏の歓びを裸で浴びる。 あるとき深い慈愛に 満たされた若い男女が、 神聖なる光によって、 夜の帳が開けられたばかりの 歓びの庭で会った。 朝の草のうえで 恋人たちは戯れあった。 親は遠く離れたところにあり 見知らぬ者が寄ってくることもなく 乙女はすぐに怖れを忘れた。 静かな眠りが 天を深く揺らすとき、 疲れた旅人が涙を流すとき、 二人は甘いくちづけに倦み 一つになる約束をした。 輝く乙女は 白衣の父のもとに帰った。 しかし、父の慈愛に満ちた 聖なる書物のような顔は、 娘のしなやかな四肢を恐怖に震わせた。 弱くあおざめたオーナよ 白髪の父に語っておくれ。 我が愛する花を身震いさせるほどの 激しい怖れを! 陰鬱な悩みを! ティアザに 死すべきものとして生まれた者が 世代を超えて蘇るためには、 焼き尽くされて地に戻らなければならない。 ならば、私とお前にどんな関わりがあろうか? 恥と自尊心から生まれた両性は 朝とともに花咲き、夜とともに死んだはずだった。 しかし慈悲は死を眠りに変えた。 両性は働き、泣くために立ち上がる。 汝、我が死すべき部分の母よ、 お前は、残虐を鋳型として我が心臓を作り 自己を欺く偽りの涙で 我が目、耳、鼻を縛った。 感覚のない土で私の口を閉ざし 私を裏切って死すべきものに堕とした。 そして、イエスの死が私を解放した。 ならば、私とお前にどんな関わりがあろうか? 学童 夏の朝は起きるのが楽しい、 あらゆる木々が鳥の歌に包まれ 遠くの狩人が角笛を吹くとき、 そしてひばりが私と歌うとき。 おお! なんとすばらしい仲間たち。 しかし夏の朝に学校に行くなんて。 おお! それこそはすべての歓びを 硬直した悪意の監視のもとに奪うもの。 子どもたちはため息と 失望のうちに日を費やす。 ああ、そして私はうなだれて座り じりじりとした時間をいくつも過ごす。 教科書を読んでも、教室に 座っていても、歓びはない。 重い雨に心はすりへらされる。 歓びのために生まれた鳥が どうして篭のなかで歌うことができようか。 怖れに責め立てられる子どもは 幼い羽を垂れ 青春を忘れる以外に何ができようか。 おお、父よ、母よ。 芽を摘んでしまえば花は咲かない。 悲しみと失望によって、 幼い木から春の日の歓びを 奪ってしまえば、 夏の歓びが立ち上がることが 夏の果実が実ることがあろうか。 冬の嵐を見せ付けられた者に 悲しみを吹き飛ばす力を蓄えることが 成熟のときを祝福することができようか。 古代の詩人の声 歓びに満ちた若者よ、こちらに来い。 明けていく空を 生まれたばかりの真実の姿を見よ。 疑いも、理性の雲も 暗い論争も、作られた悩みも消えた。 愚かさは、もつれて行き場のない根であり、 無限の迷路だ。 いかに多くの者がそこに落ちていったことか! 彼らは一晩じゅう死んだ者の骨に躓き続ける。 そして、くよくよ心配することしか知らない。 自分が導かれなければならないのに他人を導こうとしたがる。 |
ハイパーテキストへ(最終回) |
長尾高弘 |
昨年(1998年)の暮にポケットピカチュウというおもちゃの万歩計を買った。同じ頃、デジタルカメラも買った。デジカメは当時最新鋭の1万画素タイプのもので、640×480ピクセルと1280×960ピクセルの2種類の大きさで写真を撮れる。年が明けて、運動不足解消のために、腰にポケットピカチュウ、肩にデジタルカメラをぶら下げて、家の近所を歩くことを思い付いた。デジタルカメラは、いくらシャッターを押しても、フィルムが消費されるわけではない。メモリカードに記録された画像をパソコンに取り込み、気に入ったものを残し、失敗作を消すだけである。パソコンにデータを保存したら、メモリカード自体の中身は消して、再利用する。だから、貧乏症の私でもシャッターを押しやすい。銀塩カメラでは、家族が写っていない写真など撮ったことがなかったが、デジタルカメラでは、ちょっと気に入った風景があると、すぐにシャッターを押すようになった。 写真が少し溜まってくると、それをWWWのホームページにして人に見せたくなった。ホームページ作成歴が4年にもなれば、それが自然の人情というものである。幸い、私は1年前から自前のサーバでホームページを公開しているので(http://www.longtail.co.jp)、ディスク容量はほとんど無限にある。プロバイダと契約して使えるようになるディスク容量は、5Mバイトとか10Mバイト、多くても100Mバイト程度でしかないが、自前サーバなら、Gバイト単位でディスクを使える。1枚200Kバイトほどもある写真データだって、何枚でも掲載できる。 問題は、写真をどのように提示するかである。私の散歩写真の場合、写真自体はどこにでもあるごく普通の風景なので、文章で写真に意味付けをする必要があると思った。そこで、散歩全体の概要を書いた文章のページを作ることにした。このページを便宜上本文ページと呼ぶことにする(図1)。本文ページには、320×240ピクセルの小さな写真も数枚貼っておく。そしてこの小さな写真や文中のリンクから、散歩の過程で撮った写真を表示するページにジャンプする。これを写真ページと呼ぶことにする(図2)。写真ページには、1280×960ピクセルの大きな写真を貼り、どこでどのような向きで撮ったのか、何が見えているのかという説明を付ける。1つの本文ページに対して何枚かの写真ページを組み合わせて1回の散歩の記録が完成する。 本文ページからは、原則としてその回のすべての写真ページにジャンプできるようにした。つまり、本文ページは、写真ページの目次のような機能を果たす。一方、写真ページには、1-1、1-2といった番号を付けた。つまり第1回の散歩の1枚目、同じく2枚目という意味である。写真ページには、本連載の第4回で簡単に触れた自作ツール、OLBCKを使って、前後の写真ページへのリンクを付けた。こうすると、1回の散歩が小さな本になる。本文ページが目次で、1枚目の写真からその散歩の最後の写真までを順にたどっていくと1冊の本の最後のページに到達するわけである。実際、散歩した結果には、順番があり、物語性がある。だから、散歩の記録が本の形を取るというのは、ごく自然なことである。 散歩には何回も出かけたので、本文ページも溜まっていく。そこで、各回の本文ページにジャンプするマスター目次(以下、単に目次ページと呼ぶ。図3)も用意した。これで、散歩全体が大きな本になった。小さな本をいくつも含む大きな本という構造を作ったわけだが、本文ページは擬似目次である以前にまず本文なので、大きな本と小さな本は相互に独立した別個の本でもある。 自宅の近所をぐるぐる回って散歩しているので、同じところを別の経路で通ったりすることや、ある箇所で見えていたものと同じものが別の角度から見えたりすることもある。そのような関連写真ページには、当然ジャンプできるようにしたいところであり、実際に、それら過去の写真ページへのリンクは、本文ページ、写真ページの両方に埋め込んだ。こうすると、1冊の小さな本(1回の散歩)の途中で、別の小さな本のなかに飛び込むことができるようになる。ブラウザには、読んだページの履歴が残っているので、ちょっと寄り道して元の本に戻ってくることもできるし、そのまま別の本の読書を続けることもできる。 この構造は、ある種のコンピュータゲームと似ている。たとえば、私が散歩のときに腰に付けているピカチュウが出てくるポケットモンスターのようなゲームである。この種のゲームでは、主人公がいて、歩いたり走ったり泳いだりして前進する。すると、分かれ道があって、プレイヤは道を選ぶ。道には宝物や敵が転がっていて、拾うとか戦うといったアクションを起こす。私の散歩写真は、宝物でも敵でもないし、いっぱい見たからといって経験値が上がるわけではない(私の腰についたポケットピカチュウの歩数は、散歩するたびに上がっていくけれども)ので、ゲームとして楽しむことはできないが、比喩的に言えば、私の「東山田散歩」は、ゲームのような構造をしている。そして、多くのゲームが散歩というメタファを使っているのは、とても面白いことだと思う。 散歩とゲーム、本の比喩についてさらに考えると、まだしていない散歩、歩いている過程の散歩はゲームに似ているが、散歩が過去のものとして記録になってしまうと本になるとも言える。私の東山田散歩は、途中で別の回の散歩に飛び込めるようにした分、本の構造を少し解体してゲームの構造に近付いた。しかし、本当の散歩なら、私が撮っていない風景がまだ無限に残っている。東山田散歩のWebページをいくらたどっても、有限の組み合わせしかない(有限といってもかなりの数になるが)。コンピュータゲームも、ゲームの世界の外には抜け出せないという点で、本当の散歩よりも私の東山田散歩のWebページに似ている。これは、現実(リアリティ)と擬似現実(バーチャルリアリティ)の違いである。 ところで、この企画は、始めたときには10数回で終わるつもりだったし、1回の散歩の写真ページも10枚前後だった。1280×960というほとんどのディスプレイでは全部表示しきれない写真を載せていながら、それでも全部を読もうと思えば読めるようにしておきたいと思ったのである。しかし、散歩というのは、実際にしてみると実に楽しいものであって、10数回ではとても終わらなくなってしまったし、だんだん遠くまで出かけるようになったこともあって、1回の写真の枚数も80枚とか100枚とかになることも珍しくなくなってきた。全体どころか小さい本1冊さえ、少なくともインターネットでは読み通せない代物になってしまった。現在、55回まで続いて写真は2336枚あるが、10回分以上の未整理の写真がまだ残っている。最近は作っている私自身、どこにどんな写真があったのか把握しきれなくなってきた。目次ページと擬似目次の本文ページだけでは、誰もが迷子になってしまうのである。 歩いていて迷子になりそうになったら地図を見る。散歩メタファのコンピュータゲームでも、今歩いているところがどこかを示すマップ機能がある。そこで、東山田散歩ページでも、地図に当たるものを作ることにした。最初に作ったのは、全体の画像一覧ページ(図4)である。各回のタイトルと、個々の写真のタイトルを最初から順に並べただけのものだが、ここに来ればすべての写真ページにジャンプできる。ただし、このページは巨大になってしまって、表示に時間がかかる。次に、各回ごとにすべての小写真を見られるようにした(長ったらしいが、"この回のすべての写真ページ"と呼んでいる。図5)。これは、1回の写真ページが増えてきて、本文ページからすべての写真ページにリンクを張るのが不可能になったためである。しかし、これらは地図というよりはただの目次、あるいは索引である。もともと、本文ページが目次としては不完全だったのを補ったに過ぎない(目次は本にとっての地図だと言うこともできるが)。 目次を整備しただけでは、隔靴掻痒の感が残る。そこでつい最近のことだが(正確に言うと、この文章を書きながら)、簡単なサーチエンジンを付けた(図6)。指定された文字列がタイトル、あるいはタイトルと本文を含む全体に含まれている写真ページを拾い上げるのである。この機能は、結局のところ、テキストに依存しているので、写真ページにあるものが写っていても、それについて説明文の方で言及していなければ検索には引っかからない。また、たとえば"鷺沼"で検索すると、鷺沼からははるか遠くに離れたところから出ている"鷺沼行きのバス"のようなものも拾ってきてしまう。このようにかなり不完全なものではあるが、読者がそれぞれの目次、それぞれの地図を作れるようにはなった。これは紙の本では不可能なことである。 このようにして作った東山田散歩は、結果的に今の時点で私が想像できるハイパーテキストの姿をすべてさらけ出したものになった。しかし、結局、4年前の連載開始のときから大して進歩していないという感じもする。これ以上何回連載を重ねても大きな進歩は見込めないので、今回でこの連載は終わりということにする。帰着点を冷静に考えると、インターネットに誰もがアクセスできる時代になったのに、一人で作ることにちょっとこだわり過ぎたかもしれない。今までも紹介したが、インターネットを介した連句、ハイパー詩のような試みもある。それよりも何よりも、インターネットのWeb空間自体が1つの巨大なハイパーテキスト空間である。この空間は生きており、毎日増殖し、毎日変化し、毎日一部が消えていく。昨日まで読めたものが今日は読めなくなっているということが、あるいは本との最大の違いかもしれない。今後、本は読まなくてもWebは読むという人が増えてくるだろう。そのような人々が多数になったら、ハイパーテキストという以前にテキストという概念自体が大きく変わっていくのかもしれない。
(編集者註:図1〜6は、紙版、正式HTML版およびエキスパンドブック版に掲載されますが、以下のURLの長尾高弘さんのサイトに行けば、「東山田散歩」の全容がわかります) http://www.longtail.co.jp/walk/ |
近況 |
布村浩一 五月に恋におちた。畳の上で悶々と彼女のことを考えていると、あまりの気持ちの高ぶりに、自分をニュートラルな方向に持っていくものが必要と考え、サラ・ヴォーンの50年代のボーカルを買った。そしてクリフォード・ブラウンの「STUDY IN BROWN」、もう一枚「MORE STUDY IN BROWN」を買った。最高なのは「STUDY IN BROWN」で、軽快で身体に押しつけてくるものが何もない。部屋の中を何十分もクリフォード・ブラウンのトランペットが流れても、苦痛も退屈さも、飽きもこない。ジャズはジョン・コルトレーンやマイルス・デイビスしか聴かなかったけれども、クリフォード・ブラウンという音楽もあったのだ。今夜も長いためいきと、思い出したように「もうだめだ」と叫ぶ僕の上を、クリフォード・ブラウンの軽い触れるか触れないかのようなトランペットが流れていく。(99.6) 倉田良成 「ガルデルの亡命」という映画を、職場のKさんにダビングしてもらって観ました。三千人もの市民が(おそらく当局によって)拉致され、行方不明となったいわゆるブエノスアイレス事件後の、パリにおける亡命者たちの日常を描いた作品ですが、音楽を担当したピアソラのタンゴとその踊りがじつに色っぽくて素晴らしい。加えて、ガルデルとは1930年代に飛行機事故で亡くなったアルゼンチンの実在の国民的歌手のことで、その彼が亡命者の幻想のなかに出てきて歌うタンゴ歌謡はオリジナルの原盤を用いていて、聴くうちに胸が熱くなるのを覚えました。以来、わが家はタンゴとラテン音楽漬けの毎日です。 |
編集後記 |
この号より、どちらかというと、インターネット上に先に作品を公開し、紙に印刷するという順序にすることにした。インターネット上に公開したうえで、紙版にするまでには、作品に対する各種の変更、編集のフレキシビリティをもたせることができる。また読者もだいぶ違う。吉田裕さんの批評「バタイユ・ノートV エクスターズの探求者 第2回」は28号に掲載する。これは来月にも作る予定である。さらに新しい連載木嶋孝法さんの「宮沢賢治論」が28号で始まる。寄稿される原稿によってかなり発行時にばらつきがでるが、このやり方は自分の生活のペースに合わせてできるところがよさそうである。 |