バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第3回

吉田裕



3 共同体論の視野

 前回のノートで、次には個人名に限定されない思想上の問題を一般的に扱いたいと書いた。そうした思想的な問題は、指導者原理の問題、軍事性の問題、反ユダヤ主義の問題等多くあるが、それらの中で共同性という問題を取り上げるならば、これら数多くの問題を、かなり包括的にとらえることが出来ると考えられる。
 共同体をどのように考えるかは、ファシスムにとってもバタイユにとっても、ということは、確認しておかなければならないが、両者にとってだけというのではなく、20世紀の思想のあらゆる流派にとって最大の問題の一つであった。バタイユは、〈古典的モラルの拒絶は、マルクシスム、ニーチェイスム、民族社会主義に共通している〉といっている(「ニーチェと民族社会主義」 6-187)。この言い方から、いくつかの思想的な運動体には、近代に対する批判を共通させ、そのうえで差異をもっていることがわかるだろう。共同体の問題も、同じ筋道の上であらわれる。
 近代資本主義は、農村人口を労働者として引き寄せることで発展してきたが、それによって農村が持っていた共同体としての性格を、人々から奪い取った。しかしその見返りとして、新しい共同性を与えるということはなかった。都市の生活の中で、人々は単なる個人として、ふるまうことを促された。この変化は一方で、近代的自我の確立という美名を与えられたが、同時に人間の一方の本質としての、少なくともそれまで保持していた本質であるところの共同性を失うことであって、それは近代の人間に、他者から切り放されたという孤独感と喪失感を与えたのである。この喪失感は、第一次大戦によって、あらゆる階層と地方の出身者が無差別な個として扱われるという経験を経ることによって、不安にまで強められることになる。するとこの不安は、失われた共同体を、あるいは新しい共同体を求めるという希求となって現れることになる。たとえば学問の上では、このころ社会学や文化人類学といった新しい領域が現れるが、その出現の理由の一つに共同体への関心の高まりをいうことができる。
 マルクシスムとファシスムについて簡単にいうならば、前者は共同体を階級というかたちで、後者は民族あるいは国家というかたちで実現しようとしたといえるだろう。
 
 バタイユの関心の広がりも、この大きな暗黙の関心に導かれている。たとえば彼には最初から強い宗教への傾斜があったが、宗教といってもそれは、ただ神の存在を問うというのではなく、また神と個人の関係というのでもなく、宗教の意識は供犠の実践によって成立する共同的なものだという認識によっていた。また20年代に現れるフロイトへの関心も、同時代のシュルレアリストたちのフロイトが無意識とリビドーの理論家であるのに限られていたのに比べ、バタイユの場合は、それに加えて「トーテムとタブー」等の集団心理学のフロイトであった。彼は33年に「社会批評」に「ファシスムの心理構造」を書いているが、これは当時の左翼の間で定式化されつつあったファシスム理解、つまり、〈権力を握ったファシスムは、……金融資本のもっとも反動的で帝国主義的な部分の公然たるテロリスム的独裁である〉という35年のディミトロフ・テーゼに定式化されることになるような経済至上主義的な理解とは、異質なものであって、ファシスムを集団形成の新たな方法を案出した運動体としてとらえるものであった。そこにバタイユの共同体への関心の強さをみることが出来る。また彼は37年には、実質的な活動はほとんどなかったものの、ボレル博士やレーリスとともに「集団心理学会」なるものを設立している。これは「アセファル」や「社会学研究会」と同じ時期のことである。
 他方ファシスムの側にも、共同体への志向は色濃く現れている。そもそもファシスムという言葉のもとになったイタリア語のファッショと言う言葉は、「束ねる」という意味を持っていて、この運動は人間の共同性を作り出すことを目的として開始されたのである。この運動は第一次大戦に従軍した元兵士たちの交遊から生まれたが、それは戦場での死を賭した体験の中ではぐくまれた友愛を基礎としていた。帰還兵士の集団を発端に持つというこの始まり方は、ドイツ・ファシスムの場合でも変わらない。初期のナチスム運動の中心となったのは、擬似的な軍事組織であった突撃隊(SA)の活動であったからだ。この求心力の強い集団は、ついで、資本主義の発達によってプロレタリア階級と資本家階級に両極化しつつあった社会の中で、後者に上昇することは出来なかったが、前者に落ちていくことも心情的には肯定できなかった浮遊する中間層を引きつけつつ、いっそう拡大されることになった。
 これに対して、いわゆるデモクラシーの側からは、共同体という問題は、それほど大きくはあらわれてこない。なぜなら、デモクラシーとは、人間を共同性から解放された個体をしてとらえるところに成立するものであったからだ。だから共同体論は、少なくともある程度まで、デモクラシー批判の色彩を持つことになる。

 共同体をどのように考えるかという問題は、まずなにを基盤にして共同体を構成しようとするかという点から考えることが出来るだろう。だがこの点からすでにドイツ・ファシスムとバタイユの間には、はっきりとした差異が現れる。後者にとって共同体の基礎となったのは、民族社会主義という名が如実に示しているように、民族であった。ドイツ・ファシスムの標語の一つに「血と土」というのがあったが、ファシスムは一つの土地に定住した民族というものを、共通性として取り上げ、共同性を再構成しようとした。ローゼンベルクに触れて、バタイユは次のようにいっている。〈反キリスト教主義が求められ、生が神化される時、彼らの唯一の信仰とは人種なのだ〉と。この人種的民族的な統一性を高めるものとしての神話や伝説が強調される。そして祖国の観念と愛国主義が称揚される。この称揚は、必然的に視線を過去の方に振り向けることになる。だがバタイユが、激しくニーチェを対立させるものの一つは、この過去への志向に対してである。ニーチェのワグナー批判は、ゲルマン神話への過剰なのめり込みに対する批判である。またニーチェは自分のことを、過去に属するものではなく、〈未来の子ども〉であると言っているからだ。ニーチェにとって未来とは、過去からくる規定を拒否する根拠だったのである。この対立の示唆は、「ニーチェとファシストたち」にも「ニーチェと民族社会主義」にも現れる。ここでは後者から引用する。〈ニーチェは奇妙にも自分のことを「未来の子ども」であると言っていた。彼はこの名前に、祖国を持たない自分の存在を結びつけていた。実際のところ、祖国というのは、私たちのなかで、過去に属する部分であって、ヒトラー主義はただこの部分に依拠してのみ、その価値のシステムを打ち立てたのであり、それは新しいなにものをももたらさないのである〉。
 復古主義的な共同体思想は、近代に対する反動として、ロマン主義的な色彩を帯びてしばしば現れたものだが、ファシスムにおける特徴はその著しい急進性であった。それによってこの種の共同性の特性ははっきりとあらわれる。それは二つの局面であらわれている。一つは外側に対して発揮されるもので、共同性を保持するために、この共同性を共有しないもの、すなわち異端を徹底して排除しようとする傾向が強く現れることである。いうまでもなくこれは反ユダヤ主義である。もう一つは内側に向かうもので、共同性を保持する具体的な人物を求め、それに従おうとする傾向を生むことになる。これは指導者原理の発端であり、また他者への服従という軍事性の始まりである。
 バタイユはこの二つの帰結に対して、ニーチェの思想が真っ向から対立するものであることを証明しようとする。まず反ユダヤ主義に対してだが、彼は〈ヒトラー主義にとって、ユダヤ人憎悪ほど本質的なものはない〉(「ニーチェと民族社会主義」)と述べて、反ユダヤ主義が、単なる現象ではなく、ファシスムの本質に属するものであることを明らかにした上で、すでに前回引用したような、〈人種などという恥知らずの悪ふざけにはまりこんでいるような者どもを決して訪問するな〉というニーチェの断言を数度にわたって引用するのである。
他方指導者原理に対する批判は、軍事性に対する批判と一体になっていて、後者の視点から見る方がわかりやすいだろう。ファシスムが帰還兵士の組織として始まり、ナチスにおいては、レーム粛清の直前には50万人に達し、国防軍を脅かすほどの巨大な組織に達していたということは、ファシスムに軍事的な性格が最初から備わっていたことを明らかにするに十分である。バタイユはドイツ・ファシスムの性格を、革新的に見えるところがあるとしても、その本質は反動的な軍事的愛国主義だと考え、〈もし民族社会主義の哲学というものがあるとすれば、それは自分たちと考えを同じくしないものを無視し、軍事的な強化に役立たないものを軽蔑する軍事的愛国主義である〉と言っている。
 この軍事的な性格は、組織上では、上級者に対する絶対的な献身と服従の義務によって成り立っており、その最高部にあるのが、指導者としての総統に対する献身と服従である。しかし、この連鎖をもう少し子細にみていくと、より原理的な姿が見えてくるだろう。兵士が上官に献身し服従するとき、それはすなわち前者が後者のために存在しているということ、他者のために有用なものとして存在すると言うことにほかならない。
 ところで他のものに対して有用であるという性格は、バタイユがもっとも激しく嫌悪したところの性格であった。そのことはすでに33年の記念碑的な「消費の概念」で疑問の余地なく明らかにされている。人間には生産のためではない消費、計算と合理性を越えた純然たる消費というものがあり、それを実践しうることが人間の動物に対する優位であり、また人間の中の高貴な人間と凡俗な人間を差異づける。そしてニーチェの思想は、ほかのなにごとかに応用されて有用であるといったところはいささかもなく、ただ思想としてのみ存在するような思想であった。それは政治的に利用されることを断固として拒否する思想であった。バタイユは「ニーチェとファシストたち」の中で、次のように言っている。〈ニーチェの原則は、利用されることはできない〉、あるいは〈反ユダヤ主義、またファシスムであれ、社会主義であれ、使用ということはあり得ない。ニーチェは、利用されるままになることを肯わない自由な精神に向かって語りかけるのだ〉と。
 これら表裏一体になった反ユダヤ主義と指導者原理に対するバタイユの反応はどのようだったか。あまりに単純すぎる反証だとしても次のようなことは、あげておかねばなるまい。35年頃離別するが、彼の最初の妻シルヴィアはルーマニア系のユダヤ人であったし、彼にはエリック・ヴェイユをはじめ多くのユダヤ人の友人があった。また彼は36年に雑誌「アセファル」を発刊させ、また翌36年には同名の秘密グループを発足させるが、アセファルとは、頭脳を表す単語セファルに、否定の接頭辞がついた表現であって、それは雑誌の表紙のマソンのデッサンが明瞭に示しているように、無頭の怪物の意であった。この怪物は、頭脳すなわち理性の否定であると同時に、指導者を拒否する共同体の意味でもあったに違いない。そしてこの集団は、たしかに秘密結社の閉鎖的な外貌を持っていたが、バタイユのエロチックな地下出版物の言語と同じく、外側に向かって開く亀裂をそなえた共同体であったはずである。

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