ハイパーテキストへ(連載第5回) |
長尾高弘 |
前回、インターネットの検閲問題について書くと言ってしめくくった。今回は、これが懺悔の有力候補なのであるが、物書きの端くれとして、検閲問題について言うことがありませんとは口が裂けても言えない。しかし、日々10個平均で送られてくる検閲問題メーリングリストのメッセージに目を通すのがやっとで、何ら建設的な行動を取っていない者があまり偉そうなことを言うのも恥ずかしい。というわけで、何を見ればより深く理解できるのかということを中心に、現状での自分の感想を添えるということにしようと思う。 まず、動きを整理しておこう。インターネット通信規制が大きくクローズアップされたのは、アメリカで本年2月1日に電気通信法というものが議会で可決され、8日に大統領がサインして発効したときである。これと呼応するかのように、日本でも通産省の影響下に電子ネットワーク協議会という業界団体が2月16日「電子ネットワーク運営における倫理綱領」(http://www.nmda.or.jp/enc/admin.html参照)というものを出しており、それに対する抗議声明(http://www.toyama.ac.jp/~ogura/another_world/censor/netrin1.html参照)もすぐに出ている。前号や冒頭で触れたメーリングリストは、この抗議声明の賛同人によるものである。夏以降は、郵政省による法制化の動きもある。また、総選挙直前になって、盗聴の合法化の特別立法が浮上した。盗聴ということには、電話回線を使ってやりとりするコンピュータ通信も含まれるのである。アメリカでは、電気通信法の第五編通信品位法(Communications Decency Act:CDA)に対する違憲訴訟が起こされ、6月12日にフィラデルフィア連邦地裁が原告側の主張を認める判決を下したが、政府は控訴している。この運動では、CDAに対する反対の意思表示のためにブルーリボンのアイコンがデザインされ(これをホームページの一部に貼るのである)、アメリカに限らず、世界中のホームページに広がった(私も付けています)。しかし、そのような注目を浴びないところで、フランス、シンガポールなどが次々に法制化を完了した。 規制側の言い分は、ポルノ(特に小児ポルノ)の蔓延とテロリストのインターネット利用に対する対策ということだが、どこの国でも、規制の基準はあいまいであり、何でも取り締まれるようなフリーハンドを確保しようという意図が見え隠れしている。マスコミは、自らのホームページを作る一方で、インターネット無法地帯説を垂れ流している。個人が大企業やマスコミと対等に情報を発信できるということが、政治家やマスコミをおびえさせているらしい。彼らとしては、何とかインターネットを制御したいのである。 あらすじはこんなところである。日本語で詳しい情報を得るためには、何よりもまず、繰り返し言及しているcensor MLを購読することである(英文等の転載記事も多いが)。ogr@nsknet.or.jp(小倉利丸氏)に抗議声明に賛同するとともに、メーリングリストを購読したいという内容のメールを送ればよい。紙媒体では、「インパクション」98号が「サイバースペース独立戦争」という特集を打っている。この号は、通信規制ばかりでなく、インターネットを市民運動に活用する方法を検討するという内容も含んでおり、私のサイトも、東大駒場寮廃寮反対ホームページ(!)として紹介されている。また、盗聴合法化案の問題点については、「現代詩手帖」11月号の小倉氏のコラムが簡潔にポイントを押えている。 冒頭でも書いたように、私はこのcensor MLから送られてくる大量の情報をただただ眺めているばかりなのだが、表現の自由ということについては随分考えさせられた。たとえば、旧来のマルクス・レーニン主義的な発想には、反革命宣伝は規制しちまえというところがあった。マルクス主義でなくとも、ドイツでは、ナチと極左の宣伝は非合法とされている。最近、カナダのネオナチがWWWを使ってホロコーストはなかったという宣伝をしたことがあって、ドイツは、そのサイトへのアクセスを遮断しようとした。しかし、ミラーサイトが世界中にできて、その禁止は無意味なものになってしまった。ホロコースト否定に反対する人でさえ、規制はよくないということでミラーサイトを作ったのである。文芸春秋の雑誌「マルコポーロ」は同じようなことを主張して潰れたが、あのとき私にはいい気味だと思うところがあった。しかし、censor MLでこの事件を知ったときには、随分考えさせられた。アクセスを規制するから、かえって注目を浴びてしまうんだという批判もあった。上記「インパクション」の座談会(栗原幸夫、山崎カヲル、赤川学、小倉利丸の各氏)でも、このミラーサイトのエピソードを含め、表現の絶対自由主義の可否がかなり激しく論じられている(山崎氏は絶対自由主義を強く主張し、小倉、赤川氏は疑問点を提出している)が、ここまで来ると容易に答は出てこない。前回、コッケイなほどに重々しく容易でない問題だと書いたのは、こういうことが頭のなかを占めていたからである。 しかし、今政治的に焦点になっていることはもっと単純なことには違いない。上からの倫理の強制に従うか否かである。倫理の強制に従えば、検閲がオマケでついてくる。しかし、本当の目的はもちろん検閲である。問題は、まだ、インターネットというものが何か、自分の目で経験していない人々が多いために、デマがまかり通っていることだ。実際にあちこちのホームページを覗いて見ると、ブルーリボンがついているところや、倫理綱領ページへのリンクを持っているところは結構ある。バーチャルでリアルではないと思われているネットワークの世界の方がリアルな目を持っているのだ。これからインターネットの利用者は間違いなく増えるだろうし、そうすればネットワークのリアリティを知る人は増えるはずだ。デマが通用しなくなれば、権力も見え見えの方法で我々を縛ることはできなくなる。だからこそ、デマが通用するうちに法制化してしまおうと急いでいるのだろうが、インターネットは今までバラバラに孤立させられてきた個人を結び付ける力を持っている。イメージ==デマをばらまくマスコミに騙されてきた我々にも、逆襲のチャンスはあるのではないだろうか。反検閲の闘いの現状は厳しいが、長期的にはそのような希望を持ってもよいと思っている。 さて、憂鬱な話だけでは終わりたくないので、本題のハイパーテキストということについても考えてみたいと思う。今までは、私の考えをあれこれ書いてきたが、今回は私以外のホームページから学んだことを書いてみたい。 ホームページに大量のデータを流し込んでも、変化がなければ、繰り返し覗いてくれる人はいないだろう。実際、更新されているからこそ、見えない相手に同時代性を感じるのである。逆に、量が多いということは、読むものを面倒な気分にさせる恐れがある。7月に登場した清水哲男氏の「増殖する『俳句歳時記』」と題するサイトは、量を減らして更新回数を増やすことによって、成功している好例である。このサイトは、わずか3ページで構成されている。1つはサイトのコンセプトをまとめた2画面分ほどの文章、もう1つはリンク集、そして最後の1つが原則として毎日更新される本題のページである。このページは、冒頭に毎回更新される1行のメッセージがあって、その後ろに3つの俳句と選句者(清水氏が主となるが、ほかの詩人も参加している)の評、他の2ページへのリンクなどがきれいにレイアウトされて続くという形式になっている。俳句は毎回1つずつ追加され、同時に1つずつ消えていく。3つあるわけだから、3日以内に1度見れば、見落としなしで継続的に読めるというわけである。1年後には検索エンジンを追加し、3600句あまりが集まった10年後に終了するという。俳句と選評のかけあいが面白く、両方合わせても量的にはわずかなので、負担にならない。私自身、最初は毎日という読み方はしていなかったのだが、次第にこれはいいやと思い、毎日読むようになった。もし読み忘れた日があっても、3日間、句の方が待っていてくれるというのもありがたい。ハイパーテキストというと、空間的な広がりということを考えがちだが、このページはあれこれ欲張らずにむしろ時間的な広がりを呼び込んでいる。 ところで、私は、まずハイパーテキストで本を真似てみようとしたので、前後のページへのリンクとか目次ページとかを重視した。前回紹介したOLBCKは、一連のテキストファイルから自動的に前後のページへのリンクと目次ページを生成しようという試みである。しかし、それらのリンクが重要だと力んでみたのも、リンクがなければ、すぐ隣に並んでいるページの存在にさえ気が付かないからである。これを逆手に取れば、迷宮を作ることもできる。もちろん、面白いものになるか、自己満足に終わるかは、作者のセンス次第だ。パソコン通信をやっていた頃の友人でnano-Rayさんという人がいるのだが、彼女のホームページに行くと、まず、右か左の丸をクリックせよというだけのページが登場する。どちらをクリックしても、いわゆる目次ページが表示されるが、デザインは異なるし、内容も若干異なる。目次のなかで「nuaw」というものを選択すると、メニューと称してまたデザインの異なる目次が表示される(要するにこの部分だけは逆立ちして見なければならなかったのである)が、ここにはリンク、日記などの項目はなく、「まんが」、「写真」、「絵」、そして「墓を暴く」となっている。ここで「墓を暴く」を選択すると、さらに「墓メニュー」というページになって、「まんがの墓」、「絵の墓」といった項目が並んでいる。実際のまんが、絵のページには前後へのリンクがあり、「墓」に入る前のものも「墓」に入ってしまったものも一列に並んでいる。たとえば、こういう構成方法もあるということだ。 最近、プログラマ向けの記事の翻訳をしていて、WWWブラウザを汎用ブラウザとして使うためのテクニックを概観したものに出くわした。HTMLには、CGI、SSIとか今年になって注目を集めたJava、ActiveXなどのプログラミングインターフェイスがある。つまり、ホームページを表示したり、ホームページを操作したりしたときに、それを引き金にしてプログラムを動かすことができるのである。たとえば、ページ上の入力可能領域に単語を入力してそのすぐ下のボタンをクリックすると、単語の意味が表示されるオンライン辞書のようなものはすでにいくつもあるし、個人のホームページでも、同様の仕掛けで定型メールを送れるようなものは多い。このようなプログラムを実行できるホームページ群のなかでも特に気に入っているのは、アメリカのThe Bible Gatewayというサイトである。このサイトは、欽定版(KJV)を始めとする6種類の英訳のほかラテン語訳、フランス語訳、ドイツ語訳などの聖書を持っており、CGIインターフェイスを使って、本文をあれこれ編集して表示してくれる。創世記(Genesis)、出エジプト記(Exodus)などの書名を指定すれば、それぞれの書がそっくり表示されるし、章、節を指定してその部分だけを表示させることもできる。また、検索対象の単語を指定すれば、その語が含まれている書:章:節をすべて拾い出すこともできる。そして、CGIというインターフェイスは、これらの指定をそっくり1行のコマンド行(URL)として記述できる。検索結果と同じ内容を表示するためのコマンドをブックマークとしてブラウザのなかに保存したり、リンクとしてほかのページに埋め込んだりすることもできるわけである。これを利用すれば、たとえば何かの論文を書いていて注釈として聖書の参照情報を入れなければならないときに、The Bible Gatewayの検索コマンドをリンクとして埋め込んでおけば、読者はマウスクリック1つで聖書の関連箇所を直接見ることができるようになる。The Bible Gatewayのようなサイトを実現するためには、CGIインターフェイスの向こう側(サイトを作る立場で言えばこちら側)に、効率のよいテキストデータベースを構築し、データベース検索プログラムを作って、WWWページを自動生成するインターフェイスプログラムを作らなければならないから、誰もが簡単に作れるというわけではないが、こういうものが増えれば、インターネットによる読書の楽しみは確実に増すだろう。 手前味噌だが、私が作ったBooby Trapのホームページも、単純に各号を目次に従ってプレゼンテーションするだけではなく、著作者別の目次も用意してあり、連載記事をまとめて読んだり、詩だけをまとめて読んだりすることができるようになっている。これらは前回紹介したOLBCKのベースとなったperlスクリプトとCGIで実現されているのだが、単純に本を再現するだけではなく、本を綴じ直すところまでは来ているわけである。ちなみに、Windowsヘルプ版のBooby Trapでも、ある作者のほかの作品を表示することまではできるようになっているが、Windowsヘルプのプログラミング能力には非常に大きな制限があるので、HTMLほどのことはとうていできない。 詩と検閲問題のURL集 |