「棲家」について 2

築山登美夫



 ところで北川透は評伝『鮎川信夫――路上のたましい』(以下、「評伝」と略記)への書評で、鮎川の徹底した私生活の隠匿ぶりにふれて次のように述べている。
《このことのうちに、どこかわたしたちの了解を拒む、鮎川信夫の人間観あるいは家族観の毒素のようなものが、潜んでいるような気がしてならない。むろん、彼が亡くなった時に興味本位の話題になったようにレベルで言うのではないが、わたしはそこに何か暗いおぞましきものすら感じる。》(「戦後詩への親しい隔たり」――「新潮」93年2月号)
 ここで「人間観あるいは家族観の毒素のようなもの」「何か暗いおぞましきもの」というつよいことばで云われているのは、鮎川がその「棲家」――30年にわたる夫人との結婚生活の存在を、どんな親しい友人にたいしてすら匿しとおしたばかりでなく、夫人を母や妹、甥などの親族に一度も対面させなかったという、評伝で明らかにされた事実に象徴される彼の生き方にたいしてなのである。北川はつづけて《他者の容喙を許さないこの翳りこそが、戦後詩人鮎川の深々とした個性であり、魅力なのだと思う。》とし、そしてこの「毒素」を無化したところに、あるいはもっとつよく云えば無化するために書かれたとも思われる(北川はそうは云っていないが、わたしにはそう受けとれる)「評伝」にたいする異和を表明して書評を終えている。
 わたしもこのよく調べられた「評伝」にたいしておおよそ同じ感想をもつが、その生涯を精査し作品とのかかわりを公正に記録しようという意図によって、わたしたちに鮎川のもつ「毒素」に気づかせてくれたのも「評伝」なら、結果的にその「毒素」をならしてしまおうとしているのも「評伝」の記述なのである。また作者は著作のきっかけになったとみずから「あとがき」で述べる《その(鮎川の死の――註)すぐ後に、僅かな人しか知らなかった英米語文学者最所フミさんとの結婚生活が話題に上り、そこだけを大きくとりあげて、二、三の雑誌に書かれているのを知った》という「二、三の雑誌」に掲載された文について、まったく言及していない。だがわたしの知るかぎりでは、これらはともに個性とモチフの横溢した書きぶりで鮎川にせまっていて、とうてい無視できるものではないはずなのであった。

 その一つは「別冊文藝春秋」87年春号の河原晉也「幽霊船長」、及びそれにつづく一連の作品(著者急逝後、同題の河原晉也遺稿集〈87年11月〉に収録)、もう一つは「試行」67号(87年11月)の吉本隆明「情況への発言――ひとの死、思想の死」(のちに「追悼私記」〈93年3月〉に収録)である。
 このうち「幽霊船長」はその文の表面上の誇張癖、臭みが気になるが、よく読みこんでみれば、この作者が生活の辛酸をなめつくしたはてにたどりついた、透明に砕けた心の自在さがそこに一貫して流れていることに気づき、鮎川のプライヴァシーをあばいたとみられる内容を、自己表出性のつよいものにしていることがわかる。鮎川の20年来の「最低の弟子」を自称する河原は、死後「棲家」を探訪したおりのようすを次のように語る。
《薄暗い茶の間を抜けて踏み込んだ、彼の寝室兼仕事場には、縦横に蜘蛛の巣が張りめぐらされていたのである。いかつい寝台の枕辺には、何たることか、匙で掬えるほどの埃が積もっていた。戦慄して立竦む私の目に、カビくさいベッドに横たわる鮎川の幻がちらつく。彼はここで、この棺桶みたいなベッドに眠っていたのだ。》
 まだ引用したいところだが、瀬尾育生の詩「棲家」には、すでにこれをふくむ「幽霊船長」のディテールが引かれている。

 古着袋にクッションをのせただけの安楽椅子のうえでわたしの体が
 沈み始める。わたしは二人だ。もう一人のわたしはついさっき塵埃
 袋をぶらさげ傘をさして外へ出ていった、とその人は言う。

「幽霊船長」が引かれたのは、そこで鮎川の私生活があらわにされることによって、さらにふかく匿されたからであり、そのことが詩のイメージと思想の形成に矛盾をもちこむからだ。
 河原も、「評伝」の作者牟礼慶子も、夫人にインタヴューを試みながら、申しあわせたようにかんじんなことはきいていない。たとえば鮎川の「棲家」に《縦横に蜘蛛の巣が張りめぐらされ》、寝台の枕辺には《匙で掬えるほどの埃が積もっていた》のは、すでにながく彼がそこに不在だったからではないのかとか、死後に名のりで、牟礼との会見にあたっては戸籍謄本を持ってあらわれたのはなぜなのかとか、最所が50歳になろうとする年になってなぜ入籍しなければならなかったのかとか、そしてなによりも結婚の事実を隠匿しつづけたのはなぜなのかとか……。そしてまもなく夫人も亡くなってしまう。もはやだれも鮎川の結婚生活の証人はいない。そのことがつよく印象づけられるのは、それが鮎川における詩と対象的現実の関係によく似ているからなのである。

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