木馬

木嶋孝法



そして、いつも何かが欠けている ある曲想があって 弾こうとして手にしたギター 第一弦が切れてしまっていて、使えない 歌ってみるはずだったのに 曲想が消えてしまうかもしれない 消えてしまう曲想、忘れられてしまう歌  ^^ポール・ニザン    孤独な魂 Y氏が同郷であることを知らされ 氏の訳書を探して 二軒の書店と、一軒の古本屋を回った ここに(古本屋の書棚に)「ポール・ニザンの生涯」があるな そのことだけを確認して やけに冷え込む夜道を手ぶらで帰ってきた X子が「シンデレラは眠れない」を弾いてくれと言い Y子が「霧のソフィア」を弾いてくれと言う 十八頁の「無言劇」が易しいとも言う ちょっと譜面をなぞってみたが ちっとも曲のイメージがつかめない 初見で弾けたのは 朝から晩までギターばかりを弾いていた頃のこと お嬢さんたちよ 無理な注文はしなさんな 聞いたこともない曲を 弾いてくれったって このおじさんには酷なんだ しかし、なぜ「シンデレラは眠れない」のか 電話が鳴る 酩酊の態である 受話器の向こうで 母が涙声で訴える 父がしきりにわたしの名前を呼ぶのだと 病魔と闘っている父の姿を 賢治が妹トシ子の病状を気遣っていたことと 重ね合わせに想い浮かべる こんな電話をいままでに何回、聞かされてきただろう 例によって そんな気もないのに 「帰ろうか」と言うと 「帰ってはいけない」と言う 「おまえが帰ってきたら、お父さんは、いよいよだ、と諦めてしまう」と言うのである だんだんわたしは苛立ちを覚えるようになってくる いつもこのパターンに陥しめられてきたと いつもこのような関係性に囚われてきたと 電話が終わった後で 時計を見る 朝の五時半である 別に、シンデレラではなくとも眠れないときがある バイト先の仕事で四谷へ向かう 途中、「幻獣辞典」、「ボルヘス怪奇譚集」、「ポール・ニザンの生涯」を買ってくる Y氏の肩書、S大助教授 ふと、体育の単位のみをもらうためにだけ S大へ捺印をもらいに行った嫌ーな記憶がよみがえる バイトに入る時間が一時間ほど遅れた 「なぜ電話をしない」と言われて、たしなめられた まさか、昨晩、ニザンの生涯を遅くまで読んでいて 朝、起きれなかった とも言えまい メルロ=ポンティはなぜ、サルトルが言う意味ではなくニザンを読め、と言ったろう この問いだけは解けた サルトルもボーボワァールもニザンを理解しえていないことを、メルロ=ポンティは言いたかったのだ ニザンを理解するためには、サルトルらのニザン像を別途に考える必要がある 「トロイの木馬」あたりから入って行こうか トロイの、トロイの、トロイの木馬 たしか、ホメロスの叙事詩の中の そして、いつも何かが欠けている ニザンの著作集が多々並んでいるのに 「トロイの木馬」がないのである 「トロイの木馬」の暗号のように 顧みられない曲想のように

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木馬-宮沢賢治論 緩やかな転換 1-宮沢賢治論 緩やかな転換 2-宮沢賢治論 緩やかな転換 3-『雁の童子』考-宮沢賢治論 下根子時代――農民芸術論の構想と現実

宮沢賢治論 連載第一回
緩やかな転換
     ――報告者の位相から自己表現の位相へ――

木嶋孝法



○『葡萄水』
 制作日が付されている童話の中から、「童話的構図」類のすぐ後にくる作品を探せば、『かしはばやしの夜』(大正十年八月二十五日)ということになるが、この作品には、初期形の一部が残っていて、それを見ると、この作品は、その初期形と『葡萄水』を基に、後日、改稿してできあがったことが解る。初期形、『葡萄水』とも臨場感に富み、帰花して間もない頃の作と考えられるので、「注文の多い料理店」集の目次に付されていたという『かしはばやしの夜』の制作日は、その日付の若さから言っても、むしろ初期形、『葡萄水』の創られた時期を表わしていると見た方がよさそうである。季節は秋で、『かしはばやしの夜』と一致する。すなわち、『雪渡り』の前に制作された作品と見なす、ということである。
 さて、『葡萄水』は、花や虫に自己移入することで、意外な視覚や表現を見出して、そのことに興じている作品でもなければ、花や虫に自己移入することで生まれる幻想に倫理的に反応し、その反応した倫理観によって予め構成が計られている作品というのでもない。それらの方法に依らずに、一レポーターが、あたかもマイク片手に一人の農民の挙動を逐時報告するがごとく《大きげんでのっしのっしと、野原を歩いて参ります。》などと表現する。レポーターであるから、話の展開の中に自己の思想を反映させるというようなことはせず、時には《一日いっぱいの葡萄ばかり見て、葡萄ばかりとって、葡萄ばかり袋へつめこみながら、それで、葡萄がめずらしいと云ふのなら、却って耕平がいけないのです。》という具合に直接、寸評を差し挟んだりもする。作者の越権行為だ、という声をあげるのも憚れるほど、レポーターに徹しているのである。このレポーターの報告するところによれば、耕平が密造した葡萄酒の瓶はみんなはじけてなくなってしまい、耕平はこれで酒の密造に懲りた、ということである。簡単に言ってしまえば、これは、酒の密造の失敗譚である。あるいは、「悪いことはできないものだ」という教訓劇とも取れる。だから、酒を密造することに、作者の咎め意識が働いている、そういう倫理観によって予め作品の構成が計られている、と言えなくもない。そういう意味から言えば、妬み心のために赤いダリヤがやくざに首を折られてしまう『まなづるとダアリャ』や、同じ理由で顔が真っ黒になってしまうひなげしの出て来る『ひのきとひなげし』などと大差のない作品ということになる。違っているのは、自己移入の方法に依っていないということだけである。だから、『葡萄水』は、自己移入に依らずとも、倫理的に抵触してくる事柄があれば、その障りによって一篇の作品を作ることが可能になっていることを示している作品、とも言えそうである。そして、その自己移入に依っていないということ、言い換えれば、物語が自分の脳裡に浮かんだものではなく、現実に依拠するところが大きかったということが、創作者を志向しながら、否応なく報告者の位相に留まらざるをえないという事態を招いている。作品の中に作者の寸評が顔を出すのも、報告者である限り、そこに己れの仮構力を参入させることは難しく、そのことへのフラストレーション、苛立ちが生まれるからであろう。詩歌の創作とてしかり。あるいは、詩歌が挿入されている作品を眼にして、それなら自分も、と意気込んで、作品の中に自作の詩歌を盛り込んだ、とも考えられる。ここで言っているのは、登場人物に作者が歌わせている詩歌のことではなくして、歴として作者自身の作として提出されている詩歌のことであるから、『双子の星』、『蜘蛛となめくぢと狸』の二作に取り入れられている、登場人物に歌わせる詩歌は問題外である。『葡萄水』に提出されている、五つの詩歌の内、少なくとも三つは、この報告者の即興詩、と言うに留まらず、それまでに起こった出来事の要約詩であるという事実を、特に強調しておきたい。作者はバランスを取っているのだ、と考えれば、ここは解り易くなる。報告する話の想像に自分が関与していないことや、また、できないことの手応えのなさを、寸評や、詩歌の創作によって埋めているのである。

《参ります。参ります。日暮れの草をどしゃどしゃふんで、もうすぐそこに来てゐます。やって来ました、お早う、お早う。そら、
耕平は、一等卒の服を着て、
野原に行って、
葡萄をいっぱいとって来た、いいだろう。
「ふん、あだりまぃさ。あだりまぃのごとだぢゃ。」耕平が言ってゐます。》

 ここに、レポーターの即興詩が見えている。絶対に歌ではない。それが証拠に、歌の場合には、『双子の星』などと等しくこの作品でも、〈「〉が付いている。しかし、これが、レポーターの詩であるなら、どうして耕平の耳に聞こえたのだろう。聞こえなかったとするなら、いったい耕平は何に対して「ふん、あだりまぃさ。あだりまぃのごとだぢゃ。」と言ったことになるのか、皆目、見当が付かない。
 とにもかくにも、言えることは、酒の密造の失敗譚を書くためだけなら、寸評も、また詩歌の制作も、必要ではないということである。――耕平は野原に行って野葡萄をいっぱい採ってきて、葡萄酒を造ろうとしましたが失敗しました。これに懲りた耕平は二度と酒を密造しようとはしませんでした――ぐらいで充分なのである。つまり、この作品は、自己移入に依らずに、作品を制作しようとしていることを示しているばかりか、明らかに、目的意識的に詩歌(即興詩、要約詩)の導入を計った作品なのだということである。そのために、却って辻妻が合わなくなってしまった失敗作なのだ。花や虫に自己移入している時には、浮かんでくる幻想をただ綴って(報告して)いるだけで、自己の独創性を発揮できていた。そもそも、浮かんでくる幻想自体が、自己固有のものであったから。しかし、自己の創造性がまったく関与していない現実の出来事に対して、この方法は破綻をきたした。それゆえ、作者自身の手によって《不要!》と書かれる悲運を負うことになる。この失敗が、どう克服されたかを、『かしはばやしの夜』を通して調べてみよう。

○『かしはばやしの夜』
「かんから」と言えば、空き缶のことだし、「がんがらがん」と言えば、映画館や銭湯などに客がいなくて空っぽだということで、いずれにせよ、空に通じる。空っぽだということを、もっと強調したいときには、多少ふざけて「がんがらんがんのがんだ」と言ったりもする。まあ、「得意中の得意」などと同様の表現だ、とみることができる。「しゃっぽ」と「空っぽ」。あるいは、「う金しゃっぽの」とやったので、「空っぽ」を連想して、「カンカラカンのカアン」と続けたのかもしれない。というのは考え過ぎで、単なる出任せの語呂合わせに過ぎないのかもしれない。
 う金、すなわち鮮黄色のシャッポを被っているのは、農夫の清作で、「う金しゃっぽのカンカラカンのカアン」と怒鳴ったのは、絵描きである。仕掛けたのは絵描き。これは農夫への宣戦布告である。

「何というざまをしてあるくんだ。まるで這ふようなあんばいだ。鼠のやうだ。どうだ弁解のことばがあるか。」

 と言ってはいるものの、この絵描きの苛立ちは、ただ単に歩き方がどうのこうのと言うのではなく、日々の暮らしに追われて、芸術の入り込む余地なぞなさそうな、清作の生活に起因しているように思われる。それゆえ、う金のシャッポの中身、つまり、おまえのおつむは空っぽだ、と怒鳴ったのである。
 清作は、その言葉の意味を理解できたのであろうか。

《清作はびっくりして顔いろを変え、鍬をなげすてて、足音をたてないやうに、そっとそっちへ走って行きました。》

 ここのところが奇妙なのである。夕暮れ時、ひとりの農夫が《稗の根もとにせっせと土をかけて》いてもいい。しかし、「う金しゃっぽのカンカラカンのカアン」という怒鳴り声が、向こうの柏林の方から聞こえて来たからといって、人はびっくりしたり、顔色を変えたりするものなのかどうか。だから、やはり、清作は、自分が馬鹿にされたと想ったから、慌てて鍬を投げ捨てて怒鳴り声が聞こえてきた方へ出かけていったのである。だいたい、「カンカラカンのカアン」という表現が、単なる言葉遊びに過ぎないとしたなら、それを言う前に《面倒臭くなったら喧嘩してやろうとおもっ》たりするわけがない。絵描きは赤いトルコ帽を被っている。「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」と言うことは、絵描きのおつむは空っぽだと言うことであり、相手が怒り出すかもしれないと思った。それゆえ、喧嘩になることも辞さないほどの覚悟がいたのだ。
 ところが、言われた方の絵描きは、怒り出すどころか、《まるで咆えるような声で笑ひだし》たのであった。いくら風采の上がらぬ絵描きとは言っても、芸術家は芸術家。こともあろうに、一介の百姓に、おつむが空っぽだなどと言われようとは予想だにしていなかったに違いない。あまりにも、意表を衝かれたので、怒りを通り越して、おかしさ百倍、というようなこともありうるだろう。しかし、絵描きの苛立ちが、日々の暮らしに追われて、芸術の入り込む余地などなさそうな、清作の生活にあるとすれば、清作の言葉は、反対に芸術にかまけて生活を顧みない人間への痛烈な批判になりうる。賢治の就職が決まったのは、十二月にはいってからのこと。この作品の執筆時、賢治は無職だったわけで、清作に言わせてみて、逆にその言葉が自分に突き刺さってきた、ということだって充分ありうる。いや、多分そうだ。

《ところが入口から三本目の若い柏の木は、ちょうど片脚をあげてをどりのまねをはじめるところでしたが二人の来たのを見てまるでびっくりして、それからひどくはづかしがって、あげた片脚の膝を、間がわるさうにべろべろ嘗めながら、横目でじっと二人の通りすぎるのをみてゐました。》

 《一本のごつごつした柏の木が、清作の通るとき、うすくらがりに、いきなり自分の脚をつき出して、つまづかせようとしましたが》

 これらの表現には、誰もが思い当たる節があるに違いない。節くれだった枝の広がる木が風に揺れて、その枝の動きが、人間の手足の動きのように見えたり、日の暮れるのも忘れて遊びに夢中になり、薄暗がりの林の中を帰ってくるとき、地面に突き出ている。大きな木の根に躓いて、いやというほど地面に叩きつけられたりしたこと。後者は、確かに学校の廊下などで足掛けされたときの感覚にどこか似ている。これらの感覚を通して、作者は木の動く様を擬人化していることが解る。そして、それが作品の中に散見する擬人化表現というのではなくして、擬人化することが、即、木の意識を想定することに繋がり、「童話的構図」類で見てきたのと同様の、自己移入の世界に入ってゆく。つまり、耕作の挙動をただ報告するだけでは、自分の仮構力を思うように発揮することができないという『葡萄水』での躓きを、自己移入の世界を再び現出することで、何とか切り抜けようとしているのである。
 夜、独りで柏林の中を歩いていると、風に揺れる柏の木々が、みんなで揃って踊っているように見える。また、枝葉の触れ合う音が、何か囁いているように聞こえる。いや、それぞれの樹々が、自作自演の歌を競い合っている様を仮想すると、これほど、感興をそそられる情景もまた、ない。今夜は、《夏のをどりの第三夜》、柏林の歌の競演会なのだ。
 確かに、賢治的な幻想世界を清作に見せるという方法を採れば、賢治の仮構力は如何なく発揮できるに違いない。そのためには、何と言っても清作を柏林へ連れてこなくてはならない。だから、絵描きが柏林の方から怒鳴ったのは、実は、清作を柏林へ連れてくるための呼び水であったのである。ところが、絵描きの口調を、そのまま、清作に口真似させたときに、この作品は、あらぬ方向へと導かれることになったのだ。
 たとえば、この作品に先行する『葡萄水』で、作者は、葡萄酒を密造しながら、「あだりまぃのことだぢゃ」と開き直ってしまう農夫の、言わば生活者のしたたかさを、何とか突き崩そうとしていたことを想起しよう。この作品だって、初めは、清作の生活者としてのしたたかさを突き崩そうという意企があったに違いないのだ。だから、仰(のっけ)から、絵描きに「う金しゃっぽのカンカラカンのカアン。」と怒鳴らせたのである。そして、作者は、柏の木の側にたって、九八本もの木を伐ったことの咎を責めようとしていたのだ。このことは、絵描きの清作への軽蔑となって現れていて、《絵かきはまた急に意地悪い顔つきになって、斜めに上の方から軽べつしたやうに清作を見おろしました。》と表現されている。しかし、それ以降、絵描きの、清作を軽蔑したような態度は消えてしまう。清作の言葉は、
作者にも相当応えたのだ。それは、柏の木大王と清作が喧嘩をしても、絵描きはどちらの側に立つのでもない、つまり、どちらの言い分が正しいという決定も下せないで、ただ、「喧嘩はよせ。」としか言えないでいることからも、また、作品自体が清作に手痛い仕打ちを食わせていないことからも解る。特に、《「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」と絵かきが力いっぱい叫んでゐる声がかすかにきこえました。》と、この作品を結んでいるのは象徴的である。「う金しゃっぽ」なら、明らかに清作を批難していることになるが、絵描き自身が、自嘲、自戒を込めて、力いっぱい叫ぶのである。それは、とりもなおさず、作者自身の、自嘲自戒に外ならない。「農民芸術」という発想は、ここに始まっていたのである。

○『雪渡り』
 この作品を何度読んでみても、狐に自己移入して、そこから生まれる幻想に興じているようにも、また、何か倫理的な主題があって、それを伝えるために構成に工夫を凝らしている風にも見えない。もちろん、ある種の作者の主張なり、倫理的綾のようなものが散見しないわけではない。たとえば、小狐紺三郎が、四郎とかん子という二人の子供に向かって、《私らは全体いままで人をだますなんてあまりむじつの罪をきせられてゐたのです。》などと言うあたり、狐はずるい、人を騙すという、世間一般の風潮、もしくは、民話や童話の中の待遇に逆らって、作者持ち前の博愛心から狐の復権を計ったのでは、などと考えてみたりもする。ところが、この紺三郎が幻燈会の閉会の辞の中では、《そこでみなさんはこれからも、大人になっても、うそをつかず人をそねまず、私共狐の今迄の悪い評判をすっかり無くしてしまふだらうと思ひます。》と言ったりもする。これでは、狐は本当は人を騙したりしないということを言おうとしているのか、それとも子狐達が人を騙さないことを新たに決意したことを強調しようとしているのか判断に迷う。一貫性に書けているのである。ただ、四郎とかん子が狐小学校で催される幻燈会へ出かけていって、騙されるのではないかという危惧を抱きつつも、それを振り払って狐に出されたきび団子を食べる件りに《狐の学校生徒はもうあんまり悦んでみんな踊りあがってしまいました。》とありその悦びに、「狐の生徒はうそ云ふな。」「狐の生徒はぬすまない。」「狐の生徒はそねまない。」という、決意とも訓示とも受け取れる文句の入った、三つの歌を生徒達が歌うのを聞いて、四郎とかん子は嬉しさのあまり涙がこぼれたともある。その後に、先の紺三郎の閉会の辞が来るのである。やはり、生徒達が決意する方が、作品の基調であるとは思われる。しかし、このように矛盾した表現が見つかったなら、そういう所は作者もたいして重要だとは思っていない、と考えた方がよいとわたし自身は思う。つまり、作者はもっと他のことに心を奪われているのだ。これは決して真当な読み方ではないが、そのことは、作品がどのような伏線の張り方をしているかを調べることによっても明らかにできる。
 作品の初めの方に出てくる、雪の野原が凍って《すきな方へどこ迄も行ける》という表現。これは、《雪が柔らかになるといけませんからもうお帰りなさい。》という紺三郎の言葉を導き出すための伏線と見ることができるだろう。もちろん、《今夜月夜に雪が凍ったらきっとおいで下さい。さっきの幻燈をやりますから。》という幻燈会への誘いを導き出すことにも一役買っている。前者は、野原を自由に行き来することができなくなる、つまり、帰れなくなることを言っているのだし、後者は、野原が凍らなければ、四郎とかん子は幻燈会へ行くことなど覚束ないことを言っているのだから。結局、幻燈会をやるということが、作者の頭の中心にあるわけなのだ。狐の幻燈会を二人の子供が見て帰ってくる。しかし、どうして、そんなことが可能だったのか。狐に招待されたからである。その為に、幻燈会の場面と、招待する場面の二つが必要になったのだ。次も比較的初めの方に出てくる表現である。紺三郎にきび団子を勧められて、四郎が答える。

《「紺三郎さん、僕らは丁度いまね、お餅をたべて来たんだからおなかが減らないんだよ。この次におよばれしようか。」(中略)
「さうですか。そんなら今度幻燈会のときさしあげませう。》

 穿った見方だが、ここで四郎たちがお餅を食べてしまったら、紺三郎は、四郎たちを幻燈会へ誘うきっかけを失ってしまうことになる。《お餅をたべて来た》というのは、ここで作者が突作に考えついた断わる理由である。あらかじめ、こういう会話のやりとりが予想されていたなら、四郎たちが野原に出かける前に、お餅を食べる場面を周到に用意しておいたはずだ。つまり、二人の子供が狐の幻燈会を見て帰ってくるという大雑把な構想の下に作品は書き進められて、その中で狐が団子を四郎たちに勧める、断わる、という細部ができあがった、と見るべきなのだ。つまり、一般の風潮に逆らって、狐が作った団子を食べた四郎とかん子の行為を賞揚することが、たとえそうゆう一面があるにしても、この作品の中心課題ではない、ということである。
「童話的構図」類は、すべて自己移入の方法に依っているということ、また『葡萄水』ではその方法に依らず、現実に材を取って報告者の位相で文章を綴る試みをしたけれども、失敗に終わったこと、これらのことが、『雪渡り』が負っている課題を解き明かす鍵になるように思われる。『葡萄水』、『雪渡り』が、共に負っていると考えられる課題は、自己移入という方法に依らないで、いかに作品を創るかということである。そこで、『葡萄水』では、現実の出来事に材を求めるという試みをした。ところが、巧くいかなかった。理由は考えられる。「童話的構図」類では、自己移入することによって生まれる幻想をただ綴っていればよかったが、現実の出来事に対しては、そのような接し方は有効ではない。自分の仮構力の関与する余地がないからである。自己移入することによって生まれる幻想をただ綴って(報告して)いた時のように書きながら、なおかつ、自分の仮構力をも満足させるためには、報告者に、自分の仮構した世界を訪れさせ(潜らせ)ればいい。そうすれば、『葡萄水』でのように、作者が作品の中にしゃしゃり出て行く必要もなくなるだろう。紺三郎は、どこか、賢治の人格の影が漂っている。狐の世界は、「童話的構図」類の世界の中で、紺三郎は、その案内者。四郎とかん子は、訪問者で、実は、『葡萄水』の報告者役の小代理で、そのため報告者も兼ねる。このように、仮構された世界を報告する者までも、二重に仮構することで、賢治は、「童話的構図」類以降、自己移入に依らない作品に、初めて成功したことになる。


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宮沢賢治論 連載第二回
緩やかな転換
     ――報告者の位相から自己表現の位相へ――

木嶋孝法



○『鹿踊りのはじまり』
 たしかに、作品には、

《ざあざあ吹いてゐた風が、いま北上の山の方や、野原に行われてゐた鹿(しし)踊りの、ほんとうの精神を語りました。》

 と書かれている。けれども、実際に鹿踊りを見聞したことのある人でない限り、《いま北上の山の方や、野原に行われてゐた鹿踊り》という表現を文字通り鵜呑みにしたりはしないであろう。それすら、作者の創作かもしれないからである。しかし、次のような文章に接すると、この作品が、まんざら作者の想像力によってのみ創り上げられたものなのではなく、作者にとっては、むしろあたりまえの前提に下づいて創られていることを改めて思い知らされる。その、あたりまえの前提が、わたしたちにはよく見えないのだ。

《その夜江刺市梁(やな)川地区で珍しい行事の現場に立ち合うことができた。土地の今野昭三氏の斡旋によるものだったが、梁川では「獅子躍」と表記している例の鹿躍りの免許授与の儀式が参観できたのである。》

 口拍子の発声音も記録しているので、それも引用させてもらう。

《タクツク、タッタコ、タッタコ
ザンツク、ザンツク、ザッツァコ
ザン、コ、ザン
タッタ、コ、タ
それは太鼓の革を打つ音とふち叩く音とをあらわしている。》(以上、島尾敏雄氏の「奥六群の中の賢治」より引用、日本文学アルバム『宮沢賢治』所収)

《のはらのまん中の めっけもの
すっこんすっこの 栃だんご
栃のだんごは 結構だが
となりにぃからだ ふんながす
青じろ番兵は、気にかがる。》

 こちらは、鹿野歌う歌で五行詩になっているが、二行目の《すっこんすっこの 栃だんご》というところなど、明らかに「鹿踊り」の太鼓を叩く音か、土地の青年の口誦に材を求めたことは、疑いようもない。となると、わたしたちはどのような事態に遭遇したことになるのか。鹿踊りのはじまりというのは、これから鹿踊りが始まるよ、という意味なのではなくして、当時、花巻近郊で行われていた鹿踊りが、どのようにして始まったか、という意味なのだ。つまり、起源譚なのである。
 とはいえ、手法的には、『かしわばやしの夜』や、『月夜のでんしんばしら』等と何ら変わるところはない。柏の木や電信柱を人間に擬えることが、賢治的な幻想の世界への入口であるとすれば、『鹿踊りのはじまり』もまた、鹿の擬装をした人間の身振りや、太鼓の革や縁を叩く音を、鹿の動きや歌に擬えているにすぎない。

《鹿は大きな環(わ)をつくって、ぐるぐるぐるぐる廻ってゐましたが、よく見るとどの鹿も環のまんなかの方に気がとられてゐるやうでした。(中略)もちろん、その環のまんなかには、さっきの嘉十の栃の団子がひとかけ置いてあったのでしたが、鹿どもの気にかけてゐるのは決して団子ではなくて、そのとなりの草の上にくの字になって落ちてゐる、嘉十の白い手拭らしいのでした。》

 擬装「鹿踊り」の方の踊りの光景を想像する。腰に下げた太鼓のリズムに合わせながら、右足に重心を移したり、また、左足に重心を戻したりする。大きな輪が、中心に向って萎んでいったり、また輪が広がったりする。あるいは、個々人が、思い思いに鹿の仕種を模倣する。秋の野原に展開するそんな光景――。
 たしかに、この踊りが、どんな目的で、いつ頃、どんな人々によって始められたのだろうという疑惑がぼんやり起こってきたとしても何ら不思議ではない。そして、意識的にか、無意識のうちにか、その疑惑に賢治が応えようとししたとても。しかし、自分で創作しておきながら、なぜ《わたくしが疲れてそこ(苔の野原―註)に睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、(中略)鹿踊りの、ほんたうの精神を語》ったとしなければならないのか、その点は疑問である。自分が作ったと思われたくない、と思っていたことは確かである。世の中には、作品を、その作者の個人的な才能の現れと考えて、羨望や驚異の目で見る人もいるわけで、そういうふうに個人に還元されたり、才能を誇示しているように見られないように、風を隠れ蓑に使ったのだ。おそらく、そこには、自己顕示欲を諌めようとする、仏教でいう無我の思想が、眼に見えない強制力として働いているのである。当然、白樺派の「天才賛美」にみられるような、西洋的個人主義への反発もあったはずだ。
 さて作品へ戻ろう。
 〈風〉は、鹿踊りの見聞者に嘉十を選んでいる。湯治に出かけた嘉十は、途中で食事に栃と栗のだんごをとる。この際に、手拭いを置き忘れ、それを取りに戻ったところで、鹿の姿を見るのである。
 蟻が見たきのこ、蛙が見たとうもろこし同様、手拭いが、鹿たちの未知の、興味の対象になる。うまく考えたものである。擬装「鹿踊り」の動作が、輪の中心に置かれた異物にこわごわ近づいたり、探りを入れたり、慌てて逃げたりするように見えたのである。そこで賢治は、手拭いを囲んで鹿の輪を配列したのである。しかも、鹿が出現しても不自然ではないように、手拭いの脇に栃のだんごの食べ残しまで置いて。これで、いつ鹿踊りが始まってもおかしくないように舞台装置が整ったわけなのだ。
 一頭の鹿が、手拭いを栃のだんごの傍から取り除いたところで、歌と踊りが始まる。野原の真ん中で見つけたものは、すっこんすっこの栃だんご。栃のだんごはいいのだけれど、となりに体を吹き流す、青、白、ぶちの見張り兵は気に懸る。青白番兵はふんにゃふにゃ。吠えもしなければ、泣きもしない。痩せて長くて、ぶちぶちで、どこが口なのか、頭なのか、日照り上りの大きななめくじかもしれない。一頭の鹿が歌う、こんな内容の歌に合わせて、他の鹿たちが踊り出す。一度は、嘉十も自分が人間であることも忘れて、この輪の中に飛び出そうとするが、思い留まる。しかし、二度めにはもう自分を制することができない。驚いた鹿たちは、当然踊るのを止めて逃げ出してしまう。秋の夕べの鹿踊りは終ったのである。
 夏の夜の柏の踊り、月夜の電信柱の行進、秋の夕べの鹿踊り。いずれも、同一の手法を用いながら、『鹿踊りのはじまり』だけが、結果的に起源譚になってしまった。ここから、実在する奇妙な森の名前の由来を探る『狼森と笊森、盗森』への道行きと、〈はじまり〉という言葉が、オープニングとオリジンの二重の意味に取れるのと同様の、意味の二重性を逆手にとった『注文の多い料理店』への道行きが見える。
 振り返れば、賢治の農夫への眼差しが微妙に変化してゆく様が窺える。
 『葡萄水』では、作者は耕平に好感を持っていなかった。『かしはばやしの夜』においても、導入部では、同じような姿勢で入っていったのだと思う。ところが、「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」と清作が怒鳴ったところから、清作に対する態度が微妙に変化していく。それは、たとえば、絵描きの自嘲的な態度となって現れる。恭一の職業が判別できない『月夜のでんしんばしら』は除いて、『鹿踊りのはじまり』では、作者は嘉十と一体化している。すなわち、大正十年の八月から九月までの短期間に、賢治の農夫への態度が、否定的なものから肯定的に変化したということである。極端な言い方をすれば、芸術至上主義者から、農民芸術論者とまでは言えないにしても、芸術と生活の両立を目指す者に変わった、とは言えるのではないか。

○『どんぐりと山猫』
《をかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

かねた一郎さま 九月十九日/あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。/あした、めんどうなさいばんしますから、おんで/んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
山ねこ  拝》

 ある日突然、こんな葉書が一人の少年の家に舞い込み、その少年がうれしさのあまり《うちぢゅうとんだりはねたりし》たとしてもよい。しかし、人を招待するにしては、なんとも散漫な葉書である。時刻、場所の指定がないのである。山猫は、時刻、場所の指定をしないで、少年にどうやって、そのめんどうな裁判が行なわれるという場所へ来いというのであろう。葉書が葉書なら、少年も少年だ。そんなことには、なに頓着する風もなく、翌朝《ひとり谷川に沿ったこみちを、かみの方へのぼって行》く。あるいは、《山ねこ 拝》とあるだけで、その土地の子供なら、すぐさま思い当たる場所があるのかもしれない、とも考えてみる。ところが、今度は《やまねこがここを通らなかったかい。》と、栗の木に尋ねたりするから、やはり裁判の行なわれる場所を知らないのかな、と思うと、山猫は今朝早く東の方へ行ったよ、という栗の木の答えに、《をかしいな》と言ったりする。自分の中に、或る心積りがなければ、こんな風には言わないだろう。こちらは、ただ、ただ、翻弄されたあげく、栗の木に尋ねたのは、自分の予想を確認しただけなのだ。というところへ落ち着く。そうでなければ、自分から尋ねておきながら、笛吹きの瀧、きのこ、りすのいずれの答えにも少しも耳を貸さず、《まあすこし行ってみよう》とばかり繰り返す一郎の言葉の真意が計りかねる。これでは、山猫の行先を尋ねる場面は、木や瀧やきのこやりすと少年が、あたかも当然のように会話を交わすことの愉快さを考慮しても、裁判が行なわれる場所へ行くまでの、単なるつなぎと思われても仕方あるまい。いったい、作品が何を訴えようとしているのか杳として掴めないのである。
 たとえば、厄介な裁判の収集のために、どうして一郎が選ばれたのかということ。そんなことは、一郎の関知するところではないのかもしれない。それならば、山猫の方から、特に一郎だけを選んだことの理由について一言あってもいい。山猫の方が言わないのなら、一郎が尋ねて当然だと思うのだが、それもない。
 だからと言って、ここで作品の不備をあげつらったり、作品への不満を列挙したりすることにいかほどの意味があろう。そうではない。本来、作品が備えていなければならないと思われるものが、あたかも過失のようにスッポリ抜け落ちていて、そのことに賢治がまったく気づいていない、気づいていないかのように見える、ということを問題にしたいのだ。と言うのも、『よだかの星』で、「よだか」が死を決意するのは、それだけはけっして受容できない要求を、鷹に叩きつけられたからなのだし、『貝の火』で、ホモイが宝珠を授かったのは、川で溺死しそうになっていた雲雀の子を、ホモイが文字通り身を呈して救った故なのである。つまり、今、挙げた二つの作品に関してだけでも、作者は、作品の中で起る出来事について、ちゃんとその因果関係を描写することを忘れていなかったのである。それなのに、どうして『どんぐりと山猫』には、それがないのか。ここに、この時期の賢治の心理状態を解く鍵がある。
 ともかく、かの厄介な裁判なるものが始められる。と言うよりは、どんぐり間の、どんなどんぐりが一番偉いか――を巡るたわいない言い争いである。その調停役が山猫なのだが、この言い争いは鎮まりそうもない。そこで、山猫が一郎に方策を請うわけなのだが、一郎は、《このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなってゐないやうなのが、いちばんえらいと》言い渡すよう、山猫に言う。それで、今日で三日目だという裁判も、あっさりと片付いてしまう。
 一郎の言葉が、何か高尚なことを言っているようには思えない。いや、鼻っからこのように突き離すことで、看過ごすものがあるかもしれない。存外、作者は大真面目で、一郎の口を借りて、自分の思うところを開陳している可能性だって、なきにしもあらず、だから。
 賢治が、自分よりも恵まれていない人間に負い目のようなものを感じていたことは確かである。資質ということもあるのだろうけれど、わたしは大乗思想の影響であろうと思う。
自分だけの救われを求める(と考えている)小乗への批判があるから、自分の方が恵まれていると思ったときに、恵まれていないものに負い目を感じるのだろうと思う。そういう心理的圧迫感を、一気に取り払いたいというような苛立ちがあるから、《いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなってゐないやうなのが、いちばんえらい》というような、一般的な価値観をただ逆立ちさせたにすぎない、一見、思想的に見えて、感情的な叫びでしかない表現を呼び込んだのである。
 だから、間違っても、一郎の吐いた言葉がその場の出任せだ、などとは言うまい。つまり、作者の心情をある程度代弁しているとしよう。しかし、いくら作者の事情を考慮したとしても、裁判が終結するにしては、一郎の言葉は説得力がなさすぎる。それだけに裁判がまるで一郎を持ち上げるためにのみ行なわれたとしか思われないのである。少なくとも、この一郎の言葉が、この作品の主題であるとは思えない。となると、作者は、いったい何に腐心していることになるのか。やはり、作品の構成――現実世界の人間を、ひとたび非現実的な世界(動植物、及びそれに準ずるものを擬人化することによってなっている世界)へと誘い、再び現実世界へ帰還させる――以外には考えられない。
 まさか、とは思う。まさかとは、賢治が観想によって、あらゆる現象を無いものと見做そうとするときの過程と、作品の構成がちょうど反対になっているということである。往(い)きて還(かえ)る、仏の往相(おうそう)、還相(げんしょう)のことなども思い浮かんでくる。『どんぐりと山猫』の場合は、往きて還ると言うより、「誘(いざな)って送り還す」と言った方が正確だとは思うが。
 『かしはばやしの夜』を論じているときにも、気にかかってはいたのである。柏の木大王に前科九十八犯と罵られて、清作が怒って《あっはっは。九十八の足さきといふのは、九十八の切株だらう。それがどうしたといふんだ。おれはちゃんと、山主の藤助に酒を二升買ってあるんだ。》とやり返すところ、清作の反応が物すごく即自的、肉感的で、大王の言葉に自分の筋力(生活力)で反発しているようにすら感じられる。作者に近い登場人物と言えば、絵描きだが、もし、この清作に作者が自己を擬したとすれば、作者が肉体の復権を計っているとも考えられたからである。
 確かに、自然交感といえば、耳触りはいい。でも、そうかな、という気はする。自然との交感に自己慰安を求めるというのは、裏を返せば、人間関係の軋轢に耐えられない精神構造を彼が所有していたということではないのか。

《風の中を
なかんといでたるなり
千人供養の
石にともれるよるの電燈》(「冬のスケッチ」第十三葉より)

 何か、家人の人と諍いがあって、たまらず表に飛び出した、という感がある。生活の根っ子は父親に押えられており、いくら、賢治が理想論をかざしたとしても、そんなものは生活の論理によって一蹴に伏されてしまうことは目に見えて明らかである。その都度、賢治は自己確証、自分は間違っていないということを、自然、そして、脳裏に展開する物語に求めるしかなかったのだ。自然は、いつも自分を裏切ることがなく、悠然と自分を待ち構えていてくれるからだ。その中でしか、賢治は自己を解放する術を知らなかったのである。
 たとえば、栗の木や瀧、きのこ、りす、どんぐり等々と一郎が会話を交わすこととして、あるいは、自然交感というようなことが言われるのかもしれない。わたしには、どうもそれは疑わしい。自然との交感に慰安を求めるというのは、裏を返せば、彼が人間関係の軋轢に耐えられないということだ。動植物と会話を交わすと言ったところで、動植物の会話は作者が考えて言わせているのである。だから、本当は、独り言に近いものなのだ。ただ、彼が、動植物に言わせているのだから、現実の人間相手の時のように、相手の言葉によって傷つくということはない。
 これも、一つの厭世の形であるにはちがいない。自分を取り巻く人間関係、世相に背を向けて、自然の中に自己の慰安を求めたのである。――自然は自分を裏切らない――という確信が彼にあったからであろう。
 ここに手負いの魂が彷徨していることだけは確かである。


Booby Trap No. 2



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宮沢賢治論 連載第三回
緩やかな転換 ――報告者の位相から自己表現の位相へ――

木嶋孝法



○『注文の多い料理店』
 小学校の国語の教科書にまで載っている物語だから、知っている人の方が多いだろうとも思うが、思い出すために、賢治自身の宣伝用の作品解説を掲げておこう。それによれば、《二人の青年しんしが、りょうに出て道に迷い、「注文の多い料理店」に入り、そのとほうもない経営者から、かえって注文されていた話。》ということになる。とりあえず、そういうことにしておこう。
 さて、物語の前半、中心部を飛ばして、結末に近く、

《室はけむりのやうに消え、二人は寒さにぶるぶるふるへて、草の上に立ってゐました。》

 という表現に打つかる。となると、二人の紳士は山猫に化かされたことになるのか、それとも疲労と空腹から自分たちで勝手に幻覚を見たことになるのだろうか。

《「ぜんたい、ここらの山は怪しからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構はないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」/「鹿の黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お見舞もうしたら、ずゐぶん痛快だらうねえ。》

 冒頭の二人の紳士の会話である。〈殺生〉に対して罪悪感を感じるどころか、それに興じようにも獲物がいなくてそれができない、できなくて焦れている。狩猟に対して、恐れなり慄きなりを抱いていたのならいざしらず、これから狩猟を楽しもうとしていた人間が、そのことで恐い目に遭うというような幻覚を見るわけがない。やはり、山猫に化かされたのである。どうして。
 その理由を作品に求めても無駄である。本来なら、作者が予め用意しておかなければならないはずの理由を欠いている。それが、この作品の第一の特徴である。逆に、そこから作者の考えを探り出すことができる。作者は、そんな理由が必要だとも、もしその理由を欠いたら、読み手の方はどうして二人の紳士が山猫に化かされなければならないのか、うまく掴めなくなるとも思っていない。と言うのも、作者自身が、二人の紳士がそういう目に遭って当然だと思っているからである。
 何はともかく、二人の紳士は幻覚を見たのではなく、山猫に化かされたのである。そのことだけを確認して、作品を読み返してみよう。

「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」

 山猫軒に入った紳士たちが見た最初の板書であるが、これはいいとしよう。次のやつ、

「ことに肥った方や若いお方は、大歓迎いたします。」

 とある。よもや、肥った人間や若い人間は料理を沢山食べるからという意味ではないだろう。どうせ食べるなら、肥った人間や若い人間の方がおいしくていい、と言っているのだ。
 ここである。二人の紳士を化かすのが山猫の目的だとするなら、こんな間の抜けた板書もない。本音を隠すことによってしか〈化かし〉は成立しないであろうから。だから、もし本音を知られることが山猫の本意でないとしたなら、誰が誰に向って本音を打ち明けたことになるのか。作者が読み手に向けてである。作者は、山猫の言葉を二人の紳士に伝える一方で、あたかも映画やテレビの字幕スーパーのように、山猫の本音を送り出してくる。そうしなければ、〈いたぶり〉の過程を読み手と共有することはできないからである。しかし、そのために、却って要らぬ混乱を読み手に惹き起こすことも事実である。たとえば、

「当軒は注文の多い料理店ですから、どうか、そこはご承知下さい。」

 というような板書。紳士たちにはよく流行っている店であることを、読み手には様々な要求をする店であることを伝えている。読み手には、山猫の本音が透けて見えているだけに、二人の紳士はどうしてそのことに気づかないのか、訝ったりする。それに気づいたら、〈化かし〉そのものが、いや、物語自体が成立しなくなるのに。ひどいところでは、

「注文はずゐぶん多いでせうが一々こらへて下さい。」

 というように、作者の方がそのことを面白がっていたりする。本来、読み手に見せるべき顔を、紳士の方に向けているのである。自分の方から越境しておいて、《これはきっと注文があまり多くて支度が手間取るけれどもごめん下さいと斯ういふことだ》などと、もう一人の紳士に無理な解釈をさせて、尻拭いをさせている。
 この危うげな紳士協定が、綻びを見せるのは、「香水をよく振りかけてください。」とあって、置いてあった香水が酢の臭いがするあたりからである。

「いろいろ注文が多くて、うるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうか、体じゅうに、つぼの中の塩を、たくさんよくもみこんで下さい。」

 これは、作者が読み手に見せていた顔だ。なぜ、突然、二人の紳士の方に向けるのだ。まるで悪夢から醒めたかのように。
 おそらく、作者は無我夢中で二人の紳士を〈いたぶっ〉ていたのである。そして、自分のしていることに気づいて、ハッと我に帰ったのだ。たしかに、悪戯に生物を殺すことのできる人間に対する、やむにやまれぬ反発はあったのであろう。また、何事もお金に換算して省みない神経の持主に対する憤りもあったのであろう。
 この作品の制作日は、大正十年の十一月十日になっている。その年の一月、賢治は突如、家出をして上京している。そして、八月頃帰花したらしいが、いったい彼は廻りの人々に歓迎されたのであろうか。十二月には、花巻農学校に就職している。制作当時、就職が内定していたかどうかも怪しい。

風の中を
なかんとしていでたるなり
千人供養の
石にともれるよるの電燈

(「冬のスケッチ」第十三葉)
 《都会文明とかって気ままな人々に対する、やむにやまない反感》(再び、賢治自身の作品解説)などと書いているけれども、そんな大袈裟なことを言わなくても、そんな人間なら、案外、自分の身近なところにいたのではないか。そういう人間たちへの反感、憤りを爆発させたのが、この作品である、という気がする。(この章了)


Booby Trap No. 3



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宮沢賢治論
――『雁の童子』考――

木嶋孝法



 宮沢賢治の作品のいくつかが、聞き書きという形態をとっているように、『雁の童子』もまた、一人の巡礼の老人から、中国のマクラカン砂漠でわたしが聞いた話という体裁をとっている。
 奇妙な話である。須利耶という人物がいて、鉄砲を持った従弟と野原を歩いているとき、従弟に向かって慰みの殺生を止めるように言う。しかし、従弟は耳を貸さず、ちょうど飛んできた雁の群れを撃つ。〈殺生〉を戒めることが主題なのかなと思っていると、従弟に撃たれた六羽の雁と、傷ついていない小さな雁が落ちてきて、人間に変わり、「私共は天の眷族だが、罪あって雁にさせられていた。報いを果たしたので天に帰る。ただ孫だけは帰れない。あなたに縁のあるものだから、お育て願います。」と言うのである。
 すると、天で犯した罪のために雁の姿にされていた六人は、撃たれたことによって罪を償い終わり、天に帰ることができたことになる。従弟は、天の眷族をむしろ救ったことにならないか。一方で殺生を戒め、一方で殺生が救済の側面を持つという奇妙な設定は、もっぱら童子を須利耶に預けることに専心しているからだと思える。
 それにしても、童子はどうして撃たれもしないのに落ちてきたのか。また、雁の呪いを解かれたのか。さらには、みんなといっしょに天へ帰ることができないのか。
 これらの疑問に答えているのは、話の終末部らしい。
 町はずれの砂の中から掘り出された、沙車大寺の壁に描かれた三人の童子を見て、須利耶が《この天童はどこかお前に肖てゐるよ》と言ったときには、童子はもう倒れかかっていて、須利耶の腕の中で《おぢいさんがお迎へをよこした》と言うのである。須利耶が、何かに気づきかけたところで、童子もまたこの地での使命を終えたかのようである。そして、最後に童子は、自分が須利耶の息子であること打ち明け、沙車大寺の壁の絵は、須利耶が前(前世?)に描いたものであることを告げて、おそらくは息絶えるのである。
 わたしは、賢治が信奉していたという『法華経』の「信解品」の中にある〈長者窮子の喩え〉を想起する。家を出て放浪していた息子に、父である長者が、いきなり自身が父であることを告げずに、わざと掃除夫として雇い入れ、死ぬ時になってすべてを打ち明けるという話である。法華経作者(ら)の意図は、明瞭である。仏の慈悲とは、かくも深いものだ、ということに尽きる。父と子の関係が、逆転しているとは言え、『雁の童子』は、雁の童子の慈悲深さを、言い換えれば、仏の慈悲深さを讃ってはいない。父が何かに気づくのを待って、ひたすら試練に耐えているのである。


《(雁のすてご雁のすてご
  春になってもまだ居るか。)
 みんなはどっと笑ひまして、それからどう云ふわけか小さな石が一つ飛んで来て童子の頬を打ちました。(中略)
(よくお前はさっき泣かなかったな。)
 その時童子はお父さまにすがりながら、
(お父さん、わたしの前のおぢいさんはね、からだに弾丸を七つ持ってゐたよ。)
と斯う申されたと伝えます。
 巡礼の老人は私の顔を見ました。
 私もじっと老人のうるんだ眼を見あげて居りました。》

 作者が感動を強要しているとまで言いたくはないが、感動的な場面ではあるらしい。童子は、自分の受けた苦痛など、おじいさんの受けた試練の比ではないことが言いたいらしい。あるいは、童子は使命を果すまでは、数々の試練に耐えている、という風にも取れる。
 この他にも作品は、童子の挿話をいくつかあげている。ある晩のこと、童子は熱を出す。水が昼も夜も流れることを聞くと、その熱は治まったという。また、こんなこともあった。

《童子は母さまの魚を碎く間、じっとその横顔を見てゐられましたが、俄かに胸が変な工合に迫って来て気の毒なような悲しいやうな何とも堪まらなくなりました。くるっと立って鉄砲玉のやうに外へ走って出られました。そして真っ白な雲の一杯に充ちた空に向って、大きな声で泣き出しました。》(『雁の童子』)

《食はれるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。「この人は私の唯一の命をすてたそのからだをまづさうに食つてゐる。」「怒りながら食つてゐる。」「やけくそで食つてゐる。」以下略。》(大正七年五月書簡)

 比べてみれば明らかなように、童子の殺生への異常なまでの嫌悪は、ほとんど作者のそれと同じである。引用には現れていないが、この時の童子の両親の途惑いも、作者の眼に映った現実の両親の途惑いと言っていいのではないか。

(だってお父さん。みんながあのお母さんの馬にも子供の馬にもあとで荷物を一杯つけてひどい山を連れて行くんだ。それから食べ物がなくなると殺して食べてしまふんだらう。)

 この話を聞いた後では、須利耶はこの童子を少し恐ろしく思ったという。
 母親の驚きや父親の恐怖は、童子の反応が両親の理解を越えていたことを示す。この理解されないということが、童子のもう一つの試練であるように見える。それは、童子が天の眷族で、下界の人間の理解を超越しているからなのか、それとも、他に理由があるのだろうか。作品は、それは、父親たちが何かを忘れてしまっているからだ、と言っているようにみえる。壁画の三童子は、須利耶が描いたものだと告げる件りが、それに当たっている。

 不思議なことに、壁画の三童子は、須利耶が描いたもので、その一人は自分であることを打ち明けただけで、この作品は終わってしまう。童子の話を聞いて、仏心に目覚めた須利耶が、何かをしたというのではないのである。それだけに、作者は、父の改心にしか関心がなかったのだ、と言える。

《さて、寒い処、忙がしい処父上母上はじめ皆々様に色々御迷惑をお掛け申して誠にお申し訳けございません。一応帰宅の仰度々の事実に心肝に銘ずる次第ではございますが御帰正の日こそは総ての私の小さな希望や仕事は投棄して何なりとも御命の儘にお仕へ致します。》(大正十年二月書簡)

 この書簡は、家出した先の東京から故郷の花巻の父へ宛たものだ。ここで〈帰正〉と言っているのは、家の宗派を浄土真宗から日蓮宗に改めることである。つまり、父が宗派を改めた日には、自分の希望は捨てて、父のどんな命令にも従うと言っている。この時期の賢治の願いは、雁の童子の須利耶への願いに通じるものがあった。〈天の眷族〉とか、〈童子〉という言葉自体、自分は菩薩だ、人々を救う使命があるという意識の現れである。雁の童子の秘めた使命は、そっくりそのまま作者の願望だ、と言うことができる。『雁の童子』という虚構が、作者にとって、〈父〉への抵抗の砦なのである。 (了)


Booby Trap No. 20



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宮沢賢治論
下根子時代
――農民芸術論の構想と現実

木嶋孝法



一、道べの粗朶(そだ)に


 一度は採種業をやろうとして、畑つきの住居を探し求めた形跡(詩「住居」大正十四年十月)もあるのだが、適当なものが見つからなかったらしく、大正十五年四月、花巻農学校を退職した賢治は、花巻の実家から南に二キロメートルほど離れたところにある、下根子桜の別宅に移り住んだ。この別宅は、賢治の祖父が療養のために建てたものであったので、畑などあるわけがなく、賢治は土地の開墾から始めなくてはならなかった。家のまわりと北上川の岸辺、少し離れた森の中の荒地がそれである。

 ぎっしり生えたち萱の芽だ
 紅くひかって
 仲間同志に影をおとし
 上をあるけば距離のしれない敷物のやうに
 うるうるひろがるち萱の芽だ
   ……水を汲んで砂へかけて……
             (大正十五年五月「水汲み」より)

 詩の言葉の明るさに誘われて、北上川の岸辺の、春のうららかな光景を想像してしまうためか、あるいは、念願が叶って、いよいよ自分の理想の実現に一歩を踏み出したのだな、とこちらが期待してしまうためか、この詩の「砂」という言葉の意味に最近まで気づかなかった。「砂」という語は、賢治が開墾した北上川岸辺の畑の土質を言っている。ここの土地は、川の水に運ばれてきた土砂が沖積してできていたため、水持ちが悪かった。そのために何度も水汲みをして掛けなければならない。地質学を学んだ賢治が、そんなことを知らないはずはない。農業をやっていくのにふさわしい住居が見つからなかったために、あえて劣悪な条件下に甘んじているのである。
 詩は、水運びのリズムを基調としながらの意識の変遷という体裁をとっている。

 向ふ岸には
 蒼い衣のヨハネが下りて
 すぎなの胞子(ほうし)をあつめてゐる
    ……水を汲んで砂へかけて……
 岸までくれば
 またあたらしいサーペント
    ……水を汲んで水を汲んで……
 遠くの雲が幾ローフかの
 麺麭にかはって売られるころだ
             (同右)

 このような表現の中に賢治詩の秘密が匿されている。賢治は、水汲みをして北上川と畑の間を往復している。その間に眼に入ってきた情景や、心に浮かんだ想念を写しとっているのであるが、読み手の側の困惑は、これを詩人の日常の断片として片付けてしまってよいのかということなのである。もしかすると、労働の苦痛であるとか、逆にその愉悦とかを伝えようとしているのではないか、という危惧が残るのである。
 ところで、賢治は、この詩を書く数カ月前、つまり、花巻農学校を退職する前、大正十五年の一月中旬から三月下旬まで、農学校に開設された岩手国民高等学校の講師として「農民芸術論」を講じている。この時の生徒のノートを見ると、「水汲み」というような詩は、《モリス曰く、芸術とは人の労働に於ける喜びの表現である/創造者は苦境を楽境にするのである。》を、そっくりそのまま実践していることが理解される。水汲み、これほど単純で、退屈な労働もない。それを近辺の自然を観察することや、架空の人物、ヨハネが杉菜の胞子を集める情景や、空の雲を麺麭粉を練った塊に見たて、麺麭ができる様子を想像することによって愉悦に変えようとしている。まさに《芸術をもてあの灰色の労働を燃せ》(「農民芸術論」ノート)なのである。
 賢治が、下根子桜に入って農業を始めたことのうちには、「農民芸術論」の実践という意味もあったことを、詩「水汲み」は教えている。そして、この考えは、農業技術や芸術で農村を明るくしようとした考えの雛形になっている。農村への取り組み方をよく示しているのは、次の詩であろう。

 粗朶でさゝへた稲の穂を
 何かなし立ちよってはさはり
 か白い風にふり向けば
 あちこち暗い家ぐねの杜と
 黒雲に映える雨の稲
             (大正十五年六月[道べの粗朶に]先駆形より、以下同じ)

 伐り採った枝(粗朶)で稲の穂を支えなければならないのは、今朝の雨で稲が倒れてしまったからである。賢治は、その枝に支えられている稲になんとなく触る。とは言っているものの、そこには何らかの理由があったはずだ。風に誘われるように振り返ると、あちこちに垣根をめぐらせた暗い家が見え、黒雲に映えて雨に濡れた稲が見える。「暗い」とは、ただ単に「光が少ない」という意味ではあるまい。後年、下根子時代を振り返って、《根子では私は農業わづかばかりの技術や芸術で村が明るくなるかどうかやって見て半途で自分が倒れた訳ですが》(年月日不詳、書簡下書き)と言っていることと無関係でないはずだ。

 そっちはさっきするどく斜視し
 あるいは嘲けりことばを避けた
 陰気な散点部落なのに
 なおもおろかに胸の鳴るのはどういふわけだ
 このうへそこに何の期待があるのだらう

 だから、嘲ったり、言葉を避けたりしたのは、散点部落に農業技術や芸術の入り込む余地がないからだと、一応、推測を立てることもできよう。にもかかわらず、胸が鳴り、何かを期待する、と言うのである。
 五月から、毎週土曜日にこども会を開いて、童話を朗読して聞かせるようになった。農学校の卒業生たち五、六人と合奏会も試みた。何かが少しづつ変わりつつあると感じていたのかもしれない。
 年譜によれば、この月、賢治は、「農民芸術概論」を書き始めている。すでに、農民たちと《いっしょに正しい力を併せわれらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげよう》という目標を持っていたと考えられる。だから、胸の鳴る理由を一番よく知っていたのは賢治自身のはずなのである。喜びを隠そうとして、かえってそれが表に出てしまっているのだ。

 それが一つの形になって
 もう一度立て直すことにもなるよりは
 倒れて傷んだ稲の穂を
 とり戻すのを望むのだらう

 何が一つの形となり、何を立て直すことになるのか、あまり明確ではない。散点部落に期待するものがあり、「形のないもの」が一つの形になることを考えると、その「期待」が、具体化されることを考えているのか。立て直すことになるのは、部落の生活。しかも、それは《倒れて傷んだ稲の穂を/とり戻す》ことの対極、生活の糧を得ることの対極にあるものだ。

 むしろそれこそ
 今朝なほ稲の耐へてゐた間
 いだいたのぞみのかすかな暈【さんずいに翁】と
 わづかに白くひらけてひかる東のそらが
 互に溶けてはたらくためだ
 野原のはてで荷馬車は小く
 ひとはほそぼそ尖ってけむる

 つまり、今朝、まだ稲が倒れていなかったときには、この陰気な部落を、(おそらくは、農業技術や芸術によって)明るくしようという望みを抱いていた。ところが、倒れた稲を(健気にも?)粗朶で支えているのを眼にしたとき、部落の人々が望んでいるのは、倒れた稲を取り戻すことの方だということに気がついた。いや、それだからこそ遣り甲斐があるのではないのか。
 胸が高鳴るのは、黒雲の間に、今朝抱いた望みの残照と《わづかに白くひらけてひかる東のそらが/互に溶けてはたらくためだ》。わたしの抱いている未来像(ヴィジョン)の方から見れば、野原のはての荷馬車も小さく見え、人もほそぼそと尖って煙っているようにしか見えないのだが、と言っているようだ。

 さて、この胸の高鳴りも長くは続かなかった。賢治が相手にしているのは、東北の厳しい自然なのだ。大正十五年、岩手県は《七月十七日まで雨量少なく植付けに困難を来した》(「現代詩読本」年譜)ほどであったという。そのために賢治の植えた菊芋も枯れてしまったのである。

 黒く燃されて
 開墾した土のなかに立ち
 うつつに雨を浴びてゐる
 いったいこれがおれなのか
    枯れた羊歯の葉
    菊芋の青い茎
    壊れて散った塔のまはりを
    いまいそがしく往来する蟻
 夏立ちの雨よ
 まっすぐ降りそゝいで
 おれの熱い髪毛を洗へ
             (大正十五年七月[驟雨はそそぎ]先駆形A)

 賢治は、茫然として雨にうたれながら畑の中に立っている。空地を耕して植えたというのではない。薮を伐り、焼き払い、土を耕して植えたのである。落胆のほどもうかがわれよう。これらのことを考慮してもなお、菊芋が枯れたことが、《いったいこれがおれなのか》と自己を確認するほどの出来事なのであろうか、という疑問が残る。こんなことは、数々の冷害を見てきた賢治にとっては、すでに織り込み済みではないのか。やはり六月に「農民芸術概論」を書いた自負、昂揚が基調にあって、菊芋の栽培に躓いた自分を見て、《われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか》という理想を掲げ、《正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである》と主張した自分が信じられなくなっているのである。だから、自嘲も込めて、《夏立ちの雨よ》《おれの熱い髪毛を洗へ》と言っているのだ。
 雨量が少なかったために菊芋は枯れてしまったのに、皮肉にも十八日から降りだした雨は、一ケ月以上も続き、今度は、北上川が増水した。増水した水が川岸の白菜畑を囲む。八月十五日、賢治は、《水はすでに/この秋のわが糧を奪ひたるか》(「増水」)と書いた。
 賢治の思惑を打ち砕くのは、自然の気まぐればかりではない。人間関係の軋轢もある。

 酸っぱい胡をぱくぱく噛んで
 みんなは酒を飲んでゐる
   (中略)
 みんなは地主や賦役に出ない人たちから
 集めた酒を飲んでゐる
  ……われにもあらず
    ぼんやり稲の種類を云ふ
    ここは天山北路であるか……
 さっき十ぺん
 あの赤砂利かつがせられた
 顔のむくんだ弱さうな子が
 みんなのうしろの板の間で
 座って素麺(むぎ)をたべてゐる
   (紫雲英(ハナコ)植れば米とれるてが
    藁ばりとったて間に合ぁなじゃ)
 こどもはむぎを食ふのをやめて
 ちらっとこっちをぬすみみる
             (九月三日、『饗宴』)

「紫雲英」(ゲンゲ)とは、レンゲソウのこと。緑肥にするため、水田の裏作にする。おそらくこの花の根が、空気中の遊離窒素を固定して蓄積していることを知っていた賢治は、話題が裏作の品種になったときに、紫雲英を薦めたのだろう。返ってきた言葉が、《ハナコ植れば米とれるてが/藁ばりとったて間に合ぁなじゃ》という言葉だったのだ。すると、詩の先の方の表現も推理できる。《われにもあらず》という表現には、言ってしまった後での後悔の念が滲じみ出ている。話題が、稲の種類の話になったときに、つい、自分が良いと思っている稲の品種の名前を言ってしまったのだ。ここには書かれていないが、何か屈辱的な言葉が返ってきたのだろう。そこで、仏典を持ち帰るために天山北路を歩んだ僧の忍耐を思って、屈辱に耐えているのである。この詩の先駆形の最終二行は、《はげしい疲れや屈辱のなかで/なにかあてなく向ふを望むだけなのに》となっていて、村を明るくすることの難しさを改めて実感した賢治の、途方に暮れている様が確実にうかがえるのである。


二、昭和二年、夏


 下根子に入ってから賢治は様々な活動を試みたが、最も精力的に取り組んだのは、稲作指導、とりわけ肥料設計であった。花巻の町や近くの村に肥料の相談所を設けた大正十五年(昭和元年)八月から、翌昭和二年の六月までになんと《二千の施肥の設計を終へ》(「野の師夫」)たらしいからである。これらの活動の中からもいくつかの詩が生まれた。朝、相談所へ行く道すがら発想を得たらしい「秋」(大正十五年九月)、状況説明はないに等しいのに、会話の一方の科白だけで稲作指導の現場に居合わせたような気持ちにさせてしまう、かの不思議な詩[あすこの田はねえ](昭和二年七月十日)などがそれである。
 事件は、[あすこの田はねえ]という詩を書いた十日後に起こったのだ。

 もうはたらくな
 レーキを投げろ
 この半月の曇天と
 今朝のはげしい雷雨のために
 おれが肥料を設計し
 責任のあるみんなの稲が
 次から次と倒れたのだ
 稲が次々倒れたのだ
   (中略)
 さあ一ぺん帰って
 測候所へ電話をかけ
 すっかりぬれる支度をし
 頭を堅く縛って出て
 青ざめてこはばったたくさんの顔に
 一人づつぶっつかって
 火のついたやうにはげまして行け
 どんな手段を用ゐても
 弁償すると答へてあるけ
             ([もうはたらくな]第三集)

 どうして賢治は、こんなに動揺しているのであろうか。《今朝のはげしい雷雨のために》自分が肥料を設計した稲が、次々に倒れてしまったからである。
 八月二十日の雷雨を待つまでもなく、兆候はあったのだ。七月十四日の日付のある[南からまた西南から](「詩ノート」)の一部には、

 この七月のなかばのうちに
 十二の赤い朝焼けと
 湿度九〇の六日を数え
 異常な気温の高さと霧と
 多くの稲は秋近いまで伸び過ぎた
 その茎はみな弱く軟らかく
 小暑のなかに枝垂れ葉を出し

というような表現も見出される。稲が伸び過ぎたために、かえって軟弱になってしまったことを危惧しているのである。ところが、この時点では、それほど危機感を抱いてはいなかった。ちょうど乾いた風が、汗を吸ったシャツを乾かすように、河谷いっぱいに吹く和風が、稲の葉に蒸散をうながし、ひいてはそれが肥料の吸収となって、やがて堅い葉と茎を作り出すという観測があったからである。

 森で埋めた地平線から
 たくさんの古い火山のはいきょから
 風はいちめん稲田をゆすり
 汗にまみれたシャツも乾けば
 こどもの百姓の熟した額やまぶたを冷やす
  あゝさはやかな蒸散と
  透明な汁液(サップ)の転移
  燐酸(ホス)と硅酸(シリカ)の吸収に
  細胞膜の堅い結束
             ([南からまた西南から]より)

 この期待を裏切ったのが、八月に入ってからの半月あまりの曇天と、二十日の朝の雷雨であった。そのために仕事が手につかないのだ。《どんな手段を用ゐても/弁償する》と、実際に言って回ったのかどうか、知りようもないが、「和風は河谷いっぱいに吹く」(先駆形)には、

 雨はいよいよ降りつのり
 遂にはこゝも水でいっぱい
 晴れさうなけはひもなかったので
 わたくしはたうとう気狂ひのやうに
 あの雨のなかへ飛び出し
 測候所へも電話をかけ
 続けて雨のたよりをきゝ
 村から村をたづねてあるき
 声さえ枯れて
 凄まじい稲光りのなかを
 夜更けて家に帰って来た
 さうして遂に睡らなかった

とある。夜更けまで、村々をたづねて歩いたのは、事実のようだ。
 ところで、「もうはたらくな」は、稲が倒れたのを目の当たりにして表現しているのに対して、「和風は河谷いっぱいに吹く」はその稲が起き上がった時点から、つまり、翌日の視点から書かれている。内容から言ってもそうであるし、詩中の《昨日の雷雨》という語句がよくそれを示している。それゆえ、八月二十日とあるのは、制作日ではなくして、詩の状況の設定の日付を表しているのである。
 話を元へ戻すと、二十日の日は《夜更けて家に帰って来た》([和風は……])のだとすると、これから《老いて盲ひた大先達》を訪ねようとしている[二時がこんなに暗いのは](「詩ノート」)は、その村々を回る途中での一場面ということになる。

 そしていったいおれのたづねて行くさきは
 地べたについた北のけはしい雨雲だ、
 こゝの野原の土から生えて
 こゝの野原の光と風と土とにまぶれ
 老いて盲ひた大先達は
 なかばは苔に埋もれて
 そこでしづかにこの雨を聴く
             ([二時がこんなに暗いのは]より)

 賢治がこれからたずねようとしている《老いて盲ひた大先達》も、やはり励まされなければならない農民の一人なのか、それとも他に目的があってたずねようとしているのか。「大先達」を励ましに行くとは思えない。《いったいおれのたづねて行くさきは/地べたについた北のけはしい雨雲だ》には、苛立たしさが込められている。自分が動揺していて、なんとかそれを鎮めようとするのだが、それができない。その苛立たしさ。

 それにしても、不可解なのは、《おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が》という表現である。肥料を設計した以上、まったく責任がないとは思えないが、かと言って、全責任があるとも思えない。だいたい、賢治の設計した肥料は、二千を越えるという。六月の二十日に[金策も尽きはてたいまごろ](「詩ノート」)を書いている人間には、一件の弁償もおぼつかなく思えるのだが。

《ぼくはうちの稲が倒れただけなら何でもないのだ。ぼくが肥料を教へた喜作のだって、それだけならなんでもない、それだけならぼくは毎日鉄道へ出ても行商してもきっと取り返しをつける。けれども、あれぐらゐ手入をしてあれぐらゐ肥料を考へてやって、それでこんなになるのならもう村はどこももっとよくなる見込はないのだ。ぼくはどこへも相談に行くとこがない》
             (「或る農学生の日誌」)

 なぜか、この日誌は、昭和二年の八月二十日ではなく、二十一日になっている。それは、よいとして、重要なのは《あれぐらゐ手入をしてあれぐらゐ肥料を考へてやって、それでこんなになるのならもう村はどこももっとよくなる見込はないのだ。》というところであろう。賢治が、あえて農学校を退職して、下根子桜で農村活動を始めたのは、肥料設計や稲作指導によっていくらかでも農村の改善が可能だという見通しがあったからである。それだからこそ、二千枚を越える肥料設計書を献身的に作成したのだ。それが、半月あまりの曇天と二十日の朝の雷雨のために潰えてしまおうとしているのである。動揺しているのは、そのためだ。後日、[二時がこんなにくらいのは]が、

 もう村村も町ゝも、
 衰へるだけ衰へつくし、
 うごくも云ふもできなくなる
 たゞそのことを考へよう……
             ([倒れかかった稲のあひだで]より)

 と書き改められたのにも訳があったのだ。最良の技術を投入したにもかかわらず、稲が倒れてしまったなら、もう村の発展は望めないのである。そこまで追い込まれたのだ、ということである。ただ、他に農民との軋轢を思わせる詩もあり、冒頭の三行、

 倒れかかった稲のあひだで
 ある眼は白く忿ってゐたし
 ある眼はさびしく正視を避けた

という表現に接した後では、自分が行った肥料設計や稲作指導が、農民たちに理解されないのなら、もうこんな活動は止めて、村も町も衰退するがままに任せようという風にしか、つまり、活動を放棄しようとしているようにしか読めないことも確かである。こういうところに、賢治が、病気で倒れる前に、挫折していたのではないか、と思わせる一因がある。
 作品に日付はないものの、やはり八月二十日のこととして書かれている「野の師父」という詩がある。《四日つゞいた烈しい雨と/今朝からのこの雷雨のために/あちこち倒れもしましたが》という表現からそれが判かる。また、

 師父よあなたを訪ねて来れば
 あなたは縁に正しく座して
 空と原とのけはひをきいてゐられます

という表現、とりわけ《けはひをきいて》と注意深く表現されているところを見ると、師父は、《老いて盲ひた大先達》([二時がこんなに暗いのは])のことであろうと推察される。ところが、この詩には、

 なおもし明日或は明後
 日をさへ見ればみな起きあがり
 恐らく所期の結果も得ます

というような表現や、

 しかもあなたのおももちの
 その不安ない明るさは
 一昨年の夏ひでりのそらを
 見上げたあなたのけはひもなく
 わたしはいま自信に満ちて
 ふたゝび村をめぐらうとします

というような表現が見出される。先に引用した[もうはたらくな]の、仕事が手につかない狼狽ぶりからは、考えられないことである。もちろん、それは、師父と会うことによって自信を取り戻したと考えることもできるだろう。それでは、《遂に睡らなかった》という表現や、《十に一つは起きれまいと思ってゐた》(ともに[和風は河谷いっぱいに吹く])というような表現は、どう考えたらよいのか。《遂に睡らなかった》人間が、今は倒れている稲も、陽射しを受けさえすれば、必ず起き上るという自信を持っていたとは思えないし、《十に一つは起きれまいと思ってゐた》人間が、《自信に満ちて/ふたゝび村をめぐらうとし》たとは思えないからである。
 原因は、「野の師父」という詩の中にありそうに思える。たとえば、

 この野とそらのあらゆる相は
 あなたのなかに複本をもち
 それらの変化の方向や
 その作物への影響は
 たとへば風のことばのやうに
 あなたののどにつぶやかれます

というような表現。師父がこのような能力を持っていることを認めてしまえば、師父のおももちが明るいということは、今年の稲の収穫の見通しが明るいということになり、たしかに、あえて、

 四日つゞいた烈しい雨と
 今朝からのこの雷雨のために
 あちこち倒れもしましたが
 なほもし明日或は明後
 日をさへ見ればみな起きあがり
 恐らく所期の結果も得ます

などと言う必要もなくなり、

 この雷と雨との音に
 物を云ふことの甲斐なさに
 わたくしは黙して立つばかり

になってしまうということも首肯けないことでない。しかし、師父が、野と空の一つの相から作物の影響を測ることができる、ということを認める限りにおいてである。そもそも、師父が、《この野とそらのあらゆる相》の複製を持っているかどうかさえも、わたしには疑わしく思える。つまり、それらは、言ってみれば、賢治の推測、もしくは願望でしかないはずなのに、あたかも事実であるかのように表現されるところが問題なのだ。それ以上に、八月二十日に師父を訪れた時点で、まだ稲が起きあがっていない時点で、そう思えたのかということである。思えなかったから、その夜、《遂に睡らなかった》のだし、翌日、稲が起きあがったときの喜びが、ひとしお大きかったのではないのか。
 ある顔の表情の意味が、後になってからわかるということがある。「野の師父」のおももちの明るさも、そのような類いのものだったのではないか。《気狂ひのやうに/あの雨のなかへ飛び出し》た時の賢治には、師父のおももちの明るさの意味が掴めなかった。ところが、翌日、稲が起き上ったのを目の当たりにして、師父の表情の意味が、稲が起き上ることを見越してのものだったことに気づいたのである。気づいた時に、師父の存在が急に眩しく思われたのだ。この詩が、後に「表彰者」になったことを考えると、《老いて盲ひた大先達》を理想化するあまり、事実の方を歪めてしまったようだ。

 八月の二十日に倒れた稲が、そのままであったなら、賢治は、農村活動を放棄したかもしれなかった。しかし、起き上ったのである。

 もうこの次に倒れても
 稲は断じてまた起きる
 今年のかういふ湿潤さでも
 なほもかうだとするならば
 もう村ごとの反当に
 四石の稲はかならずとれる
             (「和風は……」先駆形)

《当時湯口村の篤農家松岡喜造の最高収量が反当三石、普通二石》(堀尾年譜)というから、「四石」は、大言壮語に過ぎるとしても、このとき、賢治は自分の肥料設計、稲作指導に絶対の自信を得たと言ってよい。だから、これまで以上に詩作も旺盛になっていいはずである。ところが、昭和三年六月に大島を旅行した際の一連の詩、「三原三部」、「東京」は例外として、「詩ノート」を見ても、『春と修羅第三集』を見ても、昭和二年八月以降、昭和三年の八月に病気で倒れるまでの間に書かれた詩は、数えるほどしかないのである。
 ただ単に、作品番号や製作日が付されなくなったことから、そう見えるだけなのか、実際に寡作になったのか、『春と修羅詩稿補遺』の中から、この時期の作品を選び出すことが不可能に近い以上、どちらにも決められない。昭和二年の秋から昭和三年の夏までの年譜をみれば、大正十五年の秋から昭和二年の夏までと大差のない生活をしているはずなのに、この時期の詩が少ない(少なく見える)ということが、この時期の賢治の生活が萎んで見えるのも確かなのである。それが、病気で倒れる前に農村活動に挫折していたのではないかと思わせる、もう一つの原因である。


三、その巨きなもの

 賢治には、村人や農民になかなか受け入れられないという現実があった。その距離を縮めたいという願望が、他人の視線に自分への反感を感じさせ、内省へと向かわせたようである。

 (この逞ましい頬骨は
  やっぱり昔の野武士の子孫
  大きな自作の百姓だ)
 (息子がいつでも云ってゐる
  技師といふのはこの男か
  も少しからだも強靭くって
  ひどい仕事ができさうもない
  だまって町で月給とってゐればいゝんだが)
             (「会見」…「春と修羅詩稿補遺」)

 賢治が下根子にいた頃、かっての教え子の家か、肥料設計を行った農家の子息を訪ねたときのことであろう。その父親にかなり辛辣な言葉を浴びせかけられている場面を想像してしまう。ところが、この詩の先駆形である「吟味」という詩を見ると、事情はかなり違ってくる。

 うしろではまだ じろじろおれを見てゐることは
 おれの首すぢが白い光を感じてゐるので明かだ
 あの頬骨と深く切れた眼だ
 さすがはむかしの野武士の子孫
 台湾へ砲兵にも行ってきただけあって
 丈六尺(数文字不明)男が
 (むすこの重隆がいつでも云ってゐる
  農学校の先生というのはこのアンコか
  なあにこいつが百姓なんて
  とてもやり切るもんではない)と
 さう考へて眺めてゐる

 農夫の言葉と思われた部分は、明らかに賢治の側の勝手な憶測である。憶測なのだが、賢治の独創という感じもしない。新たに付け加えられた部分、《だまって町で月給とってゐればいゝんだが》同様、他の場所で、他の農夫に言われたことをそっくりそのまま挿入しているように思う。この挿入された言葉には、随分含みがあって、《だまって》というのは、「何もしないで」という意味であろうから、賢治の農村活動を暗に批判しているのだし、村人の町への、天候に左右されずに毎月一定の収入が得られることへの農民の、羨望と侮蔑のないまぜになった感情が、これだけの言葉のなかに凝縮されている。
 詩「饗宴」の中で、自分を天山北路を渡る僧になぞらえて耐えていたときにも、これに似た言葉が返ってきたにちがいない。また、部落の共同作業に出られずにお金を納めた時にも、《なあに金出す人ぁ困らなぃ人だがら》([たんぼの中の稲かぶ八列ばかり])と徴収した人が言っていたことを書き留めている。この手の言葉を列挙したらいとまがない。
 これら自分への反感を、賢治は、随分、気にしていて、早朝、自分で栽培した野菜や花を売りに町へ向かう道すがら、一緒になった農夫の眼差しにも同様のものを想定し、その処方まで案じている。

 馬をひいてわたくしにならび
 町をさしてあるきながら
 程吉はまた横眼でみる
 わたくしのレアカーのなかの
 青い雪菜が原因ならば
 それは一種の嫉視であるが
 乾いて軽く明日は消える
 切りとってきた六本の
 ヒアシンスの穂が原因ならば
 それもなかばは嫉視であって
 わたくしはそれを作らなければそれで済む
 どんな奇怪な考が
 わたくしにあるかをはかりかねて
 さういうふうに見るならば
 それは懼れて見るといふ
 わたくしはもっと明らかに物を云ひ
 あたり前にしばらく行動すれば
 間もなくそれは消えるであらう
 われわれ学校を出て来たもの
 われわれ町に育ったもの
 われわれ月給をとったことのあるもの
 それ全体への疑ひや
 漠然とした反感ならば
 容易にこれは抜き得ない
             ([同心町の夜あけがた]より)

 どうして、こうも自分への反感にこだわらなければならないのか、という疑問に応えているのは、次の詩であろう。

 土も掘るだらう
 ときどは食はないこともあるだらう
 それだからといって
 やっぱりおまへらはおまへらだし
 われわれはわれわれだと
   ……山は吹雪のうす明り……
 なんべんもきゝ
 やがてはまったくその通り
 まったくさうしかできないと
   ……林は淡い吹雪のコロナ……
 あらゆる失意や病気の底で
 わたくしもまたうなずくことだ
             (三月十六日[土も掘るだらう])

《おまへらはおまへらだし》というところを、《われわれ学校を出て来たもの/われわれ町に育ったもの/われわれ月給をとったことのあるもの》に置き換えて読んでみると、賢治が言われていたことがよく解かる。村の賦役にでも出たところで、このように面と向かって言われたら、時とともに言葉が沈殿していくのを避けられないだろう。何度も反趨しなければならない所以である。

 いつかは怒ってすまなかった
 中学生だのきみが連れてきたもんだから
 それに仕事の休みでない日
 ぼくのところへ人がくると
 近処でとてもおこるんだ
 休み日は村でちがふんだ
([しばらくだった]より)

 反感を買わないように、村人にどれだけ気を使っていたかを示す好例である。


 さて、先の詩の《あらゆる失意や病気の底で》というような表現が、あらぬ誤解を生むのではないだろうか。過労か、それとも粗食が原因か分からないが、賢治が、下根子に移ってからずっと病気がちであったことは、《村へ来てからからだの工合が悪い》(「もう二三べん」)という詩から判かる。また、[土も掘るだろう]の詩の書かれた前月、昭和二年の二月一日に岩手日報夕刊に羅須地人協会の紹介記事が載った。治安維持法が成立したのが、大正十四年三月。《賢治は、思わざる累が協会員に及ぶことを恐れ「誤解を招いてすまない」と》(現代詩読本年譜)協会の活動を自粛したようである。この農閑期に、肥料設計や稲作指導の失敗は考えられないので、賢治は、この出来事を指して、「失意」と言っているのだと思う。

 次の詩の場合も、かっての教え子か誰か、顔見知りの者が、眼をそらしたのを見て、そ心理を探ってみたものである。

 火祭で、
 今日は一日、
 部落そろってあそぶのに、
 おまへばかりは、
 町へ肥料の相談所などをこしらえて、
 今日もみんなが来るからと、
 外套など着てでかけるのは
 いゝ人ぶりといふものだと
 厭々ひっぱりだされた圭一が
 ふだんのまゝの筒袖に
 栗の木下駄をつっかけて
 さびしく眼をそらしてゐる
             (「火祭」より…「春と修羅詩稿補遺」)

「会見」のときと違っているのは、出自や経歴への反感ではなく、賢治の農村活動への反感である点である。

 くらしが少しぐらゐらくになるとか
 そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは
 いまのまんまで
 誰ももう手も足も出ず
 おれよりもきたなく
 おれよりもくるしいのなら
 そっちの方がずっといゝと
 何べんそれをきいたらう
    (みんなおなじにきたなくでない
     みんなおなじにくるしくでない)
             (「火祭」より)

 火祭の光景とは何の関わりもない、この連の出現は、いかにも唐突な感じがするのだが、前後をよく読み合わせてみると、《くらしが少しぐらゐらくになる》という表現が、《肥料の相談所などをこしらえ》るという表現に促されて出現していることに気づく。賢治が、肥料相談所を設けて肥料設計を行うのは、稲の収穫量を増やすことを考えてのことである。ところが、それを望まない農民もいたのである。《いまのまんまで/誰ももう手も足も出ず/おれよりもきたなく/おれよりもくるしいのなら/そっちの方がずっといゝと》言う農民が。向上心も、同胞意識もない、この言葉に、賢治は、僅かに《みんなおなじにくるしくでない》と、不満を継ぐだけである。そればかりか、

 さうしてそれもほんたうだ 
    (ひば垣や風の暗黙のあひだ
     主義とも云はず
     たゞ行はれる巨きなもの)
             (「火祭」より)

と、容認してしまうのである。そして、その理由はわたしたちには明かされない。これが、「会見」という詩の場合なら、南の地平の方を眺めている農夫の眼に、

 (ぜんたいいまの村なんて
  借りられるだけ借りつくし
  負担は年々増すばかり
  二割やそこらの増収などで
  誰もどうにもなるもんでない
  無理をしたって却ってみんなだめなもんだ)
             (「会見」より)

という意見を読み込んで、何ら反論することなく、《じつにわれわれは/遠征につかれ切った二人の兵士のやうに/だまって雲とりんごの花をながめるのだ》と、疲労感を述べたとしても、賢治の肥料設計や稲作指導による増収によっては、借金の負担に追いつかない農家が少なからずあったろうと思われるので、疑問には思われない。だが、「火祭」には、納得のいく表現がないのである。そこで、当時の農業について少し調べてみると、昭和二年の例で、全農家戸数中、自作農は三十一・二%、自作農兼小作農が四十一・九%、小作農は二十六・九%である。小作料は、物納がおもで、それも実収高の約半分に及ぶ高率であったという。(以上、山口和雄著、「日本経済史」、筑摩書房)つまり、品質の向上なり、収量の増大は、地主の利益にこそかなえ、小作人にとっては、手間ばかりかかって、実質的な小作料の引き上げに等しかったことが、判かる。
 もちろん、「火祭」には、農夫が自作農であるか、小作農であるかは書かれていないが、自作農が収量の増加を厭う理由は考えられないから、自作農兼小作農か、小作農と見てよいであろう。
 当時の小作農の置かれた状態について、賢治がまったく無知であったとは思われない。いや、小作農にとっては、収穫量の増大が必ずしも彼らの利益に結び付くわけではないことを知っていたからこそ、農民の言葉を容認せざるをえなかったのではないか。ただ、どうしても《おれよりもきたなく/おれよりもくるしいのなら》という、他人が自分より苦しんでいることで現状に満足しようとする頑迷さは、許容できなかった。それで、その頑迷さを《主義とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの》と言ったのである。農民の、自分への反感の下層に、そういうものが、動かしがたく横たわっているように感じられたのであった。

 相手の視線に自分への反感を感じたというのとは少し違って、けっして相手が非難めいたことを言っているわけではないのに、過度に反応して傷ついているようにしか見えない作品がある。「境内」という詩である。《どらをうったり手を叩いたり》という表現も見えることから、あるいは稲作にまつわる行事なのか、有志が集まって稲の成長の具合を見て回っているのか判らないが、とにかく昼休みのことである。

 みんなが弁当をたべてゐる間
 わたくしはこの杉の幹にかくれて
 しばらくひとり憩んでゐよう

 どうして、杉の幹にかくれていなければならないかと言うと、弁当を持って来なかったからである。それというのも、《空手で来ても/学校前の荒物店で/パンなぞ買へると考へた》からである。ところが、売っていなかった。それどころか、店のじいさんに、

 パンだらそこにあったけがと
 右手の棚を何かさがすといふ風にして
 それから大へんとぼけた顔で
 ははあ食はれなぃ石バンだと

からかわれる始末である。しかし、この程度の冗談を言われただけで、

 あのぢいさんにあすこまで
 強い皮肉を云はせたものを
 そのまっくらな巨きなものを
 おれはどうにも動かせない
 結局おれではだめなのかなあ

というのは、大袈裟過ぎはしないか。それ以上に、これらのことが、

 あゝ杉を出て社殿をのぼり
 絵馬や格子に囲まれた
 うすくらがりの板の上に
 からだを投げておれは泣きたい

というほどのことであろうか。泣きたい理由は、もっと他にあったのではないのか。いや、そうではあるまい。ちょうど、「会見」や「火祭」で、自分への反発の言葉の深部に《主義とも云はず/ただ行はれる巨きなもの》(「火祭」)が横たわっていたように、おじいさんの冗談にも同様のものを感受したのだ。そうでなければ、あったはずのところにパンが見つからず、近くに石盤(『グスコーブドリの伝記』にこの語がある。)があったので、パンとバンを掛けて、《ははあ食はれなぃ石バンだ》と軽い冗談を言ったにすぎないのに、それを、《強い皮肉》と受け取ったりはしないであろうし、《そのまっくらな巨きなものを/おれはどうにも動かせない/結局おれではだめなのかなあ》などと弱音を吐いたりはしないであろう。あるいは、身体的な衰弱が一つの要因かもしれないが、事あるごとにそれに対すると同一の反応を示してしまっているのである。ただ、「境内」に、「会見」や「火祭」と決定的に違うところがあるとすれば、「会見」や「火祭」には《主義とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの》を動かそうという意志が感じられないのに対し、「境内」はそういう意志を捨てていないということである。むしろ、「境内」の最終の二行は、

 無畏、無畏
 断じて進め

と自分を鼓舞しているのである。

 ここで、「境内」がいつごろ書かれたのか考えてみたい。この詩の中に「ま夏の」という語が見える。賢治が下根子に入ってから迎えた夏は、大正十五年、昭和二年、昭和三年の三年しかない。大正十五年の夏と言えば、「羅須地人協会」を創立して、理想に燃えていたころであり、弱気であるはずがない。また、昭和二年の夏について言えば、七月、八月(二十日まで)に限っても、「詩ノート」の作品番号に欠番はなく、この年に書かれたとは考えにくい。残る昭和三年についてだが、この年の真夏に書かれたとはっきりわかっているのは、七月二十四日付の「杏」(「穂孕期」の先駆形)一篇だけである。
「境内」の背景は昼、「穂孕期」の方は夕方。試みに、二つの詩を同日の作品として読
んでみる。つまり、その日は、

 約束をしてみな弁当をもち出して
 じぶんの家の近辺を
 ふだんはあるかないようなあちこちの田の隅まで
 仲間といっしょにまはってあるく
             (「境内」より)

そうして、

 蜂蜜いろの夕陽のなかを
 みんな渇いて
 稲田のなかの萱の島、
 観音堂へ漂い着いた
             (「穂孕期」冒頭)

という風に。驚くほど違和感がない。もちろん、この二つの作品の着手日が同日でなければならない理由はどこにもないので、わたしはこの思い付きに固執する気はない。「境内」が、昭和三年の真夏に書かれたという感触が得られればよいのである。
 これで、わたしの頭の中が少し整理できそうである。賢治は、昭和三年の夏まで、言い換えれば、八月の十日に病気で倒れるまで、下根子での活動が失敗であったとは思っていなかった。やはり《半途で自分が倒れた訳》(年月日不詳書簡)なのだ。だから、「春と修羅詩稿補遺」の中の、挫折感の漂ういくつかの作品、たとえば、[土も掘るだろう]、「会見」、「火祭」などは、病気が回復してから改稿されたものだと思う。


Booby Trap No. 28


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