批評的切片
肌の幻影

清水鱗造



一 近代詩によって成された方法
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 戦後詩の表現の変転をみていき、九〇年代に至ってもっとその前の詩をみていくとき、細かな断絶と作品を形成する意思が、近代詩成立のときどんなふうに構成力を成り立たせ、またどんなふうにあがき、受け継いできたか興味深く感じられてくる。もちろん戦後詩も近代詩も時間的系列と作者の関係を時系列的に簡素化する呼び名である。いっぽうで、時系列的に便宜的に表わせるものと、形を変えることはあっても間歇的に現われるように思う恒久的な核――それはいわば時間を超越している――に触れたいという興味が湧く。恒久的(に現在感じられる)ものを、時系列に関係なく取り出してみたいという興味。
 だからいちおう近代詩成立といったが、個なるものは恒久的だとして、そのイメージ伝達力の形式上、時代にしっくりきたという意味である。現象的にいろいろな形、たとえば西洋と東洋、日本で成り立ちにくい心的様式、制度的なものに対する感性、また習俗的なものとしてハレ≠ニケ≠フような生活の感性、を複合的に解析しながら腑におちるものを探していくという興味。
 ぼくがこれからやってみたいのはこれらの興味が原因になっている分析である。
 まずぼくには、恒久的に貫ける鮮明な心性、たとえば無垢≠竅A制度的なものを漂白してしまうような強烈な独創性の基礎になる心性に注目する。これがまずひとつである。
 さらにあやうく成立した独創性の証拠としての文書――たとえば詩集、を別の側面からみる目、の裏をかかなければならないという戦略的な側面にも注目する。つまり、もちろん詩集が直接的に一対一の伝達の手段となることはいうを佚たないが、常に成立してしまった文書に対しては別の文書を提出するという、言葉が本来的には流れていることから促される側面がある。これは法律の言葉や政治の言葉と時間のスパンは違うが、言葉の本来的な性格からいえば同じものといえる。
 個的な時間に密着した作品の成立をみたいとき、どういうものが鮮明にそれを表わしているだろうか?

 おれたちの夜明けには
 疾走する鋼鉄の船が
 青い海のなかに二人の運命をうかべているはずであった
 ところがおれたちは
 何処へも行きはしなかった
 安ホテルの窓から
 おれは明けがたの街にむかって唾をはいた
 疲れた重たい瞼が
 灰色の壁のように垂れてきて
 おれとおまえのはかない希望と夢を
 ガラスの花瓶に閉じこめてしまったのだ
 折れた埠頭のさきは
 花瓶の腐った水のなかで溶けている
 なんだか眠りたりないものが
 厭な匂いの薬のように澱んでいるばかりであった
 だが昨日の雨は
 いつまでもおれたちのひき裂かれた心と
 ほてった肉体のあいだの
 空虚なメランコリイの谷間にふりつづいている
(鮎川信夫〈繋船ホテルの朝の歌〉第二連)

 たとえば、この詩は時系列的な変転と個的な心的現象を容れる容器の拡大をもたらしたといえる。萩原朔太郎の竹≠フ詩群が心的なものを容れる点的な容器を方法によって無限に拡大したのに成功したのと対照すれば、これは通底器としての容れ物もまた無限に拡大できるのだということを告げている。朔太郎が日本回帰≠ニいわれるような心象の詩を書いていくのと対照すれば、『氷島』に至る線的な心的過程(内容ではなくその心的過程)を重層的に表わせた詩ともいえる。いわば近代詩に方法をまともに提出した記念碑的作品といっていい。
 ところでこの通底器に対して、さらにどのような方法を提出すればいいのかは、いまだに日夜営まれている課題として措き、竹%Iな詩群に遡ってまずそこに現われている個的な身体とその性質(たとえば鋭さや無垢さ)が、どのように信憑されているかをみたい。

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