はじまらなかった春

福間健二



 ワクワク先生のことはどこから話したらいいのだろう。はじめて出会ったそのとてもよく晴れた日、ぼくはずっと前からかれの仰いでいる青空の舌を歩いていた気がして感動したのだが、その日からはじまったこととその日よりも前からはじまっていたこととが折り重なっていつまでも愉快な混乱をひきおこしている。確かなことは、ぼくがかなり長い間ワクワク先生のそばにいて、ほんとうにワクワクしたということであり、それからあるとき突然にかれの姿が見えなくなり、ぼくは普通の生活というか、平均して月に十五万とか二十万とかのお金を稼ぐ生活にぼんやりとはいっていったのだ。ワクワク先生とは会わなくなった。かれから神仙術や荘子の話をきいたり、かれの考えたワクワク拳法という体操のようなものを公園や原っぱで一緒にやったり、深夜にふたりで十キロも十五キロも歩きながらさまざまの人間や動物に姿を変えて遊んだりということがなくなって、ぼくは仕事の帰りに同僚と酒を飲んだり、女の子にふられたり、ひとりで映画を見たり、パチンコ屋で知りあった二十歳そこそこの大工と殴り合いのけんかをしたりした。
「ひとりぼっちのくせに」
 と同僚にも女の子にもいわれた。
「だれかがあんたのことを上のほうで見ていて、なにかあったら下りてきてあんたを助けてくれるなんて思っていたら、大間違いだぜ」
 とけんかした大工はいった。
 くやしくていうのではないが、みんな孤独なのだ。ぼくにはワクワク先生がいた。もう一年半ちかくも会っていなかったけれど、ワクワク先生は、ぼくがほんとうに困ったときには必ずどこからともなく通信をよこしてくれ、そこでどう角を曲がって、どんな姿勢でいやな人間たちが通り、冷たい風が吹きつけるのをやりすごせばいいのか、そして結局は自分のなかにしっかりと熱を育むものがあればこの世のなにに対してもふるえることはないし、だれも傷つけはしないのだということを教えてくれる。ぼくはそれを信じていたし、実際にそういうことが何度もおこったと思う。
 ところが、そのワクワク先生が死んだという噂が流れてきた。にわかには信じられなかったが、一緒にワクワク先生のところに出入りしていた高校の英語教師のクラがぼくのところにやってきて泣きわめいた。かれはぼくよりもずっと敏感なたちで、超能力的なセンスもワクワク先生に匹敵するものをもっている。そのクラがいうのだ。
「ワクワク先生の声がきこえなくなったいまとなっては、おれたちがこの日本にいるのは危険だよ。おれは高校をやめてオハイオに行くことにする」
「オハイオ?」
「アメリカのオハイオさ。小説家のおじさんがそこの大学に招かれて日本文学の講義をしているんだ。あそこは酒屋もバーもない安全な田舎だからさ、妙な酔っぱらいにからまれたりする心配はないしね」
 クラのいっていることは、どういうツジツマになっているのかさっぱりのみこめなかったが、とにかくかれはアメリカに行ってしまった。どうして日本にいることが危険なのかと問い返してみても、そんな当たり前のこともわからないのかというような、ばかにした表情をされただけだった。それにしても、どんな敵がワクワク先生の死をきっかけにして暗躍しようとしているのだろう。ぼくもまたぼくなりに早合点して、停滞する季節に甘えるようによく眠り、おかしな夢を次々に見た。
 八王子にある大きな古本屋にはいって気がついたのだが、その裏に別館があり、さらにその別館のわきにまた別館がある。そこで珍しい戦前の映画のことを書いた本をみつけた。ワクワク先生が時代劇映画のスターだったころの写真がたくさんはいっている。買おうと思って値段の数字を見ると、べらぼうに高い。棚の前でためらっていると、人相の悪いアルバイトらしい店員がちかづいてきて、
「困りますよ。金のないのに高い本をほしがったりしちゃ」
 と冷淡な言い方をした。
 ぼくは腹が立って、なにをいうのか、この本のほんとうの価値がわかるのはこの世の中でおれぐらいのものだ、そのおれに手の届かないような値段をつけているのは許せない、と抗議した。店員はせせら笑って、
「ははーん、おまえ、例の一味の生き残りだな。うまい具合に罠にかかりやがった」
 とぼくの肩にひんやりした手をおいた。その手の冷たさはまるでぼくの生気を抜きとろうとするようで、ぼくはあわてて逃げ出した。はいってきたとおりに引き返したつもりだったが、どこを間違えたのか、べつな別館に、そしてそのまた別館、さらにそのまた別館へと踏み込んで、一瞬、途方に暮れてしまった。しかし、同じ古本屋でも経営は別になっているのか、気がつくとべつにさっきの店員が追ってくる気配もなく、手にはサムライに扮したワクワク先生の写真のはいった本をかかえて、なぜかぼくはその場所のよく知られた顔であり、考えてみればなじみの女主人にその珍しい本を売ろうとしているのだった。同僚の何人かや行きつけの喫茶店のマスターがそこにいあわせて、
「その本を売って大金がはいるんだから、仕事をクビになったって平気なわけだ。まったくうらやましいや」などといいあっている。
 かれらは女主人からきいて、その本がいくらに売れるのか知っているようだった。ぼくはぼくで、その本がワクワク先生本人からもらったもので、それをくれたとき、先行きお金に困るようなことになったらそれを売って急場をしのげばいいともいわれていたことを思い出していた。女主人は、もう七十にとどくほどのその年齢に似合わぬ若やいだ笑みを浮かべながら、信じられないほどたくさんの金をくれた。そうして売った本があの人相の悪いアルバイト店員のいる売り場の棚におかれて、ぼくはうっかりそれを手にとった。そして逃げ出した。そしてまた売った。これを何度かくりかえして金持ちになったぼくがいて、そのぼくはまさしくワクワク先生のふしぎな力にあやつられる「幸福な弟子」だったはずだが、その八王子の古本屋の別館、そのまた別館、そのまた別館、そのまた別館とほとんど方向感覚を失うようにさまよっているうちにその「幸福な弟子」とはすれちがった。もう随分長くワクワク先生の声をきいていない、そのことが取り返しのつかない間違いだった気がしてきた。ぼくの手の中にあった本、ぼくの手の中にあるべき本、そうでなければあの棚におかれているはずの、あの大事な本の題名もわからなくなった。
 あたらしく踏み込んだ古本屋のはじめて見る顔の主人に本の内容を説明する。ワクワク先生のことをいうと、きまってけげんそうな表情をされる。
「そんな映画スターがいたっけねえ。昔のチャンバラ映画、嫌いなほうじゃないんだけど、アラカン、千恵蔵、右太衛門ぐらいしか知らないな」
 そんなふうにいわれて、あの本の存在はおろか、ワクワク先生が映画に出ていたことすら疑わしく思えてきたりする。あの人相の悪い店員にも、気前のよかった女主人にも会えなくなった。そして、どこまで行っても古本屋がつづいている。なんとか建物の外に出たと思っても、狭い通路に面した裏口から出ているのであり、そこからはいってゆけるドアの向こうはまた古本屋なのだ。途中、いつか必要になるポケット版の英和辞典と文庫版のちばてつやの漫画を数冊と子ども向けの『聖人の生涯』を買ったが、全部どこかに落としてしまった。床に人間ひとりがすっぽりはいるほどの大きさの穴があいている売り場があって、その穴の中を覗きこもうとすると、
「おまえのやっていることはすべてわれわれにはお見通しだ。つまらぬペテンはやめて、正々堂々と勝負しろ。おまえのようなすれっからしが鳩を売る少年を演じたって、だれも拍手なんかしてくれないぜ」
 というテープレコーダーを通したようなささやき声がきこえ、ああそうか、自分の売った本をかっぱらってはまた売るということをくりかえすのは、自分の家に戻ってくる伝書鳩を売っていた映画の名作の主人公の行為にどこか似ている、とちょっと感心しながら、体をよろめかせたが、あのとき、あの穴の中に、わずかに残っていた純情と一緒に本の包みも落としてしまったのだろうか。とにかくなにに対しても自信がなくなり、フラフラと歩きつづけ、そして見張られている感覚ばかりがいやますので、動作はぎごちなく、気持ちはあせっている。赤いセーターの美人にいきなり、
「神秘学に興味をおもちですの? 秘密結社とか魔術とか、そういった方面のこと」
 と話しかけられたときには、確かにそういった関係の本がならぶ棚の前にかなりの間立っていたのだろうが、あわててしまって、
「いや、ぼくは組織は嫌いなんだ。それから、西洋のものも苦手。だから……」
 と妙なことをいって、逃げ出そうとした。なにかの団体に勧誘されるのではないかと勘違いしたのだ。その赤いセーターの美人は、実はワクワク先生の娘のカスミさんだった。前に一度会ったことがあり、そのときは夏で、水色の半袖のブラウスを着ていたと思うが、ワクワク先生が自慢するほど美人だとは感じられなかった。ただ、彼女をつつんでいる明るい青のオーラにそのまま服の色が溶け込んで、とても落ち着いた印象であった。いまは、そのときよりもきつい表情で、むだなものをとりのぞいて、ひきしまった顔をしっかりと前に向けて、ぼくの狼狽ぶりを観察している。ぼくは、そこまでの自分の不安については語らず、ただカスミさんに出会えた偶然に感謝して、彼女について出ていって、帰るべき場所へ帰ろうと考えていた。カスミさんは、住んでいる岡山の話をしていた。一緒にいるあいだいもますますきれいになってゆくような彼女の、冷たいわけでもなく、かといってとくにぼくに対して好意をみせるのでもない、あっさりとした話し方になにか救われるものを感じながら、いつか岡山に行って彼女のそばでのんびりした時間をすごすだろうと思った。
 ふたりでさらに複雑な古本屋の棚と裏口しかない迷路をたどって、三十分は歩いただろうか、ようやく外に出た。そこはなんと新宿の夜の人ごみの中であった。八王子から新宿まで、電車の中央線の駅で二十はあると思うが、ずっと別館、別館というふうにか、あるいは裏口でつながる姉妹店、親戚関係の店というように、切れ目なく文字通りの古本屋のチェーンがあるのか。そうだとすれば、これは恐ろしい地下組織のようなものではないか。カスミさんはなにもいわなかったが、きっと彼女はわざわざその組織の偵察に出向いてきたのだ。新幹線の最終で岡山に帰るという彼女を見送りながら、ぼくは勝手にそんなふうに想像して気持ちを昂ぶらせた。ひとりになったあとで、カスミさんがあんなに美人だったこともなにかの間違いであるような気がしたが、眠くて考えぬけなかった。
 実際、僕の生活は間違いだらけになっていた。
 古本屋の次に悩まされたのは、ある株屋のつくった学校で、ぼくはそこに教師として採用してもらうために行ったのだが、どういうわけか、生徒にされてしまった。もっとも、考えてみればぼくに教えられる教科なんかなかったのだ。でも、アメリカに行ったクラのかわりに英語を教えてもいいのではないかと、妙な理屈にとらえられて、株屋の前で自己宣伝の演説をぶってしまった。
「じゃあ、簡単な試験をしてみるか」
 とぼくとおなじぐらいの年かっこうの株屋は横柄な言い方をした。
 そこで受けた試験はべつに英語の試験ではなく、ならんだ数字を二つずつえんえんと脚してゆくという、作業能率か忍耐力の検査のようなものだった。ぼくの成績はすばらしいものだったらしい。株屋は大喜びして、
「こういう人が来てくれるのを待っていたんだ。きみなら一流校も夢じゃない。ひとりぐらいは、うちの学校からもいい大学にはいってもらわんとかっこうがつかんからな」といった。
 とても逃げられそうもない。可愛い獲物を捕まえたという目つきだった。確かにここで敵に出会っているという気持ちになって、ぼくははげしく咳きこんだ。


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