車窓夜曲

海埜今日子



水を吸った生き物のように、街は際というキ ワで完全なもろさを保っていた。さしだす手 に、街は裏返るようにほとりへ、別の透けか たに退いてゆく。「〇〇は思い出せない真昼 に関する省察を、ちびた鉛筆でクリップする。 」レールから連綿と、窒息まじかの魚のふる える銀(あるいは不完全なひとしずく)。眺 めている、眺められている。眼窩のくぼみに そって、すりぬけてゆく車窓。 どこかで鍵の音色がうったえる、ふやけたよ うな銀の香り。ゆだねた身が、いくたびも街 をまとって透けている。ルールルルと鍵はつ むぎ、リーリリリと停車のつど、ドアはやさ しく唱和する。「進めるうち〇〇は、真昼の 欠如を受けとらざるをえなかった」。街が不 完全な銀のしずくをレールにもたらし、侵食 しつつ、安らわせていたかもしれない。鉄橋 のわずかなきしみが、川を車窓にさしだして くる。死んだ魚の夜が投身し、黒いそよぎが つかの間走るのを、眺めた気がする、眺めた かった。どこかで鍵が跳ねあがり、急停車す る。 車窓は真空のように研ぎ澄まされていた。は ぎとられた街のかたちに、魚のちいさな顔が 浮かびあがる。列車は真昼をたまねぎのよう にむきながら、加速をうながしていた。魚の 死が鍵をひとつほうりあげる。車窓は街を透 かすことで、キワという際をえぐるように進 んだ。「〇〇の持つ鉛筆のみじかさが、街に おける真昼の欠けかたをほぼ忠実になぞって いる。」車内が明るすぎると、うつむく者の 目が、ちらちらと銀にこぼれてゆく。眺めて いましたか、眺められませんでした。停車駅 がのろのろと、手招きしながら立ちあがる。 「〇〇の真昼の省察が、影に触れることを希 求したのかもしれなかった。鉛筆は終えた役 割のなか、安らかに横たわっている。」しず かな駅だった。ドアが鍵のようにうなった。 鉛筆がルーロロルと、たどたどしく口ずさむ。 しずかな川だった。スケッチを、と眺める者 は言い、車窓は眺めた街をはぐことで帰ろう とした。ドアの向こうへ、あるかなきかのル ーリロルが渡ってゆく。

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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