詩と世界へのノート 1
何ごとをも断念しないことだ

福間健二



 詩はどうあるべきだとか、あるいは詩はこういうことができるとかできないとか考えること。それを一般論として、ときには何らかの体系の一部に組み込んで展開しようとするからおかしくなる。私はそういうことがいやになった。たとえば去年の定型論議。あんなものはそれに参加した詩人それぞれの個人的事情のつじつまあわせでしかない。
 どんな幼い書き手にも、自分の理論はある。その理論が浅いところで固まってしまわなければいいのであって、正しさや水準の高さを競うことではない。
 どんな問題意識からも詩をときはなつこと。いいかえると、詩はどう書かれたっていい。それに限定を設けない。私はまずここからスタートする。もうひとつ。できるだけ朝早く起きて考えるようにしたい。夜の思考はもう十分に提出されたと思う。それで疲労をつのらせてきたということもあるのだ。もちろん、夜の思考を棄てさる必要はない。そもそも忘れてしまうことはあっても意識的に棄てられるというものではない。その生きるところは生かして朝という現実に接続させるようにしよう。「でも、どうやって?」「そのために夢を見ているんじゃないか」
 人は世界に対して発言する。そのとき、世界が抽象されるレヴェルはさまざまだ。そのことのほうが、世界自体が複雑であることよりも、複雑な感じがする。むしろ世界が複雑になったということの内実はそれなのだ。
 そして、詩はかつてのように世界をとりこめなくなったという発言があった。一方、世界を「認識」できる批評や世界なんかどうでもいいという批評が大手をふって歩いていた。私は、世界に対して無力感におちいっている詩と自分との姿をかさねて見ていることがあった。どうしてそんなことになったのかと思う。これからそこをときほぐしてゆきたいのだが、自分を追いつめすぎていたのだ。昼の光の中で見えているまわりの風景を世界に結びつけることのできない夜の思考で。
 ほんとうは、もうわかっているのだ。生きているこの現実に接しているという条件を手ばなしさえしなければ、世界はどう抽象してもおなじなのだ。どんな小さな好奇心に対しても、世界は顔を見せている。それが手のとどく枝になった熟れた果実のように存在する場面までは、いつもあと一歩なのだ。そこまで行ったら、あとはそれをただ指をくわえて見ているか、もぎとって食べてしまうかということになる。
 ここにJ・M・G・ル・クレジオの言葉を引用しておきたい。

《何ごとをも断念しないことだ。幸福をも、愛をも、怒りをも、知性をも。ためらってはいけない。快楽のなかに快楽を、傲慢さの中に傲慢さを味わうことだ。喧嘩を吹っかけられたら、激昂することだ。なぐられたら、やり返すことだ。話すのだ。幸福を求め、自分の財産を、金を愛することだ。所有するのだ。少しずつ少しずつ、これ見よがしにせずに、有用なものすべてを手に入れるのだ、そして無用なものも、そして肝心かなめのもののうちに生きることだ。そのあと、地上においてすべてを手に入れてしまったなら、自分自身を手に入れることだ。壁がむき出しの、ただ一つの大きな、灰色で冷たい部屋に閉じこもるのだ。そしてその中で、あなた自身のほうへ向き直ることだ、そしてみずからを探訪する、絶えずみずからを探訪することだ。》(豊崎光一訳)

 一九六七年の本『物質的恍惚』の中の一節だ(翻訳が出たのは一九七〇年)。私はたぶん二十歳のときに出会った。『物質的恍惚』は、いつまでも読みきることができない。そしていつまでもその輝きを減じることのない本のひとつだ。難解な本ではない。単純なことがいつもはっきり言いきられている。ル・クレジオ自身の小説以外で、この記述が何に似ているかと考えるとわからなくなる。本にならない言葉としては、この現実のどこにでもある言葉、多くの人間が心の中で発している言葉かもしれない。人がただ思考するのではなく、自分を教育しようとするときの言葉。こんなふうに世界とむきあい、そしてものすごい速さでそれを通りこしてしまう。いま必要なのはこれではないか。
 この一節は、前半と後半のどちらにポイントをおいて読むかでちがった受けとめ方をしそうだが、「何ごとをも断念しない」から「あなた自身のほうへふりかえる」までを一息に言い抜いていることがすごいのだ。
 湾岸戦争があった。それをめぐるさまざまな発言があり、私もいろいろなことを考えた。大づかみにまとめてみると、私は「何ごとをも断念しないことだ」と自分に言いつづけてきた気がする。これでもう何も怖くないな、というような奇妙な到達感とともに。

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