バタイユノート3
バタイユ・マテリアリスト 連載第4回

吉田裕



6 二つのB・ブルトンとバタイユ
 二、三〇年代のバタイユにとって、最も重要な因子のひとつがシュルレアリスムであったことは確かである。『文学と悪』(一九五六年)の序文の冒頭で彼は、〈私が属する世代は、騒然とした世代である。それはシュルレアリスムの中に文学上の出生を負っている〉t9,p171と書いている。バタイユは、シュルレアリストの集団の一員ではなかったから、彼のことをシュルレアリストだったとは言えないだろうが、彼は自分のことを〈シュルレアリスムの内部の敵〉だったと言う。けっして外にいたとは考えていないのだ。またマソン、クノー、レリス、カイヨワ、モヌロ等彼の親しい友人は多くこの運動にかかわった人々であった。
 シュルレアリスムの最大の推進者だったのは、言うまでもなくアンドレ・ブルトンである。このブルトンとバタイユの関係には、結節点となる出来事が二つある。一つは先先回のノートでも触れた二九年の『シュルレアリスム第二宣言』と「死骸」というパンフレットの応酬であり、もう一つは三五、六年のコントル・アタックの結成と分裂という事件である。前者をめぐっては、「死骸」のひとつの記事である「去勢されたライオン」とそれに続くはずだった「サドの使用価値」と「老練なもぐら」*1がある。一方コントル・アタックの分裂をめぐっては、ブルトンやシュルレアリスムを特に名指した論文は書かれていない。この事件でバタイユとブルトンはたしかに激しく衝突するのだが、そこでのブルトンたちは芸術家あるいはインテリゲンチャ一般として現れており、したがってこの争いにおいては、シュルレアリスムが直接問題になったとは言えない。それに反して『第二宣言』と「死骸」では、シュルレアリスムそのものが問われており、バタイユとシュルレアリスムの関係がはらむ問題ははるかに鮮明に現れている。バタイユは生涯を通してシュルレアリスムを論じた文章を多く書いている。全集からブルトンとシュルレアリスムに関するものに、マソン、シャール、ダリ、ツアラ等に関する評論を合わせれば三〇を越える。数だけで言えば、戦前よりも戦後のほうが多いが、後者には、論争的というよりは反省的回想的なものが多く、その主題は二、三〇年代にかかわるものであるから、バタイユにとってのシュルレアリスムはやはり戦争以前の時期の問題である。
 戦後で重要なのは、四六年の「シュルレアリスムおよび実存主義とのその差異」、四八年の「シュルレアリスムの宗教」、また未発表のままで終わったが、五一年頃の回想記「シュルレアリスムその日その日」などであろう(いずれも未訳)。戦後のシュルレアリスム論を通読してみて印象に残るのは、シュルレアリスムに対する好意的肯定的な評価である。それは三〇年前後の激烈な批判と比べると意外な印象を与えるほどだ*2。そしてこれに応えるように、ブルトンは一九四七年『秘法十七』(刊行は四四年)をバタイユに送って、その献辞に〈人生のうちで知るに値した数少ない人々の一人であるバタイユに〉と書く。これはふつう二人の中が修復されたしるしと見なされる。だがブルトンにとってバタイユの存在は、どれくらいの重要さを持っていたのだろうか。彼がバタイユとの関係修復に同意したことは間違いないだろうが、右の献辞は刊本に書き込まれた個人宛てのものにすぎず、四六年の「シュルレアリスムと実存主義」でバタイユが『秘法十七』を誉めたあとのことである。もっとも思想的な関係は人間的な関係に還元されるものではないし、ブルトンとの個人的な人間関係がバタイユにとってのシュルレアリスムと関係のすべてであるわけではないが。
 しかし、バタイユとシュルレアリスムの関係を検討するに当たっては、人間関係を知っておく必要はあるだろう。前衛的実験的な運動体の常として、シュルレアリスムは度重なる離合集散を経験している。それを辿るのは煩雑な仕事だが、それでもその作業を行っておくことは、後のいっそうの煩雑さを避けさせることになる。また私たちはバタイユがナドーの『シュルレアリスムの歴史』を批判して、シュルレアリスムは集団の歴史ではないと言っていること*3を知らないわけではないが、特に外国の読者にとっては、基礎的な事実を押さえておくことはその先に進むために必要な条件のひとつであろう。
 バタイユとシュルレアリスムとの関係は、二四年に四才年下のレリスと知り合うところから始まる。彼はさらにレリスによって、画家アンドレ・マソンに紹介され、この二人はバタイユにとって終生の友人となる。同時に彼は当時ブロメ街にあったマソンのアトリエに出入りして、そこに集まる画家や詩人たち、マクス・ジャコブ、ホアン・ミロ、パンジャマン・ペレらと交遊を持つことになる。ところで二四年とは『第一宣言』が出た年である。これ以前にブルトンたちはスーポーの自動記述の実験、デスノスの眠りの実験によって多くの画家や詩人を引き寄せていた。マソンはすでに参加者であったが、『宣言』を経てさらに多くの詩人たちが参加しようとしている時期であった。
 バタイユは惹かれながらも参加はせず、距離をとり続ける。回想記である「シュルレアリスムその日その日」によって辿ってみると次のようである。二四年に彼は、この『第一宣言』をレリスから示され「読めたものではない」という感想を持つ。それ以外に証言は残されていないが、後から考えればバタイユは、〈地上を後にせんとあこがれる精神〉が称揚されているのに異和を感じたのだろうか。「溶ける魚」も自動記述の理論も彼の食指をさして動かさなかったようだ。だがレリスを通してブルトンから、彼の専門であった中世の文書から滑稽詩(ファトラジー)を訳してくれるようにとの依頼を受け、それは翌二六年の「シュルレアリスム革命」の第六号に掲載され、バタイユがこの雑誌に対する唯一の寄稿となる*4。この寄稿は無署名で行われるが、彼ははこれを機会にはじめてブルトンと会う。この時シュルレアリスム運動の総帥としてのブルトンの権威は絶頂にあり、バタイユは圧倒される思いを経験する。〈その時、シュルレアリストたちの様子は心打つものだった。彼らは人を常に強く印象づけた〉。しかしバタイユは同時にその権威主義的態度に強い反撥を感じ、またブルトンが自分に好意を持っていないことをも知ることになる。彼はブルトンが自分のことを「偏執狂」だと言ったということをレリスから教えられる。こうして彼はシュルレアリスムに加わることはない。この時期彼は、親しい友人たち――特にレリス――がシュルレアリスムに惹かれていくのを見て、孤立を感じていたようだ。彼は次のように回想している。〈私はただ私が愛している、そして私にとって重要な人たちをこの影響から引き離したいと願った。いずれにせよ私は、ブルトンがふりまいている不安が最も非屈従的な人々を苦しめ、彼らをアンドレ・ブルトンを動かすことのないものに対しては無感覚にしてしまうような世界で生きることは苦痛だと思ったのである〉。
 だがシュルレアリスムの側も一枚岩だったわけではない。二六年のモロッコ戦争を契機として彼らは「クラルテ」に接近し、政治化左傾化が始まる。その結果二七年にはブルトン、アラゴン、エリュアール、ペレ、ユニックが共産党に加盟する。だがアラゴンを除いてうまくゆかず、同年のうちに実際活動から離脱する。ブルトンは最終的には、三三年末に除名される。その反面「催眠実験」などは重視されなくなり、シュルレアリスムは初期とは違った性格を持つことになる。これによってアルトー、スーポー、デスノス、プレヴェールらとの間に齟齬が生じ、ある者は除名され、ある者は離反する。
 おそらく緩みはじめたたがを締めるために、また政治的な行動に踏み切るための準備として(二九年にトロツキーがソ連から追放され、ブルトンは彼を援助しようとする)、二九年二月一二日にブルトンは「共同行動に関するアンケート」を(本ノートの第2回参照)をシュルレアリストとその周辺の人々に送付し、三月一一日カフェ「シャトー・バー」に集まるよう要請する。これに対してバタイユが〈イデアリストの糞ったれどもにはうんざりだ〉という返答を寄せるのも前に見たとおりである。この以前にバタイユは、二七年に「松果腺の眼」「太陽肛門」、二八年に「消え去ったアメリカ」『眼球譚』を書いているが、理論的な言葉でイデアリスムへの批判を明言したのは、これが最初の機会である。
 このアンケートは、多くのシュルレアリストたちに去就を明らかするよう求めるものであった。そして「トロツキーの最近の運命を検討」するための集会は、大荒れの後流産する。そして離反者たちが、次の活動の場を求めて近づいたのが、二九年の四月に発刊されようとしていたドキュマンであった。バロン、デスノス、レリス、プレヴェール、クノー、リブモン・デセーニュ、ヴィトラック、デュシャンらは、バタイユをつてとしてこの雑誌になだれ込む。これを見てブルトンの側には、シュルレアリスム運動を妨害する意図が働いているような疑心が生じる。バタイユの側にも対抗するグループを作ろうとする意図がなかったとは言えないようだが、結果としてブルトンは激しい敵意を、この年の一二月、「シュルレアリスム革命」一二号の『第二宣言』というかたちで爆発させることになる。そこではバタイユが最も激しい攻撃にさらされる。
 これに反撃するために計画されたのが第二の「死骸」であって、翌三〇年の一月一五日に出される。これはかつてアナトール・フランスを批判するために出されたパンフレットの題名をブルトンにぶつけたものだが、音頭をとったのはバタイユではなくデスノスであり、資金はドキュマンの編集者であったアンリ・リヴィエールが出す。執筆者はデスノス、リブモン=デセーニュ、プレヴェール、クノー、ヴィトラック、レリス、ランブール、ボワファール、モリーズ、バロン、カルペンティエルにバタイユの一二名で、それぞれに口汚いまでに激しい批判の言葉をブルトンに対して書き連ねた。この衝突は双方に甚大な被害をもたらす。「第二宣言」が掲載された「シュルレアリスム革命」誌は、それが最終号になるし、ドキュマンも、右のような有象無象の闖入者に苛立ったヴィルデンシュタインが資金を停止することで、三〇年末の第二年次八号で廃刊になってしまうからである。

7 「去勢されたライオン」
 バタイユはブルトンとのこの抗争に全精力をそそぎ込んだように見える。バタイユの反論は、公開された「去勢されたライオン」のほかに未公刊のものがいくつかあって、それはガリマール版全集の第二巻に「ブルトンとの論争資料」としてまとめられている。それらは「ブルトンへの手紙」「サドの使用価値」「老練なもぐら」と草稿類である。ほかに、この時期彼はいくつかの雑誌にブルトン、エリュアール、ツァラ、クルヴェルらの著作に対する書評を書いている(当然厳しいものである)。それからドキュマンの諸論文は、中にブルトンの名前は現れないものの、この論争の背景として読まれるべきだろう。なぜなら、ブルトンからのアンケートに応えたのが二九年二月のことで、その時彼はブルトンとの全面的な対決を決意したはずだが、そうであれば同じ年の四月に発刊されたドキュマンの最初の号の「アカデミックな馬」にはすでに、ブルトン批判がこめられていたと考えられるからである。一方ブルトンは『第二宣言』で、バタイユを批判するためにドキュマンの諸論文、「サン・スヴェールの黙示録」「唯物論」「人間の顔」「足の親指」、とりわけ最後にサドを引用した「花言葉」取り上げるが、これは単に偶然目に留まったためではなく、それらのうちにはっきりとバタイユの批判を読みとっていたからに違いない。このブルトンの批判に対する直接の反撃は「去勢されたライオン」で行われ、そのあと「サドの使用価値」「老練なもぐら」が準備され、ほとんど完成原稿の域にいたるが、未発表のままに残される。以後のドキュマンの諸論文では、アカデミックな雑誌をめざしていた出資者の機嫌を損ねまいという配慮がおそらく働いていたためだろう、相変わらずブルトンを名指すことは行われないが、前回に見たようないや増す物質性への関心には、それまで以上の対抗意識がこめられていたことは間違いない。
『第二宣言』でブルトンがもくろんだのは、自分とシュルレアリスムの立場を明確にし、新たな出発の基点を定めることであった。新しさは、社会的政治的な問題の発見とそれと対立するように見えるがシュルレアリスムの秘教化という二つの志向をともに押し立てることであった。彼は〈私たちの宿命は、現に私たちがそうしているように、全面的かつ無制限に唯物史観の原則に同意することだ〉あるいは〈シュルレアリスムは・・・社会的にはマルクス主義の公式を断固として採用するものである〉と言っている。同時に彼は〈私の願いはシュルレアリスムの深遠、誠実な秘教化occultationである〉とも言う。この途上で、先駆者と認められていた詩人作家を退け(例外はロートレアモンくらいである)、同様にデスノス、マソン、ヴィトラックらかつての同志たちも退けられる。バタイユはシュルレアリスムのグループには一度も参加したことがなかったにもかかわらず、これら離反派の中心とみなされて激しい批判を浴びることになる。
 ブルトンは、バタイユがことさらに汚れて堕落したものばかりを取り上げるのを批判する(この頃には『眼球譚』を読んでいたことだろう)。ブルトンはドキュマンの「唯物論」中の〈生のままの諸現象の、一切の観念論を排除した直接的解釈である唯物論は、もうろくした観念論とみなされないためには、経済的・社会的現象の上にじかに基礎をおかねばならないだろう〉という一節に引き、〈古めかしい反弁証法的唯物論の反撃が、今度はフロイトを通って安易に己の道を切り開こうとしているだけだ〉と述べる。また〈「観念」に対する彼の病的な恐怖は、彼がそれを伝達しにかかる瞬間から、観念的傾向を取らざるをえない〉とも言っている。ブルトンからすれば、バタイユのいう物質は、弁証法的また史的唯物論に媒介されないために、再び観念化されてしまうのだ。
『第二宣言』を読んでバタイユが、〈シュルレアリスムの理念がめざすのは、ただ単に私たちの精神の力を全面的に取り戻すことである〉というような箇所に苛立ったことは想像に難くない。「去勢されたライオン」は、ことの性格上ほとんど悪口の応酬に近く、論理的な批判が展開されているとは言いにくいが、批判の眼目を読みとることはできる。彼の批判は、ここでは彼個人への批判に対する反批判に限定されず『第二宣言』の全体、すなわち今上げた二つの事項に応じるものである。神秘化と左傾化は、バタイユを読者にはすぐ分かることだが、バタイユにも現れる傾向である。だがそれはブルトンの場合と少し違っている。この違いにバタイユは苛立つ。ブルトンの言う秘教化についてバタイユは、次のように反論している。〈ほとんど不可避な精神的な去勢に関して、どんな人間もが持つ忌まわしい意識は、通常の条件においては、宗教的な活動に翻訳される。なぜなら右に言われた人間は、グロテスクな危険を前にして逃走するため、またそれにもかかわらず存在しているという感覚を味わいたいために、自分の活動を神秘的な領域においてしまう〉すなわちブルトンの秘教化は、精神的な高みへ登ってしまうことからくる不安を隠蔽するためなのだ。〈誰も神秘的な自由など望みはしない〉とバタイユは言う。他方政治化については、ブルトンが二七年に共産党に加盟したことを念頭に、近代社会の解体に際して〈革命的言辞の貧しい駄弁〉に陥ったと攻撃する。しかしこれらの批判は十分論理的に展開されたとは言えない。その仕事を継続するためにもっと詳細な論文が着手される。

8 「サドの使用価値」
『第二宣言』でブルトンは、バタイユを批判するためにドキュマンの論文を取り上げているが、それらの中でバタイユが第一に反応したのは、サドにかかわるものである。応酬がサドをめぐって展開されることになったことには、バタイユの側に常日頃から、シュルレアリストたちが、サドを愛玩物化し、破壊的性を曖昧にし、骨抜きにしてしまっていることへの批判があった(〈サド讃仰者たちの振る舞いは、初期人類たちが自分たちの王に対したときの振る舞いとそっくりである。原始期の臣下たちは、王を深く憎悪しつつ賛美し、一方で完全な無力な人間にしておきながら、なお賛辞でこれをおおったのである〉と彼は言っている)。具体的には、バタイユは、サドが美しい薔薇をわざわざ取り寄せては、汚水溜の上でその花弁を毟り散らしたという挿話を引いて、サドのうちには美しい花弁の下には雄芯という醜悪なものがあることを明らかにしようとする意図が働いていたことを示そうとするのに対して、ブルトンはそれが図書館員の夢想にすぎないと揶揄したあとで次のように言う。〈けだし、サドの場合は、その精神的・社会的解放への意欲は、バタイユ氏のそれとは反対に、はっきりと人間精神をしてその鎖をかなぐり捨てさせる方向をめざしており、その行為を通じてひたすら詩的偶像を非難しようとした、つまり好むと好まざるとにかかわらず、一輪の花を、誰でもそれを贈りうるという範囲で最も低俗な感情と同様に高貴な感情のきらびやかな伝達手段に仕立て上げるあの常套的な「美徳」を非難しようとしたと考えざるをえないのである〉。
 バタイユが反論するのは、仮に薔薇の挿話が伝説にすぎないとしても(バタイユはモーリス・エーヌに手紙を書いてそのことを確認している)、ブルトンの読み方のうちに、図らずもブルトンのイデアリスムが明瞭に見えてきたからである。サドの伝説に「美徳」への批判を読みとることはその限りでは正しいかろう。だがそれもやはり、バタイユからすれば十分な激しさ、正当な激しさを持ってはいない。なぜならたんに美徳に対する批判にとどまらず、その対極にあるもの、すなわち汚辱と残酷に満ちたものを明瞭にするところまで読まれない限りは、この挿話――事実であれまた伝説であれ――の十分にサド的な読み方にはならないからである。サドの物語の本当の価値は破壊と残酷をそのまま提示したところにある。しかしそう言うだけなら、それはまだ読み方の違いにすぎない。だがこの論文でバタイユは、この違いが思想上の違いにあることを証明しようとする。それが一九項目に及ぶ後半部の作業である。
 バタイユは第一節で、世界が多くの場合宗教と世俗の二つの部分に分かれてきたことを指摘し、前者をそれが溜め込んできたエネルギーの非生産的な排出にかかわるために「排泄excretion」、後者を生産を旨とするために「獲得appropriation」だと定義する。宗教はその非生産性によって俗世間から区別されるが、このように排除されるものをバタイユは、「異和体un corps etranger」と呼んでいる。そして彼は、獲得は対象を同化することであるために同質性を、排泄は切り離すことであるために異質性を与えると考え(第三節)、これらの対比は、バタイユにおいて最も一般的には、ホモ(同質)的とヘテロ(異質)的という表現でとらえられることになる。この対比が単なる二項対立ではなく、相互に循環するものであることが繰り返して協調されていることに注意しなければならないが、それは後にバタイユの一般経済学の根幹になるものであって、今回が最初のあらわれであろう。そして後者にかかわる探究を、バタイユは「異質学heteroligie」の名前で構想する。一時期彼はこれに学問的な体系を与えようとし、さまざまのデッサンを行うが(それらは全集第U巻に「異質学に関する資料」として集められている)、その最初のあらわれが「サドの使用価値」である。だが異質学の方面へは、今は立ち入らない。
 同質的で異質者を排除する社会、実際上はブルジョワ社会として現れるこの社会に対する不満と批判は、シュルレアリスムと共通するところであろう。しかしながらバタイユの特異なところは、この異質なものをより深く分析し、異質さの本質をさらに見出そうとするところである。第六節で彼は次のように言う。〈しかし次のことを広く認めなければならない。すなわち宗教は聖なる領域の内部において、深い分裂を引き起こし、それを高く優れた世界(天上的で神のものなる)と低く劣った世界(悪魔的な世界、また腐敗の世界)へと二分する〉。この更なる分裂は、同様に「消費の概念」以後の読者には親しいものだが、はじめて現れるのはこの時のことである。そしてこれらのうち前者の崇高な世界は、異質性を本質とするはずであるのに、権力と合体し、同質化してしまう。それはこれまでのあらゆる宗教、あらゆる王権の辿った道である。それに対して〈ただ低い領域のみが、獲得の努力のことごとくに抵抗する〉。こうして彼は、ただ低いものだけが異質性を貫くのだと主張するにいたる。こうした主張が、ドキュマンの「アカデミックな馬」「足の親指」「かたちをなさぬもの」「低次唯物論とグノーシス」などと通底していることは明らかである。
 低い領域に属するものとは、死、破壊、腐敗、恐怖、残酷さである。人間はこれらに惹かれる部分を必ず持っている。それは隠され、押さえつけられているが、どこかで必ず頭をもたげる。バタイユは第一三節で次のように言う。〈人間の世界のただ中で恐ろしく、また聖なるものだと主張するすべてに参与するということは、限定された無意識なかたちのもので起こる。しかしこの限定と無意識は、かりそめの価値しか持たないことは明らかである。そして人間を死や、死体や、また身体の恐ろしい苦痛に結びつけるエロチックな絆に対するますますシニカルな意識の方へと、この人間たちを引っ張っていくのである〉。そしてこの過程をもっとも見事に実践して見せたのが、バタイユによればサドなのだ。執拗に繰り返される陵辱、殺人、背徳のさまざまは、異質なものへの関心を決して高貴なものへと回収させることなく追求したしるしである。そして死体や恐怖とは、バタイユの言うところの物質性なのだが、この意味ではサドとは物質の最大の探求者なのだ。
ところで、サドにおける死や死体が物質性を表しているとすると、ここにもう一つの運動が絡んでくる。言うまでもなく革命の問題である。それはサドが大革命に深くかかわった作家であることから当然推測されることだが、もっと原理的に言えば、物質の運動そのものに触れることであったからだ。物質の運動に触れることは、高貴な異質性によっては、仮にそれが異質性のひとつであるとしてもなされえないことである。ここにサドの世界と革命の世界のある共有性が生まれる。バタイユは「サドの使用価値」を、ほとんど同時にプロレタリア革命の文脈と重ねて叙述している。だから彼は「老練なもぐら」へとわたっていく草稿のひとつの冒頭に、マルクスから〈自然におけると同様、歴史においても腐敗は生命の実験室である〉という一節を引用し(これはのちに「老練なもぐら」のエピグラフとしておかれることになる)、最後にサドを連想させる次のような一節を書き記す。〈最も強く感覚可能で人間的な展開は、それ以来サディスト的な意識、すなわち解体の過程を積極的に評価することに結ばれている。この過程の中では、人間の精神が悲劇的なやり方のみならず、低次で恐ろしいまでに卑俗なやり方で巻き込まれている〉。ここでサドの思考と革命の思考は共鳴し、互いに促し合って物質性を見出すのである。
 バタイユは、彼がこれまで関心を集めてきた物質性(不浄なものとして現れる)が、単に文学的なイメージではなく、社会的な作用をも持つものであることに、サドを媒介にして触れようとする。物質性の作用の及ぶ領域を社会にまで拡大しえたのは、これがほぼ最初である。それは頭の中では考えられていたであろうけれども、ドキュマンの論文ではなしえなかったことである。この点で「サドの使用価値」はたしかにきわめて高い使用価値を持ち、また同時にブルトン批判ともなり得たのだ。

*1「去勢されたライオン」は未訳。「サドの使用価値」と「老練なもぐら」は、『バタイユの世界』(青土社一九七八年)。ただ前者は、訳されているのは前半部のみである。
*2『第二宣言』に対する反論は、単なる否定ではなく、肯定の上での批判である。「老練なもぐら」でバタイユは、〈とはいえ『第二宣言』を読んでも別に大した感銘を受けないというような手合いには、同情を禁じえない〉と書いている。
*3『シュルレアリスムおよび実存主義とのその差異』。ただしこの『シュルレアリスムの歴史』(稲田三吉他訳、思潮社)は、ここでは多く参考とした。ほかに参照したのは、Beartの評伝であるAndre Breton, Calman Levy, 1990、Philippe AudoinのLes surrealistes, Ecrivains de toujours、またプレイヤード版のブルトン全集の年譜である。
*4 無意識というある意味できわめて観念的な世界を探究しようとするブルトンらの自動記述の言語に対して、この時バタイユが手を染めたのがラテン語が世俗化し解体していく過程で生まれたファトラジーだったということは、両者の志向が対立するものであったことをすでに明瞭に示していたといえる。酒井健氏の指摘による。

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