結局みんないつかは死ぬということを学ぶために今日を生きている
ある日僕はふとしたことがきっかけで、そのふとしたことというのがまたよくわからないのだが、何か躓くような瞬間的
な出来事のせいで、迷い込んだ路地裏の、光りも射さない巧妙さの欠けた、馴染みのある街の一角で、破局的な怒声を聞
き、あれが何だったのかさえ知らされないまま、遠い故郷の、もう故郷は僕にはない「 」のだが、雪が積もった日の
匂いとか、犬がやたらに多かった日のぺニスの昂りを、女子中学生と林の中で絡め「 」あった舌の温もりに、でもカ
ラスは冬の間境内のどこに隠れて、僕と僕ではないものとのことを見ながら、心臓が破けそうなほどの欲望に塗れて、空
からではなく、空気と空気の間から突然現れるぼた雪が、掌の上で溶けてゆくのを、あの子の乳房だけがやたらと鮮やか
に、忘れることが出来ないのは、ぱっと散った血の美しさ、それとも艶めかしいその匂い、それは「 」雪の中を逃
げる兎の目に似て、これ以上誰をも引きつけることの出来ない「 」記憶と、その引喩「 」、そして尚ここに
おいて声と身体の同一性は断たれ、僕は僕ではないものとの区別さえで「 」きず、永遠に彷徨う道を歩きだした
「 」わけで、その時僕は、僕ではないもの「 」の、もはや唯一者はロゴスという壇上にはもういなく、こ
のようなエクリチュールの勝利は、僕の不在によって招いた危機であり、例えばそれを在るべきものと位置づけてもよく、
僕はだから、僕ではないもののせいで、興奮し、紛糾し、夢を食う夢に脅え、校閲から逃げまどい、そして僕自身に出会
いそうになる畏怖を抱き、雪の重みで下がってしまった空の重厚な弛みに、明日を思い、昨日を懐かしみ、また通いつづ
けた路地を曲がり、自分が人間であることを思い出した。
―― 声は永遠に断たれた。あの声変わりが僕の
もう取り返しのつかない過去の過ちまで浸
食し「仕事は終わった」と呟かれた女が、
エレベーターの中で一人泣いた。聖域に染
みたひと雫の雨。挿入。削除。挿・・・・
そして、あなたは、何の躊躇いもなくまた
更新した文書のみを保存する。 ――
1993年11月11日
辻仁成
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