塵中風雅 (五)

倉田良成



 貞享三年(一六八六)から同四年の初めにかけて、江戸にあった芭蕉はこれといった旅らしい旅もしていない。上洛の希望はたびたび洩らしているものの、それも計画だけに終わっている。そしてこの間、尾張鳴海の人寂照(知足)宛書簡がやや多いのが目につく。知足。下里氏。のち下郷氏。屋号千代倉。通称金右衛門、勘兵衛。字吉親。別号蝸廬亭。妻の死を契機に剃髪し、寂照湛然居士を名乗る。寛永十七年(一六四〇)に生まれ、宝永元年(一七〇四)沒。享年六十五。尾張鳴海に醸酒業を営む富豪であった。はじめ貞門・談林を遍歴したが、貞享二年四月ごろ「野ざらし」の旅の帰途にあった芭蕉を迎えて入門。以来芭蕉の上方往反のつどこれを迎えて手厚くもてなすとともにその指導を仰ぐ。鳴海蕉門の中心人物であった。俳書のほか、当時の記録として『知足斎日々記』が貴重である。温厚篤実な信仰人にして才のある人であったようだ。
 この貞享期、残されている寂照宛書簡としては、貞享三年閏三月十六日付、同年十月二十九日付、同年十二月一日付、貞享四年正月二十日付、同年春ごろ、そして寂照との再会を果たすことになる同年十一月二十四日付の計六通である。このうち、貞享三年十二月一日付のものについて見てゆきたい。以下全文を写す。

 貴墨、殊更御国名物宮重大根弍本被懸芳慮忝(ほうりょにかけられかたじけなく)、尤賞翫可仕候。毎々御懇情不淺(あさからず)、忝奉存(ぞんじたてまつり)候。愈御堅固珍重、此方露命いまだ無恙(つつがなく)候。当夏秋之比(ころ)上り可申(まうすべき)覚悟に御坐候へ共、何角(なにかと)心中障る事共出来延引、浮生餘り自由さに 心變猶々難定(さだめがたく)候。
 一、短尺(たんざく)十三枚、其後戸田左門殿表より之便りに七左衞門殿迄頼、又々進じ候。
 猶追々力次第に頼候而上せ可申(まうすべく)候間、老養御樂み可被成(なさるべく)候。此比は發句も不仕(つかまつらず)、人のも不承(うけたまはらず)候。猶思ひ付候而(て)重而之便りに可懸御目(おめにかくべく)候。七左衞門殿へも御無さた、心計(ばかり)は何としてかとしてとのみ存候而、御書状さへ不得御意(えず)候。御懐敷(なつかしく)候。其元連衆如風様へも可然奉頼(しかるべくたのみたてまつり)候。御使も(ま)たせ置、返事したゝめ候故、何を書候も不覚(おぼえず)候。無常迅速々々。
    極月一日                     蕉桃青 判書

  寂照様
    貴報
 尚々俳諧等折々御坐候哉、承度(うけたまはりたく)候。誠々(まことにまことに)遠路不絶(たえず)御案内のみならず、御音信、御心ざし厚き事筆頭難盡(ひつとうにつくしがたく)候。

 冒頭にいう「御国名物宮重大根」は別名尾張大根。現在の愛知県西春日井郡春日村宮重の原産で、根の約三分の一が地表に出て緑色になるというから、アオクビ大根に似たものか。甘味に富み、煮るか切干にして食すが、芭蕉に届けられたのはどうも沢庵であったようだ。宮重種は沢庵にするには最上とされる。芭蕉は門弟たちからこうしたこまごまとしたものを、折あるごとに送られていたようだ。同じ年の寂照宛書簡(閏三月十六日付)では「髪剃壱丁、對一本(何の対かは不明)」の礼を述べているし、さかのぼって天和二年三月には木因から干白魚一箱を送られている(もっとも干白魚などは当時の生活水準を思えば必ずしも「こまごまとした」ものではなかったかもしれないが)。
 ところで次の「当夏秋之比上り可申覚悟に御坐候へ共、何角心中障る事共出来延引、浮生餘り自由さに心変猶々難定候」というくだりだが、この時期、上洛のこころざしを洩らしたのは「当秋冬晩夏之内上京、さが野の御草庵に而親話盡し可申とたのもしく存罷有候」という、貞享三年閏三月十日付の去来宛書簡あたりが初見である。それが六日後の寂照宛では「何角障事共心にまかせず候而、いまだ在庵罷有候。夏之中には登り可申候間」というニュアンスになっており、十月末の同じく寂照宛で「拙者も当年上京可致候へ共、もはや寒気移候故思ひ留り候」と、はっきりと上洛を断念している。このような経緯をたどった上洛のことであるからには、一見読みすごされてしまいそうな「…上り可申覚悟に御坐候へ共」といういいかたは正確ではない。すなわち『書簡』註にいう「…候ひしか共」が正しいかたちである。また「浮生餘り自由さに」云々でいう「自由」は勝手気ままという意味であり、ここらあたりに相手への謙遜とも、芭蕉自身のこころのポートレートともつかぬ複雑な色合いが見え隠れするようだ。私には、この時期けっこう俗事に追われていた彼の姿を想像することができる。
 現に貞享三年閏三月の寂照宛では、上京修行に出るかねて知りおきの僧二人の世話を依頼したり、他門のものも含めた少なからぬ数の短冊揮毫を頼まれたりしている。とりわけ短冊揮毫の一件は、当書簡でも「短尺十三枚、其後戸田左門殿表より之便りに七左衛門殿迄頼、又々進じ候」と触れられており、書簡に見るかぎり貞享三年三月から四年正月に至る十か月に及んでいることを考えてみても、この時期の寂照宛書簡の主な目的のひとつがそこにあったということができるのである。なお「戸田左門殿表」とは大垣藩主戸田侯の江戸藩邸のことで、芭蕉はそこを尾張・美濃への連絡口のひとつとしていたことが知られる。おそらく最初期の美濃蕉門である中川濁子や谷木因の縁によるものであろう。連絡口はほかにも江戸麹町の寂照千代倉屋の江戸支店などがあったと推定される。また「戸田左門」については、『書簡』註に「大垣藩主戸田左門氏西(うじあざ)を指すが、貞享二年に采女正氏定の代になったばかりのため誤ったもの」とある。「七左衛門」は林桐葉の通称。熱田の蕉門で、芭蕉を寂照に紹介したのはこの人ではなかったかと考えられる。
 さて、この書簡のなかで最も注目されるのはその次の一節「猶追々力次第に頼候而上せ可申候間、老養御樂可被成候」といえよう。寂照当時四十七、芭蕉この年四十三、俳諧を老後の楽しみとして相手に勧めている文面だが、当然芭蕉自身にも「老い」の自覚はあったものとみられる。現在から考えると早すぎる自覚のようであるが、元禄六年の許六宛書簡で「老の名の有共しらで四十から」という一句を報告しているように、当時としては常識に類するものであった。しかしそれにしても「老養御樂」とは陰影のある言葉だ。後年の遺状のなかでも「弥(いよいよ)俳諧御勉(つとめ)候而、老後の御樂に可被成候」、「…老後はやく御楽可被成候」というように繰り返し述べられており、私にはこれが芭蕉という存在が含む謎のひとつであるような気がする。これについては解がないわけではない。支考はその著『俳諧十論』で「今はた此意を論ずるに、若き時は友達おほくよろづにあそびやすからんに、老て世の人にまじはるべきは此たヾ俳諧のみなれば、是を虚実の媒にして世情の人和とはいへり」と説くが、一面にすぎないように思う。私には「老後の楽しみ」を「死後の楽しみ」と読み替えてみたい誘惑をうまく抑えることができない。書簡の最後、「御使も(ま)たせ置、返事したゝめ候故、何を書候も不覚候。無常迅速々々」というくだりなど、老耄というよりはむしろ打てばひびくように用意されてある俳諧師の内面を思わせるものであるが、そう観じている芭蕉の眼に人生はひとつの夢幻と映ってはいなかったか。彼にとって「老い」とはそんな夢幻のかたちをとって(同時代人の常識をやや逸脱して)おとずれていたように思う。それは必ずしも遺状にいう「杉風へ申候。久々厚志、死後迄難忘存候」という執着を思わせる文言と矛盾していない。ここで芭蕉は自らの死をそれまでの俳席のようにさりげなく「転じて」みせている。遺状で繰り返される「死後迄」という言葉は彼にとって最後の鬼気迫る滑稽であったと私はみる。そこから老いのその「後」にあるはずの、人にとっては見果てぬ夢幻まではそう遠くないのである。

(この項終わり)

    *参考文献/岩波文庫『芭蕉俳句集』(中村俊定校注)

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