「棲家」について 6

築山登美夫



 戦後詩のいわば白紙還元が、70年代のはじめ、ほかならぬ戦後詩を担ってきた鮎川信夫によっておこなわれていたことは前回にみた。それがひつようとされたのは、もはや云うまでもあるまいが、私的な経験の奥処とそれを生みだした時代社会の経験との喩的照応の不可能性という事態が、この当時から、詩の営為にはげしい亀裂をもたらしていたからだ。ちなみに付けくわえれば、わたしたちの世代の者が詩の体験のとば口に立ったのもこの時期にあたっている。
 《戦争、敗戦、そして戦後現実の意味を、詩的な表出意識、方法、感受性に繰りこまざるをえなかった詩》(北川透『荒地論』・「あとがき」)としての戦後詩が、変容する現実の新たな枠組みをもとめる動きにふり落され、みずからの存在を難問とせざるをえない場処にやってきていたのだ。
 この70年代という時期に鮎川は『宿恋行』(78年刊)という、『鮎川信夫詩集1945−1955』(55年刊)いらいの新詩集を提出している。

 北川透の『荒地論』(83年刊)は、そんな「脱・戦後詩」の状況のなかから「荒地」派の詩人たちの営為を救抜しようとするモチフで書かれているが、と同時に深層では彼らの営為の持続にトドメを刺したとも云える本である。ここで独立した詩人論として論じられているのは、中桐雅夫、黒田三郎、北村太郎、田村隆一、三好豊一郎、そして鮎川信夫の六人なのだが、そのなかでも鮎川を論じた「放棄の構造」は、『宿恋行』を全面的に論じ、鮎川の詩にもっとも高い評価をあたえながら、同時に本質的な批判を提出している。
 北川は『宿恋行』を三つのモチフに分類し、その分離と融合のなかにこの詩集の世界をみる。
 (1)文明批評の意識と戦争体験の反芻、そのかさなりあい
 (2)性的な意識を軸にした私性の闇
 (3)死と老年の心境
 この三つの軸を駆使して北川は『宿恋行』をみごとに解析していく。すでに第1回でもべつの文章から引いたように、北川はここでも鮎川の戦後初期の作品「繋船ホテルの朝の歌」を、この(1)と(2)のモチフの融合を示すもの、融合のなかにモチフへの対象化の意志が貫徹しているものとして高く評価し、そして《自己の経験にかかわる対象化と、他者や情況的な世界にかかわる対象化が結合している》ところに「繋船ホテルの朝の歌」が成立していたとすれば、この対象化のなかに「放棄」の意志を現前化させてしまっているのが『宿恋行』だとする。ここでキー・ワードとなっている「放棄」を、北川は微妙な意味あいをもつ概念としてもちいているが、そのいくつかを抜きだせば、《他者に対する放棄の姿勢》《あらゆるものに対する加担の放棄》《世界に対する拒否や自由の位相で成立している放棄》ということになろう。
 鮎川において、なぜ、この「放棄」の意志が現前化したかを問えば、そこに大きな時代の変容を前提としなければならず、この変容のなかに対他的契機と対自的契機がふくまれていることもいうをまたないが、北川はこのうちの対他的契機について三つの指標をあげる。 『荒地詩集』の廃刊(「荒地」の詩的共同性の壊滅)、「詩人の戦争責任追及」の挫折、60年安保闘争に否定的な意味でもかかわりきれなかったこと――《これらが同時に顕在化した一九五九年から一九六五年の七年間に、鮎川はたった六篇の作品しか発表していない。この実質的な沈黙のなかで、放棄は醸成されていった。》(だが、とわたしは思う。すでに牟礼慶子『評伝』その他であきらかになったように、58年における鮎川の秘密の婚姻という事実がここに大きくかぶさってきていることをみれば、北川の云う放棄の醸成に、おのずからべつの照明があてられることになるだろう――それはしばらくおく。)
 ぼくたちは女気なしの部屋で炬燵を囲み、
 どのようにして戦後の社会をたたかいぬいてきたかを語りあったが、
 結局、めいめいの職歴と子供を何人作ったかということにつきていた。   (「消息」)

 貧乏人の息子で
 大学を中退し職歴はほとんどなく
 軍歴は傷痍期間を入れて約二年半ほど
 現在各種年鑑によれば詩人ということになっている         (「Who I Am」)

 たとえばこれらのモチフ(1)(文明批評の意識と戦争体験の反芻)に分類される作品において、モチフ(2)(私性の闇)は外がわから輪郭づけられるだけで(1)との融合ははじめからあきらめられている。逆にモチフ(2)の作品ではモチフ(1)を疎外しているために《自己意識が思うがままに個性的な表現をのぼりつめるにまかせられている》(北川、前掲書)。つまり鮎川の意識は外部世界と内部世界そのそれぞれにふりわけられ、外部世界(内部世界)に照明があてられるときは、内部世界(外部世界)が括弧に入れられてしまうのである。
 この両者の方法を自在につかいこなすことで『宿恋行』は成立したが、北川はそれを、かつては全円をえがいていたモチフの融合の放棄としてとらえ、批判した。しかもそこで鮎川の現在は微細に解析され、批判は「荒地」の他の詩人の現在にたいするよりもさらに詩にとって本質的な重要性をもつものとして提出されたのである。鮎川からすれば、それは時代の変容と私的経験の変容に挟撃された、そのはげしい亀裂のなかから、みずからの詩を可能にするためのゆいいつの方法であった。
 この北川の詩人論の発表とあい前後する時期に、鮎川は詩作を途絶し、そのことを公けにしている。外部世界――政治・社会・文明にたいするかかわりと考察ならば、それを散文で丹念に構成し、世界からの反応をくみいれるだけでじゅうぶん(に困難)である。内部世界は――それが外部世界と本格的に葛藤することがないならば、それじしんの消長にまかせるだけでじゅうぶん(に困難)である。詩の必要はどこにあるか。ここに鮎川の詩の危機は成熟したとみることができる。

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