「棲家」について 1

築山登美夫



 よく晴れた晩秋の休日、配偶者との散歩がてらにと、ふと思い立って、鮎川信夫が夫人とともに晩年を過したとされる旧居を訪ねに、大井町から大井町線に乗って大岡山に出かけた。ふと思い立って、とは云っても、きっかけははっきりしていて、最近出た牟礼慶子の評伝『鮎川信夫――路上のたましい』を読んで、そこに旧居を訪ねた日のことが書かれていたのである。
《目蒲線大岡山駅前を西へ折れて坂をくだり、また緩い傾斜の道をのぼると、
曲り角の向こうにその家はあった。》――これだけの記述をたよりに少々迷いながら探し歩く。
 鮎川が死んで既に6年、同書によれば夫人の最所フミさんも2年前に亡くなり、もはや住む人もない家が、まだ取り壊されずにあるのかどうか。巻頭グラヴィアには、その古びた白い木造家屋の写真が出ているが、時期は定かでない。その家は最所さんが翻訳書の印税で得た土地に自分で設計して、51年頃建てられたのだという。評伝の著者が訪れた昨春には、その40年前に建てられ2年前には無人となったであろう家は健在であったというのが、探索をつづける唯一の支えとなった。
 駅北口の商店街を途中で左に折れると、鶯坂という坂道にかかる。その道標を見て、おもわず耳を澄ますと、きれいな鳥の声がきこえる。鶯ではなかったが、傍の幼稚園の庭の大きなケヤキの木が鳥の巣になっているのである。坂を下りきると、突当りに横長の建物があって、中学校の校舎だった。少し戻って上り坂を探す。「曲り角の向こうに」という記述がわかりにくい。それらしい坂をと見こう見しながらのぼり、ふと立止まって振向くと、その建物はあった。
 瀬尾育生の「棲家」という詩にも、その家のことが出てくる。

 雨に打たれるあなたの廃屋はいまでは《船長室》と呼ばれます。正
 義はひとの、もしくはひとびとの語彙である、とわたしは書く。
 いまもわたしはソロフキの囚人だ。蜘蛛の巣だらけの船室で棺桶型
 のベッドに腰をおろし襤褸の山に凭れている。国籍のないわたしの
 船は陸地に繋がれたままどこへも行けないのに、桟橋はもう腐った
 花瓶の水のなかで溶け始めている、とその人は言う。
(「すばる」92年3月号)

 新しく造成された宅地のめだつなかで、その「棲家」は異様に古く、白く汚れて、周囲から孤立していた。家の前の狭い空地に廃車になった縦長の乗用車が駐められたままになっている。玄関には表札も何もなく、しだいにほんとうにここが鮎川の隠れ処だったのかどうか、うたがわしくも思われてくる。
 瀬尾の詩が連想しているのは、鮎川の戦後初期の詩「繋船ホテルの朝の歌」(49年)と、晩年の詩「廃屋にて」(79年)である。ともに鮎川詩のメルクマールをなす絶唱だが、出発を止められ、みずからをロシアの古い強制収容所の囚人に擬する姿勢が30年の軌道を描いて、はるかに円環している。鮎川のこの間の詩の変容、思考の変貌を思うと、これは奇蹟ともいえる円環なのであった。
《男と女の秘事、その通俗的な物語が、どこへも出発できないでいる戦後社会の荒廃や窒息感によって読み換えられる。しかも、それは私的なモチーフの甘美さや切実さを失わない。》(北川透〈「繋船ホテルの朝の歌」解説〉84年)
 ――しかし、ここで逆説的に暗示されているように、この円環の意味が解かれるのは、鮎川の詩を、もう一度、男女の秘事そのものへ、戦後社会の喩をこえて、さしもどすことによってなのではないだろうか。性の匂い、対の秘密の匂いのたちこめずにはいない隠れ処に、鮎川詩をかえすこと。そのことによって見えてくるものは何だろうか。

 人が住んでいるかぎり
 家が倒れることはない
 人間のあぶらが
 柱に梁に天井に床に耐性を与え
 苦しみのベッドに血をにじませる
 人くさい息が充満しているうちは
 家の崩壊はないと念じてきたのに
(「廃屋にて」)

 すでにこのとき隠れ処は崩壊の予感のたかまりのなかにあって、鮎川は「蜘蛛の巣だらけの船室」に閉じこめられた「ながい幽閉の歳月」に最後の挨拶を送っている。この2年余り後、彼は詩作を停止することになるのだが、それは彼の「棲家」がついに崩壊してしまったからなのではないだろうか。彼の生前においてすでに「廃屋」になってしまった対の秘密にみちた「棲家」――わたしの見た鮎川の旧居は、ますますまぼろしめいた心象にかわってくる。

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