中空の日々

須永紀子



コール音が2回で消えて 夫が駅に着いたとわかる 暗くなった部屋の床から ためいきのようにゆっくり わたしは起きあがるだろう 窓から一日 中空を眺めていた そこには記憶のかすかな〈しみ〉が いくつも散っていて 見飽きるということがない 柔らかい黄色の〈しみ〉 その色の電車に乗って 恋人が待っている駅に行ったことがある 城跡のある公園でわたしたちは 何度もキスをした 後ろを子どもや自転車が通っていったけれど わたしたちには場所がないのだから 正当なのだと思った 帰りの電車の時間が来るまで 身体を寄せ合って 分厚いコートの上から 互いの骨や肉をそっとつかむ それだけで幸福な気持ちになれた 遠い恋の記憶 レモン色の〈しみ〉 男が水のように胃液を吐いている わたしは洗面器の中身を捨て 洗って男に差し出す ごめんと何度も男は言う かまわないとわたしは答える ほかにすることを思いつかないので 書棚に寄りかかって目をつむる 夜が明けたらわたしは始発電車で帰るだろう その後のことは考えない 鮮やかなレモン色の洗面器だった 初夏の青梅に行ったことがある 緑の〈しみ〉はそのときのもの 白い服しか着ない友人も 〈しみ〉の一つになっていて わたしはいつでも その一点に入っていくことができる 立ち上がりキッチンに行き 冷蔵庫を点検して献立を決めるのだ と強く思う 思うことで ようやく身体が動きはじめる 魚をグリルに入れ点火する 青い煙が窓から出てゆき あたりに漂い立ちのぼる それをめざして夫は歩いてくるだろう このことも 明日になれば青い点になっていると思う また朝がやってきて わたしはきっと中空を眺める 〈しみ〉の記憶を読むために そしてときには 新しい記憶を〈しみ〉に変えるだろう

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
[No.28目次] [前頁(節分 ――腐蝕画――)] [次頁(大いなる木の内部で)]
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