スターティング・オーヴァー

駿河昌樹



師は老いてその老いのさまあきらかに紅葉しゆく秋の大学
そのこともまたあのことも終わりゆく秋来る海に溶けていく足
歌うこころ長く曇りし後の空よ去りゆくときを雲はうつくし
かなしさも光から来るたぶん、たぶん夕暮れていくテールライトよ
水無瀬川われらの言葉とまるとき秋のふかさは流れ続ける
誘わずにひとりで行けばあかるくてセンチメンタル・ジャーニーの海
ひとたびも愛は語らず沖をゆくひかり見るばかり立っているばかり
夕暮れの暗さに押され背に触れるいまきみを抱くこの手のひかり
風がふく唇の端をあたたかき春の一日の夢のなかより
あたたかさ肩に流れるたたえるべき太陽のもとに訃報も眩(まぶ)
腕ひかることの喜びぬぐわねばいのちの証見るごとき汗
わが友はたぶん時のみ 過ぎてゆくものみな彼の友情のさま
習慣という語みつめてそのページに左手おおきく開きて向かう
「文学を学んでいます」と懐かしさのすがたして森のなかの十八
胸に顔埋めることの自然さのやまい癒すべく吸う半熟の黄身
コーヒーの底の微量の黄金砂含まずに発つきみもわたしも
すがすがしき朝木造りの手洗いの鏡の顔のうしろの青さ
鳴く鳥の鳴き続け止みまた始む受け身の生も豊かならんか
白き紙のべてなに待つ有限の歳月貸与されしからだで
ほの青き闇の夕暮れ暮れていくこと耐えがたきまでの喜びと知れ
通り過ぎる車の速さ滅びへと急ぐ内なるものを覚ましむ
時刻表に明るきひかりただ逢いて別れる時期が変質はじむ
カシニョールの一枚の絵の凡庸さしあわせのためにただ色を見る
汗つよく饐えしにおいの時計バンド洗いておりき夏の逝く宿
耳の底によみがえらんとする《ライン》よみがえるものはいつも紺碧
鏡見し時のあの目は美しく…… われへの旅のなかばの桜
水流れ澱みてまたも流れ出る場所きみは母の指輪継ぐなり
愛の色は赤ではないというように振るハンカチのナイルの緑
密林と大河ばかりの映画見て帰ること哀し仮りの帰りを
《スターティング・オーヴァー》をかける冷めた茶もかならずたぎる 再生はある
目を閉じて桃の香は嗅ぐ海と山そのうえきみが見える時さえ
山がありその山を見る見ることに癒されていくひとりの小径
ひとり歩むことの確かさあやうさも装いすべし肉桂色(シナモン)の靴
海のあの入江のあおさ失われ死に絶えるべきこころなおあり
若きこと罪にあらずと思う現在(いま)風に吹かれていることの価値
コート脱ぐ玄関の暗さアフリカの飢餓のフィルムに救われている
あれほどに愛せし女語ることなくかたわらにいて『愛人』終わる
手帖ひらきペン押しあてる アルベール・カミュがわれの何処にいないか
わが真昼過ぎつと思う花の色あふれる庭に汗ぬぐう時
フランス式庭園に故意に迷わんとするなにもかも知りつくしつつ
白き雲の白見つつひとに言葉ひとつかけずおり白の音聴いており
便りなき友の背浮かぶプルーストの革装背表紙裂け始めけり
『ブライズヘッドふたたび』だけを携えて晩秋の街を抱きに出かける
ブリジット・バルドーが泳ぐ黒いほど青ふかい海のように語るね
ひとりある夜のよろこび静けさを暴力と呼ばぬことのあやまち
とりどりの色のビー玉眺めいるほかにすべなきものの涼しさ
安時計のビニールのバンドふといとおし秋暮れる浜の紫のとき

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