9 勝田橋



写真9-1  前回北側にも散歩に行ったので、家の周囲はほとんど歩き尽くしたことになる。もっとも、すべての路地を歩き尽くしたわけではないが、どうせなら、もう少し遠くに行ってみたくなってきた。前回、ちょっと遠回りのつもりで歩いていたら、以前は遠いところだと思っていた水泳競技場の横(写真7-3)に知らないうちに来ていたくらいで、もう山田神社や山田富士は遠いところという感じがしない。もっと歩いても楽に帰ってこられるのではないだろうか。
写真9-2  以前も書いたように、中原街道を通る江田行きのバスは、風景が気に入って一時愛用したことがあった。バスでは一瞬のうちに通り過ぎてしまう風景でも、歩きならゆっくりと眺められるだろう。そっちに行ってみよう。
写真9-3 写真9-4  散歩の出発の仕方としては久しぶりにカーブミラーのところの階段(写真1-1)を下りていった。そういえば、ここの写真はなかったので撮っておこうと思う(写真9-1)。ついでに階段を下りて旧道を渡り、歩道橋方面と城山バス停方面への道が分かれるところ(写真9-2)と、城山歩道橋から山田富士側を見たところ(写真9-3)も写真に撮る。歩道橋を渡って山田神社に向かう小公園(写真2-1)まで行き、階段を上ったところでティファニー(写真2-2)とは逆の方に曲がる。サレジオ学院のところから、最初の山田神社行きのときに通った竹薮(写真2-7)を逆に歩いて、道の反対側の竹薮を撮る(写真9-4)。そして、宮の下のバス停(写真5-9)のところで、中原街道に合流する。このくらいの距離なら、もう軽いものだ。
写真9-5 写真9-6  中原街道は、このあたりでも古い街並を残しており、田舎くさい。自動車整備工場や交番が建っていて、古くからタウンだったことはわかるのだが、ニュータウンとは空気が違う。普段着で家が並んでいるという感じだ。最初のうちは歩道がなくて歩きにくいが、ガソリンスタンドを過ぎると、中川中学のものだと思われるグランドがあって、そのあたりから少し歩道がある(写真9-5)。グランドの横に中川中学校のバス停があり、まずはバス停1つ分歩いた。中川中学は、このグランドの横の坂道を上がった先にあるようで、ここからは見えない。しかし、その隣にもう1つ坂道があり、見上げると寺がある。清林寺というらしい。ちょっと上がって覗いてみる。大きな銀杏が立っていて、その横に日露戦争の戦没者慰霊碑が建っていた(写真9-6)。乃木希典書となっている。そういえば、妻の実家でも、義父の兄弟とか伯叔父といった人たちのなかに、第二次大戦までのさまざまな戦争で戦死者が出ているということを聞いたことがある。農村風景と戦争が頭のなかで簡単に結び付かないが、そのような現実があったということを知識として思い出す。
写真9-7  中原街道に戻って少し歩くと、大棚のバス停は意外と近かった。電信柱に貼ってある住居表示も南山田ではなく、大棚町になっている。ついに山田の外に出てしまったわけだ。そして、大棚のバス停からほんのすぐのところで県道横浜生田線との交差点の案内図が見えた(写真9-7)。横浜生田線と中原街道がほんの少し重なり合っているが、ここが勝田橋である。思っていたほど遠くない。
写真9-8  バスはここで橋を渡らずに「荏田」と書かれている方に曲がる。田園都市線の「江田」という駅名は、東急が「荏」の字を嫌って勝手に変えて付けたもので、都筑、青葉の2つの区にあるエダの付く地名はすべて「荏田」の表記を使っている。私は歩きなので、すぐに荏田方向には向かわず、橋を渡って川を見ることにする(写真9-8)。見るといってもどぶ川である。水らしい色をしていない。洗剤でも混ざっているような感じである。この川は早渕川といって、鶴見川の支流である。のちめ不動交差点(写真4-3)から綱島に向かい、第三京浜の手前で右に曲がると、第三京浜都筑インターや新横浜に通じる道があるのだが、この道に入ってすぐに渡る川も同じ早渕川だ。
写真9-9  それはともかく、対岸から見る横浜生田線はなかなかよい雰囲気だった(写真9-9)。特に、車道から離れて少し上に上がったところにある家が古臭くてよい。以前、イギリスの田舎に行ったときに、車がなければ何百年前でも同じ風景だったのではないかと思われるようなところがあちこちにあったが、ここも車と電信柱がなければそんな感じがする。西脇順三郎が農家のおばさんに道を尋ねながら散策した道も、案外このようなものだったのではないか。
写真9-10  少しいい気分になり、橋をもう1度渡って荏田方面の県道を歩く。車道から分かれて上に上がっていく坂道も写真に撮った(写真9-10)。しかし、どうも様子がおかしい。「お墓のご相談は」などと書かれた立て札がある。民家だと思っていたところは、龍福寺という寺だった。寺なら古い風景が残っていても不思議ではないが、ちょっとがっかりした。どうせなら、古い農家、民家を見たい。やはりここからはまだ遠いが、この道の先にあるはずの田園風景を見るしかないか。帰ってくるのが大変だったら、頻繁に通っているバスに乗ればよい。
 しかし、勝田の次の中川小学校のバス停のところを通ったときに気が変わった。中川小学校入口と書かれた矢印の先を見ると、写真5-10と同じような鄙びた坂道がある(話をしている人がいたので、この坂自体の写真は撮り損ねてしまった)。看板の文字が古臭い感じだったので、古い小学校が見られるかもしれない。何しろ義父も通っていたという小学校だ。子供の頃の妻も、最初は中川小学校に通っていたが、山田小学校(写真6-9)ができてそちらに移ったと聞いたことがある。
写真9-11  ところが、坂道を上り切ったところで雰囲気は一変して田舎臭さがなくなった。ニュータウンのなかに入っていたのである。中川小も写真9-11のような新しい学校だった。帰ってから妻に聞いてみると、彼女が通っていた中川小は宮の下より少し勝田よりに建っていたという。今の中川小は見たこともないそうだ。
写真9-12 写真9-13  もう1度横浜生田線に戻るのも面倒になってしまって、あっちが家の方だろうと思うところを目指して適当に歩いた。中原街道からは見えなかった中川中学も見える(写真9-12)。牛久保東だった住居表示が南山田になり、大善寺(写真9-13)という寺を過ぎると、不動谷の交差点(写真9-14、写真9-15)に着いた。これは、宮の下から竹薮(写真2-7)やサレジオ学院手前の田舎道(写真5-10)に抜けて行ったときに通ったセンター北に向かう道と裏のバス通り(写真5-19)が交差しているところである。そのときには、あんなに遠いところには行けないからと途中で曲がったのだが、今日は家まではもうすぐだという気分になった。もうすぐだと思うと、逆に物足りない感じがする。家の方に向かって100mほど歩いた交差点で左に曲がってしまった。ここなら車でも通ったことはない。
写真9-14 写真9-15  しばらく歩くと、子供たちが反対側からぞろぞろ歩いてくる。おや、と思っていると、南山田小学校というのがあった(写真9-16)。こんなところに学校があるとは知らなかったので驚いた。小学校の向かい側には、ときどき出前を頼む「うや川」といううなぎ屋があった(写真9-17)。ここも出前だけで店に来たことがなかったので、なんだこんなところにあったのかと思う。
写真9-16 写真9-17  小学校を一回りするように歩いていくと、途中から遊歩道を通るようになっていた。前回の散歩で、東山田にサッカー場(写真8-9)があることを知ったが、こちらには野球場があることを知った(写真9-18)。神無公園と書いてどう読むのだか知らないが、野球場を利用したければ、区役所だか郵便局だかに行って申込書を書かなければならないらしい。少々面倒だ。まぁ、ここで野球をやることはないだろう。
写真9-18 写真9-19  神無公園を過ぎると、すぐに遊歩道は三叉路になっていた。どうも見たことのある風景だと思ったら、山田富士からの帰り、日吉元石川線を潜り抜けて右に行こうか左に行こうか迷って結局左に行ったら日吉元石川線に戻ってしまったというあの三叉路である(写真9-19)。もう1度、空地の向こうの山田富士(写真3-10)を眺めて家に帰った。

参考地図[勝田橋][不動谷]

99/2/10


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