都市を巡る冒険
新宿・渋谷・池袋(三)

紫色の鳥

清水鱗造



 紫色の鳥がベランダの硝子にぶつかってきた。浅い春の日だ。ソファに寝ていたぼくは驚いて立ち上がった。鳥はベランダの隅で、しばらくじっとしてから、なにごともなかったかのように飛んでいってしまった。
 ベランダには初めて蒔いたルピナスの蕾が大きくなりつつある。黄色い花が咲くはずだ。息子が隣の部屋でハードロックをがんがん鳴らすせいで、ぼくもすこしはロックが好きになってきた。
 平和な春だ。仕事も一段落して、ぼくはパソコン通信を始めた。いつもの草の根ネットを呼び出す。elfさんとrapさんが同時にログインしていた。この二人にはまだ会ったことがないのに、メールは山のように交換している。かなり綿密に彼らの日常を想像することができるところまできている。
 ぼくらはお互いによびあって、チャットルームに入った。
[sim]暇ですねー。
[rap]そうですね。
[elf]わたしも暇だわ。
[sim]いま何してるんですか?
[rap]車洗ってさー、昼食食べて、昼寝してからここにきてるんですよ。
[elf]これから渋谷に買い物でも行こうと思ってるとこよ。
[sim]では三人で渋谷でお茶でもしましょうか?
 こういうふうに書いてから、二人は少し沈黙した。返事をためらっているようだ。
[sim]天気もいいし、デパートの屋上でも行ってみましょうよ。
[rap]会ってもいいけど、このネットでのイメージと違うかも(笑)。
[elf]わたしもよ(笑)。
[sim]多少違ったっていいじゃないですか。ぼくだって違いますから(笑)。
 それで、けっきょく三時すぎに渋谷の喫茶店で会うことになった。
 妻は飼おうとしている、シェットランドシープドッグについて、いろいろ調べていた。
「シェルティってね、飼ってるうちがお互い連絡とりあってるらしいのよ。種付けの時期とか、出産の時期とかお互いに決めてね。ネットワークがあるみたいよ」
「へー。そうなの? それで家はいつ手に入りそうなの?」
「九月ごろよ。犬の妊娠期間は二カ月ほどらしいので。五月ごろつがわせるそうなの。ただ、小さい体形のオス犬がまだ見つからないらしいの。Nさんの家。だからまだ予定だわね、九月」
「そうかい。おれ、渋谷にオフラインミーティングにいってくる、夕食までには帰るよ」
 そう言って、ぼくは駅まで歩いた。初めてオフラインで会うときには楽しい想像を巡らせることができる。駅までに向かう道、ふと先のほうの電信柱に紫色の鳥がいるのに気づいた。あの鳥だ。でも数羽いる。日曜日の午後、子供連れが多かった。
 電車に乗って文庫本を読む。
 目的の喫茶店に近づくとガラスごしに真赤なセーターを着た女性と、白いスーツを着た男性が腰掛けているのが見えた。想像どおりのelfさんとrapさんだ。ぼくの服装はジージャンにジーンズ。自動扉が開き、ぼくは二人のほうに歩み寄った。逆光で二人の顔はよく見えない。
「simさんですね」
「あ、どうもどうも」
 ぼくが二人のいるテーブルについたとき、日が陰って、はっきり顔が見えた。二人とも七十過ぎの老人だった。ぼくの想像のなかのelfさんと、rapさんは急激に萎縮し、その服装だけが、マッチしたまま残った。
 二人は一瞬のうちに服を残して老いたのだ。
しかし、気を取り直したぼくたちは奇妙な日曜の午後を無邪気に過ごした。

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