ともに来るべきものの姿

坂本浩



- Shapes of things before my eyes,
Serve me to despise
(`Shapes of things' the Yardbirds)

【序説】

コンピュータそれ自体は、あるテクノロジーの結果以外のものではなく、その意味では特別革命的でも、神秘的でもない。もし、それがいかにも革命的にみえるとすれば、革命的なのはそれを生んだテクノロジー自体であり、それが、神秘的にみえるとすれば、コンピュータを使うことになる人間と、それを生んだテクノロジーとに、一見越えがたい距離があるということに過ぎないだろう。つまり、それを実現したテクノロジーからのインパクトがもしなければ、コンピュータはたんなる「もの」であり、その「もの」によって作られる環境は、たんにそれ以外の任意の環境と比較されるだけですむはずである。たとえば、内燃機関を内燃機関として問題にするのではなく、車や製鉄所を問題にするように。

われわれが現在コンピュータに向ける視線は、たとえば「都市」に向けるそれに、似ているといえるかもしれない。都市とは、徹底的に唯物論的な存在であるのだが、われわれは、程度の差こそあれ、どこかで都市を唯物論的に把握しようとする姿勢をあきらめてしまう。そのとき、われわれが求めるのがイメージなのだ、といったら言いすぎになるだろうか?安易な文化記号学的都市論に、なぜかいまだに需要があるのは、そのためではないだろうか。確かに都市は、常に他の何かを表象し得るし、恒常的なイメージの供給源になり得るだろう。しかし、それは都市自体にはなんの関係もないことである。われわれは、確かにしばしばそれらのイメージに魅せられるが、魅せられたままでは「都市」そのものは、ついにわれわれの視界には入ってこないに違いない。カエサルのものをカエサルに返すのはよい。だがそれは、カエサル以外のものにしか値打ちがないのだ。時として都市が生み出したイメージと戯れることは許されるが、絶対に避けなければならないのは、イメージを語ることで都市そのものを語ったような気になることである。

いうまでもなく「似ている」というのはこのことであり、現在の、コンピュータとそれに代表される現代の高度情報化社会についての言説にも、そのままあてはまる。が、実は、事態はわれわれのこのような認識よりも、遥かに進んでしまっている、というべきだ。すでに変化は、われわれのイメージ形成能力が必然的に立ち入れないところで、起きるようになっており、仮にあるイメージが供給されたにしても、われわれはむしろそのイメージにいらだちを感じることが多くなっている。J.G.Ballardはいう。

“テクノロジカル・ランドスケープの人間住人は、もはや、アイデンティティの境界領域へ近づく鍵を与えてくれる鋭い標識ではなくなってしまった。同僚の有閑マダム、フランシス・ウェアリングが楽しげにそぞろ歩き、くぐり抜けるスーパーマーケットの回転ドア、アパートの裕福な隣人とのみみっちい口喧嘩、この穏やかな郊外群落が抱くすべての希望と夢想は一千回の不貞にひからび、不変にして不動の均整をそなえた高速道路の土手の堅固な現実の前に、駐車場の車寄せの確固たる存在の前に敗北してしまったのだ。”

われわれは明らかに大きな変化のなかにいる。だが、いままでのような感じ方では、われわれはその変化を感じることができないのだといってもよいかもしれない。この事態に直面したバラードが、その中期三部作において採用した方法は、それ自体興味深いものだが、ここではそれはしばらくおこう。要するに、たとえば、列車がこれまでよりはるかに速いスピードで目の前を通りすぎてゆくとか、いままで見たこともない巨大な建造物が建っているとか、それに類するものによっては、われわれはテクノロジカル・ランドスケープを感じとることができなくなった、ということなのだ。SFはかつて、疑似科学が生み出したさまざまな発明品によって、未来のイメージを供給した。しかし、SFガジェットは、ほどなく、ある程度失笑を買う覚悟がなければ提出できない遊び道具に転落した。いまやそれらは単に馬鹿々しいだけである。

コンピュータを始めとする最新のテクノロジーは、テクノロジー自体を洗練されたものに変え、それに特有のイメージを完全に追放するに違いない。おそらく、テクノロジカル・ランドスケープは、日に日に牧歌的になって行くだろう。いや、そういう予測は、いくらでもはずれる可能性があるのだ。テクノロジカル・ランドスケープとは、つまり任意の「ランドスケープ」のことなのである。



テクノロジーは、風景のようなマクロのレベルにおいて、イメージの権威を失墜させる。が、「同僚の有閑マダム、フランシス・ウェアリング」に目を向けてみるとどうだろうか。

《隠喩》‐メタファー‐とは、あるものごとの名称を、それと似ている別のものごとをあらわすために流用する表現法である。われわれはこれを、既知のイメージの組み合せによって未知の事象を形象化する方法であると言いかえることができるだろう。そして、われわれは、馴染みが増すにしたがい、コンピュータが、われわれ自身の有効なメタファーとなり得ることに気づきはじめているようである。

このことは、コンピュータ・サイエンスの進歩とは、たとえば、ありうるAIがどのようなものか、といったことには直接関係がないように思える。なぜなら、最新の成果は広く流通しないからだ。一方、われわれは、われわれ自身を、ネットワークの一部として他のコンピュータに繋がり、割り込み処理を行う学習するコンピュータと看做すことにすでに慣れてしまっている。事実、コンピュータ技術者の間では、人間の動作や状態をコンピュータ用語で言い表すのは、比喩の段階を越えて普通になっているようだ。事実、ただ一点、誰がこのシステムを作ったか、を不問にすれば、人間をよくできたオペレーティング・システムと看做すのになんら不都合はない。

これは、やはりバラードがいうところの「極端な状況における極端なメタファー」にあたるかもしれない。人間の比喩にコンピュータを使うことの根拠は、双方がたがいに似たところのあるシステムであるということにかかっているが、いったい、システム以上に比喩がふさわしくないものがあるだろうか?ここでも、われわれはイメージの徹底した不在に立ち会わなければならないだろう。なぜならそこではイメージしえない(してはならない)ものが、イメージしえないものの比喩に使われるからである。

(多くの知能を持った、また持たないにしろ高度な情報処理能力を持ったコンピュータ - たとえばHAL9000 - を描くのに、そもそも擬人化がなされているということはもちろん注意すべきだ。それらの描写の多くは、ここで想定している場合とは逆に、すでにある人間のイメージをコンピュータにあてはめたものだといえる。二つの相反する流れがあるのだ。)



コンピュータが、テクノロジーの結果として、すでに現実に存在する以上、ありうる叙述に必要なのは、まず、歴史であり統計であり、マニュアルであろう。そうでなく、経験によって、また経験を共有可能にすると信じられているメディア上のあらわれによろうとするなら、われわれは、それについて根拠のない曖昧なイメージ以外のものを得ることはできないだろう。テクノロジカル・ランドスケープの特徴がイメージの不在にあるとすれば、われわれは、われわれの意図にかなうことばを、そこから生みだすこともできまい。実は、イメージの不在とは、いいかえればシステムの顕在化でもある。ここにおいてあきらかになるわれわれの意図とは、つまり、システムのかたちを(いや、システムが目に見えるようなかたちを持っていないことはいうまでもない)を、描き出すということであるのだが。

まあよい。さしあたり、われわれは、コンピュータの周囲を経巡り、それらの場所にばらまかれてきたイメージのうさんくささを、攻撃することしかできないかもしれない。すでにわれわれは、共に来るべきものの姿を、それが周囲を多いつくし、すでにあった秩序にとって変るまで、われわれの目からそらそうとするのが、他ならぬイメージであることにも気づいているのだ。

共に来るべきものとは、おそらく「もの」そのものではない。それは、既に組み上げられたものの秩序をほぐし、新たな秩序へと組み上げるその効果それ自体によって、ものとなるような「もの」ではなかろうか。

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