塵中風雅 (八)

倉田良成



 ここで「註」のように一項をさしはさみたい。
 前回の稿の時期、芭蕉は「おくのほそ道」(以後、ほそ道という)の旅に出立することになるのだが、私は作品としての「ほそ道」を取り上げるつもりはない。
 「ほそ道」の本文にあたる時期は元禄二年三月から同九月まで、厳密にいえば三月二十七日から九月六日までのほぼ半年間であるが、この成立した書物としての「ほそ道」と、芭蕉が発心した現実の奥羽歌枕一見の旅とは区別して考えられるべきだ。貴重なのは「ほそ道」という書物ではなく、旅のなかで吟じられた多くの佳什とこの時期の消息を伝える若干の書簡であろう。こののち、あたかも「野ざらし」の旅のあと「冬の日」五歌仙が生まれたように、芭蕉最円熟期のいわば「傑作の森」とでも呼び得るような作品群、歌仙の数々が作られることになるのである。
 ところで随行者の曽良については、その略歴を記しておきたい。曽良。慶安二(一六四九)年生まれ、宝暦七(一七一〇)年没。享年六二。信濃国上諏訪に高野七兵衛の長子として出生。本名、岩波庄右衛門正字(まさたか)。幼名、与左衛門。通称、河合惣五郎。曽良は俳号。河合姓は伊勢長島に仕官したときに母方(河西家)の祖先の姓を名乗ったとも、また長島の地が木曽川と長良川とにはさまれた河合の地であることから河合曽良と号したともいわれている。貞享初年以来芭蕉に親炙したが、芭蕉没後の宝暦六年、幕府の諸国巡国使派遣にあたり随員となり、翌七年筑紫へ出発するが、壱岐の勝本で病を得、同年五月二十二日その地で客死。「ほそ道」の随行日記であまりにも有名であるが、その性清廉高潔、かつ温情の人であったようだ。その最期も、芭蕉と同じく旅に死んだ「東西南北の人」(送岩波賢契之西州並序)でもあった。 
 さて北国行脚については芭蕉書簡のなかでもたびたび触れられている。旅の前のものとしては次の書簡の断片を引いておく。

彌生に至り、待侘(まちわび)候塩竃(しほがま)の櫻、松島の朧月、あさか(淺香)のぬまのかつみふ(葺)くころより北の國にめぐり、秋の初(はじめ)、冬までには、みの(美濃)・お(を)はり(尾張)へ出(いで)候。(猿雖[推定]宛元禄二年閏正月乃至二月初旬筆) 

拙者三月節句過(すぎ)早々、松嶋の朧月見にとおもひ立(たち)候。白川・塩竃の櫻、御浦や(羨)ましかるべく候。(中略)仙臺より北陸道(ほくろくだう)・みのへ出(いで)申候而(て)、草臥(くたびれ)申候はゞ又其元(そこもと)へ立寄申(たちよりまうす)事も可有御坐(ござあるべく)候。もはや其元より御状被遣(つかはさる)まじく候。(桐葉宛元禄二年二月一五日付)

「旅」についてはかなり綿密に計画が立てられていたことをうかがわせる。なかでも「松嶋の朧月」と「塩竃の櫻」が眼目であったことが知られるが、実際にその地に立った季節はおりしも梅雨から夏にかけてのころで、快晴にはめぐまれたが「朧月」や「櫻」といったわけにはゆかなかったようである。
 旅行たけなわの時期のものとしては、羽黒山で世話になった近藤左吉(俳号呂丸)への礼状と、それと時期は前後するが、白河の何云(かうん)への書簡が残されている。後者を引いてみる(元禄二年四月下旬筆)。

白河の風雅聞(きき)もらしたり。いと淺多(のこりおほ)かりければ須か(賀)川の旅店より申(まうし)つかはし侍る。
   関守の宿を水鶏(くひな)にとはふ(う)もの     はせを
又、白河愚句、色黒きといふ句、乍単(さたん)より申参(まうしまゐり)候よし、かく申直し候。
   西か東か先(まづ)早苗にも風の音

 最後の句は芭蕉のことばにもあるように「早苗にもわが色黒き日数哉」の別案である。両者とも能因法師の「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」を俤としたものであるが、前者が歌の表にはあらわれていない盛夏の「旅」を奪ったのにたいし、後者では真夏の青田を渡る風のなかにするどく「秋」を聞いている。秋のおとずれを「風の音」によってとらえるというのは歌の伝統であった。
 旅の最後のほうで(「ほそ道」の文はまだつづくが)芭蕉らは加賀の山中温泉に逗留している。そこから大垣の如行に宛てて一札を送っている(元禄二年七月二十九日付)。

みちのくいで候て、つゝがなく北海のあら磯日かずをつくし、いまほどかゞ(加賀)の山中(やまなか)の湯にあそび候。中秋四日五日比爰元立申(ごろここもとたちまうし)候。つるが(敦賀)のあたり見めぐりて、名月、湖水か若(もし)みの(美濃)にや入らむ。何(いづ)れ其前後其元(そこもと)へ立越可申(たちこえまうすべく)候。

 ここでひとたび「旅」は完結したとみてよいのではないか。この地で同行(どうぎよう)の曽良は腹病を得て、ゆかりの伊勢長島に去るのである。芭蕉はこのとき「今日よりや書付消さん笠の露」の一句をものしている。事実上の旅の終わりとみてよい。 
 書簡のなかで触れられている「つるがのあたり見めぐりて、名月、湖水か……」という箇所であるが、芭蕉は敦賀で仲秋の夜をむかえている。それを「ほそ道」の文はこう簡単に記している。

十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(ふる)
  名月や北國(ほくこく)日和定(さだめ)なき

 巷間いわれているように、これは名月の夜に雨天をうらむというようなものではない気がする。句だけを素直にとれば、まず晴雨さだめない空に隠見する月のかんばせというような印象を私ならば受ける。さらにその情をさぐってゆけば、「北國」というしたたかな風土のなかで「いま現在は」見えていない幻の月の強烈な存在感に突き当たるような気がするのである。句眼は「定なき」であろう。「月清し遊行のもてる砂の上」というようにむしろ前夜が晴れていることを思うべきだろう。
 「ほそ道」の文の最後にあたるところが次の杉風(推定)宛の元禄二年九月二十二日付の書簡に記されている。

木因舟に而(て)送り、如行其外連衆(そのほかれんじゅ)舟に乗りて三里ばかりしたひ候。
   秋の暮行(ゆく)先々は苫屋哉 木 因
    萩にねようか荻にねようか はせを
   霧晴ぬ暫ク岸に立玉(たちたま)へ 如 行
   蛤のふたみへ別行(わかれゆく)秋ぞ 愚 句
     二 見
   硯かと拾ふやくぼき石の露
先如此(まづかくのごとく)に候。以上

 最初の二句は発句と脇。これにつける第三は敦賀から芭蕉につきしたがってきた路通がつとめ、四句目は伊勢長島から駆け付けた曽良がつけた。このとき伊勢の遷宮を見物するために出発する芭蕉と、門人たちとが別れを惜しんだのである。蛤の句は「ほそ道」では「ふたみにわかれ」となっている。この句は蛤に「蓋」と「身」をかけ、それが「二見」へとかかり(ふたみとわかれとは縁語)、さらに「別れ行く」は「行く秋」の掛詞になって、「ほそ道」冒頭の「行春や鳥啼魚の目は泪」に対応させているという手の込んだことをやっている(「ほそ道」補註による)。こういうところに芭蕉の「詩」の一端をになうものがあきらかに示されているといえるのではないか。  
 これを散文でやるとどうなるか。「ほそ道」の初めのほうの次の部分を見てみよう。

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明(ありあけ)にて光お(を)さまれる物から、不二の峰幽(かすか)にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。

このなかの「明ぼのゝ空朧々として」は、挙白集・山家記の「ろうろうとかすみわたれるやまの遠近(をちこち)(中略)明ぼのゝそらはいたくかすみて有明の月すこしのこれるほど」によるものであるし、また「月は在明にて光おさまれる物から」は源氏物語帚木巻の「月は有明にて光をさまれる物から、影さやかに見えて、中々をかしき曙なり」とその俤をかすめ、さらに「又いつかはと心ぼそし」は、西行の「畏まる四手に涙のかゝるかな又いつかはと思ふ心に」から引く、といった具合である。この短いセンテンスのなかにこれだけの裁ち入れがあるということは、たとえそれが近世にさかのぼるものであるにせよ、散文の姿としてけっして健康なことではない。これが当時の「俳文」の常道であるというのなら、次の「俳文」はどうであろうか。

辛未のとし弥生のはじめつかた、よしのゝ山に日くれて、梅のにほひしきりなれば、旧友嵐窓が、見ぬかたの花や匂ひを案内者といふ句を、日ごろはふるき事のやうにおもひ侍れども、折にふれて感動身にしみわたり、涙もおとすばかりなれば、その夜の夢に正しくま見えて悦(よろこべ)るけしき有。亡人いまだ風雅を忘(わすれ)ざるや
 夢さつて又一匂ひ宵の梅

「猿蓑」のなかの嵐蘭の作であるが、文といい、句といい、情理を尽くして間然するところがない。これなら現代を生きる私にも「判る」のである。文と句とのあいだにひらめく「詩」として、これは健康な姿といえよう。朴訥なところもよい。それにくらべて芭蕉の文は、詩を意識してかえって詩でなくなっているところがある。「幻住庵記」などもそうだが、これが「文臺引おろせば即反古也」といいはなった人のものとも思われない。私がここで「ほそ道」の本文について語るつもりのない所以である。句のなかではごつごつした感触が美であるのにたいし、その、芭蕉の感じていた同じものをそのまま散文脈に乗せると、一種異様なものができあがってしまう。私たちとしては、そこに芭蕉の持ついかにも複雑な陰影を見るべきなのかもしれない。彼はひたすら句の人、座の人であり、現代の詩が芭蕉の投擲した「詩」の到達点を超え得ているとはいいがたいほどの埋蔵量をはらんでいる詩人であった。そしてそのことはこれからの稿で見てゆきたいと考えている。

(この項終わり)

    *参考文献/『おくのほそ道』(岩波文庫・萩原恭男校注)、『芭蕉七部集』(岩波文庫・中村俊定校注)、『芭蕉俳句集』(岩波文庫・中村俊定校注)。なお、この稿を書くにあたっては、畏友、水谷馨氏の示唆によるところがおおきい 

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