宮沢賢治論 連載第一回
緩やかな転換
     ――報告者の位相から自己表現の位相へ――

木嶋孝法



○『葡萄水』
 制作日が付されている童話の中から、「童話的構図」類のすぐ後にくる作品を探せば、『かしはばやしの夜』(大正十年八月二十五日)ということになるが、この作品には、初期形の一部が残っていて、それを見ると、この作品は、その初期形と『葡萄水』を基に、後日、改稿してできあがったことが解る。初期形、『葡萄水』とも臨場感に富み、帰花して間もない頃の作と考えられるので、「注文の多い料理店」集の目次に付されていたという『かしはばやしの夜』の制作日は、その日付の若さから言っても、むしろ初期形、『葡萄水』の創られた時期を表わしていると見た方がよさそうである。季節は秋で、『かしはばやしの夜』と一致する。すなわち、『雪渡り』の前に制作された作品と見なす、ということである。
 さて、『葡萄水』は、花や虫に自己移入することで、意外な視覚や表現を見出して、そのことに興じている作品でもなければ、花や虫に自己移入することで生まれる幻想に倫理的に反応し、その反応した倫理観によって予め構成が計られている作品というのでもない。それらの方法に依らずに、一レポーターが、あたかもマイク片手に一人の農民の挙動を逐時報告するがごとく《大きげんでのっしのっしと、野原を歩いて参ります。》などと表現する。レポーターであるから、話の展開の中に自己の思想を反映させるというようなことはせず、時には《一日いっぱいの葡萄ばかり見て、葡萄ばかりとって、葡萄ばかり袋へつめこみながら、それで、葡萄がめずらしいと云ふのなら、却って耕平がいけないのです。》という具合に直接、寸評を差し挟んだりもする。作者の越権行為だ、という声をあげるのも憚れるほど、レポーターに徹しているのである。このレポーターの報告するところによれば、耕平が密造した葡萄酒の瓶はみんなはじけてなくなってしまい、耕平はこれで酒の密造に懲りた、ということである。簡単に言ってしまえば、これは、酒の密造の失敗譚である。あるいは、「悪いことはできないものだ」という教訓劇とも取れる。だから、酒を密造することに、作者の咎め意識が働いている、そういう倫理観によって予め作品の構成が計られている、と言えなくもない。そういう意味から言えば、妬み心のために赤いダリヤがやくざに首を折られてしまう『まなづるとダアリャ』や、同じ理由で顔が真っ黒になってしまうひなげしの出て来る『ひのきとひなげし』などと大差のない作品ということになる。違っているのは、自己移入の方法に依っていないということだけである。だから、『葡萄水』は、自己移入に依らずとも、倫理的に抵触してくる事柄があれば、その障りによって一篇の作品を作ることが可能になっていることを示している作品、とも言えそうである。そして、その自己移入に依っていないということ、言い換えれば、物語が自分の脳裡に浮かんだものではなく、現実に依拠するところが大きかったということが、創作者を志向しながら、否応なく報告者の位相に留まらざるをえないという事態を招いている。作品の中に作者の寸評が顔を出すのも、報告者である限り、そこに己れの仮構力を参入させることは難しく、そのことへのフラストレーション、苛立ちが生まれるからであろう。詩歌の創作とてしかり。あるいは、詩歌が挿入されている作品を眼にして、それなら自分も、と意気込んで、作品の中に自作の詩歌を盛り込んだ、とも考えられる。ここで言っているのは、登場人物に作者が歌わせている詩歌のことではなくして、歴として作者自身の作として提出されている詩歌のことであるから、『双子の星』、『蜘蛛となめくぢと狸』の二作に取り入れられている、登場人物に歌わせる詩歌は問題外である。『葡萄水』に提出されている、五つの詩歌の内、少なくとも三つは、この報告者の即興詩、と言うに留まらず、それまでに起こった出来事の要約詩であるという事実を、特に強調しておきたい。作者はバランスを取っているのだ、と考えれば、ここは解り易くなる。報告する話の想像に自分が関与していないことや、また、できないことの手応えのなさを、寸評や、詩歌の創作によって埋めているのである。

《参ります。参ります。日暮れの草をどしゃどしゃふんで、もうすぐそこに来てゐます。やって来ました、お早う、お早う。そら、
耕平は、一等卒の服を着て、
野原に行って、
葡萄をいっぱいとって来た、いいだろう。
「ふん、あだりまぃさ。あだりまぃのごとだぢゃ。」耕平が言ってゐます。》

 ここに、レポーターの即興詩が見えている。絶対に歌ではない。それが証拠に、歌の場合には、『双子の星』などと等しくこの作品でも、〈「〉が付いている。しかし、これが、レポーターの詩であるなら、どうして耕平の耳に聞こえたのだろう。聞こえなかったとするなら、いったい耕平は何に対して「ふん、あだりまぃさ。あだりまぃのごとだぢゃ。」と言ったことになるのか、皆目、見当が付かない。
 とにもかくにも、言えることは、酒の密造の失敗譚を書くためだけなら、寸評も、また詩歌の制作も、必要ではないということである。――耕平は野原に行って野葡萄をいっぱい採ってきて、葡萄酒を造ろうとしましたが失敗しました。これに懲りた耕平は二度と酒を密造しようとはしませんでした――ぐらいで充分なのである。つまり、この作品は、自己移入に依らずに、作品を制作しようとしていることを示しているばかりか、明らかに、目的意識的に詩歌(即興詩、要約詩)の導入を計った作品なのだということである。そのために、却って辻妻が合わなくなってしまった失敗作なのだ。花や虫に自己移入している時には、浮かんでくる幻想をただ綴って(報告して)いるだけで、自己の独創性を発揮できていた。そもそも、浮かんでくる幻想自体が、自己固有のものであったから。しかし、自己の創造性がまったく関与していない現実の出来事に対して、この方法は破綻をきたした。それゆえ、作者自身の手によって《不要!》と書かれる悲運を負うことになる。この失敗が、どう克服されたかを、『かしはばやしの夜』を通して調べてみよう。

○『かしはばやしの夜』
「かんから」と言えば、空き缶のことだし、「がんがらがん」と言えば、映画館や銭湯などに客がいなくて空っぽだということで、いずれにせよ、空に通じる。空っぽだということを、もっと強調したいときには、多少ふざけて「がんがらんがんのがんだ」と言ったりもする。まあ、「得意中の得意」などと同様の表現だ、とみることができる。「しゃっぽ」と「空っぽ」。あるいは、「う金しゃっぽの」とやったので、「空っぽ」を連想して、「カンカラカンのカアン」と続けたのかもしれない。というのは考え過ぎで、単なる出任せの語呂合わせに過ぎないのかもしれない。
 う金、すなわち鮮黄色のシャッポを被っているのは、農夫の清作で、「う金しゃっぽのカンカラカンのカアン」と怒鳴ったのは、絵描きである。仕掛けたのは絵描き。これは農夫への宣戦布告である。

「何というざまをしてあるくんだ。まるで這ふようなあんばいだ。鼠のやうだ。どうだ弁解のことばがあるか。」

 と言ってはいるものの、この絵描きの苛立ちは、ただ単に歩き方がどうのこうのと言うのではなく、日々の暮らしに追われて、芸術の入り込む余地なぞなさそうな、清作の生活に起因しているように思われる。それゆえ、う金のシャッポの中身、つまり、おまえのおつむは空っぽだ、と怒鳴ったのである。
 清作は、その言葉の意味を理解できたのであろうか。

《清作はびっくりして顔いろを変え、鍬をなげすてて、足音をたてないやうに、そっとそっちへ走って行きました。》

 ここのところが奇妙なのである。夕暮れ時、ひとりの農夫が《稗の根もとにせっせと土をかけて》いてもいい。しかし、「う金しゃっぽのカンカラカンのカアン」という怒鳴り声が、向こうの柏林の方から聞こえて来たからといって、人はびっくりしたり、顔色を変えたりするものなのかどうか。だから、やはり、清作は、自分が馬鹿にされたと想ったから、慌てて鍬を投げ捨てて怒鳴り声が聞こえてきた方へ出かけていったのである。だいたい、「カンカラカンのカアン」という表現が、単なる言葉遊びに過ぎないとしたなら、それを言う前に《面倒臭くなったら喧嘩してやろうとおもっ》たりするわけがない。絵描きは赤いトルコ帽を被っている。「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」と言うことは、絵描きのおつむは空っぽだと言うことであり、相手が怒り出すかもしれないと思った。それゆえ、喧嘩になることも辞さないほどの覚悟がいたのだ。
 ところが、言われた方の絵描きは、怒り出すどころか、《まるで咆えるような声で笑ひだし》たのであった。いくら風采の上がらぬ絵描きとは言っても、芸術家は芸術家。こともあろうに、一介の百姓に、おつむが空っぽだなどと言われようとは予想だにしていなかったに違いない。あまりにも、意表を衝かれたので、怒りを通り越して、おかしさ百倍、というようなこともありうるだろう。しかし、絵描きの苛立ちが、日々の暮らしに追われて、芸術の入り込む余地などなさそうな、清作の生活にあるとすれば、清作の言葉は、反対に芸術にかまけて生活を顧みない人間への痛烈な批判になりうる。賢治の就職が決まったのは、十二月にはいってからのこと。この作品の執筆時、賢治は無職だったわけで、清作に言わせてみて、逆にその言葉が自分に突き刺さってきた、ということだって充分ありうる。いや、多分そうだ。

《ところが入口から三本目の若い柏の木は、ちょうど片脚をあげてをどりのまねをはじめるところでしたが二人の来たのを見てまるでびっくりして、それからひどくはづかしがって、あげた片脚の膝を、間がわるさうにべろべろ嘗めながら、横目でじっと二人の通りすぎるのをみてゐました。》

 《一本のごつごつした柏の木が、清作の通るとき、うすくらがりに、いきなり自分の脚をつき出して、つまづかせようとしましたが》

 これらの表現には、誰もが思い当たる節があるに違いない。節くれだった枝の広がる木が風に揺れて、その枝の動きが、人間の手足の動きのように見えたり、日の暮れるのも忘れて遊びに夢中になり、薄暗がりの林の中を帰ってくるとき、地面に突き出ている。大きな木の根に躓いて、いやというほど地面に叩きつけられたりしたこと。後者は、確かに学校の廊下などで足掛けされたときの感覚にどこか似ている。これらの感覚を通して、作者は木の動く様を擬人化していることが解る。そして、それが作品の中に散見する擬人化表現というのではなくして、擬人化することが、即、木の意識を想定することに繋がり、「童話的構図」類で見てきたのと同様の、自己移入の世界に入ってゆく。つまり、耕作の挙動をただ報告するだけでは、自分の仮構力を思うように発揮することができないという『葡萄水』での躓きを、自己移入の世界を再び現出することで、何とか切り抜けようとしているのである。
 夜、独りで柏林の中を歩いていると、風に揺れる柏の木々が、みんなで揃って踊っているように見える。また、枝葉の触れ合う音が、何か囁いているように聞こえる。いや、それぞれの樹々が、自作自演の歌を競い合っている様を仮想すると、これほど、感興をそそられる情景もまた、ない。今夜は、《夏のをどりの第三夜》、柏林の歌の競演会なのだ。
 確かに、賢治的な幻想世界を清作に見せるという方法を採れば、賢治の仮構力は如何なく発揮できるに違いない。そのためには、何と言っても清作を柏林へ連れてこなくてはならない。だから、絵描きが柏林の方から怒鳴ったのは、実は、清作を柏林へ連れてくるための呼び水であったのである。ところが、絵描きの口調を、そのまま、清作に口真似させたときに、この作品は、あらぬ方向へと導かれることになったのだ。
 たとえば、この作品に先行する『葡萄水』で、作者は、葡萄酒を密造しながら、「あだりまぃのことだぢゃ」と開き直ってしまう農夫の、言わば生活者のしたたかさを、何とか突き崩そうとしていたことを想起しよう。この作品だって、初めは、清作の生活者としてのしたたかさを突き崩そうという意企があったに違いないのだ。だから、仰(のっけ)から、絵描きに「う金しゃっぽのカンカラカンのカアン。」と怒鳴らせたのである。そして、作者は、柏の木の側にたって、九八本もの木を伐ったことの咎を責めようとしていたのだ。このことは、絵描きの清作への軽蔑となって現れていて、《絵かきはまた急に意地悪い顔つきになって、斜めに上の方から軽べつしたやうに清作を見おろしました。》と表現されている。しかし、それ以降、絵描きの、清作を軽蔑したような態度は消えてしまう。清作の言葉は、
作者にも相当応えたのだ。それは、柏の木大王と清作が喧嘩をしても、絵描きはどちらの側に立つのでもない、つまり、どちらの言い分が正しいという決定も下せないで、ただ、「喧嘩はよせ。」としか言えないでいることからも、また、作品自体が清作に手痛い仕打ちを食わせていないことからも解る。特に、《「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」と絵かきが力いっぱい叫んでゐる声がかすかにきこえました。》と、この作品を結んでいるのは象徴的である。「う金しゃっぽ」なら、明らかに清作を批難していることになるが、絵描き自身が、自嘲、自戒を込めて、力いっぱい叫ぶのである。それは、とりもなおさず、作者自身の、自嘲自戒に外ならない。「農民芸術」という発想は、ここに始まっていたのである。

○『雪渡り』
 この作品を何度読んでみても、狐に自己移入して、そこから生まれる幻想に興じているようにも、また、何か倫理的な主題があって、それを伝えるために構成に工夫を凝らしている風にも見えない。もちろん、ある種の作者の主張なり、倫理的綾のようなものが散見しないわけではない。たとえば、小狐紺三郎が、四郎とかん子という二人の子供に向かって、《私らは全体いままで人をだますなんてあまりむじつの罪をきせられてゐたのです。》などと言うあたり、狐はずるい、人を騙すという、世間一般の風潮、もしくは、民話や童話の中の待遇に逆らって、作者持ち前の博愛心から狐の復権を計ったのでは、などと考えてみたりもする。ところが、この紺三郎が幻燈会の閉会の辞の中では、《そこでみなさんはこれからも、大人になっても、うそをつかず人をそねまず、私共狐の今迄の悪い評判をすっかり無くしてしまふだらうと思ひます。》と言ったりもする。これでは、狐は本当は人を騙したりしないということを言おうとしているのか、それとも子狐達が人を騙さないことを新たに決意したことを強調しようとしているのか判断に迷う。一貫性に書けているのである。ただ、四郎とかん子が狐小学校で催される幻燈会へ出かけていって、騙されるのではないかという危惧を抱きつつも、それを振り払って狐に出されたきび団子を食べる件りに《狐の学校生徒はもうあんまり悦んでみんな踊りあがってしまいました。》とありその悦びに、「狐の生徒はうそ云ふな。」「狐の生徒はぬすまない。」「狐の生徒はそねまない。」という、決意とも訓示とも受け取れる文句の入った、三つの歌を生徒達が歌うのを聞いて、四郎とかん子は嬉しさのあまり涙がこぼれたともある。その後に、先の紺三郎の閉会の辞が来るのである。やはり、生徒達が決意する方が、作品の基調であるとは思われる。しかし、このように矛盾した表現が見つかったなら、そういう所は作者もたいして重要だとは思っていない、と考えた方がよいとわたし自身は思う。つまり、作者はもっと他のことに心を奪われているのだ。これは決して真当な読み方ではないが、そのことは、作品がどのような伏線の張り方をしているかを調べることによっても明らかにできる。
 作品の初めの方に出てくる、雪の野原が凍って《すきな方へどこ迄も行ける》という表現。これは、《雪が柔らかになるといけませんからもうお帰りなさい。》という紺三郎の言葉を導き出すための伏線と見ることができるだろう。もちろん、《今夜月夜に雪が凍ったらきっとおいで下さい。さっきの幻燈をやりますから。》という幻燈会への誘いを導き出すことにも一役買っている。前者は、野原を自由に行き来することができなくなる、つまり、帰れなくなることを言っているのだし、後者は、野原が凍らなければ、四郎とかん子は幻燈会へ行くことなど覚束ないことを言っているのだから。結局、幻燈会をやるということが、作者の頭の中心にあるわけなのだ。狐の幻燈会を二人の子供が見て帰ってくる。しかし、どうして、そんなことが可能だったのか。狐に招待されたからである。その為に、幻燈会の場面と、招待する場面の二つが必要になったのだ。次も比較的初めの方に出てくる表現である。紺三郎にきび団子を勧められて、四郎が答える。

《「紺三郎さん、僕らは丁度いまね、お餅をたべて来たんだからおなかが減らないんだよ。この次におよばれしようか。」(中略)
「さうですか。そんなら今度幻燈会のときさしあげませう。》

 穿った見方だが、ここで四郎たちがお餅を食べてしまったら、紺三郎は、四郎たちを幻燈会へ誘うきっかけを失ってしまうことになる。《お餅をたべて来た》というのは、ここで作者が突作に考えついた断わる理由である。あらかじめ、こういう会話のやりとりが予想されていたなら、四郎たちが野原に出かける前に、お餅を食べる場面を周到に用意しておいたはずだ。つまり、二人の子供が狐の幻燈会を見て帰ってくるという大雑把な構想の下に作品は書き進められて、その中で狐が団子を四郎たちに勧める、断わる、という細部ができあがった、と見るべきなのだ。つまり、一般の風潮に逆らって、狐が作った団子を食べた四郎とかん子の行為を賞揚することが、たとえそうゆう一面があるにしても、この作品の中心課題ではない、ということである。
「童話的構図」類は、すべて自己移入の方法に依っているということ、また『葡萄水』ではその方法に依らず、現実に材を取って報告者の位相で文章を綴る試みをしたけれども、失敗に終わったこと、これらのことが、『雪渡り』が負っている課題を解き明かす鍵になるように思われる。『葡萄水』、『雪渡り』が、共に負っていると考えられる課題は、自己移入という方法に依らないで、いかに作品を創るかということである。そこで、『葡萄水』では、現実の出来事に材を求めるという試みをした。ところが、巧くいかなかった。理由は考えられる。「童話的構図」類では、自己移入することによって生まれる幻想をただ綴っていればよかったが、現実の出来事に対しては、そのような接し方は有効ではない。自分の仮構力の関与する余地がないからである。自己移入することによって生まれる幻想をただ綴って(報告して)いた時のように書きながら、なおかつ、自分の仮構力をも満足させるためには、報告者に、自分の仮構した世界を訪れさせ(潜らせ)ればいい。そうすれば、『葡萄水』でのように、作者が作品の中にしゃしゃり出て行く必要もなくなるだろう。紺三郎は、どこか、賢治の人格の影が漂っている。狐の世界は、「童話的構図」類の世界の中で、紺三郎は、その案内者。四郎とかん子は、訪問者で、実は、『葡萄水』の報告者役の小代理で、そのため報告者も兼ねる。このように、仮構された世界を報告する者までも、二重に仮構することで、賢治は、「童話的構図」類以降、自己移入に依らない作品に、初めて成功したことになる。

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