宮沢賢治論
下根子時代
――農民芸術論の構想と現実

木嶋孝法



一、道べの粗朶(そだ)に


 一度は採種業をやろうとして、畑つきの住居を探し求めた形跡(詩「住居」大正十四年十月)もあるのだが、適当なものが見つからなかったらしく、大正十五年四月、花巻農学校を退職した賢治は、花巻の実家から南に二キロメートルほど離れたところにある、下根子桜の別宅に移り住んだ。この別宅は、賢治の祖父が療養のために建てたものであったので、畑などあるわけがなく、賢治は土地の開墾から始めなくてはならなかった。家のまわりと北上川の岸辺、少し離れた森の中の荒地がそれである。

 ぎっしり生えたち萱の芽だ
 紅くひかって
 仲間同志に影をおとし
 上をあるけば距離のしれない敷物のやうに
 うるうるひろがるち萱の芽だ
   ……水を汲んで砂へかけて……
             (大正十五年五月「水汲み」より)

 詩の言葉の明るさに誘われて、北上川の岸辺の、春のうららかな光景を想像してしまうためか、あるいは、念願が叶って、いよいよ自分の理想の実現に一歩を踏み出したのだな、とこちらが期待してしまうためか、この詩の「砂」という言葉の意味に最近まで気づかなかった。「砂」という語は、賢治が開墾した北上川岸辺の畑の土質を言っている。ここの土地は、川の水に運ばれてきた土砂が沖積してできていたため、水持ちが悪かった。そのために何度も水汲みをして掛けなければならない。地質学を学んだ賢治が、そんなことを知らないはずはない。農業をやっていくのにふさわしい住居が見つからなかったために、あえて劣悪な条件下に甘んじているのである。
 詩は、水運びのリズムを基調としながらの意識の変遷という体裁をとっている。

 向ふ岸には
 蒼い衣のヨハネが下りて
 すぎなの胞子(ほうし)をあつめてゐる
    ……水を汲んで砂へかけて……
 岸までくれば
 またあたらしいサーペント
    ……水を汲んで水を汲んで……
 遠くの雲が幾ローフかの
 麺麭にかはって売られるころだ
             (同右)

 このような表現の中に賢治詩の秘密が匿されている。賢治は、水汲みをして北上川と畑の間を往復している。その間に眼に入ってきた情景や、心に浮かんだ想念を写しとっているのであるが、読み手の側の困惑は、これを詩人の日常の断片として片付けてしまってよいのかということなのである。もしかすると、労働の苦痛であるとか、逆にその愉悦とかを伝えようとしているのではないか、という危惧が残るのである。
 ところで、賢治は、この詩を書く数カ月前、つまり、花巻農学校を退職する前、大正十五年の一月中旬から三月下旬まで、農学校に開設された岩手国民高等学校の講師として「農民芸術論」を講じている。この時の生徒のノートを見ると、「水汲み」というような詩は、《モリス曰く、芸術とは人の労働に於ける喜びの表現である/創造者は苦境を楽境にするのである。》を、そっくりそのまま実践していることが理解される。水汲み、これほど単純で、退屈な労働もない。それを近辺の自然を観察することや、架空の人物、ヨハネが杉菜の胞子を集める情景や、空の雲を麺麭粉を練った塊に見たて、麺麭ができる様子を想像することによって愉悦に変えようとしている。まさに《芸術をもてあの灰色の労働を燃せ》(「農民芸術論」ノート)なのである。
 賢治が、下根子桜に入って農業を始めたことのうちには、「農民芸術論」の実践という意味もあったことを、詩「水汲み」は教えている。そして、この考えは、農業技術や芸術で農村を明るくしようとした考えの雛形になっている。農村への取り組み方をよく示しているのは、次の詩であろう。

 粗朶でさゝへた稲の穂を
 何かなし立ちよってはさはり
 か白い風にふり向けば
 あちこち暗い家ぐねの杜と
 黒雲に映える雨の稲
             (大正十五年六月[道べの粗朶に]先駆形より、以下同じ)

 伐り採った枝(粗朶)で稲の穂を支えなければならないのは、今朝の雨で稲が倒れてしまったからである。賢治は、その枝に支えられている稲になんとなく触る。とは言っているものの、そこには何らかの理由があったはずだ。風に誘われるように振り返ると、あちこちに垣根をめぐらせた暗い家が見え、黒雲に映えて雨に濡れた稲が見える。「暗い」とは、ただ単に「光が少ない」という意味ではあるまい。後年、下根子時代を振り返って、《根子では私は農業わづかばかりの技術や芸術で村が明るくなるかどうかやって見て半途で自分が倒れた訳ですが》(年月日不詳、書簡下書き)と言っていることと無関係でないはずだ。

 そっちはさっきするどく斜視し
 あるいは嘲けりことばを避けた
 陰気な散点部落なのに
 なおもおろかに胸の鳴るのはどういふわけだ
 このうへそこに何の期待があるのだらう

 だから、嘲ったり、言葉を避けたりしたのは、散点部落に農業技術や芸術の入り込む余地がないからだと、一応、推測を立てることもできよう。にもかかわらず、胸が鳴り、何かを期待する、と言うのである。
 五月から、毎週土曜日にこども会を開いて、童話を朗読して聞かせるようになった。農学校の卒業生たち五、六人と合奏会も試みた。何かが少しづつ変わりつつあると感じていたのかもしれない。
 年譜によれば、この月、賢治は、「農民芸術概論」を書き始めている。すでに、農民たちと《いっしょに正しい力を併せわれらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげよう》という目標を持っていたと考えられる。だから、胸の鳴る理由を一番よく知っていたのは賢治自身のはずなのである。喜びを隠そうとして、かえってそれが表に出てしまっているのだ。

 それが一つの形になって
 もう一度立て直すことにもなるよりは
 倒れて傷んだ稲の穂を
 とり戻すのを望むのだらう

 何が一つの形となり、何を立て直すことになるのか、あまり明確ではない。散点部落に期待するものがあり、「形のないもの」が一つの形になることを考えると、その「期待」が、具体化されることを考えているのか。立て直すことになるのは、部落の生活。しかも、それは《倒れて傷んだ稲の穂を/とり戻す》ことの対極、生活の糧を得ることの対極にあるものだ。

 むしろそれこそ
 今朝なほ稲の耐へてゐた間
 いだいたのぞみのかすかな暈【さんずいに翁】と
 わづかに白くひらけてひかる東のそらが
 互に溶けてはたらくためだ
 野原のはてで荷馬車は小く
 ひとはほそぼそ尖ってけむる

 つまり、今朝、まだ稲が倒れていなかったときには、この陰気な部落を、(おそらくは、農業技術や芸術によって)明るくしようという望みを抱いていた。ところが、倒れた稲を(健気にも?)粗朶で支えているのを眼にしたとき、部落の人々が望んでいるのは、倒れた稲を取り戻すことの方だということに気がついた。いや、それだからこそ遣り甲斐があるのではないのか。
 胸が高鳴るのは、黒雲の間に、今朝抱いた望みの残照と《わづかに白くひらけてひかる東のそらが/互に溶けてはたらくためだ》。わたしの抱いている未来像(ヴィジョン)の方から見れば、野原のはての荷馬車も小さく見え、人もほそぼそと尖って煙っているようにしか見えないのだが、と言っているようだ。

 さて、この胸の高鳴りも長くは続かなかった。賢治が相手にしているのは、東北の厳しい自然なのだ。大正十五年、岩手県は《七月十七日まで雨量少なく植付けに困難を来した》(「現代詩読本」年譜)ほどであったという。そのために賢治の植えた菊芋も枯れてしまったのである。

 黒く燃されて
 開墾した土のなかに立ち
 うつつに雨を浴びてゐる
 いったいこれがおれなのか
    枯れた羊歯の葉
    菊芋の青い茎
    壊れて散った塔のまはりを
    いまいそがしく往来する蟻
 夏立ちの雨よ
 まっすぐ降りそゝいで
 おれの熱い髪毛を洗へ
             (大正十五年七月[驟雨はそそぎ]先駆形A)

 賢治は、茫然として雨にうたれながら畑の中に立っている。空地を耕して植えたというのではない。薮を伐り、焼き払い、土を耕して植えたのである。落胆のほどもうかがわれよう。これらのことを考慮してもなお、菊芋が枯れたことが、《いったいこれがおれなのか》と自己を確認するほどの出来事なのであろうか、という疑問が残る。こんなことは、数々の冷害を見てきた賢治にとっては、すでに織り込み済みではないのか。やはり六月に「農民芸術概論」を書いた自負、昂揚が基調にあって、菊芋の栽培に躓いた自分を見て、《われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか》という理想を掲げ、《正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである》と主張した自分が信じられなくなっているのである。だから、自嘲も込めて、《夏立ちの雨よ》《おれの熱い髪毛を洗へ》と言っているのだ。
 雨量が少なかったために菊芋は枯れてしまったのに、皮肉にも十八日から降りだした雨は、一ケ月以上も続き、今度は、北上川が増水した。増水した水が川岸の白菜畑を囲む。八月十五日、賢治は、《水はすでに/この秋のわが糧を奪ひたるか》(「増水」)と書いた。
 賢治の思惑を打ち砕くのは、自然の気まぐればかりではない。人間関係の軋轢もある。

 酸っぱい胡をぱくぱく噛んで
 みんなは酒を飲んでゐる
   (中略)
 みんなは地主や賦役に出ない人たちから
 集めた酒を飲んでゐる
  ……われにもあらず
    ぼんやり稲の種類を云ふ
    ここは天山北路であるか……
 さっき十ぺん
 あの赤砂利かつがせられた
 顔のむくんだ弱さうな子が
 みんなのうしろの板の間で
 座って素麺(むぎ)をたべてゐる
   (紫雲英(ハナコ)植れば米とれるてが
    藁ばりとったて間に合ぁなじゃ)
 こどもはむぎを食ふのをやめて
 ちらっとこっちをぬすみみる
             (九月三日、『饗宴』)

「紫雲英」(ゲンゲ)とは、レンゲソウのこと。緑肥にするため、水田の裏作にする。おそらくこの花の根が、空気中の遊離窒素を固定して蓄積していることを知っていた賢治は、話題が裏作の品種になったときに、紫雲英を薦めたのだろう。返ってきた言葉が、《ハナコ植れば米とれるてが/藁ばりとったて間に合ぁなじゃ》という言葉だったのだ。すると、詩の先の方の表現も推理できる。《われにもあらず》という表現には、言ってしまった後での後悔の念が滲じみ出ている。話題が、稲の種類の話になったときに、つい、自分が良いと思っている稲の品種の名前を言ってしまったのだ。ここには書かれていないが、何か屈辱的な言葉が返ってきたのだろう。そこで、仏典を持ち帰るために天山北路を歩んだ僧の忍耐を思って、屈辱に耐えているのである。この詩の先駆形の最終二行は、《はげしい疲れや屈辱のなかで/なにかあてなく向ふを望むだけなのに》となっていて、村を明るくすることの難しさを改めて実感した賢治の、途方に暮れている様が確実にうかがえるのである。


二、昭和二年、夏


 下根子に入ってから賢治は様々な活動を試みたが、最も精力的に取り組んだのは、稲作指導、とりわけ肥料設計であった。花巻の町や近くの村に肥料の相談所を設けた大正十五年(昭和元年)八月から、翌昭和二年の六月までになんと《二千の施肥の設計を終へ》(「野の師夫」)たらしいからである。これらの活動の中からもいくつかの詩が生まれた。朝、相談所へ行く道すがら発想を得たらしい「秋」(大正十五年九月)、状況説明はないに等しいのに、会話の一方の科白だけで稲作指導の現場に居合わせたような気持ちにさせてしまう、かの不思議な詩[あすこの田はねえ](昭和二年七月十日)などがそれである。
 事件は、[あすこの田はねえ]という詩を書いた十日後に起こったのだ。

 もうはたらくな
 レーキを投げろ
 この半月の曇天と
 今朝のはげしい雷雨のために
 おれが肥料を設計し
 責任のあるみんなの稲が
 次から次と倒れたのだ
 稲が次々倒れたのだ
   (中略)
 さあ一ぺん帰って
 測候所へ電話をかけ
 すっかりぬれる支度をし
 頭を堅く縛って出て
 青ざめてこはばったたくさんの顔に
 一人づつぶっつかって
 火のついたやうにはげまして行け
 どんな手段を用ゐても
 弁償すると答へてあるけ
             ([もうはたらくな]第三集)

 どうして賢治は、こんなに動揺しているのであろうか。《今朝のはげしい雷雨のために》自分が肥料を設計した稲が、次々に倒れてしまったからである。
 八月二十日の雷雨を待つまでもなく、兆候はあったのだ。七月十四日の日付のある[南からまた西南から](「詩ノート」)の一部には、

 この七月のなかばのうちに
 十二の赤い朝焼けと
 湿度九〇の六日を数え
 異常な気温の高さと霧と
 多くの稲は秋近いまで伸び過ぎた
 その茎はみな弱く軟らかく
 小暑のなかに枝垂れ葉を出し

というような表現も見出される。稲が伸び過ぎたために、かえって軟弱になってしまったことを危惧しているのである。ところが、この時点では、それほど危機感を抱いてはいなかった。ちょうど乾いた風が、汗を吸ったシャツを乾かすように、河谷いっぱいに吹く和風が、稲の葉に蒸散をうながし、ひいてはそれが肥料の吸収となって、やがて堅い葉と茎を作り出すという観測があったからである。

 森で埋めた地平線から
 たくさんの古い火山のはいきょから
 風はいちめん稲田をゆすり
 汗にまみれたシャツも乾けば
 こどもの百姓の熟した額やまぶたを冷やす
  あゝさはやかな蒸散と
  透明な汁液(サップ)の転移
  燐酸(ホス)と硅酸(シリカ)の吸収に
  細胞膜の堅い結束
             ([南からまた西南から]より)

 この期待を裏切ったのが、八月に入ってからの半月あまりの曇天と、二十日の朝の雷雨であった。そのために仕事が手につかないのだ。《どんな手段を用ゐても/弁償する》と、実際に言って回ったのかどうか、知りようもないが、「和風は河谷いっぱいに吹く」(先駆形)には、

 雨はいよいよ降りつのり
 遂にはこゝも水でいっぱい
 晴れさうなけはひもなかったので
 わたくしはたうとう気狂ひのやうに
 あの雨のなかへ飛び出し
 測候所へも電話をかけ
 続けて雨のたよりをきゝ
 村から村をたづねてあるき
 声さえ枯れて
 凄まじい稲光りのなかを
 夜更けて家に帰って来た
 さうして遂に睡らなかった

とある。夜更けまで、村々をたづねて歩いたのは、事実のようだ。
 ところで、「もうはたらくな」は、稲が倒れたのを目の当たりにして表現しているのに対して、「和風は河谷いっぱいに吹く」はその稲が起き上がった時点から、つまり、翌日の視点から書かれている。内容から言ってもそうであるし、詩中の《昨日の雷雨》という語句がよくそれを示している。それゆえ、八月二十日とあるのは、制作日ではなくして、詩の状況の設定の日付を表しているのである。
 話を元へ戻すと、二十日の日は《夜更けて家に帰って来た》([和風は……])のだとすると、これから《老いて盲ひた大先達》を訪ねようとしている[二時がこんなに暗いのは](「詩ノート」)は、その村々を回る途中での一場面ということになる。

 そしていったいおれのたづねて行くさきは
 地べたについた北のけはしい雨雲だ、
 こゝの野原の土から生えて
 こゝの野原の光と風と土とにまぶれ
 老いて盲ひた大先達は
 なかばは苔に埋もれて
 そこでしづかにこの雨を聴く
             ([二時がこんなに暗いのは]より)

 賢治がこれからたずねようとしている《老いて盲ひた大先達》も、やはり励まされなければならない農民の一人なのか、それとも他に目的があってたずねようとしているのか。「大先達」を励ましに行くとは思えない。《いったいおれのたづねて行くさきは/地べたについた北のけはしい雨雲だ》には、苛立たしさが込められている。自分が動揺していて、なんとかそれを鎮めようとするのだが、それができない。その苛立たしさ。

 それにしても、不可解なのは、《おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が》という表現である。肥料を設計した以上、まったく責任がないとは思えないが、かと言って、全責任があるとも思えない。だいたい、賢治の設計した肥料は、二千を越えるという。六月の二十日に[金策も尽きはてたいまごろ](「詩ノート」)を書いている人間には、一件の弁償もおぼつかなく思えるのだが。

《ぼくはうちの稲が倒れただけなら何でもないのだ。ぼくが肥料を教へた喜作のだって、それだけならなんでもない、それだけならぼくは毎日鉄道へ出ても行商してもきっと取り返しをつける。けれども、あれぐらゐ手入をしてあれぐらゐ肥料を考へてやって、それでこんなになるのならもう村はどこももっとよくなる見込はないのだ。ぼくはどこへも相談に行くとこがない》
             (「或る農学生の日誌」)

 なぜか、この日誌は、昭和二年の八月二十日ではなく、二十一日になっている。それは、よいとして、重要なのは《あれぐらゐ手入をしてあれぐらゐ肥料を考へてやって、それでこんなになるのならもう村はどこももっとよくなる見込はないのだ。》というところであろう。賢治が、あえて農学校を退職して、下根子桜で農村活動を始めたのは、肥料設計や稲作指導によっていくらかでも農村の改善が可能だという見通しがあったからである。それだからこそ、二千枚を越える肥料設計書を献身的に作成したのだ。それが、半月あまりの曇天と二十日の朝の雷雨のために潰えてしまおうとしているのである。動揺しているのは、そのためだ。後日、[二時がこんなにくらいのは]が、

 もう村村も町ゝも、
 衰へるだけ衰へつくし、
 うごくも云ふもできなくなる
 たゞそのことを考へよう……
             ([倒れかかった稲のあひだで]より)

 と書き改められたのにも訳があったのだ。最良の技術を投入したにもかかわらず、稲が倒れてしまったなら、もう村の発展は望めないのである。そこまで追い込まれたのだ、ということである。ただ、他に農民との軋轢を思わせる詩もあり、冒頭の三行、

 倒れかかった稲のあひだで
 ある眼は白く忿ってゐたし
 ある眼はさびしく正視を避けた

という表現に接した後では、自分が行った肥料設計や稲作指導が、農民たちに理解されないのなら、もうこんな活動は止めて、村も町も衰退するがままに任せようという風にしか、つまり、活動を放棄しようとしているようにしか読めないことも確かである。こういうところに、賢治が、病気で倒れる前に、挫折していたのではないか、と思わせる一因がある。
 作品に日付はないものの、やはり八月二十日のこととして書かれている「野の師父」という詩がある。《四日つゞいた烈しい雨と/今朝からのこの雷雨のために/あちこち倒れもしましたが》という表現からそれが判かる。また、

 師父よあなたを訪ねて来れば
 あなたは縁に正しく座して
 空と原とのけはひをきいてゐられます

という表現、とりわけ《けはひをきいて》と注意深く表現されているところを見ると、師父は、《老いて盲ひた大先達》([二時がこんなに暗いのは])のことであろうと推察される。ところが、この詩には、

 なおもし明日或は明後
 日をさへ見ればみな起きあがり
 恐らく所期の結果も得ます

というような表現や、

 しかもあなたのおももちの
 その不安ない明るさは
 一昨年の夏ひでりのそらを
 見上げたあなたのけはひもなく
 わたしはいま自信に満ちて
 ふたゝび村をめぐらうとします

というような表現が見出される。先に引用した[もうはたらくな]の、仕事が手につかない狼狽ぶりからは、考えられないことである。もちろん、それは、師父と会うことによって自信を取り戻したと考えることもできるだろう。それでは、《遂に睡らなかった》という表現や、《十に一つは起きれまいと思ってゐた》(ともに[和風は河谷いっぱいに吹く])というような表現は、どう考えたらよいのか。《遂に睡らなかった》人間が、今は倒れている稲も、陽射しを受けさえすれば、必ず起き上るという自信を持っていたとは思えないし、《十に一つは起きれまいと思ってゐた》人間が、《自信に満ちて/ふたゝび村をめぐらうとし》たとは思えないからである。
 原因は、「野の師父」という詩の中にありそうに思える。たとえば、

 この野とそらのあらゆる相は
 あなたのなかに複本をもち
 それらの変化の方向や
 その作物への影響は
 たとへば風のことばのやうに
 あなたののどにつぶやかれます

というような表現。師父がこのような能力を持っていることを認めてしまえば、師父のおももちが明るいということは、今年の稲の収穫の見通しが明るいということになり、たしかに、あえて、

 四日つゞいた烈しい雨と
 今朝からのこの雷雨のために
 あちこち倒れもしましたが
 なほもし明日或は明後
 日をさへ見ればみな起きあがり
 恐らく所期の結果も得ます

などと言う必要もなくなり、

 この雷と雨との音に
 物を云ふことの甲斐なさに
 わたくしは黙して立つばかり

になってしまうということも首肯けないことでない。しかし、師父が、野と空の一つの相から作物の影響を測ることができる、ということを認める限りにおいてである。そもそも、師父が、《この野とそらのあらゆる相》の複製を持っているかどうかさえも、わたしには疑わしく思える。つまり、それらは、言ってみれば、賢治の推測、もしくは願望でしかないはずなのに、あたかも事実であるかのように表現されるところが問題なのだ。それ以上に、八月二十日に師父を訪れた時点で、まだ稲が起きあがっていない時点で、そう思えたのかということである。思えなかったから、その夜、《遂に睡らなかった》のだし、翌日、稲が起きあがったときの喜びが、ひとしお大きかったのではないのか。
 ある顔の表情の意味が、後になってからわかるということがある。「野の師父」のおももちの明るさも、そのような類いのものだったのではないか。《気狂ひのやうに/あの雨のなかへ飛び出し》た時の賢治には、師父のおももちの明るさの意味が掴めなかった。ところが、翌日、稲が起き上ったのを目の当たりにして、師父の表情の意味が、稲が起き上ることを見越してのものだったことに気づいたのである。気づいた時に、師父の存在が急に眩しく思われたのだ。この詩が、後に「表彰者」になったことを考えると、《老いて盲ひた大先達》を理想化するあまり、事実の方を歪めてしまったようだ。

 八月の二十日に倒れた稲が、そのままであったなら、賢治は、農村活動を放棄したかもしれなかった。しかし、起き上ったのである。

 もうこの次に倒れても
 稲は断じてまた起きる
 今年のかういふ湿潤さでも
 なほもかうだとするならば
 もう村ごとの反当に
 四石の稲はかならずとれる
             (「和風は……」先駆形)

《当時湯口村の篤農家松岡喜造の最高収量が反当三石、普通二石》(堀尾年譜)というから、「四石」は、大言壮語に過ぎるとしても、このとき、賢治は自分の肥料設計、稲作指導に絶対の自信を得たと言ってよい。だから、これまで以上に詩作も旺盛になっていいはずである。ところが、昭和三年六月に大島を旅行した際の一連の詩、「三原三部」、「東京」は例外として、「詩ノート」を見ても、『春と修羅第三集』を見ても、昭和二年八月以降、昭和三年の八月に病気で倒れるまでの間に書かれた詩は、数えるほどしかないのである。
 ただ単に、作品番号や製作日が付されなくなったことから、そう見えるだけなのか、実際に寡作になったのか、『春と修羅詩稿補遺』の中から、この時期の作品を選び出すことが不可能に近い以上、どちらにも決められない。昭和二年の秋から昭和三年の夏までの年譜をみれば、大正十五年の秋から昭和二年の夏までと大差のない生活をしているはずなのに、この時期の詩が少ない(少なく見える)ということが、この時期の賢治の生活が萎んで見えるのも確かなのである。それが、病気で倒れる前に農村活動に挫折していたのではないかと思わせる、もう一つの原因である。


三、その巨きなもの

 賢治には、村人や農民になかなか受け入れられないという現実があった。その距離を縮めたいという願望が、他人の視線に自分への反感を感じさせ、内省へと向かわせたようである。

 (この逞ましい頬骨は
  やっぱり昔の野武士の子孫
  大きな自作の百姓だ)
 (息子がいつでも云ってゐる
  技師といふのはこの男か
  も少しからだも強靭くって
  ひどい仕事ができさうもない
  だまって町で月給とってゐればいゝんだが)
             (「会見」…「春と修羅詩稿補遺」)

 賢治が下根子にいた頃、かっての教え子の家か、肥料設計を行った農家の子息を訪ねたときのことであろう。その父親にかなり辛辣な言葉を浴びせかけられている場面を想像してしまう。ところが、この詩の先駆形である「吟味」という詩を見ると、事情はかなり違ってくる。

 うしろではまだ じろじろおれを見てゐることは
 おれの首すぢが白い光を感じてゐるので明かだ
 あの頬骨と深く切れた眼だ
 さすがはむかしの野武士の子孫
 台湾へ砲兵にも行ってきただけあって
 丈六尺(数文字不明)男が
 (むすこの重隆がいつでも云ってゐる
  農学校の先生というのはこのアンコか
  なあにこいつが百姓なんて
  とてもやり切るもんではない)と
 さう考へて眺めてゐる

 農夫の言葉と思われた部分は、明らかに賢治の側の勝手な憶測である。憶測なのだが、賢治の独創という感じもしない。新たに付け加えられた部分、《だまって町で月給とってゐればいゝんだが》同様、他の場所で、他の農夫に言われたことをそっくりそのまま挿入しているように思う。この挿入された言葉には、随分含みがあって、《だまって》というのは、「何もしないで」という意味であろうから、賢治の農村活動を暗に批判しているのだし、村人の町への、天候に左右されずに毎月一定の収入が得られることへの農民の、羨望と侮蔑のないまぜになった感情が、これだけの言葉のなかに凝縮されている。
 詩「饗宴」の中で、自分を天山北路を渡る僧になぞらえて耐えていたときにも、これに似た言葉が返ってきたにちがいない。また、部落の共同作業に出られずにお金を納めた時にも、《なあに金出す人ぁ困らなぃ人だがら》([たんぼの中の稲かぶ八列ばかり])と徴収した人が言っていたことを書き留めている。この手の言葉を列挙したらいとまがない。
 これら自分への反感を、賢治は、随分、気にしていて、早朝、自分で栽培した野菜や花を売りに町へ向かう道すがら、一緒になった農夫の眼差しにも同様のものを想定し、その処方まで案じている。

 馬をひいてわたくしにならび
 町をさしてあるきながら
 程吉はまた横眼でみる
 わたくしのレアカーのなかの
 青い雪菜が原因ならば
 それは一種の嫉視であるが
 乾いて軽く明日は消える
 切りとってきた六本の
 ヒアシンスの穂が原因ならば
 それもなかばは嫉視であって
 わたくしはそれを作らなければそれで済む
 どんな奇怪な考が
 わたくしにあるかをはかりかねて
 さういうふうに見るならば
 それは懼れて見るといふ
 わたくしはもっと明らかに物を云ひ
 あたり前にしばらく行動すれば
 間もなくそれは消えるであらう
 われわれ学校を出て来たもの
 われわれ町に育ったもの
 われわれ月給をとったことのあるもの
 それ全体への疑ひや
 漠然とした反感ならば
 容易にこれは抜き得ない
             ([同心町の夜あけがた]より)

 どうして、こうも自分への反感にこだわらなければならないのか、という疑問に応えているのは、次の詩であろう。

 土も掘るだらう
 ときどは食はないこともあるだらう
 それだからといって
 やっぱりおまへらはおまへらだし
 われわれはわれわれだと
   ……山は吹雪のうす明り……
 なんべんもきゝ
 やがてはまったくその通り
 まったくさうしかできないと
   ……林は淡い吹雪のコロナ……
 あらゆる失意や病気の底で
 わたくしもまたうなずくことだ
             (三月十六日[土も掘るだらう])

《おまへらはおまへらだし》というところを、《われわれ学校を出て来たもの/われわれ町に育ったもの/われわれ月給をとったことのあるもの》に置き換えて読んでみると、賢治が言われていたことがよく解かる。村の賦役にでも出たところで、このように面と向かって言われたら、時とともに言葉が沈殿していくのを避けられないだろう。何度も反趨しなければならない所以である。

 いつかは怒ってすまなかった
 中学生だのきみが連れてきたもんだから
 それに仕事の休みでない日
 ぼくのところへ人がくると
 近処でとてもおこるんだ
 休み日は村でちがふんだ
([しばらくだった]より)

 反感を買わないように、村人にどれだけ気を使っていたかを示す好例である。


 さて、先の詩の《あらゆる失意や病気の底で》というような表現が、あらぬ誤解を生むのではないだろうか。過労か、それとも粗食が原因か分からないが、賢治が、下根子に移ってからずっと病気がちであったことは、《村へ来てからからだの工合が悪い》(「もう二三べん」)という詩から判かる。また、[土も掘るだろう]の詩の書かれた前月、昭和二年の二月一日に岩手日報夕刊に羅須地人協会の紹介記事が載った。治安維持法が成立したのが、大正十四年三月。《賢治は、思わざる累が協会員に及ぶことを恐れ「誤解を招いてすまない」と》(現代詩読本年譜)協会の活動を自粛したようである。この農閑期に、肥料設計や稲作指導の失敗は考えられないので、賢治は、この出来事を指して、「失意」と言っているのだと思う。

 次の詩の場合も、かっての教え子か誰か、顔見知りの者が、眼をそらしたのを見て、そ心理を探ってみたものである。

 火祭で、
 今日は一日、
 部落そろってあそぶのに、
 おまへばかりは、
 町へ肥料の相談所などをこしらえて、
 今日もみんなが来るからと、
 外套など着てでかけるのは
 いゝ人ぶりといふものだと
 厭々ひっぱりだされた圭一が
 ふだんのまゝの筒袖に
 栗の木下駄をつっかけて
 さびしく眼をそらしてゐる
             (「火祭」より…「春と修羅詩稿補遺」)

「会見」のときと違っているのは、出自や経歴への反感ではなく、賢治の農村活動への反感である点である。

 くらしが少しぐらゐらくになるとか
 そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは
 いまのまんまで
 誰ももう手も足も出ず
 おれよりもきたなく
 おれよりもくるしいのなら
 そっちの方がずっといゝと
 何べんそれをきいたらう
    (みんなおなじにきたなくでない
     みんなおなじにくるしくでない)
             (「火祭」より)

 火祭の光景とは何の関わりもない、この連の出現は、いかにも唐突な感じがするのだが、前後をよく読み合わせてみると、《くらしが少しぐらゐらくになる》という表現が、《肥料の相談所などをこしらえ》るという表現に促されて出現していることに気づく。賢治が、肥料相談所を設けて肥料設計を行うのは、稲の収穫量を増やすことを考えてのことである。ところが、それを望まない農民もいたのである。《いまのまんまで/誰ももう手も足も出ず/おれよりもきたなく/おれよりもくるしいのなら/そっちの方がずっといゝと》言う農民が。向上心も、同胞意識もない、この言葉に、賢治は、僅かに《みんなおなじにくるしくでない》と、不満を継ぐだけである。そればかりか、

 さうしてそれもほんたうだ 
    (ひば垣や風の暗黙のあひだ
     主義とも云はず
     たゞ行はれる巨きなもの)
             (「火祭」より)

と、容認してしまうのである。そして、その理由はわたしたちには明かされない。これが、「会見」という詩の場合なら、南の地平の方を眺めている農夫の眼に、

 (ぜんたいいまの村なんて
  借りられるだけ借りつくし
  負担は年々増すばかり
  二割やそこらの増収などで
  誰もどうにもなるもんでない
  無理をしたって却ってみんなだめなもんだ)
             (「会見」より)

という意見を読み込んで、何ら反論することなく、《じつにわれわれは/遠征につかれ切った二人の兵士のやうに/だまって雲とりんごの花をながめるのだ》と、疲労感を述べたとしても、賢治の肥料設計や稲作指導による増収によっては、借金の負担に追いつかない農家が少なからずあったろうと思われるので、疑問には思われない。だが、「火祭」には、納得のいく表現がないのである。そこで、当時の農業について少し調べてみると、昭和二年の例で、全農家戸数中、自作農は三十一・二%、自作農兼小作農が四十一・九%、小作農は二十六・九%である。小作料は、物納がおもで、それも実収高の約半分に及ぶ高率であったという。(以上、山口和雄著、「日本経済史」、筑摩書房)つまり、品質の向上なり、収量の増大は、地主の利益にこそかなえ、小作人にとっては、手間ばかりかかって、実質的な小作料の引き上げに等しかったことが、判かる。
 もちろん、「火祭」には、農夫が自作農であるか、小作農であるかは書かれていないが、自作農が収量の増加を厭う理由は考えられないから、自作農兼小作農か、小作農と見てよいであろう。
 当時の小作農の置かれた状態について、賢治がまったく無知であったとは思われない。いや、小作農にとっては、収穫量の増大が必ずしも彼らの利益に結び付くわけではないことを知っていたからこそ、農民の言葉を容認せざるをえなかったのではないか。ただ、どうしても《おれよりもきたなく/おれよりもくるしいのなら》という、他人が自分より苦しんでいることで現状に満足しようとする頑迷さは、許容できなかった。それで、その頑迷さを《主義とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの》と言ったのである。農民の、自分への反感の下層に、そういうものが、動かしがたく横たわっているように感じられたのであった。

 相手の視線に自分への反感を感じたというのとは少し違って、けっして相手が非難めいたことを言っているわけではないのに、過度に反応して傷ついているようにしか見えない作品がある。「境内」という詩である。《どらをうったり手を叩いたり》という表現も見えることから、あるいは稲作にまつわる行事なのか、有志が集まって稲の成長の具合を見て回っているのか判らないが、とにかく昼休みのことである。

 みんなが弁当をたべてゐる間
 わたくしはこの杉の幹にかくれて
 しばらくひとり憩んでゐよう

 どうして、杉の幹にかくれていなければならないかと言うと、弁当を持って来なかったからである。それというのも、《空手で来ても/学校前の荒物店で/パンなぞ買へると考へた》からである。ところが、売っていなかった。それどころか、店のじいさんに、

 パンだらそこにあったけがと
 右手の棚を何かさがすといふ風にして
 それから大へんとぼけた顔で
 ははあ食はれなぃ石バンだと

からかわれる始末である。しかし、この程度の冗談を言われただけで、

 あのぢいさんにあすこまで
 強い皮肉を云はせたものを
 そのまっくらな巨きなものを
 おれはどうにも動かせない
 結局おれではだめなのかなあ

というのは、大袈裟過ぎはしないか。それ以上に、これらのことが、

 あゝ杉を出て社殿をのぼり
 絵馬や格子に囲まれた
 うすくらがりの板の上に
 からだを投げておれは泣きたい

というほどのことであろうか。泣きたい理由は、もっと他にあったのではないのか。いや、そうではあるまい。ちょうど、「会見」や「火祭」で、自分への反発の言葉の深部に《主義とも云はず/ただ行はれる巨きなもの》(「火祭」)が横たわっていたように、おじいさんの冗談にも同様のものを感受したのだ。そうでなければ、あったはずのところにパンが見つからず、近くに石盤(『グスコーブドリの伝記』にこの語がある。)があったので、パンとバンを掛けて、《ははあ食はれなぃ石バンだ》と軽い冗談を言ったにすぎないのに、それを、《強い皮肉》と受け取ったりはしないであろうし、《そのまっくらな巨きなものを/おれはどうにも動かせない/結局おれではだめなのかなあ》などと弱音を吐いたりはしないであろう。あるいは、身体的な衰弱が一つの要因かもしれないが、事あるごとにそれに対すると同一の反応を示してしまっているのである。ただ、「境内」に、「会見」や「火祭」と決定的に違うところがあるとすれば、「会見」や「火祭」には《主義とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの》を動かそうという意志が感じられないのに対し、「境内」はそういう意志を捨てていないということである。むしろ、「境内」の最終の二行は、

 無畏、無畏
 断じて進め

と自分を鼓舞しているのである。

 ここで、「境内」がいつごろ書かれたのか考えてみたい。この詩の中に「ま夏の」という語が見える。賢治が下根子に入ってから迎えた夏は、大正十五年、昭和二年、昭和三年の三年しかない。大正十五年の夏と言えば、「羅須地人協会」を創立して、理想に燃えていたころであり、弱気であるはずがない。また、昭和二年の夏について言えば、七月、八月(二十日まで)に限っても、「詩ノート」の作品番号に欠番はなく、この年に書かれたとは考えにくい。残る昭和三年についてだが、この年の真夏に書かれたとはっきりわかっているのは、七月二十四日付の「杏」(「穂孕期」の先駆形)一篇だけである。
「境内」の背景は昼、「穂孕期」の方は夕方。試みに、二つの詩を同日の作品として読
んでみる。つまり、その日は、

 約束をしてみな弁当をもち出して
 じぶんの家の近辺を
 ふだんはあるかないようなあちこちの田の隅まで
 仲間といっしょにまはってあるく
             (「境内」より)

そうして、

 蜂蜜いろの夕陽のなかを
 みんな渇いて
 稲田のなかの萱の島、
 観音堂へ漂い着いた
             (「穂孕期」冒頭)

という風に。驚くほど違和感がない。もちろん、この二つの作品の着手日が同日でなければならない理由はどこにもないので、わたしはこの思い付きに固執する気はない。「境内」が、昭和三年の真夏に書かれたという感触が得られればよいのである。
 これで、わたしの頭の中が少し整理できそうである。賢治は、昭和三年の夏まで、言い換えれば、八月の十日に病気で倒れるまで、下根子での活動が失敗であったとは思っていなかった。やはり《半途で自分が倒れた訳》(年月日不詳書簡)なのだ。だから、「春と修羅詩稿補遺」の中の、挫折感の漂ういくつかの作品、たとえば、[土も掘るだろう]、「会見」、「火祭」などは、病気が回復してから改稿されたものだと思う。

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