間諜

瀬尾育生



待合室は混みあっていた。わたしは外を見ていた。微細な虫たちが光の帯のなかを舞っていると思った。おそいピアノがながれた。つい先ほど受けた電話がだれからのものだったか、どうしても思いだせなかった。あるいはそんな電話などなかったのかもしれない。まわりではざらざらした言葉が話されていた。わたしの聴こえるほうの耳はそれを理解しなかった。ちがう人たちの言葉なのだと思ったもう一方の耳へささやかれるはずの指令をわたしは待っていた。背中で骨がきしんだ。ここは外国だと思った。おそいピアノがながれた。時間のなかに空白が残された。だがほんとうはいたるところ穴だらけの時間しかなかったのだ。「きみはみずからの使命を選択するようにしてひとつの悲劇を選択する」メモのすきまにわたしはそう書きこんだ。そしてすぐ、それが誤った記述だとわかった。わたしが聴こえないほうの耳で聴いたのはこんな言葉だった。「一個の悲劇を演ずるだけの覚悟があればきみは使命をまっとうできるだろう」この言葉だけはこのとおりに書きとめておこうと思った。それはすこしざらざらした言葉だ。細かな虫たちが光の帯のなかを舞っている、と思った。

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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