バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第4回

吉田裕



4 雑誌「アセファル」のなかのニーチェ

 前回のノートの最後に、共同体理論のバタイユの実践としてグループ「アセファル」があることを書いたが、よく知られているように同名の、けれども性格は異なる雑誌が、同じ時期に創刊されている。正確に言うと、雑誌「アセファル」の方が先行していて、第1号の出るのが36年6月、グループの発足するのが37年はじめのことである。これら二つに先立っては、コントル・アタックが35年はじめに結成されて、はやくも36年四月に瓦解し、そのあと37年11月には「社会学研究会」の最初の講演会が開かれている。これらはバタイユの共同体への関心の実践だったといえるだろうが、であればその中にニーチェの陰が色濃く現れてくるのも当然だともいえるかもしれない。典型的なのは、前回述べたように、指導者原理を拒否したグループである「アセファル」だが、雑誌「アセファル」にも、同じ影は色濃く落ちている。それはまず第一に、これまで多く引用してきた「ニーチェとファシストたち」および「ニーチェ・クロニック」が、第2号および第3・4合併号に、そして「ニーチェの狂気」が第5号に掲載されているからである。
 しかもこれは、バタイユがたまたまこの雑誌にニーチェ論を発表したというのではない。この雑誌そのものがニーチェの強い影響下にあった。簡単に「アセファル」のことを振り返ってみる。この雑誌は、バタイユのイニシアチヴによって発刊されたが、編集陣には、クロソウスキー、マソン、ロラン、ヴァールを加えている。ただし最終の第5号は、すでに分裂が兆していたのだろう、バタイユの単独編集で、執筆者もバタイユ一人である。5号まで発行されたが、合併号がひとつあるので、都合4冊しか出ていない。バタイユが関与した多くの雑誌同様、短命に終わっている。この雑誌は一九八〇年に、ジャン・ミシェル・プラス社から復刻版が出たので、容易にみることができるが、さして厚い雑誌ではなく、各号によってばらつきが大きい。創刊号の裏表紙の広告によれば、季刊で各号16ページとされているが、36年6月の1号は8ページのみ、37年1月の2号、同じ年の7月の3・4号は32ページ、39年6月の最終5号は24ページである。これらは号毎に特集が組まれていて、第1号が「聖なる陰謀」、第2号が「ニーチェ復元」、3・4合併号は「ディオニュソス」であった。第5号は「狂気、戦争、死」である。これらの特集名からだけでも、ニーチェの影響の大きさを推しはかることはできる。第1号の「聖なる陰謀」で、中心になっているのは、サド、キルケゴール、ニーチェの3人であり、2、3・4各号はいうまでもないし、5号の中心にあるのは、ニーチェの発狂という事件である。
 バタイユのニーチェ理解も、このような文脈の中に織り込まれ、またこの文脈から浮上してくる。彼の理解は、必ずしも彼単独のものではなかった。そのことは彼の理解を少しもおとしめるものではない。彼の理解は、彼の交友関係の中から、そして本当はもっと深い時代の共同性の中に根を持っている。それはとりあえず、この時期のフランスの知識人の間でのニーチェの紹介のされ方、受け取り方の問題だが、その下にさらに時代と社会全体の問いのようなものがあることだろう。しかし、現在、この根のところまで探索を及ぼすことは、筆者の力量を越える。ただ彼のごく近いところでのニーチェの読み方をいくらかでも明らかにしたい。そのための典拠となるのは、まず「アセファル」である。
「アセファル」の5つの号は、通読されたとき、どんな印象を与えるか。どのようにすればニーチェをファシスム的読解から救い出すことができるかという私たちがこれまでバタイユのうちに見てきた関心に立って見れば、それは必ずしも、同人たちに共通する第一の問題であったとはいえないかもしれない。このような問題意識を真正面から打ちだしているのは、ほとんどバタイユ一人であるからだ。ただニーチェへの関心は、前述のように同人全員にほぼ共通し、そこからバタイユ的な意図が生じてくる経路は見えてくると言えるだろう。

 第1号は、マソンのデッサン2枚のほか、特集と同名だが、バタイユの「聖なる陰謀」とサドをテーマとするクロソウスキーの「怪物」という二つの論文からなっている。バタイユの論文の冒頭は、イタリックおよびゴチックで書かれ、かつ論旨からして、雑誌全体の宣言文のようになっているが、そこでとりわけ目を引くのは、〈われわれが企てるのは、戦争である〉という断言である。この一節は明らかに、最終の第5号の最後におかれた「死を前にしての歓喜の実践」のそのまた最後の節の大文字で書かれたもう一つの断言、〈私自身が戦争そのものである〉につながっている。この戦争の意識は「アセファル」の全体に流れているし、また「無神学大全」にまで延長されることになる。そしてニーチェもこの意識の上で読まれていることは疑いを入れない。
「聖なる陰謀」で主張されているのは、合理的な世界を拒絶して、陶酔を求めることである。バタイユはそれを、マソンのデッサンを示唆しながら、〈彼は人間ではない。彼はもはや神ではない。………彼は怪物なのだ〉と言っている。重要なことは、この陶酔は個人単独では達成されない、とされていることである。なぜ個人ではそれが不可能かというと、それは、自己という限界を超えることを前提とするからであり、必然的に他者を必要とするからだ。それは共同的な作業でなければならない。フランス語の〈陰謀conjuration〉という言葉には、接頭辞としてすでに共同のという意味が含まれている。そしてそこに呼応するようにニーチェの言葉が引用されている。〈あなたたちはばらばらに生きていて、今日は孤独だが、そのあなたたちはいつか群衆となるだろう。個々人として名指されてきた人々は、いつか群衆として名指されることになるだろう。そしてこの群衆から人間を越える存在が生まれることになるだろう〉。人間が群衆と化する契機を、バタイユは戦争にみている。そしてそこに生じる陶酔の経験から、またキルケゴールから示唆を得て、宗教的とも考える。それが宣言文の大文字のゴチックで強調された〈われわれは断固として宗教的である〉という断言の意味である。ここにはすでに、ニーチェを共同的あるいは神秘主義的に読むというバタイユの特異な読み方の一端が現れている。それは戦時下でよりいっそう鮮明にされるはずのものである。
 もう一つおもしろいのは、ここにドン・ジュアンの名が現れていることである。バタイユは「アセファル」の創刊を、スペインのトッサにあるマソンの居宅に滞在中に、彼と話し合って決めたらしいが、この序文を書いているときに、マソンが隣の部屋で蓄音機でモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」の序曲をかけていたことを書き留めている。この論文ではそれだけの話なのだが、「アセファル」を通じてこの名は見えかくれすることになる。それがはっきりと浮上するのは、3・4号におけるクロソウスキーの論文「キルケゴールによるところのドン・ジュアン」においてである。この題からみて、そして「アセファル」創刊号のバタイユの論文中の引用からみて、キルケゴールがニーチェと並んでよく読まれていたらしいことがうかがわれるが、キルケゴールのドン・ジュアンは、もちろん『あれかこれか』に出てくるモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」に関する叙述からきている。キルケゴールを通したモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」というのは、推測するにバタイユ、マソン、クロソウスキーらの間に共通する関心だったのだろう。バタイユについて言えば、戦後になるが彼は、「ニーチェと禁制の侵犯」(51年に初稿が書かれている『至高性』所収)のなかで、「ニーチェとドン・ジュアン」という一節をもうけて、同じ問題を取り上げている。
 ではドン・ジュアンとは誰だったのか。この点では、クロソウスキーとバタイユは、書かれた時期の違いもあるが、かなりの差異を示している。クロソウスキーによれば、ニーチェにとってのディオニュソスが、キルケゴールにとってのドン・ジュアンであった。〈ドン・ジュアンは、彼にとって基本的で形をとらない力のことであり、この力はその動きのさなか、対象に出会い、接触することで個体化しようとするその点でたまたませき止められるのだが、そのとき再び最初の非形態的な動きのなかに立ち戻り、その際限のないリズムを取り戻すのである〉。一方、戦後のバタイユの論旨によれば、ドン・ジュアンによる禁制の侵犯は、まだ理性の力によるものなのだ。〈ニーチェにとっては道徳的要請が内側からの自己主張をやめることはなく、ニーチェはドン・ジュアンのように、理性の過誤を頼みとすることができなかったのである〉。こうしてバタイユはキルケゴールよりもいっそうニーチェに近づくが、いずれにせよ、これらの解釈のなかにあるのは、明らかにニーチェ的な視点を基準に置く立場である。

 私たちの関心をもっとも強く引くのは、次の第2号である。なぜならこの号は「ニーチェ復元」の特集名を持ち、バタイユの「ニーチェとファシストたち」をはじめとして、多数のニーチェ論を集めているからである。構成を簡単にみてみると、マソンのデッサンを別にして、バタイユの右記の論文が冒頭にあって、量的には全体の半分近くを占めており、続いてヘラクレイトスに関するニーチェの未訳の断章が翻訳紹介され、再びバタイユが、ファシスムと神の死という二つのテーマに関して行った「提案」と題する短いが重要な文章が置かれている。この文章の背後にいるのも、明らかにニーチェである。
 続いてヴァールの「ニーチェと神の死(ヤスパースのニーチェ論についての覚え書)」、ロランの「人間の実現」、クロソウスキーの「世界の創造」がある。ヴァールのものはもちろん直接ニーチェに関わるものだが、ロランのものはニーチェの名が現れるがニーチェを正面から扱ったものではない。クロソウスキーのものは特にニーチェを主題にしたものではない。いずれも3ページ以下の、バタイユの論文に比べれば短いものである。そのほかにこの号では書評の欄があり、先にヴァールが取り上げたヤスパースのニーチェ論を、今度はバタイユが取り上げ、もう一つでは、クロソウスキーがさらにその前年の38年に出たレーヴィットのニーチェ論を取り上げている。
「ニーチェとファシストたち」に表されるバタイユのニーチェ理解は、直接にはこのような文脈のうちにある。そのなかでまず取り上げたいのはヴァールの論文である。ジャン・ヴァールは一八八八年生まれで、バタイユより八歳年長で、一九七四年に死んでいる。専門的な哲学者であって、戦後はソルボンヌで教えている。最初英米哲学の紹介者として活動するが、二〇年代後半からドイツ哲学に関心を移す。29年に『ヘーゲル哲学における意識の不幸』、38年に『キルケゴール研究』の著書がある。「アセファル」にキルケゴールを持ち込んだのは彼だったのだろうか。彼はイポリットとならんでフランスにおけるヘーゲル研究の最初の世代である。ただしイポリット、ヴァールともコジェーヴの講義には出ていない。「哲学研究」グループの創設者でもあり、このころNRF誌の外国思想および文学の紹介の欄を担当していて、ニーチェに関する書物をいくつか取り上げている。
「アセファル」でのヴァールの論文は、ベルリンで出たばかりのヤスパースのニーチェ論に関する覚え書という体裁をとっているが、それに触れる前にもう一つの書物に触れておかなくてはならない。それはシャルル・アンドラーの『ニーチェの生涯と思想』と題された本である。アンドラー(一八六六―一九三三)はフランスのゲルマニストで、ビスマルクやマルクス、エンゲルスに関する著作があるが、全六巻となる大部のニーチェ論をも著している。ヴァールはこの書の最終の第6巻が出たとき、NRFで取り上げているが、書評としての性格からか、内容を紹介して文体に敬意を表することで終わっている。他方バタイユは、「アセファル」のこの号の書評で、この書が〈今日までのところニーチェの生涯と思想を総体的に表す唯一の本〉であることを認めながらも、〈彼の解釈はプロフェッサーのものであって、危険に満ちた哲学的な苦悩にむかうよりも、文学史の静的な報告にむかう趣を持っている〉と批判している。そのような不満があったとき、ヤスパースのニーチェ論は、すくなくともバタイユには大きな刺激を与えるものであったようだ。

(この項続く)


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